摩周湖の夜
霧に包まれた摩周湖への未練が
北の地へ就職して夢を実現させた民子である。
摩周湖の夜
夢を追う
伊勢崎藩主の子孫として生まれた民子は、医師である
父牧人と小学校教師である母の3女として生まれた。
名家として育てられた民子は、恵まれた環境の中で育ち
厳しさも、世の中の厳しさも冷たさも、体験したことが
ない。
名門の高校から教育大と進み中学校の教師となった。
高校の修学旅行で北海道の旅に観た摩周湖が、
忘れられずに札幌の中学校に赴任したのだ。
その時の摩周湖は霧に包まれて、残念ながら湖面は見る
ことが出来なかった。
心の残りの湖水をもう一度見たかった想いが、北の地で
働きたいと思ったのだ。
札幌の中学校に赴任した民子は、札幌は寒いと思ったが
学校の先生方も、アパートの住民も、みんな親切で
暖かかった。
寒さなど気にならないほど、親切な人達に囲まれて
3ヶ月が経った。
札幌市内の篠塚中学校は、緑に囲まれた、広い校庭の
真ん中に校舎があり、緑の風が部屋中に広がる。
9月の風は、緑を腹一杯食べた気分にさせてくれる学校だ。
青年教師や女性教師が8人も居た。
北のロマンを求めて本州から来た青年教師が多い。
民子もその一人であった。修学旅行で見れなかった
摩周湖への想いが、北の地の教師になろうと言う想いを
駆り立てた。
北の大地に憧れた男性教師が何人も居た。
9月の空が澄んだ頃、摩周湖を見れるかも知れないと、
密かに職場の話を探って居た。
6月から8月は霧が多いと先生方が言って居た。
真冬は摩周湖が見える確立が高いと言うが寒いので
避けた。
9月なら見えるだろうと想い 同学年の牧瀬幸樹を
誘ってみた。
牧瀬幸樹は同学年の主任である。
民子の誘いに快く引き受けてくれた。札幌生まれの
幸樹は、案内人になれるほど、詳しく摩周湖の
環境や気候を知って居た。
幸樹は、民子に摩周湖の様子を話し始めた。
小さい時から体に刻まれた摩周湖の風も、雲も、光も
霧も知って居た幸樹は、身を乗り出して生々しく
説明をした。
摩周湖の水量が年間通して変わらないのは、神の子
池と摩周湖が地下でつながり、一日12000tもの水が
湧き出ているからだと言った。
そのため、流れ出る小川は視認できるが、流入する川は
地表には存在しないんだと言う。
池の底のあちこちから湧き出ている水が透けて見える
と説明してくれた。
晴れた摩周湖を見ると婚期が遅れるという諺まであると
幸樹は笑って言った。
民子は吸い込まれるように眼を輝かせて聞いて居た。
高校から熟さぬ夢の花が開く時だ。篠塚中学校に
赴任したことに民子は自信を持った。
幸樹が9月の天候を調べて誘った日は9月25日だった。
快晴ではなかったが、夢に見た摩周湖の湖面が見えた
幸樹は馴れた口調で摩周湖の風景を、次々と民子に
話しかけた。
「これが摩周湖だよ。高校の夢が実現したね。」と
民子の顔を覘いた。
民子は摩周湖のエメラルドの湖面が目の前に広がった
興奮に、幸樹の話しかけにも応えずに展望台の先に
走り寄った。
民子はただ黙って涙ぐんで湖面を見詰めた。
幸樹は民子の興奮が納まるのを少し離れてじっと待った。
何時か必ずと~思った夢の摩周湖の展望台に今ここに
立って居る。
暫く見詰めて居た民子は、この現実に赴任までの経緯を
思い起こして居た。
北海道の学校を志望した時は、家族から反対され
それを押し切っても北の地を選んだ自分に満足した。
北の地に永住する覚悟で篠塚中学校を志望したのだ。
民子は赴任した訳を延々と同じ学年の先生にも話して
居たのだ。
幸樹は民子の気持ちを知って居たので、今の民子の興奮が
納まるまで待った。
何時かは見ると言う、一途な夢を実現させて良かったと
民子は思った。
エメラルドグリーンの湖面に陶酔した民子は周囲を
見回すと、カルデラ湖の周囲は、断崖絶壁が切り立つ
その側から羽衣のような霧が這う風景が、神秘的に
見えた。
湖水を目の前にして幸樹は出かける前の話しに付け足した。
摩周湖は水が入って来る入り口もなく、水が流れ出る
出口もない湖水だと言う。
その秘密を幸樹は面々と話した。
断崖絶壁と霧の織り成すドラマだと・・・
その合間 から、カムイヌプリが見られた。
幻想的な風景が魅惑的だった。
幸樹の好意に感謝した。
夢が実現し、摩周湖に立つ自分にエールを送った。
幸樹は午前に誘った訳を民子に話して摩周湖をあとにした。
「幸樹先生ありがとうございます。私の夢を叶えてくだ
さった恩人ですわ、私の人生はこの北の街に根付かせようと
思ったの・・・。」と言って一礼をした。
幸樹には民子の興奮が摩周湖よりも綺麗に観えて
ほっとした。
民子の住むマンションの入り口まで見送って別れようと
したが民子はこのまま別れるのは寂しかった。
「幸樹先生 少し休んで行きませんか
お茶を一杯飲んで喉を潤してください。疲れたでしょう。」
そう言った民子は幸樹を部屋に誘った。
幸樹は一瞬迷ったが、知らない地に赴任して来た民子の
心境を知って居たので、民子の誘いのままに部屋に入った。
民子はほっとした。男性への警戒心など意識しなかった。
身寄りのない地に赴任した寂しさが体の奥から噴出し
幸樹と別れたくなかったからだ。
3才年上の幸樹が兄のように思えたのだ。
再び 摩周湖へ
摩周湖を観た民子の興奮は幸樹の目に熱く焼き着いた。
民子の興奮の綺麗さに理想像の女性の姿を観た想いだった。
また喜ばせてあげようと思った幸樹は、再度摩周湖に
誘うと密かに思って居た。
絶対に見せたいのは、摩周湖の夜の流れ星である。
幸樹は土曜の休日を選んで誘おうと民子の
教室を訪ねた。
生徒の帰った放課後は、民子が一人教材の研究をして
教室に居た。
「お~~一生懸命ですね。教材の研究ですか。」と
幸樹は民子の教室に入って行った。
びっくりしたのか、民子は慌てて立ち上がり、机の上の
冊子を引き出しに隠した。
「何を研究して居るのかね。真面目ですね。」と幸樹は
民子の動きに疑問を持ったが、何気なくそうに言った。
「は~はい 今少し暇なので、摩周湖の思い出の写真を
観て居ました。一生忘れられない思い出になりました。
感謝します。長い間の願いが叶いましたわ。」と満面に
笑みを浮かべて幸樹に言った。
「そうかあ・・ 良かったね。遠い北の地に赴任して
良かったのかな。」と幸樹は案内したことに満足した。
「ところでもっと素敵な 摩周湖を見せたいね。
夜の摩周湖だよ。どうですか。行きますか。?
