8.花嫁の暴走
別に、嫌いなわけではない。
けれど、それほど想われる理由もわからない。
想うのはいい。
けれど、想われるのは辛い。
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リリアディアは、自分の左手の甲をじっと見つめた。
そこにはまだ、薔薇のしるしがある。
ヴァーミリオンは、これを消す気配はない。
この屋敷に来て、ヴァーミリオンと過ごすようになって、十日ほどが過ぎた。
リリアディアは、美獣なヴァーミリオンが好きだ。
最近はようやく、そのもふもふな尻尾を触らせてくれるようになり、ブラッシングもさせてくれる。
手も触らせてくれて、肉球をぷにぷにしても嫌がらないし、耳を触ってくいくいと引っ張っても怒らない。
時たま会話が成り立たないし、考えが理解できないこともあるが、嫌いではないと思う。
だから、困るのだ。
この、薔薇屋敷を、居心地良く感じ始めている。
ここに来た当初よりも、家族のことを考える時間が減っている自覚もある。
薔薇に選ばれた花嫁だから、欲されているだけなのに。
望まれているのは、リリアディア自身ではなく、薔薇が選んだ花嫁。
それは、もしもリリアディアではない誰かが、薔薇に選ばれたとしても、ヴァーミリオンは【番】として迎えただろうということだ。
それを思えば、胸が、もやっとし、ちくっとする気がする。
もしも、このしるしが消えたとしても、あの美獣は、リリアディアを【花嫁】として扱ってくれるのだろうか。
ふと見れば、赤々と燃える暖炉の火が目に飛び込んできた。
人間、追いつめられると、ろくなことを考えないものである。
リリアディアは、自分が何をしているかわからないままに、暖炉に近づいて、その炎に手を伸べていた。
「っ…!」
感じたのは、熱。
一瞬遅れてそれを痛みだと認識して、手を引く。
皮膚の焼ける、不快なにおいがする。
じんじんと、手の甲が痛い。 見るのも怖い。
けれど、リリアディアはどこかほっとし、そしてどこか、哀しかった。
リリアディアがへたり、とその場に座り込んでいると、ぐっと左手首が掴まれる。
「何をしている!?」
反射的に顔を上げたリリアディアは、人型のヴァーミリオンの切羽詰まったような、怒ったような表情に出会って驚く。
そういえば、彼の怒鳴り声を聞いたのも初めてもかもしれない、と上手く機能しない頭で思った。
焼け爛れた左手に、ヴァーミリオンは舌打ちでもしそうな顔をしたが、さすがに【異階では貴族】を豪語するだけあって、舌打ちは聞こえない。
代わりに、リリアディアの手が、ヴァーミリオンのもふもふでもぷにぷにでもなく、可愛げも何もない手に包まれる。
触れられた瞬間、ずきり、とし、患部を触るな、と涙目で言いそうになったリリアディアだが、不思議に思う。
なんだか、あったかくて、さっきまでの突き刺すようなひりひりずきずきな痛みがない。
神経がやられてしまったのだろうか…と考えていると、ヴァーミリオンの手がリリアディアの手から離れる。
現れた自分の手が、焼けも爛れもしておらず、ついでに言えば【薔薇】のしるしもないことにリリアディアは度肝を抜かれた。
「…魔法…?」
「そのようなものだ。」
思っていたことが唇から洩れれば、それを肯定する声が聞こえる。
だが、その声は硬く、言い方もいつもより憮然としている。
怒っている、のだろうか。
「けれど、こうして治せるからと言って、安易に傷つけられるのは嫌だ。 私は、君に傷ついてほしくない」
ヴァーミリオンの視線が、リリアディアの左手の甲に落ちた。
しるしのない、そこを見られるのが気まずくて、リリアディアがさっと手を隠そうとすると、それよりも早くヴァーミリオンの手が動いてリリアディアの手を掴んだ。
「…しるしが、消えてしまったな」
そっと手の甲に触れようとする手に、リリアディアは反射的に手を引いた。
正確には、引こうとした。
ヴァーミリオンの手に、手首を掴まれているので、それは適わなかったが。
けれど、ヴァーミリオンは、リリアディアの触れられたくない気持ちは察したらしい。
触れようとした形のままで固まったヴァーミリオンは、目を見張っている。
