2 脱出
【ヤゴー】「ああっ、天使様!!!」
アマンダの頭上で輝く天使の輪を目撃して、ヤゴーは思わず平伏した。アイルも思わず片膝を着いた。ゲイルだけは、直立不動で王の命令を待っていた。
【ロアン】「この子が一体何者であるのか、今は何も訊いてくれるな……」
王はそう言い、続けた。
【ロアン】「君たちもさっき見たように、このローラントはもはや国家の中枢でさえ国賊に蝕まれている。今や、王である私にすら、完全に信用できる者は少ない。クラウザーでさえ裏切ったのなら、尚の事だ……」
彼はそう言い、一旦言葉を切った。
【ロアン】「この小人の侍女はペトラだ。君たちは二人を連れてブリスコーへ向かへ。民を置いて王族を逃がすことは、心苦しい。しかし今は、君たちは事情を理解してくれ」
【ゲイル】「その任務、承りました。必ずや果たしてご覧に入れます」
ゲイルは大きな声で応えた。
ロアンはそれを聞き、うなずいた。そしてアマンダに言った。
【ロアン】「少しここで待ちなさい」
王は部屋の奥へ入った。そして、自ら長銃を手に持ち戻ってきた。そして、アマンダに長銃を手渡した。
【ロアン】「これを持っていきなさい。お前が積んだ鍛錬の成果は、決して裏切らないだろう」
王はそういった。アマンダは、こくりとうなずいた。
ーーーーー
アイルたちは城を出た。
彼らは、御者が彼らの馬を連れてくるまで、通りで待つことになった。
城から見て西の方角には、大きな煙が上がっていた。
人々は通りに出て煙を眺めていた。中には野次馬のように、火元に向かっていく人間もいた。このローゼンハイムは、千年もの間敵の侵入を許したことはなかった。都市の人間が平和ボケしているのも無理からぬことだった。
城門を守っていた兵士たちは、そこにはいなかった。火の対処に向かったのだろうか。これでは城の防護が手薄に成ると思ったが、そもそも声をかけるべき兵士がどこにもいなかった。
【アイル】「冒険者だったのですね。初耳です」
アイルが言った。
【ヤゴー】「おうよ、今のお前ぐらいの頃に一度だけ試してみたんだ。一月で家に帰ってきたがな」
【ゲイル】「こいつはお前の母親を追っかけて冒険者に成ったんだよ」
【ヤゴー】「よせよせ。あんまりこっぱずかしいことばらすなよ」
【ペトラ】「……でもたった一ヶ月冒険者やっただけじゃ、素人と何も変わりないじゃないですか」
ペトラが横から口を挟んだ。
【ヤゴー】「へへへ、おちびちゃんいってくれるじゃねえか」
【ペトラ】「おちびじゃありません。私はこれでもれっきとした護衛侍女です」
【ヤゴー】「へえそう。ただのメイドちゃんにしかみえねえがなあ」
【ペトラ】「あなたみたいな、人を見かけで判断する人を油断させるためにこういう格好をしてるんです。隙を見せた狼藉者には、ナイフでお腹をぶっすりです」
【ヤゴー】「お~うこわいこわい」
彼らがそう話していると、城の従者たちが外の様子を見に庭に出てきた。朝食の支度をしていたのであろう給仕や侍女などが、庭の芝生の上に立ち、西の空の煙を見つめていた。
そのうちのひとりが、アマンダの姿を見つけて、声をかけた。
【侍女】「アマンダ様……?」
侍女が言った。アマンダは、フードを深く被り直し、顔を背けた。
【ペトラ】「この方は、アマンダ様ではありません」
【侍女】「でもあなたはペトラじゃないの。あなたがペトラなのだから、その方はアマンダ様ではなくて?」
侍女は茶化してそう言った。考えてみると、小人の従者というのはそれなりに目立った。アマンダのことを知っている人間なら、フードで顔を隠していても、彼女がアマンダだと察するのは容易にだろう。
しかし今は、王に言われたとおりにこの城から脱出することがなにより先決だ。
【ヤゴー】「悪ぃけど、急いでこの人を連れてかなきゃならねえんだ。話はまた今度にしてくれな」
【侍女】「……あなたどこの殿方ですか。身分卑しからぬ人間というわけではないようですけども」