夜だけど観光のバスが出て居るんだよ。」と言うと民子は
急に幸樹の話に乗り気になった。
「バスが出て居るんですか。? それなら幸樹先生と
ご一緒させて頂きたいわ。是非お願いします、」と
民子は教卓の周りを一周して喜んだ。
幸樹は金曜日までの疲れがあったが、民子の喜びに
休まず身の回りの持ち物と、高感度レンズの望遠鏡を
準備した。
民子は幸樹の誘いに夜も眠れず、興奮の一夜を過ごし
簡単な飲み物も準備した。
9月も終わりに近づき、30日を選んで、バスを
予約した。
天候も晴れの予報だ。
バス会社も「流れ星が見えますよ。」と言った。
夕方2人は予約のバスに乗った。
バスは摩周湖の夜を観光する人で満員だった。
摩周湖の夜なんて考えただけでも、ロマンに包まれる
想いで胸が高鳴った。
バスの窓の外を眺めながら静かに口ずさんだ。
霧に だかれて しずかに眠る
星も見えない 湖にひとり
と民子はうる覚えの歌詞を口ずさんだ。
隣に座って居た幸樹もいつしか民子の歌に誘われて
2人で歌った。
民子は嬉しかった。今まで感じたことのない親しみ
を感じた。これが恋かも知れないとふっと思った。
幸樹は歌のリズムに載せて民子の体を揺すった。
歌詞のリズムに心がひとつに解け合うのを民子は
感じて居た。
幸樹も寄り添う民子の体の温もりに、何時までもこの
ままで 居たい心境に駆られた。
バスを降りた2人は摩周湖の夜の星を追いかけた。
夜空にこんなに星があったのかと改めて見上げた。
手を伸ばせば星が掴めそうな気がした。
幸樹は持って来た高感度レンズのカメラを三脚に
しっかり据え付けた。
「ほらここから覘いてごらん、ほら流れ星だよ。」
と民子の手を引っ張った。
民子はカメラを覘きながら興奮した。
流れ星が速い~~瞬きの間に目の前を流れる
暗闇に走る光の糸があちこちに見える
幸樹がまたカメラを覘き、民の子の肩を抱いて~
「ほら~~あっち、あっち・・ほら~こっちだあ~。」と
言う。
2人の肩は暫く重なり合い、交互にカメラを覗き込んだ。
光が肌に刺さるように感ずる速さの流れ星を追った。
1時間で数十個の流星を観察すること が出来ると幸樹は
昂奮して言った。民子は幸樹の言うがままに流れ星を
追った。
幸樹はまた話しかけて来た。
「民子先生今夜は生涯の思い出を創れますよ。数え切れない
程ここに来たけど、僕も今夜は民子先生と見た摩周湖の
流れ星は一生の思い出になるよ。」と言ったのは、愛の告白
でもあった。
民子も同じ想いで聴いて居た。
カシオペアや、オリオンなど中学代に教わった星座を
眺め、星座にまつわる神話へ思いを馳せたが今夜の星は
愛の囁きでもあった。
きっと忘れられない一夜になることを2人は感じて居た。
「夏のペルセウス座流星群の三大流星群はピーク時に
1時間で数十個の流星を観察することが出来るんだよ。
それは見ものだよ。夏にまた来ようね」と摩周湖の
夜の印象を強めるかのように繰り返し民子に強調した。
何時までも眺めたい星空だったが帰りの時間が来た。
バスは午後9時に摩周湖の星に別れを告げて家路に
着いた。
幸樹は民子をマンションまで送って来た。
「幸樹先生本当にありがとうございました。摩周湖の夜は
一生の宝となりました。絶対忘れないだろうと思います。」
と言った。
このまま別れることは辛いと思った幸樹は民子に
こう言った。
「民子先生、同じ思い出を共有出来た僕は幸せだよ。
冬が来る前にもう一度行きませんか。」と言いながら
別れたくなかった想いを約束することで心を静めた。
初恋の人
高校の先輩に慎也と言う初恋の人が居た。
慎也は店の長男として生まれ将来は店を継がなけれ
ばならない。
経済大学を出た慎也は勤めることも許されず、母の
八百屋を継がなければならない。父が若くて他界した
からだ。
だんだん重いものを持てない母を見て居るのが辛
かったのだ。
母は父に代わって仕入れをして店を切り盛りして居た。
大学を通うことも迷ったが、どうにか卒業した慎也は
八百屋を引き継いで働くことになり、民子との恋は諦め
ざるを得なかった。
民子は慎也との恋を諦める意味もあり、摩周湖の
想いを捨てられなかったことも理由のひとつだが、
遠い札幌の教員試験を受けて合格したのだった。
新しい地での勤務は新鮮であり、始めての教育現場は
思ったより大変であった。生徒に接して居ると慎也と
の別れた悲しみも紛れたのだ。
札幌の生活にも馴れて、生徒との交流も楽しくなった頃
突然慎也から手紙が届いた。
明後日札幌へ行くと言う手紙であった。
民子は慌てた。
隙間なく学校の行事が続いて居るからだ。
休みなど取れない。休暇も取れないと思ったからだ。
すぐに手紙を送った。
夏休みが来るから、その時に家に帰る。それまで
来ないで待って居て欲しい。と返信した。
だが慎也は急いで居た。
「嫌 急いで話したいことがあるから、飛行機で行けば
日帰りも出来る。だからこれから飛行機に乗る。」と言う
メールが来た。
時計を見たらもう慎也が飛行場に居る時間だった。
返信する暇もない。
民子は成り行きに任せる方法しかなかった。
出迎え
慎也が千歳空港に着くのは、午後9時と言う連絡が来た。
民子はその時間に迎えられるように札幌駅からシャト
ルバスに乗って千歳空港に向かった。
千歳空港に着いて時計を見ると、午後8時40分であった。
あと20分間の待ち時間がある。
慎也と今夜泊まる宿までの確認をする時間はなかった。
急な慎也の動きにそこまで民子は気が廻らなかったのだ。
連絡のし様もない、慎也が来てからでは遅すぎると考えた
民子は、勝手に宿を決めようと思った。
この時間では、札幌市内の宿を探す暇もなく、手がかりも
ない。手早く、安心な、格安な宿を見つけるためには、
幸樹に頼る以外にないと思った。
そう思った民子は幸樹に電話をした。
幸樹はすぐに電話に出てくれたので、民子はほっとした。
幸樹が居なかったらどうしようと思いながら携帯から
電話をした。
「もしもし幸樹先生!! 民子ですけど、こんな時間に
電話をしてごめんなさい。急ぎのお願いがあるんだけど。」
