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君は知らない

作者: 月森朔
掲載日:2026/08/21

 どくん。どくん。

 心臓って、左の胸にあるはず。それなのに、あの時、はっきりと頭の真ん中で聴こえたんだ。心臓が高鳴る音が。


 *


 期末試験も終わり夏休みが目と鼻の先までやってきた頃。雲ひとつない青空が広がる炎天のある日。

 放課後のグラウンドでは、むせ返るような暑さにも負けず夏の大会に向けて練習する運動部のかけ声が飛び交っていた。

 そんな青春の光景から切り離されたかのように、辺りは静寂に包まれていた。


 僕が通う中学校は、正門をくぐると右手にグラウンドが広がる。照り付ける太陽より熱く汗を輝かせている彼らを横目に真っ直ぐ進むと、突き当りにあるのが各学年の教室が入る南棟。この学校のメインとなる大校舎だ。

 その大校舎をそのまま通り抜け、裏手に出ると、理科室や音楽室などの専門的な教室がまとめられた北棟に辿り着く。

 僕がいるのは、その北棟のはずれにひっそりと居を構える図書室だ。ひっそりとし過ぎて生徒たちに忘れ去られていないか心配になるくらい、ここはいつ来ても人の気配がない。

 僕は放課後、そこで絵を描くことを日課にしていた。


 まだ保育園に通っていた頃、大好きな先生がいた。その先生が、僕の描いた絵を凄く褒めてくれた。そんな単純なことがきっかけで、僕は絵を描くことが好きになった。

 それ以来、僕は様々な絵を描いてきた。時には、一枚の絵から想像を広げてストーリーを考え、漫画を描いてみたこともある。

 絵は自由だ。たった一本のペン、それと想像力さえあればどんな世界だって生み出せる。まるで魔法使いや神様になったみたいだ。

 だけど、そんな風に思う人は周りには全然いないみたいで。教室で一人で絵を描いていると「変な奴」「あの子暗いよね」と後ろ指をさされて笑われた。人前で絵を描くことは怖かった。

 だから、人気のない図書室が僕の住処、心おきなく絵を描けるオアシスになっていた。


 できた。渾身の出来だ。

 砂漠の国へ迷い込んだ主人公が、目の前にそびえ立つ砂上の城を見上げている。

 描き上げた一枚に満足しながら、さぁ、ここからどんな展開になるかな、次はどう描こうかな、と考えていた僕に、頭上から声が降ってきた。


「何描いてるの?」

「うわっ」


 誰もいないと思っていた僕は、驚いて叫び声を上げてしまった。顔を上げると、女の子が横に立って僕が描き上げたばかりの絵を覗き込んでいた。同じクラスの人ではない。知らない子だった。

 咄嗟に思った。あぁ、また笑われる。心臓がきゅっと縮こまる音が聞こえた気がした。

 固まってしまった僕を気にするでもなく、その子がまた口を開いた。


「うわぁ、すっごく上手い。綺麗なお城だね」

「…えっ?」

「これ、あなたが描いたんだよね?」


女の子が少し首をひねって僕を見る。彼女の髪が肩からさらっと流れるように落ちて、柔らかな香りが舞った。ふたりの目が合った。


「…う、うん」

「すごいよ。イラストレーターみたい」


 その子は、目を輝かせてそう言った。

 僕は唖然としていた。学校の人に褒められるなんて、初めてだった。


「あなたの絵、好きだな」


 どくん。

 息が止まったかと思った。

 次の瞬間、心臓の鼓動が狂ったように暴れ出した。

 頭の真ん中で、どくん、どくん、どくんどくんどくんと何かが溢れるように高鳴る音が繰り返していた。


 *


 その日から、時々彼女が図書室にやってくるようになった。

 図書室の本を読んでいる時もあれば、参考書を広げている時もあった。

 特別会話を交わすわけでもなく、でも、時々僕が絵を描く様子を眺めてはにこにこと笑った。完成した絵を見ては、きらきらとした瞳で褒めてくれた。


 そんな時、静寂に包まれたはずの図書室が、決まって騒がしくなった。

 どくん、どくん。どくんどくん、と。

 ひっそりとした図書室に脈打つこの音を、きっとまだ君は知らない。

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