すぐに見張られた目は、案じるような光を浮かべた。
「まだ、痛いのか?」
その、目が辛くて、リリアディアはすっと目を逸らす。
ヴァーミリオンの視線から、逃れるように。
「違う。 わたしは、しるしなんかいらない」
刹那、ヴァーミリオンが雷に打たれたような表情をした。
リリアディアは、その表情に、自分の失言を悟る。
言ってはいけないことを言った。
でも、もう、戻れない。
ヴァーミリオンの、琥珀の瞳が底光りするのを見て、ぞわっと背中を寒気が走った。
怒りをこらえるような表情が、逆に恐ろしい。
「事故ではないのだな」
問う声は、激情のためか硬いのに、僅かに震えている。
それでも、自身の感情を制御しようとしているのがわかるのが、リリアディアの胸には痛い。
「しるしを消すために、手を焼いたのか」
疑問形でないそれは、問いではなく、確認。
頷くことなど、簡単だったはずだ。
けれど、頷けなかった。
そんなリリアディアの様子から、ヴァーミリオンは正確に、これがリリアディアの望んだことだと察したようだった。
「…そんなに私が嫌いか…!」
押し殺すような、声だった。
ヴァーミリオンはそのまま、くるりと踵を返し、振り返らずにリリアディアの部屋から去っていく。
その尻尾が、感情のままに逆立っていたのを、リリアディアは目にする。
もう、この空間にヴァーミリオンはいないはずなのに。
ヴァーミリオンの表情が、目に焼き付いて、離れない。
その声が、耳に残って、耳が痛い。
同じくらい、胸も痛い。
自分が、望んだことのはずなのに、痛くて、苦しくて、堪らなかった。
あんなに大切にしてくれた彼を、わたしは傷つけた。
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その翌朝、リリアディアは薔薇屋敷を出ることにした。
自分がしたことは、間違っていないはず。
これが、最善なのだ、と自分に言い聞かせる。
納得していたはずなのに、どうしてこんなに、胸が痛むのだろう。
リリアディアは、一度だけ背後を振り返るけれど、そこには誰もいない。
…何を、期待したのだろう。
まだ、ヴァーミリオンは目を覚ましていないはずだ。
それを見計らってリリアディアは準備をしたのだから。
「…ありがとう、ごめんね…」
それだけ残して、リリアディアは屋敷の扉を開いた。
霧のために、周囲が白い。
早朝のひんやりとした空気の中に、噎せかえるような薔薇の香りがする。
それが辛くて苦しくて、リリアディアは知らず足を速める。
そして、門扉のところに人影を認めて、ぎくりとした。
「出て行かれるのですか? 花嫁様」
その声は、ティルディスのもので、リリアディアは不思議な気持ちになる。
今、自分は、何をどう、思ったのだろう。
そんなことを考えながら、霧の中でうっすらと見える人影に近づけば、ティルディスの姿がはっきりとした。
「しるしは消えたのよ。 貴方がわたしを花嫁と呼ぶ理由もどこにもないわ」
そして、美獣――ヴァーミリオンが、リリアディアを花嫁と呼ぶ理由も。
少し、感じの悪い言い方になったかもしれないと思ったのだが、ティルディスは全く意に介さなかったらしい。
いつもの通り、胡散臭くも見える笑みを浮かべた。
「ひとつ、いいことを教えてあげましょうか」
「…」
やはり、胡散臭い。
お断りしよう、とリリアディアが口を開くより先に、ティルディスは先を続けた。
「貴女はご自分が薔薇に選ばれた、それだけの花嫁だと思っていらっしゃる。 薔薇が定めた【番】というだけで、主に想われることに抵抗を感じていらっしゃる。 違いますか?」
教えてあげる、と言ったのに、ティルディスの話はリリアディアの内心を指すところから始まった。
見事に言い当てられているのが癪で、リリアディアは言うつもりのなかったことを口にしてしまう。
「それだけじゃない」
言った後ではっとするが、出てしまったものは仕方ない、と腹を括る。
「…わたしは、人間よ。 大切なものを、捨てられないの」
「…どういう、ことです?」
ティルディスの不思議そうな表情と声は、作ったものとは思えなかった。
だからリリアディアは素直に、自分の抱えているものを吐露出来たのだろう。
