12.互いの想い
そろそろ夕食を終えたころだろうか。
ティルディスは、主であるヴァーミリオンの居室へと向かう。
主と花嫁に、夕食を届けたのが一刻ほど前。
いい雰囲気になっているのではないかと気を遣っていたのだが、主にベルで呼ばれてしまったから行かないわけにはいかない。
軽くノックをして扉を開く。
主の魔力で明るく照らされた空間には、ベッドサイドの椅子に座っているものの、上体がベッドに乗っている花嫁がいた。
「…お眠り、なのですか?」
ティルディスは、ベッドに近づきながら問う。
花嫁は、目を閉じてすやすやと心地よさそうに眠っている。 この体勢で眠れる花嫁に驚くしかない。
ベッドの中で上体を起こしている主は、微笑を浮かべながら花嫁の髪を指先で弄んでいる。
「…胃が満たされて眠くなったようだ。 疲れていたのだろう」
主が花嫁に向ける目は、深い愛情と慈しみに満ちている。
それは喜ばしいことなのだが、そこに少しでも情欲の色が見られれば、もっと喜ばしいのに…と思わずにはいられない。
本当に、どうしてこう、純情に育ってしまったのだろう。
このひとは【番】と何をしなければ、呪いが解けないかわかっているのだろうか。
細く息を吐いたティルディスは、すやすやと眠る花嫁の顔を見る。
ご到着後もお眠りになっていたようなのだが、それでもまだ眠いらしい。
あるいは、【番】として主を回復させたことで、疲労した可能性もある。
「…お眠りになっていると見目麗しいだけで非常に無害なんですけどねぇ…」
「それでは面白くないだろう」
ティルディスが思わず漏らした言葉を、主は零れた傍から打ち消す。
主は、花嫁の外見だけを気に入ったのではない。
その、少し素直でない不器用な優しさも、ざっくばらんなところも、全てひっくるめて花嫁と認めたのだ。
ティルディスとしても、面白い花嫁のことは嫌いではない。
「そうなんですよねぇ…。 でも、私としましては、もう少し主といちゃいちゃしていただきたいというか」
思わず願望が唇から零れれば、ぽっと白皙を頬を染めた主はすっと花嫁から視線を外す。
「…これで十分だ、今は。 あまり急に距離を縮められると、私が精神的に安定しない」
ひたすらに照れる主を見て、ティルディスは不安になる。
本当に、これで、呪いを解くことなんてできるのだろうか。
実のところ、ティルディスは呪いは解けなくても支障はないから構わないのだが、後継ぎができないのは困る。
「…主、本当にあのご両親の御子息ですか? どうしてこんなに純情に育ってしまったのでしょう」
自分で言いながらも、ティルディスはわかっている。
主は、幼い頃に先代当主のお父君、それからお母君を亡くしている。
ティルディスと二人きりで過ごした時間が長かった。
異階から送り込まれる異性体もいたが、獣の姿を厭って帰還することが多く、主が自身の人獣型を醜いと思っているのも知っている。 女性体をどこか嫌悪していることも。
だからきっと、人獣型を好みだといい、撫で回したがる花嫁の存在は主にとって救いだったのだろう。
「ん…」
椅子に座ってベッドに突っ伏した花嫁が、身じろぎする。
その体勢は、腰に悪いのではないだろうか。
将来生まれてくるであろう後継ぎのためにも、しっかりとベッドで眠っていただいたほうがいいような気がする。
「花嫁様をどうされますか? いっそ主が抱えて眠ってしまってもいい気がしますが…」
自分の発案ではあるが、名案だ、とティルディスは思った。
これで花嫁慣れしてもらえれば万歳だし、初恋を拗らせた相手を腕に抱えてベッドに入って何事か起きればティルディスとしては万々歳だ。
何事か起きれば花嫁も諦めてくれるだろう。
けれど、そこはやはり、草食系で純情なティルディスの箱入り主だ。
頬を染めた主は、煩悩を振り払うように数度頭を振った。
「いや、私は溜まった分の仕事をする。 どうせ異階から送られてきているだろう。 ベッドをリリアディアに譲る」
言って、花嫁が突っ伏している側とは別の側から主がベッドを抜け出す。
ティルディスには非常に疑問だ。
これが、先代当主のお父君なら、嬉々として花嫁とベッドに入り、眠る花嫁にあれやこれやをしていただろうに…。
残酷なのは遺伝ではない。 主を育んだ環境だ。
「どうしてそこでご一緒にお休みにならないんですか」
「お前は私の息の根を止めるつもりか?」
