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光彩鑑定士 志野 凛生  作者: ペンタコン


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3/3

絶えゆく光

 高根沢家の応接間は、古い漆の香りがした。ガラス戸越しの庭石に朝の光が乗り、室内の埃がゆっくり漂う。名家とはこういう空気のことを言うのだろう。僕——志野凛生は、上品な鼠色の茶器を手にしながら、真正の家系灯か否か、その証明書が求められている事情を聞いていた。

「相手は大手コングロマリットのCEOでしてな。タキザワ・ワタル氏。家系の正統性を、科学的に、と」

 父の高根沢ヒロムは言葉を選んだ。僕は頷き、タブレットを開く。

「遺伝情報だけでの判定はできません。家系灯の系譜に使われた創世期の胚導入カセットは、親系統ごとに微妙に異なるマーカーを持っていましたが、いまは偽装もマーカーもいたちごっこです。ゲノム上の“家系識別子”を模倣するフェイク・イントロン、合成シグナルペプチドの擬装、位相の違うCpGメチル化パターンまで再現するリライターが市場に出回っている。遺伝子座を覗いても埒が明かない。だから僕らは『光』そのものに当たります」

 僕は指で中空に浮かべた光学図を拡大する。

「分光特性、時定数、ノイズ。家系灯は“環境駆動”が強い。微照度変化への追従は遅く、蛍光タンパク質群の立ち上がりはシグモイドで、立ち下がりにヒステリシスが出る。呼吸や瞬きに応じた低周波の揺らぎ(0.1〜0.3Hz帯)が、血流と同期してわずかに乗る。パッチ灯はここが違う。外部同期やベクタ由来の周波数成分が混じり、過渡応答が速すぎる。それから——」

 扉が開いた。娘のサヨコが入ってくる。静かな顔立ち。鎖骨に薄く、桔梗の紋が灯る。たしかに、古い良家の光だ。透明度が高く、濁りがない。けれど、違和感がある。あまりにも、静かすぎる。

「鑑定をお願いします」父が促すより早く、サヨコが僕をまっすぐ見た。「どうか、よろしくお願いします


「偽物だと鑑定を出してほしい」

 僕の部屋を訪れたサヨコが言った。

 同席していたミオが小さく息を呑んだ。今日はオフだと言って、彼女は僕の隣に座っている。モデルの彼女は、家系灯に憧れを抱きつつ、パッチで自分の光を選んだ人だ。「本物を、一度近くで見てみたかったから」というのが同行を願い出た理由だった。

 サヨコは鎖骨にそっと触れてから、言葉を続けた。

「この光を、美しいと思ったことがないんです。大人たちは皆、この桔梗を褒めそやし、私にふさわしい生き方を求めました。でも、私には、鳥かごのようなものなんです。私を光子の中に押し込めて、息をさせない鳥かご。夜十時、消灯令でこの光を消す瞬間、本当の自分に戻れる気がするんです」

 ミオが眉根を寄せる。僕は測定器を準備した。低照度の連続スペクトル光を当て、反射・蛍光の波形を取る。ルシフェリン由来の微香、皮膚表層の散乱係数、温湿度の変化に対する応答。結果は明瞭だった。

「スペクトルは自然。青域から緑域にかけての肩が古典的な家系灯のそれ。立ち上がりの緩さ、呼吸と同期する微揺らぎ、すべて『生まれ灯』の指紋です」

 なのに、違和感が抜けない。瞬きしても、息を小さく飲んでも、その光は湖面のように揺らがない。値としては揺れているのに、全体が“揺らがない”印象だけが残る。この感じ——僕はある光を思い出しかけて、その名を飲み込んだ。


 その夜、僕はクラゲ横丁の小さなライブハウスにいた。雨のにおいがまだ床に残り、天井のLEDがクラゲの膜みたいに明滅する。名もない若い男が、声を張り上げていた。腕に灯るのは、誰が見てもノイズだらけのパッチ灯。波多野の店で以前、彼は笑って腕を突き出した。

