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男村  作者: 五郎八まなみ
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諦めるには早すぎる

 元に戻ることをあきらめたわけではなかったが、すぐに戻れないのなら戻れないで、その生活を楽しむことも考えなければいけない。

 聖のいいところは、気持ちの切り替えが早いところだ。失敗をしてもいつまでもグズグズと思い悩むことはなく、すぐに立ち直る。

 物事に行き詰まると、執着などせず、さっさと目の前のことに見切りをつけて別の手立てを考える。

 だが、それは欠点でもある。最後まで努力をしないで、途中で投げ出してしまうとも言える。薄々、聖自身も自分の悪いところに気がついていたが、見て見ない振りを続けていた。

 ときどき、あの仕事をもっと続けていたら、とか、あの彼女と結婚していたら、と考えることはある。だが、そのたびに、たらればを言ってもしかたがないとその想いを払拭してきた。

 ネット通販で、いくつかの女性用下着と洋服を買い込んだ。

 カオルのブラジャーは少しきつく、サイズを確認すると〝65D〟とタグに表記されている。思い切って〝70C〟と〝70D〟を購入してみた。サイズが合わなければ交換すればいい。とにかく、こんなことを相談できる相手はカオルしかいなかったが、どうしてもあいつにそんなことは話せない。

 夕方近くに、智大から返信があった。そこには、昨夜は記憶が途切れ途切れでカオルが代行を呼んでくれたらしい。おかげで目覚めると自分のベッドで寝ていたし、車もちゃんと家のガレージにあったと書いてあった。

 方向が一緒だからと、カオルも聖も同じ車に乗り込んだから無事に帰れたよな、と聖を気づかう記載もある。

『うん、ちゃんと帰れた』とだけ、書いて返すと、その後は返事がなかった。

 夏至を過ぎ、今、農家は収穫期を迎えて忙しいはずだ。それに昨日は飲み過ぎているし、疲れていてそれ以上のことは手が回らないのかもしれない。

 疲れているのは聖も同じだった。

 その日、コーヒーを四、五杯飲んでいたが九時には眠ってしまった。

 翌朝、目覚めたのは十時過ぎだった。最近は、若い頃のように何時間でも眠っていられるなんてことはなくなったと思っていたのに、十二時間以上も眠り続けられたことに驚いた。それも宅配便業者が鳴らしたインターホンの音で起きた。

 疫病のせいでインターネットの利用者が増え、物流も滞りがちだと聞いていたから、買い物をした翌日に品物が届くとは思っていなかったのでびっくりしたがありがたかった。洋服は手持ちのものをなんとか使うことができるが、せめて下着くらいは清潔なものを身につけていたい。

 どうせなら、雑誌やAVで見かけるきわどいデザインのものや、派手なランジェリーを購入しようかと思ったが、それを身につけた自分を想像することがどうしてもできなくて、白とベージュのシンプルな形にした。Cカップは少しきつく、Dだとちょっと緩い気がする。が、どちらもなんとか身につけられそうなので返品せず使うことに決める。

 昨日は、一日中、コーヒーを飲み続けた反動からなのか、今日は紅茶が飲みたい気分だった。ティーバッグだが、香りが気に入っているアールグレイティーを飲みながら、インターネットで今日のニュースを確認する。

 ここ数ヶ月、病気にまつわる記事ばかりだ。たまに芸能人の不倫やら政治家の不祥事に関するものもあるが、聖にとって興味を引くものはなにもなかった。

 特に、普段から外部との行き来がほとんど遮断されているような奥地に住んでいる者には、それらの出来事はどこか遠い話だ。

 切羽詰まった仕事もなく、他にすることもない。買ったばかりのグレーのワンピースを着て、散歩に出ることを思い立つ。

 下着の他に聖は数点服も購入していた。ワンピースは、踝まであるジャージー素材の柔らかな物だった。膝丈のカオルのワンピースはどこか心もとない気がしたが、この長さなら安心できる。

 人の目を気にして黒いキャップを深くかぶり、スニーカーを履いて外に出る。日差しは強かったが想像していたよりも暑くなく、気持ちがいい。

 昨日は気にも留めなかったが、身体が変わると自然と歩き方まで変わっていることに気づく。いつもはガニ股なのに、今日は歩道の白線の上をまっすぐ歩いている。

 気分転換も兼ねて村の中をあちこち歩き回ってみた。どこまで行っても田んぼや畑が続くのどかな光景が広がっている。それは、まるで時間が止まっているかにも見えた。もしかしたら止まってしまった時間と時間の隙間に広がるパラレルワールドに迷い込み、そのせいでにわかには信じがたい出来ごとに巻き込まれてしまったのかもしれない。

 散歩中、田畑で働いている人を数人見かけることができたが、誰ともすれ違うことはなかった。帰り際、村で唯一のスーパーに立ち寄ると、「いらっしゃい」と、店番をしているじいさんに声かけられた。彼は聖が入ってくるときにチラッと彼に視線を向けたが、すぐにレジの横に置いてある小さなテレビ画面に見入ってしまい、聖の顔をじっくりと見ることもない。

 精算をする際も、彼はほとんど聖の顔を見ることはなかった。いや、背中が曲がり百五十センチにも満たない彼は、自分よりも二十センチ以上背の高い相手の顔やその表情など、まともに見つめることなどできなかったのだろう。