と言うと 幸樹は快く聞いてくれた。
「ほ~~ 民子先生か この時間に何処から電話して居るの。
賑やかな声が聞こえるけど。」と軽やかな声で聞いてくれた。
民子は幸樹の存在が心強く感じた。明るい声に何もかも
頼れる人と一層 愛着を増した瞬間だった。
頼れる人の居ない札幌に来て、こんな時に気安く頼れるのは
幸樹以外に居ない。すぐに声をかけられる幸樹の存在は有難
かった。
早口で急ぐ民子の声は、あたりに甲高く響いた。
「急な電話でごめんなさいね幸樹先生。 どんな宿でも
良いから何処か 探して貰えないかしら。安い宿で良いのよ。」
と幸樹に頼んだ。
幸樹は少し口篭ったが、すぐに思いついたらしく 応じて
くれた。
「はい 解った、解ったよ 教え子の家が旅館を経営して
居るから、すぐ頼んで見るよ。」と言った幸樹は、急いで
電話を切った。
民子は嬉しかった。もう安心だとほっとした。
焦った熱気がす~っと 体から飛んで行くような気分に
なった。
そんな電話の時間に10分がかかっただろうか。
そのあとすぐに幸樹から宿が取れたと言う返事が携帯に入って
来た。民子は嬉しかった。
慎也を見逃したら大変だと思う民子は、降りてくる
姿をじいと見詰めた。
再会
管制塔の灯りが薄暗くて、人の姿など見えそうもない、
うっすらと浮き上がる滑走路に、飛行機が滑るように
降下して来た。
タラップから降りて来た人の列は、黒い大蛇のよう
に続いた。
慎也の姿を見つけようと思った民子は、眼を皿の
ように大きく見開いて探した。
見逃したら大変だ、伸びれるだけ 背伸びして
人混みを追いかけた。うごめく黒い人ごみの中に紅い
ジャケットを着た男性の頭が、ぴょんと浮き上がって
見えた。
あっ~あれが慎也さんだな・・と思いその手を見逃さ
ないように近寄った。慎也は大きく手を振りながら
民子の方に歩いて来た。
まだ不安げな民子は、爪先立ちをして、ハンカチを大きく
廻旋させた。
解ったようだ。慎也は手を下ろして黒い頭を掻き分けて
民子の方に走り寄るのを見た。
目と目が合った。やっぱりそうだと思った民子は
大きく息を吸い込んでしゃがみ込んでしまった。
どおっと気が抜けたような脱力感に襲われたのだ。
涙が零れた。そっと涙を拭きながら民子は慎也を
迎えた。
札幌に来た硬い信念が、がたがたと崩れそうな気がしたのだ。
別れた筈なのに懐かしさが込み上げて、抑えようが
ない。遠く離れた寂しさと、慎也への懐かしさが
入り乱れる想いに、張り裂けそうな胸が痛かった。
遅くなるのを恐れた民子は、すぐに気を戻し
2.3歩 歩き始めた時に、慎也の後から黙って着いて来る
女性が居たことに気が着いた。
慎也の後に着く女性は誰なんだろうと、疑問を持ったが、
聞くことを迷った民子は、そのまま歩き出した。
ずばり 慎也に聞こうと想ったが聞けなかった。
だが慎也が後から民子に話しかけた。
「民ちゃん あのね。飛行機の中で隣り合って座った
方だよ。札幌市内の話を詳しく聞きながら、ここまで
来たんだよ。」と言うと女性は慎也の脇に並んで
にっこり笑って 言った。
「そうなんですよ。どこへ行かれるの。?と 聞いたら、
札幌ですと言うのでね、話が弾み、私も札幌市内に住んで居る
んですよ。と話しながら来たら、退屈しませんでしたよ」
と言った。
民子はその話で 疑問が解けた。
身を乗り出して慎也はまた機内の話を続けた。
「そうなんだよ。だから僕は札幌の中学校に勤務して居る友達を
訪ねて来たんだけど、今夜泊まる宿を探さなければならないんですよ。
急に頼んでも泊まれる宿がありますかね。?と聞いたらね、
ある、ある、私の家の2.3間先にビジネスホテルがありますよ。
電話して見ましょうか。と言ってくれた時は、安心したよ。」
と慎也が嬉しそうな表情で、女性の方を向いて笑った。
慎也が来てからでは遅いと思った民子は、すべて幸樹に
頼んで宿を準備して居たと言うことも、女性の前では
言えずに慎也から目を逸らした。
2つの宿に予約したことになってしまったのだ。慌てた
民子は幸樹に連絡しなければと思い、慎也にこう言った。
「慎也さん ここでちょっと待ってくれる?トイレに行き
たいの。ここで待ってね。」と言い、トイレの前の柱の影から
幸樹に電話をした。
急ぐあまり指の震えが止まらない、何とか幸樹の携帯番号を
打てた。
呼び出し音を、何度も繰り返し鳴らしたが、今電話には
出れない所に居ると言う声が聞こえて来た。
もう一度かけなおしたが同じである。
今電話に出れない所に居ると言う声がした。ああ・・どう
しようと思いながら成す術がないと困惑した。
ああ・・何処に居るんだろうなあ・・電話に出れない所って・・
こんな時間にどうしたんだろう、幸樹の居場所が掴めない。
空港も駐車場も人影が少なくなって来た。
空港の駐車場も静けさが広がり、もう仕方がない流れに沿って
体当たりで考えようと民子は思った。タクシーだけがずらりと
並び どうぞ乗りませんかと言うように運転手がこちらを見て
居た。タクシーに乗れば幸樹にも早く連絡が着くかも知れないと
民子は思った。
もう考えるより動くことだと思い、民子は慎也のところへ戻った。
慎也と女性は、トイレの前にあった椅子で、空ろな視線を
きょろきょろさせながら待って居た。
宿の困惑
民子は本音を言わざるを得ない状況が迫って来た。
「慎也さん 本当はね。私も宿を準備したのよ。学年主任の
方の教え子の宿があったのですぐに引き受けてくれたのよ。
断ろうと思って電話をしたけど連絡が着かないのよ。
どうしよう・・もう一度携帯に電話をして見るから待っててね。」
と女性に聞こえないように、小声で慎也に言った。
思っても居なかった民子の言葉に慎也も焦った。
女性は怪訝そうに2人の動きを見守って居た。焦って居るのは
女性も同じだ。
宿に入る時間が遅くなると思い 女性も焦って居た。
だが民子はどうしても、幸樹に連絡せずには済まないのだ。
予約の宿を取り消さなければならないのだ。
宿では部屋の準備をして待って居る。
一秒も早く女性も宿へ入りたかったのだ。
どうしたら幸樹に連絡が着くのだろうと、民子は足踏みを
