ずっとこのままなのか?
シャワーを浴びながら、聖は自分の身体を手で触れながら確かめていく。薄っすらと脂肪がついた腕や腹回りは柔らかく、腰も大きくなっている、乳房もベッドに横たわっているときとは違い重量を感じることができる。そして、おそるおそる性器に触れてみると、膣のようなものもできていた。
浴室を出て部屋に戻るとまだベッドの上でゴロゴロしていた男は、聖を見て大笑いした。
「ダメだよ、聖。女の子なんだからタオルは胸から巻かないと」
「えっ、あっ、そうか」
聖はいつもと同じように腰にタオルを巻いていたが、彼の指摘を受けると急に恥ずかしくなって、巻き直した。
「それを着て帰るわけにはいかないよね」
男は、ベッドの下に脱ぎ捨てられていた聖の服を見ながら立ち上がると、クローゼットを開ける。
「いや、自分の服を着て帰る」
「ダメだよ。ブラジャーつけないと。それにその服、昨日一日着ていたんだろう? なんかもう臭そうだよ」
そう言いながら、彼は薄いピンクのブラジャーとお揃いのパンティー。そして白いノースリーブのワンピースを聖の目の前に差し出した。
「そんなものいらないよ」
聖は目の前で手を振って彼を追い払う仕草を見せた。
「あっ、そうかそうだよね、これじゃ無理だよね。ノースリーブだもんね。ちゃんと家に帰ってから脇毛を剃らなきゃダメだよ。女の子なんだし」
そう言って、今度はフレンチスリーブの水色のワンピースを持ち出してきた。これなら脇毛が目立つ心配はない。
「それよか、この身体はいつになったら元に戻るんだ。悪いけど、戻ったらこれを着て帰るよ」
聖は自分のシャツとデニムを持ち上げた。
「えっ、戻らないよ。だから、これを使って」
笑顔のまま男は答える。
「戻らない? だって、君は昨日のカオルさんじゃないだろう?」
「いや、俺はカオルだよ。昨日も今日もカオルはカオル。いやー、男でも女でも使える名前でよかったなー。聖って名も悪くないと思うよ。女の子でも聖ってなんだか可愛い」
「はぐらかすなよ。時間が経てば男の身体に戻るんだろう?」
「戻らないって言っているじゃん。だからあきらめて」
「じゃあ、どうしたら戻れるんだ。君は、どうやって戻ったんだ」
「だからさー、カオルって呼んでいいんだよ」
笑顔で聖の目の前に衣類を差し出した。
「いい加減、質問に答えろよ!」
聖は声を荒らげた。
「わかったって。狭いアパートなんだから大声なんかあげたら隣近所から苦情がきちゃうよ。あのね、元に戻るのにも薬がいるの」
「本当か?」
「うん、本当だよ。昨日、聖に抱かれたあとに薬を飲んで男に戻ったの。おかげで朝から君を抱くことができた」
うれしそうに笑顔を浮かべながらカオルは話している。
「じゃあ、その薬をくれよ」
カオルの前に聖は手を差し出した。
「ないよ」
「ない?」
「そっ、もう薬はないの。昨日、飲んだのが最後のひとつだからね」
「そんな……」
呆然とする聖を横目にカオルは手に持っていた衣類をテーブルの上に置くと狭いキッチンに向かった。
「聖もコーヒーを飲むよね」
聖はソファーの上に座り込んで頭を抱え込んだ。
「どこで手に入るんだ」
「うん、なにが?」
「とぼけるなよ、その薬はどこで買えるのかって聞いているんだよ」
聖はカオルを睨みつける。
「買えないよ」
「買えない?」
「そっ、買えない」
「じゃあ、君はどうやってさっき見せた男から女に変わる薬と、元の身体に戻る薬を手に入れたんだ」
「手に入れたんじゃなくて、作ったの、俺が」
コーヒーを注いだマグカップを両手に持ち、部屋に戻ってきたカオルはひとつをガラステーブルの上に置くと、自分はベッドの上に腰掛ける。
狭いワンルームにはベッドとソファー。そしてノートパソコンが置かれた机があるだけだった。
「作った? 君が?」
「うん」
ニコッと微笑むとコーヒーに口をつける。
聖も目の前に置かれたマグカップを手に取り一口飲み込んだ。インスタントコーヒーはさほど美味しいと思ったことがなかったが、今日はまずいとは感じなかった。カフェインが身体の疲れを癒し、二日酔いの頭をスッキリとさせていく。
徐々に身体中の細胞が覚醒していくのを感じる。
