9.とある秋の日
リリアディアが戻ってきたことに、二人の姉はとても喜んでくれた。
父は喜んでくれたけれど、なぜか、どこか複雑そうでもあった。
「へぇ、本当にそんなお屋敷があったの」
「遙か昔の魔術の痕跡が残っている場所が、ところどころにあるっていうのも事実なのね…」
二人の姉は、そんなふうにリリアディアの見てきたものを信じてくれる。
もとに、戻しただけ。
何も変わらない。
以前の生活に戻るだけだと、思っていた。
だが、リリアディアは夢を見るようになった。
夢を見ていたことは覚えているのだが、どんな夢かは目覚めたときには覚えていない。
それが、とてももやもやとしていて、気持ち悪かった。
そして、もう一つ堪えたことがあった。
自分を見る、奇異の目が、強くなった気がすることだった。
「ああ、あの子」
「しばらく姿が見えなかったんでしょう? どこに行っていたのかしら」
買い物に出かけたときに、そんな声が聞こえた。
意図せず、視線は足元に落ちる。
父が商人であること、父の人柄が良いこと、妻を早くに失くした父に街の人間は好意的で同情的なので、一家が村八分のような目に合うことはない。
食べ物も、売ってもらえるし、お裾分けだって貰えたりもする。
けれど、リリアディアは、街の人間が自分を避けているのもわかっている。
思えば、この瞳が綺麗だと言ってくれたのは、あのひとだけだった。
甘い蜜の色の瞳をした、美しい獣で、美しい異階の住人。
リリアディアは足を止めて、薔薇屋敷へと続く森を遠目に見る。
会いたいのだろうか。
美しい獣で、美しい人外の青年。
リリアディアは、彼に魅入られたのかもしれない。
幼い日のリリアディアに、分別はなかった。
見えるものを、ただ正直に見えるということの、どこが悪いのかわからなかった。
大人たちはリリアディアを変わり者扱いし、子どもたちに「あの子とは遊ばないように」と教えた。
子どもたちはそれを忠実に守った。
ただ、それだけ。
それでも、リリアディアはお友達が欲しくて、仲良くなりたかった。
ある日、子どもたちの中でかわいいと評判の女の子が、母親のネックレスを持ち出して池の中に落としてしまったと泣いていた。
だから、リリアディアは、池に住んでいるリリアディアだけのお友達に頼んで、落としてしまったネックレスを拾ってもらったのだ。
「はい! これ、さがしてたでしょ?」
喜んでもらえると思った。
けれど、子どもたちは怖いものを見るような顔をして、悲鳴を上げた。
「きゃぁぁ!」
「ばけものだ!」
「こっちくるな、あっちいけ!」
「こっちみるな! のろわれる!」
「ばけものやしきにかえれ!!」
向けられる目と、表情と、投げられる言葉が痛くて、辛くて。
リリアディアはネックレスを投げだして、無我夢中で駆けた。
涙が、止まらなかった。
泣きながら走ると、苦しい。
けれど、それ以上に胸が痛くて、苦しくて。
足を止めたときには、森の中だった。
無意識に、だろうけれど。
あのときリリアディアは、誰もいないどこかへ行きたいと、考えていたのかもしれない。
こんな泣き腫らした顔で、大好きな家族のいる家に帰れないと、思ったのかも。
「ひっく…うぅ…」
目を擦りながらも、あてもなく、森の中を彷徨い歩いた。
投げられた言葉が、ぐるぐると頭の中を回る。
――ばけものやしきにかえれ!