始めた。腕時計を見たら、もう午後10時を廻って居た、
シャトルバスの時間も、1時間の時間待ちがある。
それでは益々遅くなるから、出発時刻までは待てない。
益々遅くなると思ったのでタクシーに決めようと
民子は 慎也に言った。
「もう連絡が着かないからタクシーで帰って、それから主任に
断るわ。」と。駐車場の右側にあるタクシー乗り場に3人で移った。
その時だった。 暗闇から急き切って走ってくる人が居た。
顔は見えないが幸樹だとすぐ解った。
「ああ~やっと間に合ったね。シャトルバスに乗ったかと
思ったよ、好かったなあ~。」と幸樹が近寄って来た。
「えっ~~ 何処に居たの。どうしてここへ来たの。」と
民子は飛びつくように幸樹に走り寄った。
民子は 泣き出しそうになったが、ほっとして肩の力が抜けた。
「だって民子先生に連絡とろうと思っても、携帯に通じ
ないんだよ。だから会った方が早いと思ったんだ。」と
言う顔が高潮して居た。
「そう~~そうだったの・・良かったあ~。嬉しい~
私だって連絡したのよ。携帯に何度も連絡したけど
通じないのよ。」と言うと、「そうかあ~ だって
僕も連絡したんだよ。何度も、何度も連絡したんだよ。」
と幸樹は民子と言いあった。
楽しそうに話し合う2人を、慎也はじっと見詰めて居た。
すっかり民ちゃんは札幌の人になったんだなあ~と思った。
民ちゃんは 僕の知らない世界を歩いて来たんだと1年の
空間を感じた慎也だった。
急ぎ足で幸樹の腕を引っ張った民子は、慎也と女性から
少し離れたところで話を始めた。
「幸樹先生 折角宿をお願いしたのに、友達が飛行機の
中で出会った女性の方から札幌の市内の宿を紹介された
んですって。どうしよう。」と幸樹に縋りつくように
話した。
幸樹は複雑な表情をしたが
「そうか~ うむ・・・それで慌てたんだな。解った。
それでは今連絡するよ。ちょっと待って~」と言い
すぐに宿に電話をしなければと思った。
時を急ぐ幸樹はすぐに宿に予約取り消しの訳を話し、
謝罪しながら、何回も頭を下げてお願いした。
電話を終えた幸樹は民子の側に走って来た。
「民子先生 大丈夫だよ、快く予約を取り消して
くれたよ。」と言って、慎也と女性の方に戻って来たが
女性が誰かは 幸樹はまだ気が着いていない。さっと車の
方へ行った。
その時女性は、足早に暗闇の方向へ走って行った。
民子はびっくりして何だろうと思ったが、理由を聞いて
居る暇などない。
だぶった予約を取り消すのに 必死だった。
まだ幸樹を慎也に紹介して居ないのだ。
民子は急いで幸樹を呼んで慎也に紹介した。
「慎也さん 私がお世話になって居る学年主任の
牧瀬幸樹先生です。宿をお世話になったのよ。」と
紹介した。
幸樹は賺さず言った。
「初めまして 僕は篠塚中学校で、民子先生と同学年なんですよ。
今夜は僕の車に乗ってください。あの方も一緒にね。」と
見回したが女性を呼ぶのはあとにした。
民子は次に慎也を紹介した。
「幸樹先生 幼馴染の慎也さんと言いますの。今夜は本当に
お世話になりました。幸樹先生に連絡着かなかったら、どう
しようと思ったわ。宿の予約の取り消しなんてさせて済み
ませんでした。」と民子は慎也と一緒に、幸樹に深く一礼を
して謝罪と挨拶をした。
今度は 民子は女性が気になった。
女性の姿が見えない。
そんなに遠くへは行かないと思ったので、タクシーの方を
見回した。すると女性は待ち遠しい表情でタクシーの後部に
腰を下ろして、考え込んで居るような、様子だった。
民子は女性の側に行って小声で言った。
「心配かけました。宿はキャンセルしましたから大丈夫です。」
と 言って女性を幸樹の車に誘った。
女性の表情など気にすることもなく、民子は浮かれた
気分で 全部 事が済み 漸く空港から帰る時が来たと
思った。
それから民子は小走りに今度は慎也の前に行き
「慎也さん幸樹先生が僕の車に乗って欲しいと言うんですよ。だから
今夜はお世話になろうね。」と慎也に話しかけた。
慎也は黙って頷いたが、女性は中々幸樹の車の方に来ない。
また手まぎして呼んだが来ない。
一秒も早く宿へ送ってから、幸樹を家に帰したかった民子は
女性の方を見ると、次々不思議な動きをするのに戸惑った。
苛々もした。
何だろうと聞きたかったが、まだ名前も知らないのだ。
慎也も女性を呼んだ。
だが女性は遠のいて駐車場の暗闇の方に背を向けた。
民子は益々不思議に思った。
幸樹は限られた時間の動きを素早く処理することで
精一杯だった。
まだその女性が誰なのかなど、気を配る暇などない。
時間に迫られた幸樹は、少しでも早く宿に送り届けないと
失礼だと思って居たのだ。
すると女性が急に民子に話しかけて来た。
「申し訳ないけどタクシーに乗りませんか。」と言いだした。
のでた民子はまたびっくりした。
でもここで幸樹の好意を無視することは出来なかった。
民子は女性にまた頼んだ。
「こんばんだけは 私の考えに沿って頂けませんか。
もう夜も遅いのでお願いしますよ。同僚の牧瀬幸樹先生と
仰るのよ。一緒に乗ってくださいよ。」と言うと、
女性はまた後ずさりをした。
焦って居る民子は女性の動きを無視せざるを得なかった。
「ごめんさい。遅く宿へ行ったら失礼ですよね。一緒に
車に乗って頂けませんか。お願いしますよ。」と言ったが
女性は動く気配がない。
何時かけたのか女性は大きなサングラスをかけて居た。
幸樹は一時も急ぐ宿の取り消しに躍起となって居たので
女性が誰かなどまだ気にもとめなかった。
思わぬ再会
すると女性が幸樹の側につかつか寄って来て何か小声で
言った。
「私よ。 暫くです。」と言ってサングラスを外した。
幸樹は青ざめた。呆然とした。
別れて3年・・・初恋の女性だったのだ。
女性は幸樹と別れて東京へ就職したのだった。
女性は、幸樹と民子が恋仲と感じてしまったのだ。
目の前に 初恋の人が仲良く女性と話する姿にどうしても
名乗り出ることが出来なかったのだ。
幸樹と女性は、唯 黙って暗闇の空を見詰めながら
慎也と民子に背を向けて暫く立って居た。
