一章 野ばらの姫君 ①
―――――閉じよ。閉じよ。閉じよ。
固く目を瞑った吉乃の肌を、おぞましさだけが這いまわる。
闇の中に、何かがいる。気配は徐々に濃くなる。
全身はすでに、巨石に押さえつけられたように動かせなくなっていた。
目を開けてはいけない。
感じてはいけない。
閉じたはずの瞼の裏に浮かび上がろうとするものを、必死に散らしていく。
ただ己の感覚を切り離すことを願った。
どれほど抗っただろうか。やがて吉乃は意識を手放していった。
朝が来た。
あばら屋の隙間から入りこんだ光が、中に横たわる吉乃を徐々に照らしていく。
麻縄に縛られた細く幼い手足を動かそうと身じろぐと、体にまとったぼろ布から覗く肌についた痣が痛々しい。
日の影が、吉乃の周囲をあらわにしていく。
そこには男の生首があった。
一つ二つ、ではない。並んでいた。
地に敷かれた板の上に十三、梁に通された棹に髷を括り付けられたものが八。
いずれも歯をくいしばり、顔を歪めていた。
吉乃は、その首級を見ないようにしながら、体をおこす。
明るくなったといっても、死者に囲まれている。加えて、ここに集められた首はみな、顔の相を見て、不吉であると占われたものばかりである。
数えで十になったばかりのこの少女は、怯えていた。
緊張を解こうと、深く息を吸い、吐いた。吉乃の小さい顔が、漂う腐臭にかすかに歪む。それでも呼吸を繰り返した。息を吸っても、吸えたという気がしないのである。
喉の奥が詰まるような感覚に、少女の呼吸は速く速くなっていった。
腐った血と肉のにおい、そして憎しみの気配だけが色濃く、吉乃を絞め上げていく。
吉乃は、代々呪術と占術を生業とする家にうまれた。が、この少女はそのどちらの才も見せなかった。
死者も、あやかしも、神も。視ることはなく、伝えることもできなかった。
そんな吉乃を母親はひどく責めた。一族の恥だと。
男に生まれて軍師になること叶わず。女に生まれて巫女ともなれず。何もできない穀つぶし。
朝日が昇り切ったころ、あばら屋の戸が外から乱暴に開かれた。それは顔かたちの随分整った女だったが、持つ美しさ故余計に、顔を険しく歪ませた姿は見るものに般若を思わせる。吉乃は、己の母親が入ってきたことに気付いて顔を向けた。
母親は吉乃の手足を縛っていた縄をほどき、転がる生首のうち、白木の台に載せられた、元は高貴な身分の者であっただろうひとつに目線を合わせながら、顎を上げて吉乃に向けて、この首について話せと催促する。
「みえませんでした」
絞り出すような小さな声で答えられた吉乃の言葉を聞くや否や、母親は吉乃の脇腹をいつものように蹴った。
「この役たたずが」
そう吐き捨てると、母親はうずくまる吉乃に背を向けて外へと出ていった。
吉乃は痛みに耐えながら、入り口まで這って行く。
引き戸を開けて外へ出ると、まばゆいばかりの朝日に顔をしかめた。
胸へ手を当てて思い切り吸い込み、少し溜めた後吐き出す。地面にしばし臥した後、吉乃はようやく顔を上げ、前を見た。もう母の姿はない。
うろこ雲が青空に浮かび、かすかに木々が色付き始めた異奴嶽(犬ケ岳)と、その右奥に、普段は雲から出る頂上付近しか見えない求菩提の山が、今日は麓の方までくっきりと見える。穏やかな朝だった。吉乃はようやく安らかな息をついた。
立ち上がって母屋の方へと走り、台所にある水甕から柄杓で水をすくい喉を潤すと、ぼろ布を身体からはぎ取って水を手足にかけ身を清めていく。
今日は秋祭り。吉乃の母も巫女として神楽を舞うだろう。
そこに、穢れの気配など纏わせて行くわけにはいかない。
全身を洗い終えると、側にあった白布で髪と体を拭う。そして裸のまま吉乃は引き戸を開けて家の中を覗く。赤い小袖と、白い羽織が置かれていた。
母の姿はやはりない。今日はこれを着て祭りの場に出ろということだろう。
