11.番は万能薬
悲鳴のようなリリアディアの声に、室内が一瞬、シン、となった。
リリアディアに向けられる美獣の蜜色の瞳は、驚きのままに見張られている。
だからその隙に、とリリアディアは口を開く。
何を言いたいのかわからないままに、それでも言葉は紡がれた。
「貴方はわたしを、何よりも優先する。 一番に選ぶ。 わたしには、それができないの。 それが辛いのよ…!」
自分の唇から語られた内容に、リリアディアはようやく、自分が何を嫌だと思い、この屋敷から、ヴァーミリオンから逃げたのかを理解した。
ヴァーミリオンの一族が担っているという【均衡の守人】の話と同じだ。
リリアディアは、ヴァーミリオンにたくさんをもらいすぎている。
同じ分だけ、返せないのが、辛いのだ。
だって、つり合いがとれていない。
偏って、均衡が崩れたとき、自分たちはどうなるのだろう?
ティルディスが見せた、世界のように、なってしまうのだとしたら。
そうならないうちに、離れないと、と思ったのだ。
「お願いだから、貴方を一番に想ってくれる番を選んで。 何よりも、貴方を優先させる番を。 でないと、不公平だわ」
リリアディアは、必死の思いでそう言ったというのに。
ヴァーミリオンの目は、リリアディアを凝視したままで、その毛むくじゃらで牙ののぞく口が、わなないた。
「…君は、私を案じて、私から離れたのか?」
ヴァーミリオンの目は、リリアディアから外れない。
リリアディアが答えずにいると、彼はさらに質問を重ねた。
「私を、厭っているからではなく?」
耳に届いた問いに、今度はリリアディアの方がヴァーミリオンを凝視してしまった。
今、この美獣は、何と言ったのか。
リリアディアが、ヴァーミリオンを、嫌っている、と?
どうしてそうなるのか、とリリアディアは微妙な表情をしたに違いない。
その隣でティルディスも、はぁぁと深く思い溜息をつき、呆れた表情になっている。 あの、笑顔が標準装備ティルディスが、である。
「主、嫌いな男のところに戻ってくる女がいますか?」
ティルディスの問いに、ヴァーミリオンの口はぐっと引き結ばれた。
視線が泳いでいる様子から、きっと照れているのだろう、とリリアディアは推測する。
ティルディスはヴァーミリオンのその様子に、肩を竦めたようだった。
「…本当に主は…。 花嫁様に嫌われたのではないかと考え始めたら具合が悪くなるなんて、どれだけ花嫁様のことがお好きなんですか」
「! ティルディス」
ヴァーミリオンは窘める――あるいは制止の――ためにティルディスの名を呼んだのだろうが、一足遅かった。
そうか、リリアディアが離れたことで体調を崩したのではなく、リリアディアに嫌われたのではないかと悩みすぎて具合が悪くなったのか。
本当に、どれだけ乙女なのだろう、この美獣は。
今だって、毛むくじゃらの手で頭を抱えているらしい美獣は、人間の姿だったらきっと首筋まで真っ赤だったに違いない。
大丈夫だろうか。
そう思ったのが伝わったようで、ティルディスがにこりと微笑んでくれた。
「大丈夫ですよ、花嫁様。 母君が人間とはいえ、純粋な人間よりは頑丈にできていますから、貴女が傍にいればすぐに回復します」
「わたし?」
意味がわからずに問い返すと、したり顔のティルディスは頷く。
「私たちにとっては、【番】が傍にいるという事実が大切なんです」
ああ、確か、【番】となんやかんやをすると、呪いが解けるのだったか。
けれど、傍にいるという事実が大切ということは、どういうことだろう。
リリアディアのよくわかっていない空気が伝わったのか、ティルディスは解説モードになる。
「主も変なところで意固地ですからね。 【番】とは自らの半身なのですよ」
「ティルディス」
話の向かう方向に気づいたらしいヴァーミリオンが、顔を覆っていた手を外して上半身を起こした。
だが、ティルディスは止めるつもりはないらしく、笑顔が若干怖い。
それだけ、ティルディスもヴァーミリオンの状態にやきもきした――というのに、当のヴァーミリオン本人がそれを理解していない――ということなのだろうけれど。
「何と言われようが止めません。 花嫁様は優しい方ですから、こういうときにつけいらなくていつつけいるんです?」
「私は、つけ入るようなやり方が嫌だと」
「わかってますか? 貴方だけの問題ではないのです」
いかにも真面目な美獣らしい発言が飛び出すも、それを打ち切るようにしてティルディスが言う。
これはティルディス、相当鬱憤が溜まっているのではないだろうか。
ティルディスの態度に触発されたのか、ヴァーミリオンも低く唸るような声を出した。
「私の身を案じているとか言うなよ」
まさか、主従の争いに発展しないよな、とリリアディアははらはらしながらやり取りを見守っていたのだが、ティルディスが引くのは早かった。