民子と慎也は何が起きたのか解らず、暫く2人の様子を
見守った。急がすことも出来ず、黙って2人を見守った。
もう夜中になって居る。宿が心配だ。
2人の関係が何なのか民子は心配になったが急いだ。
幸樹は一瞬 暗闇を見詰めて居たが口を開いた。
「暫くですね。 その後 僕は心配して何時も思い出して
居たよ。」と話しただけで、幸樹は女性から離れた。
女性も幸樹から離れた。
今はそんな話をして居る時ではないことを2人は知って居る
幸樹は、女性と何事もなかったように、民子と慎也の側に行き、
車のドアーをあけて
「さあお待たせしたね。宿に行きましょう。」
と言って運転席に乗って民子の方を向いた。
慎也は賺さず続けて言った。
「そんなことはないです。僕も民子さんと1年ぶりの
話をして居ましたから・・大丈夫ですよ。」と晴々した
顔で幸樹に言った。
幸樹と女性の間を、詮索する気はなかったが不思議な
空気が漂って居ることが気がかりだった。
もう時計を見たら午前零時を廻って居た。
幸樹は職場の関係から助手席に民子を誘った。
慎也は何気なく後部座席に女性を誘い、一緒に
並んで乗り、飛行機に同乗した想いを話しながら、
お世話になった宿のお礼をもう一度語りあって居た。
ぎこちなくぽつり、ぽつりと会話をして居る
うちに4人はビジネスホテルの前に着いた。
いち早く女性は車から降りて、ホテルの中に入った。
カウンターで宿泊の確認をして居るようだ。
幸樹は 少し離れたところから女性を見守って居た。
民子と慎也は明日の予定を話し合って居ると、女性が
出て来て慎也に言った。
「2階の105号室だそうです。全部準備が出来て居るよう
ですからゆっくりお休みください。」と女性は慎也に
言った。
慎也は丁寧に女性にお礼を言ってロビーに荷物を置きに
行った。
民子も女性に丁寧に挨拶をした。
「今夜は想わぬ面倒なお願いをしてしまいましたね。
ありがとうございます。」と言いながら民子は女性に
尋ねた。
「お家はどちらの方向ですか。」と聞くと女性はガス灯の
見える方向を指差しながら
「あのガス灯の下の喫茶店の裏になるのよ。だから
歩いてすぐなの。」と民子に言った。
幸樹は何度も歩いた道だけど黙って2人の話の終わるのを
待って居た。
民子は改めて女性に御礼を言った。
「ここまでお世話になり、助かりました。後でご挨拶したいと
思います。今夜はお礼もせずに失礼しますね。」と言うと
女性は 「嫌々そんなご心配は要りませんよ。」と言いながら
幸樹の方を向いて小さい声で言った。
「幸樹さん、私ね、母の病気で急遽東京から呼び寄せら
れたのよ。一週間の休暇をとって帰って来たの、家の前の
喫茶店で待って居ますわ。都合が良ければお会いしたいわ。」
と言った。
幸樹は「そうだね。暫くぶりだからお話しましょう。
前の喫茶店ですね。夜なら空いて居ますから、夕方来ますよ。
その時は連絡します。」と言いながら、女性が店の軒下を縫う
ように喫茶店の裏に消えて行くのを見守った。
女性と別れた幸樹は、民子のことが気になって居た。
慎也と民子が受付けカウンターで氏名と住所を書いて
居る後姿を見ながら、玄関の入り口で幸樹は待って居た。
手続きが終わって玄関に出て来た民子に向かって幸樹は
こう言った。
「民子先生 聞くのも無駄かも知れないが、確認しますね。
今夜はどうするの。」と聞くと民子は迷わず言った。
「幸樹先生 遅くなってごめんなさいね。疲れたでしょう。
だけど私のマンションまで送ってくださらない。」と頼んだ。
慎也は複雑な心境で玄関先から寂しそうに2人を見守った。
民子は幸樹の心遣いを粗末にするような、行動は取れ
なかったのだ。
小走りで慎也に近づき
「今夜はマンションに帰るからね。明日朝早く電話をする
から。」と慎也に了解を受けた民子は、幸樹の待つ車の方へ
急いで戻った。
何度も民子を引き止めたい気持ちが慎也を襲った。
。
札幌まで来てこんな寂しさを感ずるのかと思ったが
複雑な心境で民子と幸樹を見送り、慎也は、一人ホテルの
中に姿を消した。
車に乗った民子は幸樹に何度も繰り返しお礼を言って
感謝をした。
幸樹は
「良いですよ。気にしなくとも・・・だけどすれ違いに
ならず会えて良かったね。遅くなったけど大丈夫だよ。
3時間位寝たら疲れなどないですよ。それより民子先生が、
疲れたでしょう。明日はどうかな・・大丈夫かな。」
と言いながらマンション近くまで送ってくれた。
民子も幸樹の疲れを労った。
「先生もう一度お礼を言いたいの。無理を言ったり、予約を取り
消したりさせて、本当に申し訳なかったです。取り消した宿にも
謝ってくださいね。都合を見て私も挨拶に行きますから・・」と
言って車を降りた。
幸樹の車は街頭の薄明かりの中へと走って行った。
2つの道
民子と別れた慎也は、自分が何処をどう歩き 2階の105号室に
辿りついたか解らなかった。
ベットの上にどっと倒れるように寝転んで天井を見詰めて思った。
僕は何をしに札幌に来たんだ。
現実と想いの違いに、自問自答しながら窓の外へ眼を向けると
ほんのりと夜が明けかかって居た。孤独が襲うホテルの部屋は
ひんやりとして居た。
一人で宿泊する宿の寂しさなど考えても見なかった。
民子と一緒の一夜を過ごすことを信じて居た。
ベットの上に投げ捨てた鞄からは ネクタイが蛇が這うように
見えた。
午前5時の時を打つ音がした。
眠れない、寝返り打つ背が空しかった。
良し~今日はきっと民子に想いをしっかり伝えるのだ。
重い足を ベットから下ろし背伸びをした。
きっと民子を説得するぞと思いながら服を着替えた。
拭いきれない不安な気持ちが交差したがそんな想いを
押しのけなければ 札幌に来た目的は果たさない。
大きく息を吸って背伸びをした。
じっとして居られない慎也は。ところかまわず動き出した。
焦りを抑えられなかった。
無理に落ち着かせようと持って来た札幌市内の地図を広げて、
今日の予定を考えた。
一日ゆったりと動ける綿密な動きを地図の上に確認した。
時計を見たら午前6時になって居た。午前8時には電話をしないと