試しに突っ込んだ発言をしてみたのだが、予想以上の返しが来てしまった。
ティルディスにどうしろというのだろう。
「…主。 それくらいで息が止まっていたら、呪いなど解けませんし、後継ぎも望めませんよ」
ティルディスが言えば、主はまた頬を染めて「それはそうなんだが…」ともごもごと言葉を濁している。
ベッドから抜け出して身支度を整え始めた主の視線が、ちらと花嫁に向いた。
「…リリアディアは綺麗で…私は時折触れるのが怖い」
どの顔が花嫁を綺麗だなどと言うのだろう。
主が花嫁の外見を褒める度に、花嫁が胡乱な顔になることに、主は気づいてはいないのだろうか。
けれど、ティルディスとて主が花嫁を「綺麗だ」と称賛する気持ちがわからないでもない。
主のあれは、虹を綺麗だと言ったり、雪を綺麗だと感じたりするのと似たようなものなのだと思う。
永遠でない儚さ。 だからこそ、眩くて、惹きつけられる。
終わりが来ることを知っているからこそ、その一時を惜しむ気持ちに似ている。
だからこそ、ティルディスは、主と花嫁の関係をもどかしく、じれったく思わずにはいられない。
主はもう少し、花嫁に強気に出ていいと思うのに、そうしない。
だからこそ、花嫁は、何も知らずに【番】という立場に、反発することができるのだ。
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「…主、まだ、花嫁様に【番】のしるしを戻されていないのですか?」
朝食の席で、リリアディアの手の甲に目を留めたティルディスに指摘されて、リリアディアはぎくりとした。
咀嚼していたベーコンを喉に詰まらせずに嚥下できてよかった。
リリアディアは、ちら、と横目で美獣を気にする。
美獣姿のヴァーミリオンは表情がわかりにくい。
「…人間の結婚には、二者間の同意とさらには両親への顔合わせなども済ませなければならないと、学んだ。 私はリリアディアの同意を得てからしか、しるしを戻さないと決めた」
そう、淡々と口にする。
ヴァーミリオンは、リリアディアがいない間に、人間の間の婚姻の風習なども調べたらしいのだ。
その上で、きちんとリリアディアの同意を得て【番】にしたいと思っているということに、リリアディアも少なからず胸を打たれた。
ヴァーミリオンの中で、あの薔薇のしるしは、婚約指輪および結婚指輪のような位置づけになったらしかった。
「…それは、花嫁様がお認めになれば、戻される、ということですね?」
いつも物腰の柔らかいティルディスだが、笑顔のまま固まった表情が若干怖い。
その笑顔が、リリアディアに向いた。
「花嫁様、いい加減認めてください。 主は、貴女を【番】と定めていらっしゃるんです」
「ティルディス」
ヴァーミリオンから、ティルディスを窘めるような声が飛んだが、ティルディスは止まらなかった。
「本当のことです。 それとも、貴方は花嫁様以外に後継ぎを生ませてくださいますか?」
ティルディスから踏み入った内容に触れられたヴァーミリオンは、ぐっと口を引き結んだようだった。
もう、これは、呑気に朝食を進めていい場面ではないのではないだろうか。
リリアディアが、ヴァーミリオンとティルディスの様子を窺っていると、ティルディスの顔がリリアディアに向いた。
リリアディアは、ほとんど反射でナイフとフォークを置いて姿勢を正す。
「望もうと望むまいと、貴女が主の人生に介入したのは事実なのです。 その為に、主は多大なる影響を受けている」
そう、唐突にティルディスが切り出した。
訳が分からないリリアディアは、黙ってティルディスの言に耳を傾けるしかない。
「もしも、貴女が【番】になることが叶わないのであれば、ここにいていただくだけで構わない。 ほかの伴侶を迎えてもかまいませんが、息が止まるその瞬間までここにいてください」
深刻な話をされているのは、わかる。
だが、話の、向かっている方向がわからない。
リリアディアがティルディスを凝視していると、ティルディスの漆黒の瞳が、リリアディアを射抜いた。
「そして、主に貴女が生きている間に後継ぎを作るように説得してください。 それが、主のために貴女ができることです」
「ティルディス、過ぎるぞ」
ヴァーミリオンが、唸るような声を上げた。
ティルディスの口調はまるで、それが、リリアディアの義務であり、責任の取り方だと言わんばかりではないか。
それは、どうして?
