2-5. 博士
「博士」
門番の男と若者がそちらへ目を遣り、異口同音に呼ぶ。
ウエインが振り返ると、そこには微笑を浮かべた年齢不詳の男が立っていた。白髪の多く交ざった髪からは五十代くらいと見えるが、顔は童顔で、まだ三十代前半にも見える。
博士、と呼ばれたその男は、ウエインと目が合うと、にっこり笑った。
初対面の大人――しかも男――に、こんな満面の笑みを向けられたことなどなかったので、ウエインは大いに戸惑った。
「初めまして。僕はジブレ・ローアスといいます。ここでは『博士』って呼ばれることが多いけど、名前で呼んでもらえると嬉しいかな。君達は?」
「あ、ウエイン・サークレードです。こっちは、友達の、アンノ・イルス。リューカ村から来ました」
とっさに適当な偽名を考え出して、ウエインはモニムを紹介した。
「アンノ」は妹の名だが、モニムを「妹」と紹介して「似ていない」と指摘されるのは避けたかったので、あえて「友達」と言った。
「イルス」というのは、本物のアンノに想いを寄せている村の少年の姓だった。
「リューカから、森を抜けて?」
二人の後ろ姿を見ていたのか、ジブレはそう訊いてきた。
「え、ええ。その方が近道だと思ったので……。元々、森ではよく遊んでいましたし」
「そう。ところで君達、何しに来たの?」
ウエインの背中を緊張が走った。
ジブレには、門番の男のような威圧感はないが、かといって迂闊なことは言えない。
だが、咄嗟のことで適当な口実が思い浮かばなかった。
「あの、俺達、歴史の勉強をしていて。このあたりにイリケ族という一族が住んでいたと聞いたので、興味を持ったんです。何か資料があったら見せてもらいたいと思って」
なんとかそう言ってみる。
「ふうん。その話、誰に聞いたの?」
「……クラムという、村の最長老です」
「ああ、クラムさんか。彼とは僕も何度か話したことがあるよ。お年の割に…と言ったら失礼だけど、とても柔軟な考え方のできる人だよね。話しているととても刺激になる」
「知り合いなんですか?」
「あの、博士」
門番の男が、痺れを切らしたように口を挟んできた。
「こいつらをどうしましょう?」
その言葉にウエインは身を硬くしたが、ジブレは相変わらずのほほんとした顔で、
「クラムさんの知り合いなら邪険にはできないな。僕が案内するよ」
と言った。
「それでいいだろう?」
「は……。いや、しかし」
門番の視線がウエインの腰の剣へちらりと向けられた。どうやらウエインが警戒されている最大の原因はこの剣だったらしい。
だが、
「相手はまだ子供だ。大丈夫だよ」
ジブレの笑顔が変わらないのを見ると、門番は諦めたように小さく一つ息を吐いた。
「……では、よろしくお願いします」
「うん」
門番達に軽く手を振って、ジブレは来た道を戻り始めた。壁に沿って東へ向かう形になる。
ウエイン達が戸惑ったように立ち尽くしていると、彼は足を止めて振り返り、「どうしたの?」という顔をした。
「あの、壁の中には入らないんですか?」
ジブレに駆け寄り、ウエインは訊いてみた。
「もちろん後で入るよ。でも、イリケ族について知りたいなら、最初に見ておいてほしいところがあるんだ」
「はあ」
「今ちょうどそこへ行ってきた帰りだったんだけどね」
「どういう場所なんですか?」
ウエインがそう訊いた時、モニムも追いついてきてウエインの服の袖を摑んだ。
ウエインは少し振り返ってその手を握る。
モニムは言われたとおり、顔を伏せてついてきた。
「……穴、だよ」
心なしか冷たい声で、ジブレは答えた。
「穴?」
何のことだ。ウエインは不思議に思ったが、ジブレはそれ以上の説明をしようとはしなかった。急に硬くなった表情で、短く言う。
「行けば解る」
「…………」
突き放された気がして、ウエインは黙った。
それからしばらくは、三人分の足音と衣擦れの音だけが沈黙を埋めた。
やがて、
「……君達は、」
また元の柔和な声と表情に戻って、ジブレが言った。
「どうしてイリケ族に興味を持ったの?」
「それは……」