予定通りの動きは出来ない。
そう思った慎也はあと2時間の余裕があると思い少し
仮眠をしようと ベットに横になった。
仮眠と思ったつもりだったが寝不足か、熟睡に入ったようだ。
耳を裂くように、脳の奥に電話のベルが響いた。
あっと思って飛び起きた。
1時間も寝たのかな・・慌てて受話器をとるとホテルの
カウンターから男の声がした。
「おはようございます。瀬谷民子さんからお電話ですよ。」と
言う声に深夜は慌てた。
今頃なんだろう・・
僕が電話をすると言って居たのに・・
民子からの電話だ。
胸が弾んだ。嬉しかった。民子が先に行動してくれたことが
嬉しかった。
夕べの寂しさが何処かへ飛んで行った。
想いが叶うような気がした。
一気に力が湧いて体が軽くなった。
良し・・今日の計画の想いが叶うように実行しようと
思いながら時計を見たら午前8時20分である。
高鳴る胸を抑えながら受話器を持った。
「もしもし 民子です。夕べはごめんなさいね。一人で
寂しかったでしょう。でもこうするより方法がないのよね。」
と低い声で言った。
慎也は応える言葉が浮かばなかったが、先手を打って動いた
民子の気配りに温もりを感じた。
一夜の不満な気持ちと、電話の嬉しさが入り乱れた。
慎也は静かに話し始めた。
「今何処から電話してい居るの。」と聞くと民子は「はい 今日は
休みだからマンションからよ。これからホテルへ行きますから何時
頃が良いかな?」と言った。
「そうだね。今すぐが良いよ。時間を有効に使いたいからね。」
そう言うと民子は寝る前に出かける準備を終えて居たのですぐに
電話を切って、慎也の居るホテルへ向かった。
ホテルへは10分も歩けば着く距離だ。急げば7分で着く
民子は小走りにホテルへ行った。
玄関に着いた民子は携帯から慎也を呼んだ。
「もしもし 私よ。今ホテルの玄関に着いたの。」そう言うと
慎也はすぐに携帯から返事をして来た。
「今ね。僕はもう部屋から出たんだよ。君の来る前に車を借りようと
思ってね、レンタルしたんだ。今すぐに玄関に行くから待って
居てよ。」そう言った慎也は携帯を切った。
早い~早い・・なんと手回しの良い慎也だと民子は思った。
一秒も有効にしたい慎也はもうホテルの宿を出て居た。
相変わらず慎也の気転の早いひらめきのある動きは今も
変わらない。
素早い慎也の動きが懐かしかった。
3分位立ったか、慎也が赤い車に乗って ホテル前に来た。
民子はびっくりした。
えっ~凄い車だアルファロメオだ
赤が好きな慎也はレンタル車も赤だった。
民子の好きな車を慎也は知って居た。
一緒に楽しんだ思い出を蘇らせながら車を選んだのだ。
1年前の雰囲気を取り戻したくて心配りする慎也が
愛しかった。
苦しみながら別れたあの日は何だったんだろうとしきりに
民子は思い返し涙が込み上げた。
「おう~~お待ちどう様。ほら~早く乗れよ。急ぐんだから。」
慎也は少しも変わって居ない。衝動的な動きだった。
唯従うこと意外に余裕を与えなかった。
民子は直ぐに助手席へ乗った。
紅い車の車窓から観る札幌の空の蒼さが眩しかった。
行き先も言わないで走り出す慎也に不安と期待が入り混じった。
札幌を知って居るんだろうか。
何処へ向かうんだろう?
慎也さんは札幌になど来たことがない筈なのに、
何処へ行くんだろうかと思いながら、ハンドルの動きを
見守った。
「慎也さん何処へ行くのよ。こっちは時計台の方だよ。」と言うと
慎也は何度も来たような、自信ありげな顔して言った。
「うん~そうだよ。時計台に行くんだよ。今日から君と生きる
時を刻むためにね。」と言った。
民子は慌てた。
「そんな~~嚇かさないで~。私は札幌に来てまだ1年も経って
居ないのよ。一緒になど暮せるわけがないでしょう。札幌に永住する
つもりで来たのよ。」そう言う民子に慎也は車を止めた。
ドアーを開けるとそこは時計台の前だった。
緑の木々に囲まれた時計台の鐘が11時の時を告げた、
民子は身近に聞いたのは初めてである。
時計台を訪ねる余裕もなかった。
慎也の動きの、冴えた勘にびっくりするばかりだった。
ぼ~~ん ぼ~~んと、歴史を刻む深い音色が流れた。
緑の木々が揺らしながらゆったりと時計の音が耳底に
沁みて行く。
2人は静かに11の音が終わるまで聴いて居た。
慎也は静かに口を開いて言った。
「僕は来たことがないが、大学の卒論に「青年よ大
志を抱け」に着いて書いたんだよ。だから札幌の街の
地図は頭にインプットされて居るんだ。地図さえあれば
大体走れるよ。」と言って地図を出しながら今度は
羊が丘のクラーク博士の銅像のある羊が丘展望台へと
走った。
札幌市内が一望に見えた。
クラーク博士の手が遥か彼方の空を指して居た。
慎也は重く口を開いた。
「民ちゃん 僕は君と別れて1年になろうとして居るけど一日も
忘れたことはない、あの時、君と別れた意思の弱さを悲しんだ。
後悔もした。ず~っと今日の日を考えて居たんだ。
君を迎えに行こうってね。
父が死に、母に泣き着かれた弱さが君から別れる結果になった。
あれからず~っと 考えない日はない。
君と生きることを捨てたのではない。
もう一度 考えなおしてくれないか。
男は好きな人のためなら働く力が100倍も沸くだんよ。
君が僕の命の花だと知ったのだ。
信じて欲しい
迷う中かで気が着いたんだ。
離れて初めて気が着いたんだ。
遅いとは言わないで~
君は僕の全て知って居る筈だ
嘘偽りなんてないよね。
何時だって君に背を向けたことなどないよね。
何時までも待って居るよ。
夢が熟す時が来るだろう。
その時 僕と一緒に夢の続きを観ないか。
信じて何時までも待つから~
恋の街札幌の碑に僕の命を刻んで行くから~
離れてみて初めて解ったんだ。
君と一緒に生きることが生き甲斐であり生きる力だと
言うことを~・・・
勝手だと言わないで~
男の大志は好きな人と出会えることだ。
それが君なんだと知ったのだ。
君は今頃 遅いと言いたいのかな・・・
八百屋を継いで、母の想いを大切に生きるって言うことも
捨てがたかったのだ。
揺れて、迷って知った。
君が好きだと言うことを・・
