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剣を以て〈魔者〉を討つ。それが彼女に与えられた力、すなわち〈ロール〉だった。
深夜、開発途中の都市の一角。まだ空の高層ビルの合間を縫い、二つの影が駆けていた。
一つは、追いかける少女の影。もう一つ、その少女が剣を握り締め必死に追うのは、闇に紛れる黒い獣。そのシルエットは、一見すると猿に似た二足歩行の動物に見える。しかし頭の形はどこか犬に似ており、何よりその体の大きさは大の大人ほどもある。少女は、それがこの世界に存在し得ない存在であることを確かにその目で確かめていた。
……あれが〈魔者〉だ。少女はそう確信していた。そしてそれは、彼女がずっと追い求めていた存在でもあった。
〈魔者〉は少女を嘲るように身軽に跳ね回る。少女の振り回す両刃の長剣はさっきからかすりもしなかった。
「この、待ちなさい!」
少女の声が無人のビル街に反響する。〈魔者〉は細い路地に飛び込むと、まだ窓の嵌められていない建設中のビルに侵入した。
少女は追いかけてビルの正面に回る。幸い、セキュリティはおろか鍵の付いたドアでさえまともに作られていなかった。
ビルに足を踏み入れると、〈魔者〉が駆ける音が奥の方から聞こえてくる。少女は短く息を吐くと一気に駆け出した。
内装もまだ不十分な作りかけのビル。その四階で、少女は〈魔者〉に追いついた。
「喰らいなさい!」
掛け声と共に振り下ろされた長剣が〈魔者〉を掠める。刃はわずかに体毛を削ぎ落とすも、手応えがない。体に傷を刻むことまでは出来なかったようだ。
〈魔者〉はなおも逃亡を続け、階段を身軽に飛び越えていく。少女も段飛ばしで駆け上がりそれを追う。全力で走り続けているにもかかわらず、少女の息は乱れる様子を見せない。むしろ〈魔者〉の方に疲労が蓄積しているのか、両者の間の距離は徐々に縮まりつつある。
「ッ!」
次は当てる。そう覚悟して勢い良く振り抜いた刃は、今度こそ確かに〈魔者〉を捉えた。
しかし手元に返ってきたのはまるでゴムでも叩きつけたような感覚。確かに当てたという手応えはあったものの、有効な打撃を与えたという実感はない。
その時、今まで逃げる一方だった〈魔者〉が今の一撃で憤慨したのか、急に踏みとどまって振り向きざまに勢いよく腕を振り回してきた。
「きゃあっ!?」
まるで鬱陶しいハエを払うかのように無造作に振るわれた腕は、少女の側頭を強く殴打した。
少女は吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。衝撃に視界がグラリとし、意識が飛びそうになる。そうして一瞬膝をついている間に〈魔者〉は再び逃げ出した。
「チッ、生意気ね……!」
少女はすぐさま立ち直り、再び〈魔者〉の後を追う。一度は縮まったその距離は、今度はどんどん開いていってしまった。
更に数階登った所で、〈魔者〉が窓から外へ飛び出した。見下ろすと、いつの間にか高さ十階ほどまでに来てしまっていたらしい。ここから飛び降りるのはさすがに無理だった。
少女は別の窓から外を覗く。隣に建っていたビルはまだほとんど骨組みの段階らしく、ちょうど彼女がいるのと同じ高さほどまで建設が進んでいた。
少女はその建設中のビルの鉄筋に飛び移り、その骨組みの内側を一段ずつ飛び降りていく。そして地上に降りると外へ駆け出した。
そこはまだ信号機も灯っていない大きな交差点。少女と〈魔者〉の姿を、空から降り注ぐ淡い"翠色の光"が照らしていた。〈魔者〉は交差点の中で逃げも隠れもせず少女を待っている。
……目が合った。そう感じた瞬間、肌をひりつかせるような緊張が走る。
少女は剣を構え、〈魔者〉は身を縮ませて全身に力を込める。この一瞬が勝負だ。そう悟った少女は全神経を研ぎ澄ませ、僅かな隙も見逃すまいと全感覚を目の前の〈魔者〉の動きに集中させる。
静寂の中に〈魔者〉の上げる唸り声が響く。少女は〈魔者〉をジッと睨み、剣を握る手に力を込める。
そんな静寂の中をかすかな風が流れた。その風は少女の髪を揺らし、彼方へと流れていく。
やがて、風はピタリと止む。その時。
――どこか遠くで、何かが地面に落下したような音が響く。
「ハァッ!」
その一瞬の出来事だった。音を合図に爆発した両者は、交差点の中心で交わる。
少女が全力で放った横一閃は鋭く空を切り裂く。しかし〈魔者〉は高く跳躍し、その一閃を跳び越した。
少女の目には、まるで〈魔者〉が一瞬で姿を消したかのように映った。少女が戸惑っている間に、〈魔者〉は空から強襲する。
〈魔者〉の足が少女の頭を踏みつける。そしてそのまま、少女の頭を強く蹴り抜いた。
「ーー!」
声にならない悲鳴を上げ、少女はそのまま引き倒された。
〈魔者〉はそんな少女に見向きもせず跳び去っていってしまう。少女は〈魔者〉のちょうどいい踏み台にでもされたといったところだ。
後に残された少女は身を起こすこともせず、ごろりと仰向けになってぼーっと夜空を見上げた。
「…………」
少女はただただ、地面に転がって夜空に目を向ける。茫然自失と言った様である少女はしかし、〈魔者〉を討てなかったことを悔いるでもなく、屈辱的な仕打ちに憤慨するでもなく、……冷めやらぬ興奮の渦中にいた。
ここに来て体が疲労を思い出したとばかりに、呼吸は乱れ、頬は上気している。そしてその口元には、小さな笑みを浮かべていた。
まだあの姿が目に焼き付いている。まだ剣を叩きつけた感触が手に残っている。蹴りつけられた痛みの名残さえ、今は喜ばしい。
「……いたんだ」
緩んだ口元が無意識に言葉を紡ぐ。
「いたんだ……この世界にも……〈魔者〉が……!」
開発途中の都市。まだ空の高層ビル。その合間で行われた、闇夜の決闘。
……それは、今はまだありふれた〈剣士〉に過ぎない少女と、この町には存在し得ない〈魔者〉との、最初の邂逅だった。