侍女は不躾にヤゴーの風体を上から下までじろじろと見た。そして、近くに立っていた年かさの男の使用人の袖を引っ張り、アイル達を指さした。
【侍女】「この怪しい方たちがアマンダ様をどこかにお連れすると言っているのですが、止めていただけますか?」
【ヤゴー】「……あのなあ」
【アマンダ】「この方たちのことなら、なにも心配はありません」
アマンダがフードをはずし、侍女を正面に見据えながら言った。
【アマンダ】「これは王命に従ってのことです。皆様も今すぐ身支度を整えて、この城から離れる準備をなさってください。さあ、早く」
アマンダは言った。しかし、従者たちは呆然とアマンダを見ているだけで、何をしたらいいかわからないようだった。
【ゲイル】「さあ、もう行くぞ」
ゲイルが声をかけた。御者がもう馬を連れて来ていた。アマンダはヤゴーの後ろに、ペトラはゲイルの後ろにそれぞれまたがり、馬に乗った。そうして、五人は街道を馬で駆けた。
ーーーーー
彼らは、坂を下り、城の南門へ向かった。
通りはまだ人通りが少なく、彼らは下り坂を全速力で駆けた。
アマンダが、ヤゴーの背中から声をかけた。
【アマンダ】「リネットたちは、大丈夫でしょうか」
【ヤゴー】「リネットって?あの侍女のことか?」
【アマンダ】「そうです」
【ヤゴー】「仲いいのか」
【アマンダ】「はい」
【ヤゴー】「……まあ、下手に動くより、城に留まる方が安全だろう」
アマンダは、従者たちが心配なのか、ヤゴーの大きな背中をギュッと掴んだ。
アイルたち走り続け、やがて南の城門にたどり着いた。
城門は閉じられていた。前後に二つある鉄の落とし格子は双方ともに落とされ、その奥に見える跳ね上げ橋はどういうわけか上げられていた。
門の前には、たくさんの住民が集まり、大声で騒いでいた。しかし、門上の弓兵たちはそれを無視して彼らの頭上を睥睨していた。
ヤゴーは人だかりの最後尾にいる男に声をかけた。
【ヤゴー】「一体どうなってる」
【男】「わからねえ。街から出ようと思ったら、急に門が閉じられたんだ。あいつらに何を言っても開けてくんねえから、他の衛兵さんを呼んでるところなんだ」
数人の市民が、落とし格子に掴みかかり、その鉄格子を両手で大きな音を立てて叩いた。兵士が門の中からその両手突き出し、市民を突き飛ばした。そして門に触らるなと大声で怒鳴りつけていた。
アイルたちの背後から、馬の走ってくる音と警笛の音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた衛兵たちが、ここにやってきたのだ。彼らは城壁の上に続く階段を走りながら、今すぐ門を開けろと門兵たちに向かって叫んでいた。
ヤゴーも他の市民に混じって、ひときわ大声で怒鳴った。
【ヤゴー】「おーい何やってるんだ!早く門を開け!」
衛兵たちは、ヤゴーを見た。そして、なにかに気づき、ヤゴーのことを指さした。
彼らはより集まり、なにかを話していた。
ヤゴーは自分の声が届いたのかと思い、もう一度叫んだ。
【ヤゴー】「早く門を開けてくれ!」
突然、ひとりの衛兵が弓を構え、ヤゴーに向けて矢を放った。
それはヤゴーの乗っている馬の首に突き刺さった。馬の茶色く太い首から鮮血が吹き出した。石畳の上に赤い血の天が降り注いだ。
馬はいななき、倒れた。ヤゴーとアマンダは馬の背中から放り出され、石畳の上に叩きつけられた。
【ヤゴー】「なっ!?」
突然の出来事に、ヤゴーは尻餅をついたまま呆然と城門を見上げた。住人たちも驚きの声を上げ、何事だと振り返った。
そこへ間髪入れず門兵がもう一本の矢を放った。
矢はアマンダの頬をかすめ、石畳の床に突き刺さった。矢は彼女の頬をかすめ、裂けた傷口から血が滴り落ちた。
【兵士】「おい貴様ら、何やってる!」
ようやく櫓の上にたどり着いた衛兵たちが、弓兵を突き飛ばした。弓兵は屋を取り落とし、尻餅をついた。しかし彼はすぐに立ち上がり、腰の剣を抜き放つと、それを衛兵の顔面に向かって突き刺した。