化物屋敷。
そんなものが、あるのだろうか。
そこには誰か、住んでいるのだろうか。
その化物は、リリアディアと同じ目をしているのだろうか。
そこに住む化物であれば、リリアディアと仲良くしてくれるだろうか。
父も、姉も、大好きだけれど、血の繋がらない誰かを、そのときのリリアディアは欲していたのだと思う。
だからこそ、血のつながった家族以外の誰にも望まれない自分が、とても情けなくて、悲しかった。
ああ、あの時、確かに自分は、自分などいらないと思っていた。
死という明確な形でないにしても、自分が必要だとは、思えなかったのだ。
かさ、かさ、と枯葉を踏む音と、しゃくり上げているのが落ち着いた、自分の呼吸音だけが聞こえる。
その、はずだったのに。
自分以外の足音が聞こえて、リリアディアは足を止める。
そうすれば、その足音も止まった。
振り返ると、薄い茶色と灰色の混ざったような色の、犬のような動物がいた。
犬、と思ったけれど、犬よりも一回りほど大きいことに、リリアディアは気づく。
そして、はっとした。
もしかして、目の前の動物は、狼というものではないだろうか。
狼は、犬よりも凶暴で、人間を襲うこともあると、父から聞いて知っていたリリアディアは、じり、と後ずさる。
そうすれば、それを合図としたように、狼が飛び掛かってくるのが見えた。
逃げなければいけないのに、身体が動かない。
それだけならよかったのに、どしんと尻餅をついてしまった。
「っ――!!!」
悲鳴すらも上げられずに、庇うように頭を抱えてぎゅっと目を瞑ったときだ。
どんっと鈍い音と、暖炉の薪が爆ぜる、パチパチッという音の、大きい音が聞こえた。
それとほぼ同時に、「キャンッ」いう悲しい鳴き声も。
犬が、痛いときに上げる声に似ている、と目を開けたときには、枯葉を軽く踏んで駆け抜けていく音と、遠くなる狼の姿が見える。
ほっとしそうになったリリアディアだが、近くに茶色い犬のような動物がいることに気づいて、ぎくりとした。
一難去って、また一難とは、このことだろうか。
リリアディアがいよいよへなへなとその場に座り込むと、茶色い犬のような動物が、一歩、また一歩と、ゆっくりとリリアディアに近づいてくる。
このまま、食べられてしまうのだろうか。
リリアディアは、再び、固く目を瞑る。
は、は、と犬の、生ぬるい吐息が、顔面にかかって、リリアディアが覚悟をした時だ。
「っ」
べろん、と柔らかくて生温かくて湿ったものが、リリアディアの頬から目にかけてを舐め上げた。
味見をされたのだろうか、これからかじられるのだろうか。
リリアディアが恐怖に震えているというのに、犬は左の頬から瞼を舐め終えると、少し移動して右の頬から瞼を舐め始める。
「ぅ、う、くすぐったい」
リリアディアが漏らすと、犬は舐めるのをやめる。
その段になってリリアディアがようやく目を開くと、もふもふの毛並みが、リリアディアにすり寄ってくれていた。
「あったかい…」
気づけば、そんな言葉が、自分の口から零れていた。
「…お前、あったかいね」
不意に、涙が零れた。
自分が求めたものは、こんなに簡単なものだったのに。
「ふ…ふぇ…」
また、涙が溢れた。
そうすれば、犬は懸命に、リリアディアの零した涙を舐めとって、大丈夫だとでもいうように鼻を擦りつけてくれる。
ぎゅうう、とリリアディアが抱きしめるのも嫌がらずに、腕の中で大人しくしてくれていたのだ。
ひとしきり泣いて、落ち着いたリリアディアは、犬を見つめた。
「おまえは、やさしいね。 おまえは、わたしが、こわくない? すきになってくれる?」
問うと、犬はじっとリリアディアを見つめて、頭を下げるような動きをした。
都合よくそうリリアディアには見えただけで、実際には違うのかもしれない。
けれど、そのときのリリアディアは、犬の与えてくれたぬくもりに救われたのだ。
「さびしくない、ひとりじゃない、だいじょうぶ」
もう一度、犬を抱きしめて、そう唱える。
自分の住む街に戻る、勇気をもらうために。
森の出口まで、リリアディアを案内してくれたその犬を、リリアディアはもう一度抱きしめる。
「ありがとう、またね」
そう言ったリリアディアは、きっとこの犬は、リリアディアにしか見えない、森の神様なのだと思っていた。
別れ際、その犬の頭を撫でていると、無防備に下ろされていたリリアディアの左手の甲に、犬が鼻を押し付けた。
まるで、お姫様の手の甲にキスをする、王子様のようだ、とあのときのリリアディアは笑った。
自分の手の甲に、何か、蕾のようなものが見えて、リリアディアは目を瞬かせる。
けれど、見えたのは一瞬だったので、見間違いかもしれないと思った。
ああ、どうして忘れていたんだろう。
あの獣は、優しくて甘い、蜜のような瞳をしていた。
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「リリー? こんな朝早くから、どこに行くんだい?」
背後から掛けられた声にリリアディアはびくりとした。
振り返ると、寝間着のままの父がいる。
父が不審がるのも無理はない。
まだ、空は白み始めたばかりだ。
けれど、この明るさであれば、歩くのに支障はない。
「リリー?」
応じないリリアディアに、再度父の声が問う。
だから、リリアディアは顔を上げた。
「お父さん…わたし」
そこで、リリアディアは一度言葉を切った。
彼らは、同じ人間ではない。
そんな彼らの住まう屋敷に戻ろうとしているなど、父に反対されるだろうか。
もしかしたら、二度と戻ってこられないかもしれない。
そこまで予想はしているけれど、今、彼らのもとに戻らなかったら、きっと、リリアディアは、後悔する。
真っ直ぐに父を見つめて、告げる。
「わたし、行かなきゃ」
それだけ言って、家を飛び出す。
薔薇屋敷への道を急ぐリリアディアは、閉まった扉の向こうで、父が微苦笑していたのを知らない。
「…うん、何となくそんな予感はしていたよ。 行っておいで、リリー」