ウエインは答えに詰まった。
もしかしたら、ジブレは何かを察しているのだろうか。こちらの気持ちを探るためにこんな質問をしているのだとしたら、下手な答えはできない。
「……俺は昨日まで、イリケ族なんて名前すら聞いたことがなかったんです。でも以前はこの国に確かに住んでいた人達で……、なのに知らなかったのが、なんだか悔しくて」
それは、「ディパジットへ来た理由」としては必ずしも正直な答えではなかったが、ウエインの中に確かにある気持ちだった。
「なるほど」
「それに、水を操る力、なんて言われても、そんなものを持った人間がいたとは信じられなくて。だから、その存在の痕跡を確かめたかったというか……」
「信じられない? それをリューカ村出身の君が言うのか」
「え?」
「だって、リューカ村には最近まで『魔導士』がいたっていうじゃないか。……あ、いや、でもそれは三十年も前だったんだっけ。君くらいの年齢の子には『最近』とは言えないのかな」
「まどうし……?」
(――あ)
そういえば聞いたことがある。
魔導士というのは、虚空に炎を出したり、手を触れずに岩を砕いたりなどと、自然には起こらない現象を意図して引き起こす力――『魔力』と呼ばれる――を持っている人々だという。
実際それを目にしたことのないウエインにはどうも実感が湧かないのだが、リューカ村にも以前はそんな人々が住んでいたらしい。
だが、それも今では絶えてしまった。
いや――、最後の一人は行方不明で、死亡を確認されたわけではないのだったか。
(そうだ……)
ウエインは思い出した。
リューカ村最後の魔導士の名はたしか、リーン・キエコーンといったらしい。村長のモイケと懇意にしていた人物らしいという噂を妹から聞いたような気がする。
森で出会った金髪の少女の、「リーン」という名前の響きに聞き覚えがある気がしたのは、その魔導士の名が頭のどこかに残っていたからだったのだろう。
もっとも、両者に関係があるとは思えないが。
「話に聞いたことはありますけど、実際に見たことはありません。その意味ではイリケ族と同じで、俺にとっては不思議な、伝説に近い存在です」
「不思議かな?」
「え、だって……。博士…いや、ローアスさんは、不思議だとは思わないんですか?」
「うーん。例えばこの壁はここにこうして在るよね?」
ジブレは左の壁を示しながら言った。
「でも、動かない。一方で我々人間はこうして歩き、考え、喋ることができる。君はそれを不思議だと思う?」
「え、いや、だってそれは当たり前で……」
答えかけて、それは本当に当たり前のことなのだろうか、とウエインは疑問に思った。
言われてみると、実はとても不思議なことのように思えてくる。
壁が動いたり考えたりしないのは、壁は無生物で、命がないからだ。
しかし、「命」とは何だろう? なぜ人間には命があるのだろう?
植物は歩いたりはしないが成長はする。だから命はあると言えるのだろうが、植物は喋らないし、何かを考えているかどうかは分からない。
ならば、石には本当に命がないのだろうか?
人間は命を持ち、動くことができる。それは本当に「当たり前」のことなのだろうか? 実は凄く不思議なことなのではないのだろうか?
うまく言葉にできないながらもそのようなことをウエインが言うと、ジブレは、我が意を得たりとばかりに頷いた。
「そう、一度真剣に考え始めると不思議なことを、僕らは当たり前だと思って暮らしているよね。だからきっと、『魔力』を扱える人にとっては、それが当たり前なんだと僕は思うんだ。全然不思議なんかじゃない」
「はあ……。そういうものですか……?」
ウエインはちらりとモニムを顧みた。
彼女は顔を俯け、視線を少し先の地面に向けたままではあったが、ジブレの言葉に同意するように小さく頷いた。
そういうものか。
人は意外と、自分の持っているものに対しては鈍感なのかもしれない。
そうして話しながら歩いているうちに、壁は緩やかに左へ曲がり始めた。
ジブレはその壁に沿って歩いていくので、二人もそれに続いた。