兜に包まれた兵士の顔面から血が吹き出した。彼は目を見開いたまま、地面に膝を付き、そして石畳の上に崩れ伏した。
一瞬の静寂の後、所門前の広場に女の叫び声が上がった。
【女】「いやああああああああああああ!!」
そして、混乱がはじまった。
ーーーーー
【ペトラ】「あいつらは敵です!今すぐここを離れましょう!」
ペトラが叫んだ。ゲイルはアマンダの襟首をつかみ上げると、彼女を胸元に抱え込んだ。そして馬を反転させると、すぐに駆け出した。
彼は背を向けたまま叫んだ。
【ゲイル】「ヤゴー、アイル、走れ!!!」
ヤゴーは急いで立ち上がった。そしてアイルと共に走り出した。彼らの背中に向かって、矢が次々と降り注いだ。
アイルたちは、ゲイルを追って広場を突っ切り、通りを曲がって建物の影に隠れた。そして馬を降りると、壁から顔を出し城門を覗いた。城壁の上では、兵同士が剣を抜き斬り合いを始めていた。
アイルがその様子に目を凝らしていると、矢が彼のすぐ眼の前の空間を通り過ぎ、地面に突き刺さった。矢羽が彼の前髪に触り、数本の髪が断ち切られ宙に舞った。
アイルはあわてて顔を引っ込めた。
【アイル】「どうしますか」
【ゲイル】「他の場所から出よう。馬はここで乗り捨てよう。港から脱出するぞ」
彼らは馬を捨て、港へ向けて走り出した。
ーーーーー
(絵2.1)
アイルたちは、なるべく人通りのない路地を選びながら、小走りで港に向かった。アマンダはフードを深く被り、顔を隠しながら走った。
ここローゼンハイムには、およそ三十万人もの人間が暮らしていた。港はその輸送拠点だけあって、広大だった。20本にも上る埠頭が河口に向かって突き出し、そこに並ぶ船の数は5百にも登った。普段は、ここに猟師の漁船と商人たちの荷揚げ船とが混じり合い、競りの掛け声で賑わっていたが、今日は様子が違っていた。
慌ただしく動いているのは商人たちだった。彼らは乗せられるだけの積荷を船の甲板に詰め込んで、港から脱出を始めていた
商人たちとは対象的に、漁師たちは手持ち無沙汰でうろついてるものが多かった。彼らの中には、武器を抱え込んで皆に配っているものもいた。
戦うつもりなのだろうか。
アマンダたちは、港の奥の建物へと進んだ。そこは、商業組合の荷揚げ場と併設されて、魚の荷揚げ場があった。
【ヤゴー】「おいローエン!」
【ローエン】「おう、ヤゴーか!」
ヤゴーに声をかけられて、ローエンと呼ばれた漁師は顔を上げた。彼はこの荷揚げ場の頭領で、アイルたちとは古い知己だった。彼の後ろには、壁に立てかけられた黒鉄の棍棒があった。
【ヤゴー】「お前、まさか戦う気なのか?」
【ローエン】「おおもちろんよ。俺はここの頭なんだぜ?仲間の船は見捨てて自分だけ逃げるなんて半端な真似はできるわけねえ」
ローエンはそこまで言い終わると、ヤゴーの隣に立っている女に目を留めた。ローエンはなにかに気づき、首を傾げて、ヤゴーの隣に立つ人間を覗き込んだ。そして、それが誰だか気づいた。
【ローエン】「……おい……その人まさか……!」
【ゲイル】「すまねえが、なにも聞かないでくれるか?お前の船を借りたい。頼めるか」
【ローエン】「ああわかった。着いて来い」
そう言い、ローエンは自分の船までアイルたちを案内した。彼は船に乗り込み網をどけた。アイルたちは、漁船の甲板に乗り込んだ。ローエンは、全員が乗り込むのを確認すると、船の係留索を外した。
その時、港の出口で声が上がった。アイルたちは、顔を上げた。
敵の船が滑るように港の内部に侵入してきた。
ーーーーー
その船は、全長50フィートほどの中型の快速船だった。
それは、沖に浮かんでいた大型の帆船と違い、メインセイルに一枚の龍の羽が取り付けられており、船尾のスパンカーは真っ白な布の帆が張ってあった。
その快速線は引波を建てながら港の内部に侵入した。
【ローエン】「どうなってる!防鎖は降りてるんじゃないのか!」