あっけらかんとした様子で、ヴァーミリオンの視線を躱している。
「いいえ、私も花嫁様を気に入っているので、できればそのまま花嫁様に主と結ばれていただいた方が楽しく暮らせると思うので、私の為です」
そして、ティルディスはあっさりと、狭まりつつあるリリアディア包囲網を暴露してくれる。
わかっていたつもりだったが、ティルディスも色々と怖い。
そして、そのティルディスが、急にどんっとリリアディアの背中を押した。
「っわ!?」
「ティルディス!」
リリアディアが前のめりにベッドに倒れこみそうになったのを、ヴァーミリオンが支えてくれた。 頭上でヴァーミリオンがティルディスを非難しているが、リリアディアはそれどころではなかった。
ぽすりと顔を埋めた毛並みが、ぱさぱさでぎしぎしなのが悲しい。
つい一週間ほど前までは、つやつやのさらさらだったあの感触を知っている身としては、本当に居たたまれない。
責任をもって、この毛並みがあの頃のつやつやさらさら感を取り戻すまでお世話しよう、と思う。
ごめんね、の思いを込めて、毛むくじゃらな美獣の上半身に腕を回す。
けれど、美獣は逞しすぎて、リリアディアの腕が回りきらない。 せめて、とぐりぐりぐりと頭を擦りつければ、「リリアディアっ…!?」と頭上から動揺した声が降ってくる。
次いで聞こえたティルディスの声は――おそらくはヴァーミリオンのその反応に――若干の呆れを含んでいる。
「一度【番】を身近に置いた者が、【番】と長く離れていると、不安定になるんです。 花嫁様に面倒と思われたくなくて黙っていたのでしょうが…、【華美なる朱】と紅女帝に言われる朱公爵が聞いて呆れますね」
気のせいでなければ、最後のところでヴァーミリオンを鼻で笑ったようだ。
大切な主にそれでいいのだろうか、ティルディス。
リリアディアがヴァーミリオンに抱きついたまま、そろ、と視線を上げてティルディスを見ると、ティルディスはにこりと笑む。
「ということですので、花嫁様、そのまま主を抱きしめていてくださいね」
よくわからないながら、リリアディアはティルディスの言葉を、リリアディアが傍にいればヴァーミリオンが元気になるということだと受け止めた。
ぎゅうう、とさらにしっかりと抱きつくと、「っ、リリアディア」と動揺した声が降ってくるが、そんなこと聞いてはいられない。
そう、思った瞬間だ。
ぱさぱさぎしぎしな毛並みが、温かで張りのある肌のようなものに変わる。
ん? 肌?? しかも、何か小刻みに震えてはいないか。
リリアディアが顔を上げると、首筋まで真っ赤に染めて、顔をそらす人型のヴァーミリオンがいた。
リリアディアも、上半身裸の男に抱きついているという状況に慄いて、一瞬にしてヴァーミリオンから離れる。
そんな様子をにこにこと眺めながらも、ティルディスはヴァーミリオンに白いシャツを差し出した。
「ほらね。 【番】は万能薬なんです」
ヴァーミリオンはティルディスからシャツを受け取って、手早く身に着けながらも、その顔はまだ赤く、ぶちぶちと文句を言っている。
「ティルディス。 これでは私ばかりがリリアディアを好きなようで嫌だ」
「実際そうなのですから仕方ないでしょう」
笑顔のティルディスの容赦がない。
納得がいかない顔をしているヴァーミリオンに、腰に手を当てたティルディスが教師風を吹かせて語っている。
「私にできることは、少しでも長く主の傍にいて、主の望みを叶えることだけです。 一刻も早く、花嫁様に奥方様になっていただいて、後継ぎをもうけていただかなければ」
うん、語っている内容が、リリアディアにとっては不穏なことこの上ない。
なるべく目立たないようにしていよう、と思った矢先に、ティルディスの顔がくるりとリリアディアに向いてぎくりとする。
「その為には私は何だって致しますから、覚悟なさってくださいね? 花嫁様」
向けられるティルディスの笑顔が怖い。
何をするというのだ、何を。
そして、リリアディアに何を覚悟しろというのか。
それ以前に、なんだか色々と飛ばされている気がして、リリアディアは思い切って口を開いた。
「あ、あとつぎ、って、まだわたしは、このひとと結婚すると決めたわけでは」
そうすれば、美貌の青年姿になったヴァーミリオンが、愕然とした表情をリリアディアに向けた。
「…違うのか? 私はてっきり、そのつもりで戻って来たものと思っていたのだが」
いや、いやいや、どうしてそうなる。
リリアディアが高速で首を横に振っていると、はふぅ、と物憂げに溜息をついたヴァーミリオンが、悩ましげな視線をティルディスへと流した。
「ティルディス。 これが悪女というものだな? 私をその気にするだけその気にさせて喜ばせておいて、その気がないとは…悪い女だ」