「そんなものが作れるのか」
信じられないといった表情で聖は呟いた。
「作れるんだよ。俺ってこれでも結構頭が良くてね。ハーバードでいろいろと研究をしていたんだよね」
「ハーバード? ハーバード大学」
「そっ、ハーバード大学。あそこの医学部って結構レベルが高いんだ」
ずっとニヤついている金髪の小僧が、そんなに優秀な男だなんて想像もできない。
聖は目を丸くしたまま、目の前でボクサーパンツを履いただけの姿でベッドの上に座っているカオルをじっと見つめた。
「結構どころか、とんでもなくレベルが高い学校だってことぐらい、世間のほとんどの人が知っているだろう」
「まあね、そうだよね」
にわかには信じがたい。
もちろん、これはカオルの作り話かもしれない。いやそうだ、嘘だ。そんなに優秀な男がこんな山の中でスナックのママを、いや、バーテンなんかしているわけがない。
「信じられないよね?」
聖の心の内を察したのか、カオルは初めて聖に質問をした。
「ああ、信じられないさ。僕だけじゃない。きっと他の人もそうだ。あっ、智大」
聖は智大の存在を思い出し、自分のデニムを持ち上げるとポケットの中からスマホを取り出した。
彼なら、なにか知っているかもしれない。
そう思って、アドレス帳から彼の連絡先を呼び出そうとする。
「メールにしなよ。電話はやめた方がいいんじゃない?」
聖を眺めるような視線のままコーヒーを飲みながら、カオルはそう言った。彼は聖がなにをしようとしているのかお見通しだ。
「メールなんかより、電話をして聞いたほうが手っ取り早い」
聖は、そういって通話ボタンを押そうとした。
「いきなり知らない女から電話がかかってきたら、相手はびっくりするよ。聖の携帯を使って、この女はなんの目的でこんなことをしているんだろうって思われるのがオチだ」
「えっ」
カオルの言葉を聞いて、ボタンを押そうとしていた指が止まった。
そうだ。身体だけではない。声も普段とは違う。
「クソっ」
しかたなくメーラーを立ち上げる。
「智大は素直に聖の言うことを信じるのかな?」
そう言われて我に返った。
カオルの家に連れ込まれて、彼女と寝た。そして目が覚めたら、彼女は男になり、妙な薬を飲まされた自分が今度は女になって彼に犯された……。
そんな話、どんなに説明されても信じるはずがない。
当人である聖自身がまだ信じられずにいるのだから。
でも、なにもせずに手をこまねいているわけにもいかなかった。
『昨日は酔っ払っていたみたいで記憶が途中からないんだけど智大は全部覚えてる?』
それだけ書いて送信した。
メールを送って初めてまだ朝の七時だと気がついた。
農家の朝は早い。智大はもう畑に出ているに違いなかった。返信は遅くなるだろう。聖は立ち上がった。
「薬をもう一度作れよ」
聖は怒りをあらわにする。
「それがね、無理なんだ」
「どうして?」
「だって原材料が切れちゃってね」
カオルは、肩をすくめてお手上げといった素振りを見せる。
「じゃあ、買ってこいよ」
聖の声に力が入る。
「あのさ、世界中、こんな状況でなかなか海外から品物が入ってこないって知っているよね?」
(そうだ。世界中に蔓延している病気のせいで、一部の流通が止まっている。
じゃあ、この騒ぎが収まるまで僕はずっとこのままってことか? いつになったら終息するのかわからない。元に戻ることができるのは、一年先? いや二年先になるかもしれない)
「帰る」
ここで怒り狂っていてもなにも変わりはしない。
「そう。でも帰るなら、それを着ていってね」
カオルの言葉を聞き、聖はテーブルの上の下着とワンピースに目を落とした。
「ふっ」と、大きな音を出して息を吐くと、観念して、聖は衣類を手に取った。タオルを外し、下着を身につけようとすると、カオルが声をあげる。
「ちょっと、男の目の前でいきなり真っ裸になるなよ。またしたくなるじゃん」
そう声をかけてきた彼の言葉で我に返り、急に恥ずかしくなった聖は慌てて服を持って再び浴室に戻ると内側から鍵をかけた。
これまで何人かつきあってきた彼女たちがそうしていたように、見よう見まねでブラジャーを身につけ、鏡に自分を映したがなんだかしっくりこなかった。