「俺はこの光が、俺自身のモンだって証明したくて生きてんだ」

 その光は荒削りで、火花のように散る。音に合わせて明滅し、鼓動に同期して脈打つ。洗練から遠いのに、観客の網膜を掴む。彼が一節を絞り上げるたび、光は汗と同じ速度で粗く変調し、ノイズが生き物みたいに踊る。美しさの定義が、観客のなかで毎秒書き換わっていくのがわかる。

 ふと、客席に見覚えのある横顔を見つけた。サヨコだ。昼間の彼女とはまるで別人みたいに、手すりを握り、身体を前のめりにしている。瞳孔が開き、頬が紅い。彼女の桔梗が、いつもより微かに粗くゆれたように見えた——いや、見えた気がしただけかもしれない。終演後、彼女は会場の外で、その若者と笑って話していた。あの静かな家の空気から、一歩も二歩も遠い場所で。


 翌日、僕は再び高根沢家に向かった。データは揃っている。判定は容易だ。けれど、言葉は難しい。

「結論から申し上げます。真正——ただし、『死光』です」

 父のヒロムが顔を上げた。「しこう?」

「この光は、あなたの娘さんで世代が終わると予測されます。家系灯は本来、遺伝的には子へ伝わるはずの設計でしたが、長期の世代交代のなかで、表現型を安定化させるはずの制御配列が摩耗します。発現カセットのシルエンサー領域に起きた微細な変異、折りたたみの補助タンパク質の不足、エピジェネティックな沈黙化。解析した波形から推定すると、発光の“ゆらぎ”のエネルギーが遺伝子ネットワーク全体にうまく拡散せず、次代で閾値を超えない。だから、この光は、彼女の代で終わる——死光です」

 ヒロムは蒼くなった。「タキザワ氏が、これを受け入れるだろうか……」

「受け入れるかどうかは、相手の度量次第です。でも、鑑定は覆りません」

 ヒロムは紙を持つ手を震わせた。桔梗の家は、次代に続かない。ステータスは、終端を知った。だが、サヨコは穏やかに立ち上がった。

「ありがとうございました」

 帰り際、玄関で彼女はつぶやくように言った。

「この光が、終わるなら——終わる前に、私のものにしたい」


 その夜、僕はミオとクラゲ横丁に出かけた。

 通りは、まだ夕方の湿り気を残していた。波多野の店の奥、ショーケースの上に、薄いトレーと琥珀色の小瓶が並ぶ。

「ちょうどいいところに。新しいのが入った」

 波多野が薄いパッチを指で持ち上げる。名刺半分ほどのサイズ、縁だけがわずかに青く光る。

「“スロウ・ゲート”。遺伝子回路じゃなくて、上物の機械式。皮内に浅く貼って、微小ポンプとマイクロレンズで光を散らす。売りは三つ。ひとつ、基質の匂いがしない。匂いは嫌でも鑑定士に拾われるだろ。これは基質をマイクロカプセルに封じて、開く瞬間だけ露出させる。鼻をごまかすんじゃなくて、匂いが出る時間を徹底的に短くするやり方だ」

「二つ目は?」と僕。

「本人の“二段合図”でしか開かない。例えば舌タップ二回+顎の角度。笑顔や音同期は拾わない設定にもできる。外からの同期で過駆動になって倒れる、っていうアホな事故を減らす。これはミオちゃん向きだな」

「やだ、私そんなにアホみたいに笑ってないよ」ミオが肩をすくめる。「でも“二段合図”いいね。瑠璃に勧めたい」

「三つ目は光の“粗さ”。」波多野は店内の照明を落として、小瓶の栓をわずかに開け、パッチに一滴触れさせる。微かな光がじわりと広がって、粒子のように散った。「昔の家系灯は環境の揺らぎに従う。最近のパッチは滑らかすぎて、逆に嘘っぽい。だからあえて、呼吸や脈の低周波に応じて、光点を“粗く散らす”アルゴリズムをのせた。ノイズじゃない、ゆらぎとしての粗さ。これがあると、演者の“生きてる感じ”が出る」