「どちらか選べと言われたら、わたしは父を捨てられない。 貴方たちは人間じゃないから、強いから、って言い訳をして、自分を納得させて、父をとる」
父だけではない。 ナンシーも、アンも、幼い頃からひとならざるもの、異質なものが見え、気味悪がられていた自分のこの瞳を恐れずに接してくれた大切な家族。
リリアディアには、捨てられない、捨てたくないものが、多い。
「そんなわたしを、あのひとが何より優先させる意味がわからないの。 【番】って、ただそれだけで…あのひとに捨てさせるわたしが怖い。 捨てられる、あのひとが怖い」
わたしは、あのひとのために、何も捨てられないのに。
「このしるしがなくなって、【番】でなくなれば、わたしの価値はなくなる。 わたしは、あのひとの弱みにだけはなりたくないの」
「…それは、貴女にとっても、主が大切な部類に入っているという証しでは?」
リリアディアが視線を上げてティルディスを見れば、ティルディスは満足そうな笑みを浮かべていて、リリアディアは疑問でしかない。
「どうしてそうなるの」
今しがた、ヴァーミリオンのために捨てる気になれない、と言ったばかりだというのに。
リリアディアの呆れた視線にも気づかないのか、気づいていてどうでもいいと思っているのか、ティルディスはほわほわと笑んでいる。
「私めにはそう聞こえたというだけです。 主が聞いても、きっとお喜びになるでしょうね」
絶対にヴァーミリオンには聞かせない。
それに、何をどう聞いて喜ぶのかリリアディアにはわからない。
「じゃあ…。 お世話になりました、ティルディスさんのお料理、美味しかった」
頭を下げて、リリアディアがティルディスの横を通り過ぎようとすれば、ティルディスが口を開いた。
「貴女を花嫁と定めたのは、主ですよ」
「え」
ぴく、とし、思わずリリアディアは足を止めてしまった。
ティルディスを見れば、いつものあの胡散臭い笑みを浮かべている。
「貴女を、【番】に、と望んだのは主です」
それを、告げられた瞬間。
本当に一瞬だけれど、自分の五感すべてが、機能を止めた気がした。
ティルディスが、かさりと足元の枯葉を踏んだ音で、我に返る。
そんなこと、あるわけがない。
「だって、薔薇が溶けて、しるしが。 だから、それだけで」
リリアディアが、ティルディスの発言を否定する理由を重ねていると、ティルディスが笑った。
「それ以前に、貴女は主に会っているはずですよ?」
覚えていないのか、と問われた気がして、リリアディアは首を横に振る。
「あんなに派手な顔、忘れるはずがない」
「そうなんですけどね…お忘れですか? 主は人間ではないのですよ?」
だから、それがどうした。
そんなことは、知っている。
そんな思いで、リリアディアはティルディスを見た。
「貴女は、主が貴女の手の甲に触れようとしたときに、それを拒んだ。 何をされるかわかったのでは? 以前の、貴女が、されたように」
何を、されるかなんて。
あの流れで行けば、ヴァーミリオンがリリアディアの手にしるしを戻そうとしているなど、容易に想像がつくではないか。
リリアディアの瞳に浮かぶ感情を、ティルディスは正確に読み取ったのだろう。 さらに、言葉を紡ぐ。
「主は伏せていらっしゃいますが、あの薔薇は人間でいうところの指輪のようなものなのです。 受け取ったことが、【番】であることを受け容れたという意味になるのです」
リリアディアは、今は何のしるしもない自身の左手の甲を、右手で庇うようにしてぎゅっと握る。
「そんなこと、わたしは知らなかった。 それに、やっぱり彼には、彼を何よりも一番に思ってくれる花嫁様が似合うと思う。 わたしは、わたしを、彼の花嫁とは認められない」
「では、それをそのまま主に伝えていただいた方が、私には有り難いです」
ティルディスは、右腕を肘のところで直角に曲げて腹に添えると、恭しく頭を下げる。
「お気をつけていってらっしゃいませ、花嫁様」
その後は、自分が結んだ包帯を目印に、無我夢中で歩いた。
考えないようにした。
ティルディスの言った、【いってらっしゃいませ】、それはまるで、リリアディアがあの薔薇屋敷に舞い戻ることを、確信しているような言葉ではないか。