1 波間に揺れる死体
(絵1,1)
アイルが漁のため夜明け前の海に漕ぎ出ると、沖に一艘の見慣れぬ小船が浮かんでいた。
アイルは漁猟士だった。朝方は漁を行い、昼から夕にかけては森の中で狩猟を行い生活していた。村の人間は皆同じような暮らしをしていた。
今、アイルは沖に張った網の様子を確かめるために、ひとりで沖に出ている最中だった。
小舟に人影はなかった。帆は畳まれ、左右のオールは投げ出されたまま海面に突き刺さっていた。船は抵抗なくただただ波間にゆっくりと揺られていた。
アイルは小船に近づき、中を覗き込んだ。
小舟の中には、血にまみれた二人の兵士が倒れていた。
兵士のうち一人は死んでいた。彼は頸部を切断され、その傷口から赤い肉が覗いていた。彼は船べりに横たわり、身動きせずに死んでいた。
もう一人の兵士は、生きていた。彼は虚脱した目で近づいてくるアイルを見つめていた。
アイルは小舟の飛び移り、兵士のもとにかがみ込んだ。
兵士の甲冑の胸甲には穴が空き、その穴から流れたであろうおびただしい量の血が船底に血溜まりを作っていた。鎖帷子は固まった血で赤黒くなり目が詰まっていた。
彼の右足は切断され、膝から下がなかった。血にまみれた膝には、皮のベルトがきつく巻き付けられていた。
兵士は何かを喋ろうとし口を動かした。アイルは兵のそばに寄り、男の口元に耳を寄せた。アイルは冷たい潮風の中に、男の温い息を感じた。兵士は口を開いた。
【兵士】「魔物の襲撃だ……。船が魔物どもに襲われた」
兵士はそこまで言うと苦痛に顔を歪ませ、肩で息をあえいだ。
【アイル】「しゃべらないで。すぐに村まで連れていきます」
アイルがそう言い、オールを手に取ろうとすると、兵士はアイルの袖を掴み、言った。
【兵士】「聞いてくれ……王城の内部に裏切者がいる……今からそいつの名前を言う……」
アイルは兵士の顔を正面から直視し、はっきりとうなずき先を促した。
【兵士】「クラウザー……クラウザーが裏切者の名だ」
【アイル】「クラウザー」
アイルはその名前を繰り返した。兵士はこくりとうなずいた。
【兵士】「王に謁見するための符牒がある……『その王命は銀である』と」
【アイル】「その王命は銀である」
アイルは再び兵士の言を繰り返した。
【兵士】「そうだ……今の話は、国王にだけ直接話せ……」
【アイル】「国王に直接、ですね」
アイルは繰り返した。
兵士は、さらになにか話そうと口を開いたが、大きく咳き込んだ。彼は血が絡んだ痰を吐き出すと、あえぎながら言った。その声はか細く、ほとんど聞き取れないぐらいだった。
【兵士】「アマンダ様を、頼む……」
【アイル】「アマンダ?それは、誰のことですか……?」
兵士はアイルの言葉を無視し、言った。
【兵士】「急げ。奴らがもう来る……」
兵士はそう言い終わると、目の焦点を失い、やがて呼吸を止めた。
アイルは彼のまぶたをやさしく閉じてやった。
アイル自分の船は乗り捨て、オールを漕いで岸へと急いだ。そして砂浜を横切り、森を駆け村へ向かった。
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村人たちは、船の残された二つの死体を、浜辺に横たえた。
【村長】「西部連隊の兵か。かわいそうにの」
もっとも年長の老人がいった。彼はアイルが住むスホルト村の村長だった。老人はシミだらけのハゲた頭に、茶色の粗末な外套を着ていた。そして古いねじくれた木の杖を握っていた。老人は見た目に気を使わないみすぼらしい格好をしているが、かつては名の知られた魔法使いだった。
ここローラント国と、目の前の海であるアドレア海とを挟んだ対岸にあるザクセン国は、長らく戦争状態にあった。西部連隊とは、海峡を含めたローラント西部の国境を守護する軍隊であった。アイルの住むスホルト村もローラントに属していた。
【村長】「齢は三十といったところかの。認識票がある」
村長はそう言うと、首から下げられた銀片を取り上げた。
【アイル】「お名前は何とおっしゃるのですか」
【ゲイル】「名前は書いてない。数字が書いてあるんだ」
痩せた背の高い男が代わりに答えた。彼はゲイルといい、年長の猟師だった。
【アイル】「数字はなんと」
【村長】「Ⅱ、Ⅱ、Ⅵ、Ⅳだ……ヤゴー、遺書は見つかったか?」
【ヤゴー】「ありました。」
甲冑を調べていた屈強な体躯をした中年男が答えた。彼はヤゴーといい、スホルト村の猟師たちの長だった。彼が胴鎧の裏側を見せると、そこには油紙に包まれた封が貼り付けてあった。村長はそれを受け取り、手紙を開いた。