 その日、結局、じいさん以外に顔を合わせた者はいなかった。

 引っ越しをしてきてから、きちんと顔を合わせてやり取りをしているのは智大くらいだ。周囲の住人たちは、古民家を改築した村のはずれにある貸家に暮らす者が男なのか、女なのか知っている者などいないのかもしれない。

 それに、この村は、周りに住む他人を干渉しない不思議な習慣があると智大が言っていた。

 田舎にありがちな慣習がないのもこの村を気に入り、越してきたことを思い出し、女になってしまったことを過剰に隠す必要もないのかもしれないと思った。

 それから数日経ったが、仕事上、クライアントとのやり取りはメールで事足りることもあって、声を発しなくても業務は進み、生活も滞りなかった。

 智大も忙しいのか、訪ねてくることもなく、あの店のじいさんやインターネットで注文をした商品を運んできてくれる宅配業者以外の人物と顔を合わせることもない。

 処暑を迎え、収穫がひと段落した頃、智大がふいに訪ねてきた。

「聖、元気にしてた?」

 インターホンも押さず、智大は玄関を開けて声をかけるとそのまま、ずかずかと中に入ってくる。

 ソファーでくつろいでいた聖は智大の声を聞いて、鍵をかけておけば良かったと聖は後悔をしたが後の祭りだ。

 聖は、ブラジャーはしていたが胸の形がはっきりとわかるぴったりとしたタンクトップと腰から尻のラインが際立つショートパンツを着ていた。

 広い土間を抜けるとすぐにリビングだから、着替えることも隠れる時間もないまま、聖は智大と鉢合わせした。

「…………」

 彼は目を大きく見開き、唖然とした顔をしている。それを迎える聖も絶句していた。

「あの、聖は?」

 口火を切ったのは、智大だった。

「えっと、その……」

 この二ヶ月の間、智大と会ったとき、なんと答えるのが最適なのだろうといろいろと考えてはみたが、その答えを見つけることができずにいた。

 彼女だと言い逃れをしても、突き通せる嘘ではない。自分が智大の立場だったら、いつまで経っても帰ってこない聖は、金目的に目の前にいる女に殺されてどこかに埋められたんじゃないかと疑うはずだ。

 それなら本当のことをすべて話す。それが一番いい。

 でも、そんな馬鹿げた話を一体、誰が信じるのだろう。

 なかなか口を開かない女の動向を不審に思ったのか、智大が身構えているのがわかる。彼は、中学の頃、部活で柔道をやっていたし、がたいもいいから、あっという間に羽交い締めにされるに違いない。

「僕は聖だよ」

 思い切って切り出した。

「えっ、聖?」

 訝しげに、智大はまじまじと聖の顔を見る。

「そう、聖だよ。この顔をよく見てよ」

 身体つきや肌の質感は女性らしくなっていたが、顔のパーツはよく見ると以前と変わってはいない。

 智大は、再び聖の顔を見つめた。

「あっ、本当だ。聖だ。なんだよその格好!」

 智大の顔がほころび、聖はホッとする。

「詳しく話すからさ、まあ、座ってよ。ビールでも飲む?」

「いや、車で来ているからいいよ。麦茶ある?」

「うん、ちょっと待ってて」

 冷蔵庫から今朝作った麦茶を取り出してグラスに注ぐと、ソファーに座っている智大に手渡した。

「あのさ、それならそうと言ってよ」

 智大は笑みを浮かべながら聖に話しかける。

「それならそうって……、えっと、まさか智大、誤解してない?」

「誤解? 誤解って? 都会に行って手術してきたんだろ?」

「手術?」

 そうだ、そんな疑いをかけられるかもしれないとは想定していた。確かに、以前から身も心も女性に憧れていて、思い切って身体を治したと言えば、すんなりと話を受け入れてもらえるだろう。

 でも、聖の心は男性のままだ。それに今まで自ら身体にメスを入れようなんて思ったこともないのに、最後まで嘘を貫く自信はない。

「違うんだ」

「違う?」

「そう。とにかく僕の話を最後まで聞いてほしい」

 信じてくれるかどうかはわからなかったが、あの日、起きたことをありのまま彼に伝えてみた。

「じゃあ、あのカオルが薬を作れば聖は元に戻ることができるんだ」

「そういうことらしい。だけど、その薬の原材料は海外のものらしくて、今はなかなか手に入らないって言うんだ」

「ふうん、それじゃあ、女のまま生きてやるって開き直ったってわけか」

「開き直るって言うか、なんだかここで暮らしていると自分が男でも女でもどっちでもいいような気になってきたんだよね」

「どっちでもいい?」

 智大は予想外の返事をした聖を見て大笑いをする。

「ああ。仕事にも支障をきたすようなことではないし、特定のパートナーがいたわけでもない。それに、親ももういないから誰に何を言われるわけでもない」

 聖の両親は彼が二十代前半のときに、病気で亡くなっていた。一人っ子の聖は天涯孤独だ。

「そうか。そういうことか。でもさ、輸出入が滞っていたのは二ヶ月前のことだろう? もうずいぶんいろんなことが緩和されてきているから、その薬の材料だって手に入りやすくなっていてもおかしくないんじゃない?」

「そうなの?」

「そうだよ。世の中の動きくらいちゃんとチェックしろよ」

 怒り口調で智大はそう言ったが顔は笑っていた。

 聖は、ニュースは全部斜め読みでまともに読んでいなかった。

「じゃあ、すぐにでも治るかもしれないよな」

「ああ、そうだよ。これからメロディに行ってみるか?」

 智大の申し出を断る理由がなかった。


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