このままの人生を続けることは寂しすぎる。
もう一度言うよ。
勝手過ぎると言うだろう
母とも話し合って札幌へ来る決心をしたのだ。
愛のない人生なんて無意味だと等々と叫んだ。
民子は 身動きもせず、ただ黙って聞いて居た。
君の都合も聞かずに来てしまったけど解って欲しい。
そう言って慎也は急に民子の肩を抱き唇を重ねた。
民子は慎也の手を振り切る力はなかった。
「ここから多くの青年の大志と、愛が生まれたと思うよ。」
そう言いながら慎也はもう一度民子を抱きしめた。
慎也の成すがままに 民子は体を預けた。
暫くして慎也から離れた民子は言った
「解って居るのよ。慎也さんの気持ちは解って居るの。
だけどあの別れた日から、私の生きる道が、 私の夢を
実現する方向へ変わったのよね。
解るでしょう。悲しかったわ。
でも仕方がないでしょう。慎也さんのお母さんを悲しめることは
出来なかったものね。 辛かったけど私の夢の方向に
歩きだしたわ。
それで札幌と言う遠い地を選んで来たの。
どうしても教師と言う夢は捨てられないの。
私も青年よ大志を抱けと言う、そんな夢を抱いて、
教育の道を選んだのね。就職してまだ1年も経って居ないから
ここで教師を辞めることは出来ないわ。
慎也さんの気持ちは有難いけど、急に換えられる夢じゃないのよね。」
と民子は言って慎也の方を向いた。
慎也は何も言えなかった。
時は戻らないと あの時の迷いを後悔した。
でも決心して民子への愛は変わらないと慎也は繰り返した。
そのために今ここに立って居るのだと繰り返し民子に
言った。
時計を見たら正午近くだった。
民子は準備して来たおにぎりとお茶を慎也に渡し
展望台から札幌を眺めながら食べた。
簡単な昼食を済ますと、慎也はまた車に乗り、札幌市街地に
隣接して居る もいわ 山頂駅のロープウェイまで登った。
一望に見える札幌を眼下に見下ろしながら 慎也が言った。
もいわ山展望台に「幸せの鐘」が設置されているから、その鐘を
鳴らそうと言うのだ。
慎也の気持ちを満足させたくて民子も一緒に鐘を突こうと思い
幸せの鐘を突いた。
「幸せの鐘」のフェンスには南京錠がかけてあり永遠の愛を
誓うのだと言う
愛の南京錠は、もいわ中腹駅売店で売っていると言うがそんな
暇はない鐘を打つことで、願いを込めた慎也だった。
慎也は綿密な計画で効率よく動いた。民子は慎也の想いが
ひしひしと迫ったが、ここで簡単に学校を辞めることは出来
ない・・・
慎也に向かって言った。
「慎也さんの気持ちは良く解るけど、別な道を歩もうと言うこと
を話し合い決意して札幌に来たのよね。
その想いは今すぐに変えるなんて出来ないわよ。慎也さんが
どんなにしっかりした人生の計画を立てたとしても戻れない
道を歩み始めたの。だからもう一度帰って、お互いに考えま
しょうよ。私も考えるわ。」と言うと
慎也は戻らぬ過去を悔いたのか札幌の街を暫く見詰めて居た。
幸せの鐘の音が寂しく耳に沁みるのだった。
「うん・・民ちゃんの気持ちは解る。無理は言えないよ。
家を出るときから覚悟をして居たよ。別れてからず~~っ と
考えて居た。
だが思いつきの愛ではないのは知っているだろう。
命を重ねて生きたいって考えて居たことも変わって居ない。
八百屋を継ぐと言う想いが僕の生き方を迷わせたんだ。
男は好きな人のためにはどんなことも耐えれるんだよ。
民ちゃんと離れて初めて解ったんだ。
それをしっかり確認して札幌に来たんだ。
一緒に時を重ねて生きて欲しいんだ。
それだけ伝えたくて民ちゃんの意見も聴かずに来たんだよ。
解って欲しいんだ。答えは手紙でも良いよ。
今夜の飛行機で帰るからね。夕食を一緒に食べようよ。」
そう言った慎也はレンタル会社に車を返そうと走り続けた。
その時 時刻は 午後4時30分だった。
ホテルについて時計を見たら、もう午後5時を過ぎて居た。
民子は札幌に居ることを忘れそうだった。
2人で楽しんだ現実と思い出の狭間で民子はよろけそうに
なった。
ホテルのロビーの食堂で、慎也と、民子は夕食をとりながら
別れを惜しんで言った。
「民ちゃん 僕は諦められないから来たんだ。解るだろう。
卒論は僕の人生の教書なんだ。クラーク博士の信念は僕の
人生の信条なんだよ。また連絡するから・・・」
と言いながらホテルに預けて居た荷物を貰って、シャトル
バスの発車時刻を聞いた。
これからだと午後7時に出発だと言う
発車時間を確認した慎也は、民子と一緒に札幌駅に向かった。
民子は空港まで送りたかったが、帰りのシャトルバスが心配だ
と言おうかとしたら慎也から言い出した。
「駅までで良いよ。また来るからね。」と言う声に民子は何とも
答えようがなかった。
時の流れは早い~午後7時のバス時間が来た。
慎也は一緒に連れて帰りたかった、そんな焦燥に駆られながら
民子ともう一度硬い握手をしてバスに乗った。
別れた距離はもう埋まらない、本当の想いを伝えられない
民子は悲しかった。
もう遅いんだ。それぞれ違った道を歩み出したんだよと
後姿に呟いた。
そんな民子の想いを知ってか知らずか、慎也は盛んに窓から
手を振る。
民子は何故あの時もっとしっかり話し合わなかったのかと
悔いたが、どうすることも出来ない、
自分の夢を捨てられなかったのだ。
バスの走り出した窓から手を振る慎也を何時までも見送った。
札幌の街は日本一
次の日 学校へ出勤した民子は、幸樹に深く一礼をして感謝した。
「おはようございます。金曜日の夜は勝手なお願いを したり、
その上断ったりして 申し訳ないです。お疲れだったでしょう。
遅くしてごめんなさいね。感謝しますわ。宿へもお詫びしますね。」
と民子は慎也に取り乱した心を拭い去るように、
表情を明るく造り、幸樹に話した。
幸樹は、初恋の美佳との思わぬ出会いに心の整理が出来て
居なかった。突然現れた美佳の出現は戸惑ったのだ。
だが民子は美佳のその後を聞かなかった。
幸樹も美佳のことを話すことはなかった。
授業が終わり 教室が静かになった頃、幸樹は民子の
教室に入って来た。
「民子先生 疲れたでしょう。思わぬことが続いたね。僕も
