ヴァルシオン王国の一の花
「子供の癇癪」
「落ち着きがない」
「男だからって、それが偉いの? あんた、男の股から生まれたの? あら、スゴイ」
「知ってる? 人はね、図星を差されると腹が立つものなのよ」
「怒ってばっかりで、ご飯がお腹いっぱい食べられるなんて、素敵な商売ね。王子様!」
◇
怒りを覚えて、目を覚ます。
「‥‥‥」
勢いよく起き上がり、寝台で荒くなった呼吸を整える。
朝の目覚めとしては最悪だ。
だが、目は覚めた。はっきりと。
あの嫌な女の綺麗な唇から零れ落ちた悪口雑言を思い出して、ものすごーく苦い薬を飲んだような気分になる。
ヴァルシオン王国の第一王子イルデブランドは舌打ちをする。
「どうなさいましたか?」
すぐさま、扉越しに声がかかる。
それにも舌打ちをしたくなる。が、堪える。
「いや、夢見が悪かっただけだ」
「悪夢払いでもなさいますか?」
王族が悪い夢を見ると、悪夢払いをする。その夢が現実にならないように。だが、イルデブランドは「不要だ」と短く答える。
「しかし‥‥‥」
扉越しに言い淀む侍従に、イルデブランドは苦笑を零す。相手にはわからないように。
「いや、やはり頼む。十歳の時に木から落ちそうになっただろう? あの時のことを夢に見たのだ。悪夢払いを頼んでくれ」
王族として、神殿に少しばかりは依存しなければならない。
そう考えて、イルデブランドは悪夢払いを頼む。
――― そんな夢は見ていない。
見たのは、その後の高慢ちきな公爵令嬢との出会いだ。
確かに幼い自分は物事を知らな過ぎた。だからと言って、無知ということをあそこまで嘲笑われたことはなかった。父王が生きていれば、彼女は絞首刑にでもなっていただろう。
「‥‥‥はあ」
溜息を零す。
百花繚乱と謳われたヴァルシオン王国の後宮は、父王の死と共にほぼ解散した。その後、父王の弟が王位についたが間もなく病の床に就いた。そして、この度、子供のいない伯父に代わり自分が即位する。隣国のバレンシアガ帝国のレアンドロス皇帝よりも五つも下の十五歳での即位だ。子供にも恵まれ、満ち足りた隣国の王が欲を持たない筈がない。
考えただけで頭が痛い。
「王太子殿下」
「なんだ?」
「‥‥‥あの」
「口篭るな、さっさと言え」
夜着から着替えながらイルデブランドは命令する。小さな頃から命令することが日常だった。だから、他の言い方などわからない。
「あの、アルドロヴァンディーニ公爵令嬢が、本日ご機嫌伺いに参るそうです」
「‥‥‥そうか」
侍従が口篭った理由がわかる。
舌を噛みそうな爵位名。それを冠する令嬢の名前を聞けば、自分が機嫌が悪くなるのを侍従たちは知っている。
彼女が来るということは、午後のそのご指定の時間は、すべて彼女に捧げなければいけないのだ。
祖父王の息子‥‥‥早い時点で相続権を放棄して、公爵として立った叔父の唯一の娘。
アンナ・ヴァニア・ディ・アルドロヴァンディーニ。
本当に舌を噛みそうだ。
三年ぶりに会う、公爵令嬢。
義妹たちは一番年嵩でも十四歳。十八歳のアンナ・ヴァニアがこの国では『一の花』と呼ばれる令嬢だ。
父王は、どスケベだった。
超を頭に、息が続くだけつけても足りないくらいのエロオヤジだった。
後宮には山のように女性がいて、母も入れて確か四十二名。今なら後ろから、禿げ上がった頭を殴りつけていたかもしれないくらいの考えなしだ。
その後宮は『花の宮』と呼ばれ、女性たちはすべて花の名前で呼ばれていた。
王妃だった母は『薔薇』を与えられてご満悦だった。まあ、本心はどうだったかわからないが。その後、彼女たちの行く末に伯父と自分がどれだけ苦心したか。ああ、天上から引き摺り下ろして説教してやりたい。
話が逸れた。で、後宮が花だから、この国で一番の美人はいつの間にか『一の花』と呼ばれるようになった。
確かな称号ではなく、その外大勢の客観的なものなので年々変わっていく。去年もアンナ・ヴァニアだったが、二年前は王都に住む踊り子の女性だったはずだ。
――― 綺麗な女性と話をするのは、嫌じゃない。
そう、自分も言葉を薄い膜で覆う技術を取得したのだ。
嫌じゃない。
嫌じゃない。
そう、嫌でもないが、好きであるわけでもない。正直避けたい。
特にアンナ・ヴァニアのような気の強い女との会談など、放り出して馬に乗って遊びに行きたい。
ああ、しばらく乗馬してないな。
愛馬ラヴィーナの毛づくろいは欠かさずしているが‥‥‥
イルデブランドは溜息を飲み込んだ。
早く、心安らかに過ごせる日は、来ないのだろうか‥‥‥
◇
「お久し振りですわね、殿下」
優美な女性が淑女の礼をする。
この国で、国王が病の床についているので今は自分が一番の位だ。だが、イルデブランドは慎重に騎士の礼をとる。遜っているのではない。『一の花』である女性に膝を付くのは男にとって不名誉ではないからだ。
さっさとその『一の花』の称号を返上して欲しい。
手の甲にくちづけて、礼儀どおりに彼女を席に導く。
「ありがとうございます」
というやわらかい微笑みに瞬きする。
――― あの悪口雑言娘と同一人物か?