ローエンが叫んだ。快速船は、更に港の内部へと進んだ。その甲板の上には、四門のむきだしの大砲が敷かれていた
大砲の黒い大口が光った。そして、一瞬の間を置いて火砲の轟が響いた。
次の瞬間、アイルたちの隣に停泊していた商船が、鉄の固まりに砕かれ粉々に砕け散った。
アイルたちの上に、木片が雨のように降り注いだ。
【ヤゴー】「ああ、クソが!全員、おりろ!」
ヤゴーは叫んだ。次いで放たれた砲撃は、彼らの後ろにあった商業ギルドの会館をぶち壊した。
そして、船は港の堤防に横付けし、緑色の肌をした魔物たちが港に乗り込んできた。
【ローエン】「ありゃオークだぜ」
オークたちは、腰を抜かして倒れ込んでいる商人の足元まで近づくと、腰に下げた曲刀を抜いた。
そして一刀のもと、商人を真っ二つに斬り殺した。
【ローエン】 「お前ら武器持ったか!」
ローエンが叫んだ。ローエンの元へ、各々武器を握った屈強な漁師たちが集まってきた。ローエンはヤゴーを振り返って言った。
【ローエン】「ここは俺達に任せな!お前は早く逃げろ」
【ヤゴー】「すまねえ!」
ーーーーー
アイルたちは港を脱出した。そしてしばらく路地裏をし走ると、人気のない場所で立ち止まった。
ヤゴーが口を開いた。
【ヤゴー】「港が駄目なら、どこから出ればいいんだ」
【アマンダ】「教会の地下に、隠し通路があります」
【ヤゴー】「隠し通路?」
【アマンダ】「ええ。そこから城の外に出られると」
【ゲイル】「わかった、そこに向かおう」
彼らは北に見える教会の尖塔に向かって走り出した。
二人路地裏は人影がまばらだった
人影はまばらだった。ゲイルは街でアマンダに気づくものがいないかとあたりを見回したが、その心配は不要のようだった。
閑散とした道路に、石畳を打ち付けて走る五人の足音が響いた。
彼らは道をいくつか曲がり、細い路地に入った。路地裏はさらに人影がなかった。おそらく人々が急いで避難したためであろう、いくつかの家の扉は鍵も閉めず開け放たれたままだった。
彼らは何度目かの曲道にさしかかった。
その時、女の叫び声が通りに響いた。
アイルたちは、急いで角を曲がり、通りの先を覗き込んだ。
通りの先には男の死体が横たわっていた。死体は首を剣で断ち切られており、地面は血で赤く染まっていた。
死体のそばで女が口に手を当てて叫んでいた。
女に向かって、剣を構えたオークがじりじりとにじり寄っていた。オークは、その大きな背中を、アイルたちに向けていた。
ヤゴーは背中から音もなく剣を抜いた。その反射的な動作は、彼が獲物を見つけた瞬間に矢を射掛ける所作に似ていた。
ヤゴーは路地の細道を突進した。彼は狩人が常にそうするように、音を消して走った。そのため、オークの反応は遅れた。彼は剣を握る手を引き絞り、全体重をかけて剣ごとオークに横から体当りした。
二人は地面を転がり、壁にたたきつけられた。
ヤゴーは急いで体を起こした。
彼の剣は、オークのわき腹に、鍔まで丸ごと突き刺さっていた。
オークは茫然とその剣を眺めていた。その傷口から血が噴き出した。オークは傷口を押さえた。その血は、ごつごつした緑色の手の甲とは対照的な、乳白色のつるりとした手のひらを、赤く染めた。
死を悟ったオークは動かなかった。ヤゴーとオーク、二人の間に沈黙が流れた。
【ゲイル】「ヤゴー、なにやってる!はやくとどめを刺せ!」
ゲイルが叫んだ。ゲイルは抜き身の剣とともに、全速力で走ってきた。
彼はオークに漸近すると、剣を頭上に振りかぶり、全体重を剣に込めオークの頭にたたきつけた。彼はそれでは終わらず、何度も何度も剣を振りかぶり、その頭部を滅多打ちにした。
【ゲイル】「アイルもやれ!百回たたきつけるんだ!」
アイルはオークの落とした幅広の剣を拾うと、その血まみれの頭に剣を振り下ろした。頭蓋骨が砕け、歯が口から吹き飛んだ。その白い犬歯は石畳の上にカツンカツンと跳ねた。
アイルは夢中になって、何度も何度も剣をふるった。