「そうですねぇ。 悪い女に引っかかった主が悪いのではないでしょうか?」
本気の顔で語るヴァーミリオンに対し、ティルディスは顔が笑っている。 肩が若干震えているから、本気の笑いだ。
主従揃って、リリアディアを勝手に悪女にしないでほしいものである。
「知らない。 放っておけなかったの。 だって、貴方の思い込みが、わたしのせいだと思ったから」
一度は出て行った場所に舞い戻ってきた理由は、これだったのかもしれない。
「思い込み?」
ヴァーミリオンは不思議そうな表情をしているが、リリアディアは確信をもって頷いた。
「貴方がわたしを花嫁にすることに拘って、【番】だと思い込んでいるのは、わたしが昔、貴方に言った言葉のせいでしょう?」
真っすぐにヴァーミリオンを見つめて、言った。
ヴァーミリオンは、驚いたように目を見開いている。
「…思い、出したのか」
呆然と漏れた声は、わずかに掠れていた。
ヴァーミリオンはすぐに、わずかにだが目元を染めて、表情を隠すように口元に手を当てた。
「いや、でも…あれを私と認識したのか?」
嬉しいと恥ずかしいが同じくらいずつ混ざった表情だ、と思った。
「…だって、わたしを助けてくれて、優しくしてくれて、同じ、綺麗な蜜色の目をしてた」
リリアディアも、今まで半信半疑ではあったが、ヴァーミリオンのこの反応を見れば、リリアディアが幼い頃出会い、森の神様だと思っていた犬は、ヴァーミリオンで間違いないのだろう。
リリアディアの記憶の中のヴァーミリオンは、紛うことなき犬で、毛並みも茶金のようだったけれど、成長するにつれて身に纏う色彩が変化する動物は多い。
ひよこが鶏になるようなものだ。 驚きはしない。
それよりも、疑問なことが別にあることも、驚きが大きくない理由だと思う。
「でも、わたしにはやっぱり理解できない。 貴方、あれだけでわたしを【番】だと思ったの?」
薔薇屋敷を出ていくリリアディアに、ティルディスは、リリアディアを【番】と定めたのはヴァーミリオンだと言った。
あの、一時間にも満たない接触で、ヴァーミリオンはリリアディアを【番】と定めたというのか。
「…ああ、そうか。 君は人間だから…」
ヴァーミリオンは、納得したように呟いた。
リリアディアは人間だから、【番】という言葉だけで、全てを理解することが難しいと、ようやく思い至った風だった。
「嘆く声が聞こえた。 胸の奥が、共鳴するみたいに、震えるんだ。 その震えに耐えられなくなって、赴いたところに、君がいた」
突然に、ヴァーミリオンが話し始めたそれは、ヴァーミリオンとリリアディアが出逢ったときのことだったのだろう。
「父が言っていた。 【番】は心臓なのだと。 私は、君に会うまで知らなかった。 君に会って、父の言葉を実感した」
ヴァーミリオンの瞳は、そのときを思い出すかのように細められて、その手が自身の心臓の位置へと当てられた。
「君の想いに、心が震えた。 理解した。 私が抱えていた空白の中身は、孤独であり、寂しさだったのだと。 当り前で、普通だと思っていた。 その普通に、君が名前を付けた。 孤独で、寂しいのだと」
一度言葉を切った、ヴァーミリオンの瞳が、リリアディアに向く。
ヴァーミリオンは、嬉しそうに、幸せそうに笑むのだ。
「そして、知った。 二人なら、寂しくないと」
夢見るかの如く、ヴァーミリオンは語る。
「あの日から、私は、君を迎える日を待ち望んでいた」
あまりにも晴れやかで華やかな表情に、リリアディアは、本気で、目が潰れるのではないかと思い、視線を下げる。
そのリリアディアの耳に、ティルディスの声が聞こえた。
「では、花嫁様、主のことは頼みましたよ。 私はお食事をお持ちしますから」
「え、ええと、抱きしめていればいいってこと?」
顔が見えない分、リリアディアとしては気楽にできるだろうと思ったのだが、リリアディアの動きを阻止するように、ヴァーミリオンの左手に右肩を掴まれた。
ヴァーミリオンは右手で覆った顔面を背けたまま、耳まで赤くして震えている。
「ま、待ってくれ。 シャワーを浴びてくる」
そんなヴァーミリオンとリリアディアを置いて、ティルディスは部屋を出て行ってしまった。
どうしてこの流れでシャワーとなるのだろう。
リリアディアが思ったことが伝わったのか、ヴァーミリオンは指の間からちらっとリリアディアを見る。
「…君と二人きりは非常に精神的に安定しない。 少し落ち着いてくる」
言うや否や、そそくさとベッドを出て浴室に向かったヴァーミリオンに、リリアディアはどう反応するのが正しいのか、しばし考えた。
ただ一つ思うのは、待ち望んでいたはずの【番】と二人きりで精神的に安定しないという発言はどうなのだろう、ということだ。




