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光彩鑑定士 志野 凛生  作者: ペンタコン


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2/3

遺伝子で微笑む

夜の街で働く人の身体は、ときに広告に見なされる——キャバ嬢瑠璃は移籍か現状維持かの選択に揺れながらも、客の下心さえ利用し、自分の夢を追う。施術は専門クリニックで、発光は本人の合図でのみ作動。瑠璃を気遣うミオの依頼で、交際鑑定士・志野凛生が動く。

 ミオの部屋には鏡が三つある。姿見、卓上ミラー、そして窓ガラス。夜の街の灯りまでが鏡に反射して、少しずつ形を変える。

「移籍したら、右の頬にオレンジ入れてくれるって」

 ベッドの端に座ったまま、瑠璃は言った。ミニスカートからのぞく左腿には、青のラインが静かに走っている。二年前、渋谷の光彩クリニックで施術を受け、皮膚の浅い層に、青域発光の遺伝子回路を導入した。呼吸に合わせてゆっくり脈打つその光は、体温を目で確かめるみたいに落ち着く。

「お客さんの負担で入れてくれるって言ってるの。“顔で持ってくタイプ”にしてあげるってさ」

 笑って見せるが、目は笑っていない。

「やっぱり顔は不安よね?」ミオはさりげなく尋ねる。

「ナンバーは結構目立つとこに入れてる子多いから迷うんよね」

 瑠璃は歌舞伎町のど真ん中にあるClub Lapisの人気嬢。ミオとは夜の仕事をしていた頃からの親友だ。Club Lapisはフロア100席、たくさんのキャストと派手な集客イベントで人気の店だ。彼女は客から頬にオレンジの光を入れるのと引き換えに隠れ家的な人気を誇るアジュールへの移籍の誘いを受けていた。高級住宅地寄りの、路地に入った小箱だ。客は常連と紹介がメインだと瑠璃は言う。

 彼女は移籍への不安と同時に、頬に入れるオレンジの光に抗えない魅力を感じているようだった。

 ミオはカモミールティーを瑠璃の膝側に置くと、耳の後ろで髪をまとめる手を止めずに訊いた。

「そのお客さんって信用できるの?」

「私のいちばんの太客だよ。投資をしてるって。みんなから"先生"って呼ばれてる」

 その客が別の店に瑠璃を誘っているのは彼女をよっぽど気に入っているからだろう。小箱への誘いには客の下心も垣間見える。大丈夫だろうか、とミオは少し心配になる。 

 テーブルに、透明な名刺大のカードが一枚。"先生"が手配したアジュールの提携クリニックの前診断カードだった。角をひねると、橙色の比色スケールが現れ、肌の色味と反射を測ることができる。

 そこへ玄関が開き、志野凛生が入ってきた。ミオが来てくれるように頼んだのだ。凛生は靴を脱ぎながら空気の味を確かめるように宙をあおいだ。前診断カードを手に取り施術プランを確認する。

「オレンジは似合う。けど、頬は“外からの同期”で過駆動になりやすいから遺伝子回路の設計をちゃんと選ばないと。大頬骨筋のシグナルで微小ポンプを解放する回路を組めば、“笑った時だけ内側から滲む短残光”にできる。基質は少量、意志による自己オフが容易。どう?」

「……そんなふうにできるの?」

「クリニックと組めばね。僕はクリニックと発光の設計に関する打ち合わせに同席する。現物いじりは向こうのクリーンルームの仕事」

 ミオは凛生の存在をとても心強く感じる。


 光彩クリニックの受付は、清潔な水音がする。観葉植物の緑。そして“導入は予約制・術後48時間は発光禁止”の掲示。瑠璃は問診票にチェックをつけ、過去の施術歴(左大腿・青域)と消灯令の遵守を記入する。血液検査、皮膚の小片の採取。医師は画面に回路図を出した。

「右頬の橙域発光は、真皮浅層の線維芽細胞に蛍光タンパク質+ルシフェラーゼ系の遺伝子カセットを導入します。編集はクリスパー、運搬はAAVベクター。ただし“常時点灯”にはしません。凛生さんの提案どおり、笑顔の筋電で微小ポンプが基質を一瞬だけ解放、短残光で引く。リモート制御は不可、本人の表情信号のみで動くプロトコルA」

 白衣の袖口からのぞく左手首が青く発光し、埋め込みのフォトマスクに沿って“10:14”が現れる。LED照度でも読み取りやすいその表示精度が、どんな高級時計よりも、この医師の腕前を証明していた。

「術後、腫れが数日。48時間は表情を抑えて、完全消灯。基質の補充は当院のみ。そして表示プレートの掲示は推奨です」

「顔はイベント時のみ点灯。その点はお客さま側にも伝わるように」と凛生が瑠璃の目を見ながら続ける

 瑠璃が頷き、タブレットで同意書のチェック項目を読み上げる。遺伝子導入の可逆性はないこと、発光は本人の選択で発動する設計であること、緊急時オフ手順。すべて、瑠璃は自分の声で読んで、署名した。


 施術室は、音が少ない。天井のライトがやわらかく、消毒の匂いが薄い。局所麻酔のひんやりとした重みの後、マイクロニードルの気配が頬に散る。痛みは、細い針金が皮膚の下で糸を通すような、遠い感じ。医師の声が、遠く近くを往復する。

「導入、完了。回路チェックに入ります。筋電パッドで笑顔のしきい値を測り、基質ポンプを“二拍で解放、一拍で閉じる”に設定……」

 凛生がモニタの波形を見て、静かに言う。

「“良い笑い”のときだけ、残光を半呼吸分長くください」

「了解。短残光+0.5拍でプログラム」

 鏡の前に座る。いまは発光禁止だから、光そのものは点かない。それでも、頬の奥で、回路が“待っている”感じがする。薄い小箱にしまわれた夕焼けの気配。看護師が冷却パックをあて、術後の注意をもう一度読み上げる。