目がおかしくなったかもしれない。
身体検査でもした方がいいのだろうか。心配だ。
「突然でしたのに、お時間を作っていただき、ありがとうございます」
アンナ・ヴァニアは恥ずかしげに笑みを浮かべて小首を傾げる。
その仕種に頬を抓りたくなる。
だが、出来ないので変わりに手の甲を抓ってみた。
痛い。
自分は正気らしい。
そんな自分の様子を見て、アンナ・ヴァニアは苦笑を零した。
「まずは殿下に謝罪をさせていただきたいの」
「謝罪?」
「以前にわたくしは、殿下に家臣としてあるまじき口答えをいくつも致しましたわ」
「それは謝罪には及ばぬ。余が図体の大きな幼児だっただけだ‥‥‥子供ではないと、今はまだ言えぬがな」
謝りそうな彼女を止める。
なにも理由がないのに『一の花』に腰を折らせるわけにはいかない。
そんなことをさせたら後が怖い。
賛美者ほど怖い者はない。
「まあ、殿下の広いお心に感謝するばかりですわ」
ぞっ!
今、背筋になんか走った!
悪寒か? 風邪か?
いや、原因はわかっている‥‥‥
――― なにか悪いものでも食ったのか?
そう言いたい。
だが、言えばどんな舌禍を招くかわからない。
彼女に『けちょんけちょん』に貶されて、話のわかる近衛騎士に協力してもらっていろいろと対応を練ってきた。思ったことをすぐに言わない訓練。頭の中でやさしい言葉に言い直す訓練。『お嬢様言葉のすべて』などという本を読んでまで勉強したのだ。
「令嬢が気に病む必要はない。余はあなたのおかげで目が覚めたのだ」
今日の朝は。
そう、心の中で付け加える。
内心など押さえつけて、浮かべるのは微笑。
前出の近衛騎士と『王子様のキラキラ笑顔』を練習したのだ。鏡を見て、げっそりしながら。成功していて欲しい。
「まあ、ありがとうございます」
令嬢の華やかな笑顔と安堵の言葉。
そして、しばらく沈黙が落ちる。
沈黙。
さらに沈黙。
えーと、話題がない。
もっと早くからわかっていれば対応策を整えておいたのに!
カップに口をつけて話題を探す。
すると「疲れない?」という小さな声が聞こえてきた。
ふっと顔を上げれば、悪戯っ子のような笑みがあった。
「あんたの位置からだとカップに口をつけているその格好なら、これくらいの声の大きさなら周囲には聞こえないし、口元も読まれないわ」
彼女は淑女の嗜みとして、遠い昔に東方から伝来した華やかな扇子を手にしている。
いいなあ、女性は。
と、思うと共に『あんた』という言葉使いに瞳を丸める。
「成長したじゃない、イルデ。あたしのことなんか嫌いでしょうに、一般人だったらわからないくらいに、その嫌悪を隠せるようになったなんて偉いわ」
ふふっと微笑まれる。
その言葉にむっすりと顔が動こうとするが、根性で押さえ込む。
「アルドロヴァンディーニ公爵令嬢。チャンベッレはいかがですか? 今日のは料理長が干しぶどうをたくさん入れてくれたのです」
「まあ、おいしそう」
アンナ・ヴァニアはにっこりと微笑んで、小さな口でぱくりと食べる。
「こんなの、本当だったらみっつくらい一口でいけるのに」
子供のような口調に、ふっと息が零れる。
「笑った!」
嬉しそうな口調にイルデブランドは瞳を丸めた。
彼女は口調と同じように、嬉しそうな表情を浮かべていたから。
「ヴァニア?」
「名前!」
また笑う。
明るい笑顔に息を飲む。
カップで口元を隠して、アンナ・ヴァニアは目元でも笑う。
「やっぱり、謝るわ。ごめんなさい。昔、あなたに八つ当たりしちゃったの。お父様が五人愛人作ってたのがわかって、隠し子も大中小たくさんいることがわかって、荒んでいたのよ、あの頃。今更、謝られてもって思うでしょうけど、縁談があなたの手元に届く前に、どーーーーしても謝りたかったの」
縁談?