綺麗な着物を羽織り、髪を椿油で整え後ろで軽く結わえた吉乃は家の外へ出て太陽の光を全身で浴びた。めったに着ることの叶わない「晴れ着」である。
嬉しくなった吉乃は、着物の鮮やかな赤、羽織の清らかな白に笑顔を見せる。そのままくるり、くるりと舞い、広がる袖を楽しんだ後に川と田畑のある方向へと走って下っていった。
田の間を縫う様に走るあぜ道を抜けると、小高い山の麓に石造りの鳥居が見えてくる。それを潜って、かつて犬ケ岳に住まう鬼が築いたとされる石段を上る。
その両側には山神に捧ぐ石楠花が植えられていたが、春には純白の華やぎを見せるこの花木も、今はただ細長い葉を茂らせてくすんだ緑を添えるだけだ。
何百段もある階段を上り切って山の頂にある社殿の前にたどり着くと、やはり鬼が積み上げたとされる石舞台のまわりに、修験者が山に入るときに着る鈴懸姿の男が三人いた。
普段行者がまとう山吹色のそれではなく、白い鈴懸である。吉乃がその行者達に頭を下げて挨拶していると、社殿のほうから若い男が声をかけてきた。
「おや、吉乃じゃないか」
亡き父の弟、吉乃の叔父である左近であった。やはり白い鈴懸をまとった姿である。
「叔父上様、お久しぶりでございます」
「ちょうどよかった。女手が足らん。お前手伝うてくれ」
叔父は傍らにあった二つの素焼きの壺のうち、黄色い菊の花弁が入っている方を吉乃に手渡した。
「これと同じことを菊の花びらでしてほしい。なに。丸くまくだけだ」
左近は土器の中に入っていた赤土を一掴みし、地面に撒きだす。朱色の丸が灰色の地面に描きだされた。
「石舞台の周りに撒いてくれ。形や量は多少偏っていても気にするな。とにかく撒け」
二つの壺が空になるころには、社殿の周りはすっかり黄と赤に染まっていた。吉乃はその鮮やかな色彩をしばし眺めていた。
太陽が真南に来る頃、祭がはじまる。
まずは男神楽からだ。社殿の前で三人の山伏が鼓を打ち、あるいは笛を吹きながら舞う。その拍子と踊りで作られる足踏み音はみるみるうちに激しさを増していく。
その苛烈さが頂点に達したころ、女神の面を被り女物の白い着物を纏った男が勢いよくまろびでてくる。左近だろう。
その舞う様は荒れ狂う神のごとく力強い一方で、袖で顔を覆うような所作を繰り返し、まるで何かを悲しみ、涙を拭っているでいるかのようにも見える。
嘆く一人の女。
その女神の咆哮が徐々に落ち着きを取り戻し、社殿の戸の向こうへと帰っていく。
山伏達によって戸は閉じられ、鼓や笛の音色も落ち着きを取り戻し、やがて静寂に包まれる。
しばしの無音。
そのあとに、今度は鈴の音が社殿の中から聞こえてくる。
山伏達が再び戸を開けると、そこには一人の美しい女がいた。
幅広袖の白い着物に翡翠と青石の首飾りをさげ、襞が多く豪奢な朱の袴を身に着けた巫女が姿をあらわし、そのままゆっくりと石舞台まで進んでいく。
頭の天冠は金の透かし彫りが華やかで、突き出した角からぶら下がった飾りが揺れて煌く。
女は目を閉じ、足を折って力が抜けたようにしゃがみこむ。
陽の光が女の顔を照らし、顔に影を作り、その美しい鼻梁と白い肌を映えさせる。
やがて女の身体が震えだす。神降ろしが始まったのだ。
巫女は長い睫毛を震わせて目を開く。
左手に持った金色の神楽鈴をしゃなりしゃなりと鳴らしながら、右手に持った金色の菊の枝を天へと掲げ舞い続ける。
艶やかな黒髪が宙を舞い、紅の唇が作る微笑みが可憐さに興を添える。そうして女は日の光を存分に浴びて顔を上気させる。
まるで恋する乙女のように頬に紅が差し、そうして常春のように舞を楽しんだ後、口を開いた。
「未申に三、上に六、丑寅に二を投げ入れよ」
そう言い終わると再び痙攣が女の身体に起き、倒れていく。