【ゲイル】「もういい!もういい!」
ゲイルが叫んだ。アイルは剣をふるうのをやめた。彼は、いつの間にか肩で息をしていた。
オークの顔面はずたぼろのミンチと化し、ぴくりとも動かなかった。
ーーーーー
彼らは再び走り出した。
道行く途中、路地からちらちらと覗く大通りでは、激しい戦闘が行われていた。彼らはオークとかち合わないことを祈りながら走った。
彼らはやがて高い尖塔を持つ教会にたどり着いた。
その樫の巨大な扉は、閂が掛けられ閉ざされていた。ゲイルは教会の扉を叩いた。
【ゲイル】「おい、誰かいるか!」
ゲイルは叫び、扉をたたき続けた。やがて扉の奥で、何かが動く物音がした。
閂が抜かれ、扉が開いた。扉から差し込む光が、暗い教会の中にひとり佇む僧侶の顔を照らし出した。
僧はアマンダに目を走らせた。そして、すぐに事態を悟った。
【僧】「こちらです」
僧は言った。そして、アイルたちを教会の奥へと案内した。
彼はアイルたちにカンテラを持たせ、地下へ降りる階段を降りた。地下に降り、壁の白い廊下を進むと、その奥にある部屋の扉を開けた。
部屋の中には、花崗岩で作られた祭壇があった。
僧は明かりを置き、祭壇の上部を両手で押した。
祭壇の蓋が大きな音を発てて動いた。やがて、さらに深い地下へと続く階段が現れた。
僧侶はアイルたちを振り返り、先へ促した。彼はここに残り、この階段を隠すつもりだろう。
五人は階段を降りた。
【僧】「アマンダ様、どうかお気をつけて……」
階段の上から僧が声をかけた。そして彼は、階段の蓋を閉じた。地底へと続く階段は、暗い暗い闇に包まれた。
ーーーーー
地下の階段は、下水道へとつながっていた。
ゲイルがカンテラの炎で道を照らすと、水に浸かった暗渠が遠くまで続いていた。
彼らは水に入り歩き出した。水はくるぶしの高さまで浸かっていた。
下水道の水は臭く、ぬるかった。彼らが道を進むと、カンテラの光に驚いたネズミがあちこちへ逃げていった。
アイルはあまりの臭さに思わず鼻をつまんだ。ヤゴーも思わずうめいた。
【ヤゴー】「うげえ、鼻がひん曲がりそうだぜ。貴族様が、こんな汚ねえところ通んのかよ」
【アマンダ】「なるべくそういう場所の方が、外部の人間に見つかりにくいと言われました」
【ゲイル】「誰がこの道を知ってるんだ?」
【アマンダ】「わずかな人間のみです。父や母のほかには、高位の役人ぐらいでしょうか」
【ゲイル】「高位の役人ってのは?」
【アマンダ】「イーサン様、コルト様……それにクラウザー様です……」
【ゲイル】「何だと?」
ゲイルはアマンダの言葉に反応した。
【ゲイル】「クラウザーがこの道を知っているのか?」
彼がそう言ったちょうどそのとき、彼らは暗渠の曲がり角を曲がった。
曲がり角の向こうに、クラウザーが立っていた。
カンテラの明かりが彼を照らした。彼は闇の中で、邪悪な笑みを浮かべていた。
アイルは、驚愕に足を止めた。
しかしヤゴーは、瞬間的に動いた。ヤゴーはアイルを後ろから突き飛ばし、剣を抜きクラウザーに突進した。
クラウザーは杖を覆っていた布を取り去り、掲げた。杖の先にはめ込まれた石が、すでに真っ赤な輝きを放っていた。
クラウザーはカンテラの火を見て待ち構えていたのだ。
【クラウザー】「開放せよ」
クラウザーは短い言葉で呪文の詠唱を終えた。そして杖を突き出し、魔術を放った。
炎が眩しい光とともに、杖の先端から吹き出した。
しかし、ヤゴーは怯まず突進した。
ヤゴーは炎を突き破った。麻でを編んだ粗末な上着は、襟口が焦げてちりちりと炎が点いていた。
【ヤゴー】「らぁあああっっ!!!」
ヤゴーは叫びながら、上段からクラウザーに切りつけた。
この突進は、クラウザーにとっては予想外だった。剣はクラウザーの黒い外套を切り裂き、肩を浅くだが切り裂いた。
【クラウザー】「くっ」
クラウザーは、後ろに飛び退った。そして次の瞬間異変に気づいた。
カンテラの明かりが、ない。