イルデブランドの動揺など知る由もなく、彼女は優雅にカップに口をつける。
「五人か‥‥‥」
「まあ‥‥‥でも、四十二名よりは、マシかしら?」
肩を竦めてアンナ・ヴァニアは微笑む。
イルデブランドは苦笑を返す。
「数は‥‥‥関係ないよ。裏切りは一度でも複数でも、罪としては同じだと‥‥‥僕は思うから」
慰めなんかじゃない。
これは心の底からの気持ち。
頭の中で、王族や筆頭貴族なのだから跡継ぎを設けなければいけないというのはわかっている。だが、それは跡継ぎが生まれなかった時に対処するればいいのでは? と思うのは自分が子供だからだろう。
「うん、ありがとう」
アンナ・ヴァニアはイルデブランドを真っ直ぐに見つめて、大人びた微笑を浮かべる。
「近日中に、野心を隠しきれない愚かな老人から、縁談が持ち掛けられると思うのだけれど、断ってくださいな。あなたは、もっと可愛くておとなしくてやさしい子と、思い合うような政略結婚が出来ると思うの」
隣国の皇帝のようにね。
乙女のような夢見る顔で、アンナ・ヴァニアが呟く。
――― じゃあ、ヴァニアは?
思わず浮かんだことに、自分で吃驚する。
「ヴァニアは?」
頭の中でしっかりと考えて、そして口にした。咄嗟に思ったことを。
「え?」
「ヴァニアは好きな人がいるの?」
三歳年上の従姉。
十歳の自分から見れば、十三歳のアンナ・ヴァニアは神々しささえあった。そんな美少女の口からぽろぽろ零れ落ちた悪口雑言。
今だったら、近衛騎士のにやにや笑いの意味がわかる。
僕は、彼女のことを好きだったから、悪口を言われて腹が立ったんだ。見返してやろうと思ったんだ。
素直に謝る彼女を見て、自分の思いを認めてもいいような気がした。
「僕が‥‥‥たくさんの縁談の中から、あなたを選んだら」
「選んだら?」
「あなたは、笑ってくれる?」
アンナ・ヴァニアは瞳を丸める。
そして小首を傾げた。
「あたし、昔のあんたに相当酷いこと言った気がするんだけど‥‥‥イルデって被虐趣味があるの?」
無邪気な質問は、内容は無邪気でもなんでもなかった。
「‥‥‥僕以外には、あなたはやさしかったじゃないか」
つい子供の口調に戻って、そっぽを向いてしまう。
子供心に傷ついたのだ。他の兄弟にはやさしいのに、自分にだけ厳しいことを言うほど、彼女は自分のことを嫌っているのだろうかと考えて。
「だって、この本性知ってるの‥‥‥侍女のピアとシラ以外は、イルデだけよ」
アンナ・ヴァニアも頬を染めてそっぽを向いてしまう。
その様子が年上とは思えないほど可愛らしくて、顔を戻してその表情を見たイルデブランドは破顔する。
「ねえ、笑ってくれるの?」
つっとアンナ・ヴァニアはイルデブランドの顔を見やる。
そしてじとっとした瞳で見つめると、カップに手を伸ばした。
「僕、浮気はしないよ。後、とりあえずは贅沢はさせてあげられる。まあ、この国、実は貧乏だから限度があるけれどね」
アンナ・ヴァニアは顔を真っ赤にさせて俯いてしまう。カップを大慌てで戻したので硬い音が響く。
「‥‥‥キラキラ王子って、噂。田舎まで届いてるけど、嘘じゃなかったのね」
悪態をついているのだろうか。でも、切れ味がない。
「そうなの? あなたのために始めたんだけど」
嘘じゃない。
そう言えば、アンナ・ヴァニアは真っ赤な顔をゆっくりと上げた。
泣きそうな顔が恨めしそうに見上げてくる。
つい顔が綻ぶ。
僕は、きっと数ある縁談の肖像画から『一の花』を選ぶだろう。
国内の有力貴族から選んで、国政の安定をまず図るのが目的だから。
そんな、言い訳をしながら。
(もっと、いい男にならなくちゃ)
イルデブランドが鍛錬にも力を入れるようになったのを知って、近衛騎士がにやにやしながら王子をからかい、王子が真っ赤な顔で叫んでいたのは瞬く間に国内に広がった。
新王が即位して、ヴァルシオン王国は平和を目指し始めた。
その王の隣には『一の花』と呼ばれる王妃が生涯寄り添っていたのは有名な話。
おしまい