「ねえ凛生、今の聞いた?“粗いのが美徳の時代”だって」ミオが笑う。「スキンケアもズボラの私、実は時代の最先端かも」

「それは違うと思う」僕は咳払いした。「粗さの話は、制御の話でもある。雑なのと、生きてるのは違う」

「ほら、すぐ真面目」ミオは僕の肘を軽くつつく。「でも、分かる。息で光が揺れるの、好き」

「注意点もある」波多野が現実に引き戻す声で続ける。「“スロウ・ゲート”は便利だが万能じゃない。表示義務は前と同じ。消灯令の時間も守る。調整は店じゃなくて、提携クリニックでやる。リモート不可、本人合図のみのプロトコルA。で、これは“足し算”の道具だ。本物に見せる小細工じゃない。使い方が下手だと、ただの眩しい板切れだ」

「“眩しい板切れ”って、新しい悪口?」ミオが吹き出す。「彼氏に言ってみようかな。あなた今日、板切れみたいだねって」

「やめとけ」僕は即答した。「人間関係にノイズが乗る」

「ノイズ、欲しいけどね。美しい鳥かごに入ってる子には」ミオはふっと真顔になって、ショーケースの縁を指でなぞった。「ね、凛生」

 僕は頷いた。粗さは欠陥じゃない。生きている証拠だ。波多野は新商品のケースを閉め、軽く指で叩いて音を確かめる癖をつける。

「必要になったら持っていけ。使い方は、ちゃんと選べ」

 ミオがそっと僕を見る。「ね、死光の話……あれ、真実なの?」

「真実だ」と僕は答える。「だが、真実は見る角度によって色が変わる。色も輝きも」

 僕は言いながら、窓の外に視線をやった。クラゲ横丁の角で、昨夜の若者と楽しそうに話すサヨコを、僕はスマホの画面で拡大してミオに見せる。それを見てミオが小さく笑った。彼女の笑いは、最近、僕に向けられるときだけ、ほんのわずか長い残光を引く。本人は気づいていないだろう。


 実は今回の鑑定にはかなり時間がかかった。僕は光の違和感の正体を追いかけた。家系灯が「静かすぎる」とはどういうことか。分光は正しい。時定数も孕みも家系灯の範囲内。それでも、あの湖のような静けさ——。

 ノイズだ。僕は気づいた。生きた光には、微細な“不均一さ”がある。環境光のフリッカ、心拍の乱れ、筋電の微干渉、目に見えないくらいの粗粒が、全体に薄いざらつきを与える。サヨコの光には、それがほとんどない。完全に上品すぎる。完璧に整えられた骨董の表面のように。もしこれが人工的なノイズリダクションなら、どこでかかる?遺伝子の話ではない。生活のプロトコル、あるいは——感情。

 夜十時、消灯令の推奨時刻にサヨコは毎晩、桔梗を落とすと言った。消える瞬間だけ、自由になれる、と。つまり、彼女は日中の自分のすべてを、光に献上している。呼吸さえ、乱さないように。完璧な娘としての姿勢筋、完璧な発声、完璧な歩幅。彼女の生活のアルゴリズムが、光のノイズを一掃してしまっているのだ。

 僕は鑑定書の「所見」に一文を添えた。——本光は真正の家系灯であり、環境・生活習慣により揺らぎが極小化されている。表現型は、持ち主の意志により変容可能、と。


 クラゲ横丁のライブハウスに、再びサヨコの姿があった。若い男のノイズ混じりの光に、彼女は笑っていた。ほんの少し強く。桔梗の揺らぎが、やっと、乱れた。乱れは、欠陥じゃない。生きている証拠だ。10時の消灯推奨時刻を過ぎているのに、彼女は光を消していない。

 ミオが僕の袖を引く。「ねえ、終わったらラーメン行こうよ?」

 僕は頷く。サヨコは、鳥かごの外に片足を出した。骨董品の光は、今、この瞬間だけ、ガラクタみたいに輝いている。誰かの物差しのためではなく、自分のために。


 鑑定士の印は重い。けれど、光の定義は、いつだって人の側で変わる。真正か偽か。家系かパッチか。継がれるか終わるか。どれも大事だ。だが、いちばんの問いはもっと単純だ——それは、あなたの光か?

「ねえ、何ぼんやりしてるのよお」

 ミオが僕に微笑みかけている。頬に入れてもいないはずのオレンジが、僕の目には確かに滲んだ気がした。


今回はCodexを使って書きました。

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