気を失った巫女、吉乃の母は行者達に抱えられ中へと入っていく。冷たい白面の神がこちらを覗く社殿の方に。
祭りの後、集った村人達の緊張はほころび、感想やらこの後の予定やらを話し出す。
「今年は贄が少のうて助かった。しかしあの巫女殿、もう大きな子もいる歳だというのに気持ち悪いぐらいに若いのう。生娘にしか見えん。どんな妖術をつこうておることやら」
「亭主を亡くしてかえってよかったんじゃないかのう」
「ははは」
喧噪と噂話から離れるように社殿の側に控えていた吉乃に、老いた男が愛想よく話かけてきた。
「吉乃様。おひさしゅう。いやあ、大きくなられて」
翁は持っていた小さな竹籠をこちらに向けて差し出した。
「行く末の巫女様。餅をついてまいりました。どうかお食べください」
「ありがとうございまする」
頭を下げて受け取ろうとする吉乃の手を、老人は覆うようにがっしりと掴んで餅の入った籠を渡してきた。
「吉乃様も母君のようにお美しくなられるのでありましょうな。父君もそれは素晴らしい術者であられました」
己の手を強い力で包み込んだまま離さない男に吉乃は困惑した。よほど信仰が篤く、父上に世話になった者なのだろうか。どう反応すれば正しいのかがわからないといった様子の吉乃の顔を男はじっくりと眺めた後、ようやく手を離した。
「母君にどうかよろしくとお伝えくださいませ」
そう言って男は去っていった。
紫雲が犬ケ岳にたなびき、天を朱に染めて夕日が彦山へと沈んでいく。
広い屋敷。そこに少女が一人きり。
屋根にしのぶ草、庭に野草が生い茂るようになり、これからは枯れた草の気配に埋もれていってしまうだろう。
吉乃の母は、父が死んでしばらくすると家にはめったに帰ってこなくなった。たまに帰ってきたかと思うと、お前と一緒にいたくないとでもいうふうに、吉乃を母屋から追い出してあばら家に押し込めた。
吉乃はもらった籠から餅を取り出し、齧る。
餅、か。
かつて、父がまだ生きていた時に雇っていた下女の息子に餅をめぐんでやった時のことを不意に思い出した。
あまりに物欲しそうな顔をしているので憐れんだのだが、男の子はその後、あの女なんぞに施しを受けるなど恥を知れうんぬんと母である下女からひどい折檻を受けることになり、悪いことをしたと後悔したことがあった。
下女はずいぶん意地の悪い女で、父や母の前では吉乃様、吉乃様と随分かしずくのに、誰もいない時には睨みつけたり舌打ちをし、あからさまにこちらを侮り蔑ろにしてきた。
息子の下に娘もいたが、いつも指の爪を齧りながら吉乃の母や己の着ている綺麗な着物を随分と妬ましそうに眺めているばかりで不愉快だった。
だが一人となった今では、そんな者達でも懐かしい。
我が母を、誰もが褒めたたえる。
やんごとなき巫女様。この上なく麗しき巫女様。
だが、本当に母は美しいのだろうか。
吉乃にはそうは思えなかった。他の者達は知らないだけだ。口汚く罵る母の醜く歪んだ顔を。
この谷のみなは優しい。
食べ物や薪を分けてくれるから母が帰ってこぬようになっても生きていける。
中には、茶葉といった希少な品を持ってくる求菩提の行者などもいる。
だがもしも。
自分に後を継ぐ異能など欠片もないと分かったとき、どうなってしまうのか。
それが恐ろしい。
何も出来ぬただの小娘のくせに供物を受け取り続けているなどと悟られてはならない。繕わなければならない。
騙されていたと気付いた人々は自分をどうするだろうか。
先ほど餅を分けてくれた好々翁の穏やかな笑顔の目がみるみるうちに吊り上がっていき、こちらを責めるような険しい目に変わっていく様子を思い浮かべてしまい、思わず身体を強張らせる。
そうして今日も吉乃は、母が巫女業に励む様子を思い出しながら祝詞を謡いあげ、神が降臨したかのごとく身体を震わせる仕草を繰り返し真似るのであった。