「長時間の会話は控えて、強い笑顔は二日間だけ我慢してくださいね。オフの練習は三日目に当院で。家庭での調整はできません。安全のため、調整はすべて院内で行います」


 三日目の再診。小さな診察室に“オフ訓練”の札が下がる。鏡の前で、緊急オフ手順——舌で口蓋を二回タップ→顎を軽く引く→息を静かに吐く。それだけで、基質ポンプが強制停止する。

「では、テストしましょう。イベント時のみ点灯のモードで」

 医師の指示に合わせ、瑠璃は笑った。オレンジが、頬の内側から滲む。短残光でやわらかく引き、腿の青色の発光が反応してわずかに光度を増す。続けて笑いをやめる。光は息を吐くみたいに収束した。モニタで凛生が波形を見守り、残光を心拍の二分の一に微調整するよう医師に指示する。

「すごくいい。常在光じゃなく、今ここだけを映す光になった」

 帰り際、受付でアクリルの小さなプレートを受け取る。

『顔はイベント時のみ点灯します 制御:本人の表情信号/リモート不可』

 ミオがペンで、文字の下に細い線で瑠璃の似顔絵を描き足す。頬に淡いオレンジのラインを滲ませる。

「可愛い」とミオが言う

「可愛いは、強い」と瑠璃が自分に言い聞かせるように呟く。


 施術をして初めての出勤の夜。グラス棚の光とスピーカーの低音。瑠璃は太腿というにはあまりにも細い左脚の付け根、スカートからわずかに覗く部分に青い光を走らせ、カウンターに立つ。若い客がスマホ越しに言う。

「ねえオレンジ、見たい!」

 瑠璃は曖昧に笑って「今日はまだダメよ」と軽くいなす。今日はイベントの日ではない。持っているのに、見せない。選べるということは、贅沢だ。

 遅い時間になって奥の個室に呼ばれる。行くと、“先生”が、軽く手を上げる。白髪が多いけれど、目が若い、物腰の柔らかな紳士だ。

 喉が乾く。青い腿が少し早く呼吸するように明滅する。

「オレンジ、見せてくれる?」紳士がその青い光にチラリと目をやって微笑んでから瑠璃の目を見て言う。

 強制ではない。でも、拒否できる雰囲気でもないし、むしろ見せたくもある。鏡の前で何度も練習した合図を思い出す——笑う。ただ、それだけ。個室なら問題ないだろう、と瑠璃は判断する。

 笑う。頬のオレンジが内側から薄く滲む。基質ポンプが二拍だけ開き、回路が短残光で小さく余韻を残す。グラスの縁で反射して、部屋全体が夕焼けの欠片を手に入れたみたいに見える。男が息を飲んで瑠璃の美しい顔を見つめる。

 瑠璃が笑いをやめる。右頬の光は、息を吐くように引く。

「いいね、それ」

 男は言う。「君が笑ったから灯って、やめたから消えた。キミの美しさと呼応している」

「ありがとうございます」

「移籍するにしてもしないにしても、“そのやり方”を続けられるなら、年間で押さえよう。君の時間を買いたい」

 瑠璃は何度も練習した緊急オフのジェスチャを行う。舌で二回タップ、顎を引く、吐く。すうっと光がさらに減弱し、そして完全に落ちる。

 左腿の青い光は、最初に自分で選んだ灯りだった。客単価や写真映えではない。夜が怖い季節があって、そのとき、誰にも頼らず自分を落ち着かせる手段が欲しかった。青は、呼吸の替わりになってくれた。——だから、多分、青は自分のための光。右頬のオレンジは誰かに差し出す光。両方が自分にあるなら、とても心強い。もっともっと上へ行ける気がする。


 閉店時間が近づくと、店は音を落とし、グラスの音が際立つ。時計の針が静かに進む。消灯令の前、彼女は化粧室の鏡をのぞき、問題がないことを確認する。腿の青は薄くするが完全なオフにはしない。夜道でふと不安になったとき、その灯りが自分の居場所を教えてくれるように。

 帰り道、風が湿っていた。信号待ちの群れの中で、彼女の青は見えたり見えなかったりする。ミオと凛生が少し後ろを歩く。

「ねえ」

 信号が変わる直前、瑠璃は振り返らずに言った。

「移籍、やっぱり、しないことにする。先生もそれでいいって言ってくれてるし」

「うん」

 ミオの返事は短い。男の言ったという年間で押さえるという言葉に不安を感じる。瑠璃を自分だけのものにしたいということだろう。でも瑠璃だってそんなことは分かっている。相手の下心を利用しながら駆け上がっていくのが夜の世界だ。凛生が間に入って指示を出してくれたおかげで、瑠璃は客の予想を超える魅力のある光を放ち、移籍の話はなくなった。瑠璃には派手な大箱が似合う。少なくとも今は。

「正解は、毎晩変わるさ。賢く生きていけばいいよ」

 凛生の声は柔らかい。「光を操るのはいつだってキミ自身さ」

 青が、彼女の左の腿で一度だけ強く脈打った。信号が変わり、人の群れが歩き出す。彼女は緊急オフの手順を心の中でなぞり、基質の残量表示を確かめ、街の中に消えていく。灯りは少しずつ形を変える。鏡に映る自分も、少しずつ変わる。大切なのは光をコントロールする権利が常にこちら側にあるということ。それだけで、夜は十分に明るくなるのだ。

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