一瞬慌てたよ。」と言ったが、慎也のことは聞こうとしなかった。
民子は幸樹の気持ちを察しながら慎也の話を始めた。
「幸樹先生 実はあの人は初恋の人なの・・結婚まで考えたわ。
だけどあの人は、店を継がなければならなかったの。
それで散々話し合ったけど、私は教師を選んだのよ。
どうしても摩周湖の側で住んで見たかったの。」と話して居ると
幸樹が言った。
「そうだよ、札幌は日本国中で一番住み易い市なんだよ。
調べてごらん。住み易い市のランキング一位だよ。」
そう言った幸樹は、わが町の一番の自慢だった札幌の良さを
次々と民子にPRし始めた。
幸樹は一番聞きたい話を他所にして札幌の話を始めた。
すると民子は眉を潜めて言った。
「今度は思わぬお世話になりました。先生が居なかったら
如何しようと思ったわ。
急に来るなんて言われても札幌の知識も手がかりもないのよね。
先生に頼る以外の方法がなかったの。急に里へ帰って結婚しよう
なんて言われても困っちゃう・・・
散々話し合って結論を出して別れたのよ。
だから私が札幌に来るのには大変な覚悟が必要だったの。
過去を捨てたかったの。
勿論摩周湖の夢があったわ。それから教師の夢もね。」そう言うと
幸樹は晴々した表情に変わった。
「そうだろう、初めて学校に来た時の君の挨拶が摩周湖の
話だったよね。札幌は住み易い市なんだよ。」ともう一度
PRした。
「札幌には若者の夢があるんだよ、昨日は何処を歩いて来た
のかな。」と聞きたい話の本論に、身を乗り出して聞いて来た。
民子は時計台から羊が丘展望台に行って、もいわ山展望台の
幸せの鐘を鳴らしたことを次々と話した。
幸樹は続けて言った。
「そうだね、今度僕が案内するよ。札幌芸術の森へ
行こう。新緑が透き通る森の中に美術館があるんだ。
国営の すずらん丘陵も綺麗だよ。」と続けざまに
札幌の名所を案内してくれた。
民子はこれから 中学校の教育を担うためにはどうしても
札幌市の歴史や観光名所は知らなければならないと
思い幸樹の誘いが嬉しかった。
「幸樹先生 札幌は日本中で一番住み易いランキングで
一番と仰いましたよね。
素晴らしいですね。私は今初めて先生のお話で知りました。
もっと市内の歴史や名所を知りたいわ。是非ご一緒に体験
したいです。幸樹先生の暇な時に誘ってくださいね。」
そう民子は素直に幸樹の誘いを受け入れた。
幸樹は次の日曜日に札幌芸術の森へ民子を誘った。
恋の街札幌
運良く日曜日は晴れて居た。緑が目に沁みる爽やかな
夏の日だった。
芸術の森は、豊かな自然環境のなかにあり、
広さ40haにおよぶ敷地には 各種芸術施設が点在していて
自然のうつろいに応じて表情を変える彫刻などもあり
ゆっくりと鑑賞できるのだと説明してくれた。
緑の木々に囲まれた沼の差し掛かった頃幸樹は言った。
「もいわ山展望台も良いけど、ここも静かで緑が一杯で
素敵だろう。緑の中は心が落ち着くよね。
人生は自分が幸せにならないと人を幸せに出来ないよ。
だから教師もそうだよね。
教師と言う職業に喜びと夢があれば、生徒も習う夢と
喜びがあるんだよね。」
新人教師である民子は頷きながら一緒に歩いた。
幸樹が一番言いたいことはその次である。
「民子先生 結婚も同じだよね。
どんなに好かれても求められても、
自分が好きで幸せになれるって言う自信のようなものが
見えない時は、結婚はすべきでないよ。
自分が幸せになれる確信を掴んで決断するんだよ。
自分を大切にしてくれる。尊重しあえる人とね。」
と自信たっぷりに、自分にも言い聞かせながら
民子にも強く言った。
民子は慎也との会話を思いだして居た。
迷う愛だったのかと・・・
そう~そうなんだと、ひとつひとつ頷きながら繰り返し
慎也と歩いた札幌の展望台や幸せの鐘を突いたことを思い
返して居た。
幸樹は続けて言った。
愛の告白
「民子先生は 札幌の街に夢を咲かせたいと思って
来たんだろう・・
その夢を稔らせようよ。 この札幌野町で・・」
と迷い続ける民子の思いを追い払うように諭すように言った。
札幌から去ると言う迷いを一時も早く打ち消す
ことを願いながら、幸樹は民子に叫ぶように言った。
民子に訴えたくて空を見上げて呟いた。
リラの花咲く札幌に生きて楽しく
君の幸せを見守りたい。
若者が札幌に集まり恋を囁く札幌
そんな街を育てるために
若くて 蒼い芽を育むために、
恋の街札幌に芽吹かせようじゃないか・・
僕はそっと君のその夢を支えるよ。
学び舎の窓から若い翼を紡ぎ飛び立つ
若者を育てようじゃないか・・・
幸樹の顔は高潮して居た。
慎也の元に帰る迷いを吹き飛ばさせたかった。
君の夢が札幌に根付けば 住み良い札幌ランキング1位を
護れると信ずるよ。
恋の街 倭の恋が日本を魅了するようになるから・・・
恋する人を見つける青年を育てようじゃないか。
僕も君もね・・・。
世界に札幌の住み良い街をPRするのが僕の夢だよ。」と
慎也の熱いラブコールに負けない告白をした。
幸樹は止むことなく続けて言った。
愛の教書を持って居るかのように
蒼い札幌の空に向かって言った。
自分の信念に向かって逞しく生きよう
そして燃えに、燃えて燃え続けよう・・・
君の乳房に宿る女心を潤わす札幌の森は
緑滴る命の芸術を生むよ。
愛の芸術もね。
幸せに沿ってなだらかに曲がればよい
なだらかに人生の坂を生きよう・・
この札幌で~~
と呟きながら、民子の1歩前を歩いた。
訴えるように 優しく 顔が観ない一歩先で
幸樹は言い続けた。
民子は自然に落ち着きを取り戻し、幸樹の後を着いて
自分のこれからの人生を考えたのだ。
そして幸樹は歌った。
時計台の下で逢って
私の恋ははじまりました
夢のような恋のはじめ
忘れはしない恋の町札幌
女になる日だれかの愛が
見知らぬ夜の扉を開く
淋しい時 むなしい時
私はいつもこの町に来るの
「浜口倉之助の歌詞を一部拝借して」
幸樹は民子の想いを確かめたくて・・
羊が丘展望台のこの歌碑に来れば、燃え上がる
愛の夢の花が咲くからと言いながら・・
幸樹と民子はバスに乗って、札幌の市街まで戻った。