リリアディアは、傍らに座る、ヴァーミリオンに顔を向けた。
「…わたしは、貴方の何を狂わせたの?」
ヴァーミリオンは、蜜色の瞳を見張り、ぐっと口を引き結んだ。
すっと逸らされた視線に、話すつもりはないと言われたような気分になってティルディスを見る。
「…それは」
ティルディスの、唇が、動いたそのとき、だ。
「言うな、ティルディス」
そう、ヴァーミリオンが固い声で命じた。
「彼女にはそれを知る権利と責任がありますよ」
ヴァーミリオンと、ティルディスの視線が交錯する。
珍しくも食い下がるティルディスに、根負けしたのはヴァーミリオンのほうだった。
目を伏せて、ふっと息を吐く。
「…私が言う。 だから、ティルディスは下がってくれ」
ティルディスは、何か言いたそうな顔をしたが、いつもの完璧な執事の顔で礼をとって食堂を後にする。
「…ヴァーミリオン」
リリアディアが、隣のヴァーミリオンの名を呼ぶと、ヴァーミリオンはリリアディアにその美獣な顔を向けて、目を細めた。
あれが、リリアディアのために笑ってくれている顔だということを、リリアディアは知っている。
「…まずは、食事をしよう、リリアディア」
ヴァーミリオンがそう言ってくれたのだって、リリアディアのお皿の料理が、半分も減っていないのを気にしてくれているからだ。
食事を終えたものの、当然味なんてわからなかった。
美獣の食事の世話を焼きはしたものの、美獣も美獣で心ここにあらずの様子だったのだ。
最後の一口を終えたヴァーミリオンは、おもむろに話し始めた。
「私が君を【番】と定めたときに、私の寿命は決まった。 君が息を止めるときが、私が死ぬときだ」
さらりと語られた内容に、リリアディアは一瞬、言われた意味がわからなかった。
「え」
リリアディアが、息を止めるときが、ヴァーミリオンが死ぬとき?
「そういうふうにできている。 【番】なくして、長くは生きられない。 心が壊れるから」
まるで、他人事のように語るその様子に、リリアディアの頭に血が上った。
ガタン、と立ち上がれば、はずみでテーブルの上の食器が音を立てる。
「何、淡々と語ってるの」
そんなこと、あるわけがない。
あって、いいわけがない。
以前に、リリアディアがヴァーミリオンに彼のご両親について尋ねたことがある。
そのときに彼は、お母様に関して「人間の寿命は短いな」と答え、お父様の寿命については応じなかった。
それは、こういうことだったのか。
リリアディアは、唇を噛んで視線を落とす。
そこにあったのは、薔薇のしるしの消えた、自身の左手。
だから、リリアディアはハッとした。
自分は今、ヴァーミリオンの【番】ではないのだ。
「…わたしはまだ、貴方に体を許してない。 まだ、わたしは、貴方の【番】じゃっ…」
訴えるリリアディアの手に、ヴァーミリオンのぷにぷにな肉球で艶の戻りつつある毛に覆われた手が触れて、びくりとする。
ヴァーミリオンの蜜色の瞳が、じっとリリアディアを見つめている。
その瞳が浮かべる真摯な光に、リリアディアは少しだけ冷静になる。
一度、目を伏せて、深呼吸をして、椅子に腰を落ち着ける。
ヴァーミリオンは、リリアディアの手を放さなかった。
「リリアディア、誤解をしている。 私はもう、君を【番】と定めている。 薔薇のしるしは【番】であることを周囲に示すためのものでしかない。 その………体、を重ねることが、【番】になることではない」
最後の、「体…」のところは、発言するのにかなりの労力が要ったようだが、それ以外は淡々としたものだった。
温かい、ヴァーミリオンの手。
それが、リリアディアのせいで、冷たくなる未来が、いつか来るのだろうか。
そう思ったら、苦しくて堪らなくて、リリアディアは声を荒げずにはいられなかった。
「じゃあ、取り消して…! わたしを【番】と認めるのをやめて! わたしはそんなの望んでない!」
声が、震えそうになる。
身体も、震えそうになる。
それを我慢して、ヴァーミリオンの手を、ぎゅっと握る。
きつく握りしめているのに気づかないはずもないのに、ヴァーミリオンは、言い切った。
「私が望んだ」
「っ…意味がわからない…」
リリアディアは顔を伏せて、駄々っ子のように首を横に振ることしかできない。
そのリリアディアの顔を、美獣は覗き込んで落ち着かせようとする。
「リリアディア。 私たちはそのようにできている。 君に出会って、私はそれを幸せだと思った」
何が、幸せだと、いうのだろう。
そういうふうに、できているから、だから、仕方ない、と?