つけかたが悪いのか、見慣れていないだけなのか、なんだか少しおかしい気がした。でも、そんなことは言っていられない。早く帰りたかった。
ワンピースもなんだか足元がスースーする気がして妙な気持ちがしたが、さらに驚いたのはすね毛が消えていたことだった。
もともと、さほど体毛が濃いタイプではなかったが、それなりに生えていた気がするのに、今は産毛のような毛しか生えていない。
浴室の小さな鏡は、まだ湿気が残っているせいで曇っていたが、手でこすって曇りを取り除き、顔もじっくりと眺める。
毛穴も目立っていないし、ヒゲが生えてくる気配もない。頭髪はもともと長めだったこともあり、その鏡に映っているのは女性そのものだった。
部屋に戻ると小さな紙の手提げ袋に、カオルは聖の荷物を入れて手渡してくれた。
「また、俺に抱かれたくなったら、いつでも来ていいよ」
「二度と来るもんか」
と、聖は啖呵を切った。
「じゃあ、ずっとそのままでいいの?」
そう言って、人を小馬鹿にしたような表情を見せるカオルが憎らしく思えたが、会いたくなくても会わなければいけない。それは事実だった。
家に戻る頃には汗だくだった。
梅雨明け早々、朝からもう真夏の日差しで、腕に突き刺さる紫外線が痛いくらいだ。
カオルのアパートから聖の自宅までは徒歩で小一時間くらいかかった。
カオルはバイクで送ると言っていたが、余計な世話にはなりたくなかったし、それに彼に自分の家を知られたくない。
幸運なことに帰るまでに数台、車とすれ違っただけで、見知った顔と遭遇することもなく無事に帰宅できた。
他人に女装しているなんて思われたくなかった。
いや、仮に誰かと出会ったとしても目の前の女性が聖だと気づく人はいないだろう。それに、この村にいる知り合いは智大だけだ。人に見られてもなにも怖がることはなかった。でも、誰にも見られたくない……。そんな気分だった。
聖は部屋に上がると真っ先にすべてを脱ぎ捨てシャワーを浴び直し、Tシャツと短パンに着替えた。が、なんだか胸元が落ち着かない。
歩くたびに乳房の揺れを感じるし、それにシャツの上からもはっきりと乳首の形がわかるのが恥ずかしかった。
汗臭くなっていたが仕方なくカオルのブラジャーをもう一度身につけて鏡でその姿を確認すると、カオルに指摘された通り、脇毛が不自然に思えてくる。
浴室に戻り、聖はハサミで脇の毛を短くカットすると髭を剃るために使っている電気シェーバーで全部剃った。ついでに手足の産毛もすべて処理をする。
ジョリっとする感触が残っているが、見た目はずいぶんとよくなった。
もう一度、Tシャツと短パンを着て鏡を見直すと、そこに映っているのはまぎれもない女性の姿だった。
ミルでコーヒー豆を挽き、じっくりとドリップするのが毎朝の習慣だ。いつもより遅い時間だが、聖は普段と変わらない朝のルーティンを始める。
仕事が立て込んでいるときや徹夜明けに飲むことにしているマンデリンをカップに淹れた。ガツンとした苦味とコクが二日酔いを完全に吹き飛ばしてくれる気がする。
椅子に座り、デスクの上のノートパソコンを開いてメールのチェックをした。
今日は土曜日だ。クライアントはどこも完全週休二日だから、案の定、迷惑メール以外のものは受信されなかった。
ブラウザを立ち上げ、検索エンジンで男性から女性へと変貌を遂げる薬について、思いつく限りの単語を入れて調べてみる。〝男〟〝女〟〝変身〟〝変化〟〝薬〟……。
ヒットするのは、一般的なホルモン治療に関する情報くらいで聖が探しているものはなにもなかった。
ハーバード大学で手術なしで性別を変える研究をしていないかも探してみたが、やはり同じだ。
結局、その日は一日、パソコンに向かって検索を続けた。食欲もなく、コーヒーばかり口にする。すると尿意をもよおす。
トイレに行くたびに、長年の癖で便器と正面から向き合う形で立ちションをしようとしてしまうことに気がつき、虚しさと言うか悲しさが湧いてきて、そんな自分に対して哀れみの気持ちが湧いてくる。
(もしも、このまま薬を手に入れることができなかったら、ずっと女として過ごさなくちゃいけないのか)
トイレの中で、ふとそんな想いが頭をもたげる。