クラウザーの放った炎が消えた後、暗渠の先は真っ暗闇だった。
ヤゴーは、暗渠の床に倒れ、転がっていた。暗渠の底に溜まった下水が、ヤゴーの体についた火を消した。
暗渠は完全な闇に包まれた
ヤゴーは火が消えてなお、床を転がり続けていた。
クラウザーは、ヤゴーの動作に不審を感じた。
しかし、彼の思考が結論に達する前に、クラウザーの左腕が、何かの衝撃に貫かれた。
「ぐあっ!」
クラウザーは思わず叫び、腕を庇った。右手が冷たく硬い何かに触れた。
それは、矢じりの先端の鉄だった。
二本目の矢が放たれた。今度は、弓が放つ音をクラウザーの耳は捉えた。
しかし、クラウザーはそれを避けることは出来なかった。矢は彼の右肩を貫いた。
クラウザーは身をひるがえし、暗渠の先の暗黒の中に逃げた。
暗渠の暗闇に、水を打ちながら走る足音を残しながら。
【ヤゴー】「待て!」
ヤゴーは叫び、クラウザーを追い走り出した。
【ゲイル】「ヤゴー、追うな!」
ゲイルが叫んだ。しかし、ヤゴーはそれを無視し、暗渠の奥へと走っていった。
彼はクラウザーの足音を頼りに、暗渠を奥へ奥へ進んだ。やがて彼は、開けた空間に出た。
ここは、どこかの部屋だろう。彼は、足音の反響音から、そう推察した。
ヤゴーからクラウザーは見えない。しかし、それはクラウザーも同じだろう。
やつは矢を二本体に受けた。そして魔法使いである以上、呪文の詠唱に時間がかかる。やつが呪文を唱えている間に、自分なら懐に飛び込める。彼は、闘いの素人ではあるが、勝算はあると思った。
いま、クラウザーはこの部屋のどこかに息を潜めている。
彼は懐から火打ち石を取り出した。
一瞬の光があればいい。一瞬これで火花を散らし、クラウザーの姿を確認すれば、あとは一気に接近してかたをつけるだけだ。
彼は部屋の入口の壁に、火打ち石を押し当てた。そして呼吸を整えた。
彼は火打ち石を擦った。
大きな火花が散り、部屋を一瞬照らし出した。
彼の目はクラザーの姿を捉えた。しかし、そこにいたのはクラウザーだけではなかった。
ネズミだ。
五十……いや百を超えるネズミが、壁一面にひしめいていた。その小さな対の目は、火花の光を反射して、ヤゴーの網膜に強い残光を残した。
一瞬の後、部屋は闇に包まれた。
ネズミ「キィィィィィイイ!!!」
しかしすぐに、ネズミは金切り声の奇声を上げた。そしてヤゴーに飛びかかってきた。それは彼の全身に噛み付いた。
【ヤゴー】「ぐわぁ!」
ヤゴーは叫び声を上げて倒れた。彼は顔をかばい、体を丸めてうずくまった。
崩れ落ちるヤゴーの足元に、クラウザーが歩いてきた。彼の黒く長いローブの袖から、短刀の剣先が覗いていた。
クラウザーはヤゴーを見下ろし、歯を見せ、笑った。そして短剣を引き絞った。
【アマンダ】「クラウザー様、おやめください!」
アマンダが叫び、ヤゴーと彼との間に飛び込んだ。彼女が走り込んだ拍子に、フードがはだけ、頭上の光輪が現れた。
それは強い光で暗渠の暗闇を照らした。
光はまたクラウザーの顔面も照らした。クラウザーの顔は、明確に怯んでいた。それは眩しい光に怯んだのでも、アマンダの姿に怯んだのでもない。
急に立ち現れた、罪の意識に怯んでいたのだ。
【クラウザー】「うう……」
クラウザーは嗚咽を漏らした。彼は一歩、また一歩と下がり、そして暗渠の奥の暗がりへと逃げていった。
いつの間にかネズミたちも去っていた。ヤゴーは全身から血を流しながら、よろよろと立ち上がった。
【アマンダ】「ヤゴー様、しばしお待ち下さい」
アマンダはそう言うと、ヤゴーの胸に手を当て、目を閉じ、祈った。すると、彼女の光輪が白く眩しく輝き出した。
ヤゴーの全身を白い光が包んだ。すぐに全身の痛みは引き、気づくとすべての傷口は塞がっていた。
【ゲイル】「こっちに出口があったぞ!」
部屋の入口からゲイルが叫んだ。彼の指さす先を見ると、暗渠の先に、白い光が見えた。
彼らは地下水道から脱出した。
ーーーーー