そんなことは、納得できない。
ぎゅっと唇を噛むリリアディアに、ヴァーミリオンは続ける。
「君のいない世界で生き続けるのは苦しい。 君と共に息が止まれば、私は苦しくない。 …寂しくない」
信じがたい言葉に、リリアディアが顔を上げると、満ち足りた、優しい表情をした美獣と出会う。
美獣のときの表情は、わかりにくいのに、そのときのリリアディアにはそう見えたのだ。
「一人でいるのは寂しいと、君が私に教えてくれたんだ」
美獣の目が、嬉しそうに細められるから、リリアディアは衝撃を受けた。
一人でいるのが寂しいから、一緒に息を止めるのが、幸せなんて。
どうしてそんな考えになったのだろう。
「そんな選択をさせるために、わたしは貴方と出会ったわけじゃない」
それは、リリアディアの心からの言葉だった。
リリアディアは、友達が欲しかった。
それは、道連れにする友達ではない。
不幸にするために、仲良くなりたかったわけではない。
それなのに。
「選択したのは私だ」
微塵の躊躇いもなく、ヴァーミリオンはそう断言する。
「君がどうしても嫌なら、私は君が花嫁にならなくても構わない。 ここに、いたくないのなら、それだって構わない。 私たちにとって、【番】が苦しむのが最も苦しいことだから」
この、美獣がそうなのだろうか。
それとも、美獣の種族がそうなのだろうか。
ひたすらに、【番】に甘いのは。
ヴァーミリオンは、リリアディアの手を握ったままで、真っすぐにリリアディアの目を見つめる。
「ただ、会いに来てほしい。 君は、私の、すべてだから」
すべて、なんて。
リリアディアの、胸の奥が、ヴァーミリオンの言葉でいっぱいになる。
いっぱいで、苦しい。 苦しいけれど、嫌ではない。
嫌なのは、自分だ。
「わたしは、貴方のために、自分の大切なものを何一つ捨てられないのに? 貴方だけを、選ぶことができないのに?」
そんなリリアディアを、どうしてヴァーミリオンは、【すべて】などと言えるのか。
そんな価値は、リリアディアにはないというのに。
「私は君が何かを捨てることなど望んでいない。 何も捨てる必要はない。 だから、私のことも捨てないでくれ。 私は、君が捨てたくないものの一つであれれば、満足だ」
ヴァーミリオンが、リリアディアの手を持ち上げる。
そのとき、リリアディアは確かに、このまま薔薇のしるしを受けてもいい、と思った。
けれど、ヴァーミリオンは、祈るようにリリアディアの手に、そのさらつやな毛並みの額を寄せただけ。
いつだって、ヴァーミリオンはリリアディアのことを考えて、行動してくれている。
リリアディアは、それを理解している。
だが、ヴァーミリオンは、リリアディアがヴァーミリオンのことを考えてすることを、理解しない。
大切だから、離れる。
その思いを、この美しい獣は理解しない。