【村長】「遺書を読み上げる」
村長が言った。みな厳粛に聞いた。
【村長】「我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え」
村長は皆を見渡していった。
【村長】「この遺言託された。この言葉必ず城に届けようぞ」
男たちは、兵士の甲冑を脱がせ、彼らをかつぎ上げた。そして、砂浜に深い足跡を残しながら、浜辺を横切り森へ向かった。
大人たちが死体を担いだので、アイルは手持ち無沙汰になった。彼は列の最後尾を、村長と並んで歩いた。ふと、彼は村長に尋ねたかったことを思い出した。
【アイル】「村長、アマンダとは誰のことかわかりますか?兵士に、アマンダ様を頼むと託されたのですが……」
村長は驚き、頭を抱え、そして答えた。
【村長】「アマンダとは王女の名だ。お前、そんなことも知らんのか」
【アイル】「はあ、そうでしたか。なるほど」
アイルは得心した。彼は兵士の言葉を思い出していた。兵士は最後に、奴らが来ると話していた。奴らとはなんのことだろうか。
アイルははなんとなく海を振り返った。
沖の方角、白い霧の向こうに、黄色い光ぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
【アイル】「村長、なにか明かりが……」
アイルが言った。村人たちの幾人かが、アイルの言葉に振り返り、海を見つめた。
確かに、朝もやの濃い霧の中に、黄色い光が浮かんでいた。その光はアイルたちに近づいているのか、段々と強くなっていった。
アイルは目を凝らした。やがて、その光の正体が、霧の中から現れた。
それは船の明かりだった。船のバウスプリットにくくりつけられた、カンテラの明かりだ。
やがて、霧を突き破り、船がその全容を表した。
それは、黒い巨大な帆船だった。
漆色に塗られたな舷側の窓から、黒い鉄の火砲が飛び出していた。
【村長】「まずい!皆、いますぐここから離れろ!」
村長は叫んだ。村人たちは村長の言葉に従い、急いで走り出した。
彼らは砂浜を突っ切り、森の中に逃げ込んだ。
(絵1.2)
ーーーーー
(絵1.3)
四人の男が村まで死体を運んだ。残った男たちは、森の中から船を観察していた。
【村長】「あれはザクセンの船じゃな」
村長が言った。ザクセンとは、アイル達が目の前にしているアドレア海を挟んでその対岸にある国だった。ザクセンとアイルたちの住むローラント国とは長らく戦争状態にあった。
船は岸近くまで接近し、カンテラの明かりで浜辺を照らしていた。
【アイル】「なぜザクセンの船がここに?」
【村長】「さあな。多分兵士を追ってきたんじゃろうが……」
【アイル】「ザクセンの軍が、海峡を突破したということでしょうか」
【村長】「……わからん。前にも言ったが、お前、なんでも人に聞く前に自分で考えたらどうだ?」
【アイル】「あの船尾についている羽はなんでしょうか」
アイルはそう言い、船を指さした。船の船尾からは、左右一対のマストにくくりつけられた竜の羽が広がっていた。
【村長 】「あの船は、おそらく竜帆船とかいうやつじゃ……」
【アイル】「竜帆船?」
【村長】「昔、文献で呼んだことがある……帆のかわりに竜の羽で風を受け、高速で海を走る船があるとか」
【ヤゴー】「おい、なんか海面がおかしいぞ」
アイルはそう言われて、海面を見た。船の周囲に、ナブラが立っていた。何千という魚たちが、水しぶきを上げ水面を割っていたのだ。あの魚は、ボラだろうか……魚たちは、船から逃げているように見えた。何匹かの魚は、海を割って砂浜に打ち上げられた。
【ヤゴー】「おいおいボラじゃねーかよ。取ってくるか?」
【村長 】「ヤゴー、動くな!」
ヤゴーがやつきながらふざけて薮から身を乗り出したので、村長が慌てた彼の体を引っ張った。直後、アイルたちの背後で、森から一斉にカラスが飛び立った。それはまるで夕方のコウモリのように、黒々とした集団となり、どこか遠くの空へ飛んでいった。
【ヤゴー】「おいおい、今度はなんだ」
【村長 】「ヤゴー!」
ヤゴーが背後の森を振り返ると、村長が鋭く叱りつけた。
アイルは、急に寒気を感じた。彼が思わず腕をさすると、その腕には鳥肌が立っていた。
その悪寒の発生源は、あの船の甲板にあるようにアイルには思われた。
あの船は異様だ。
アイルは船上を凝視した。
やがて船の甲板の上に、奇怪な亜人種が現れた。
その亜人は、まるで蝋のような白い肌をしていた。その側頭部からは、茶色い一対の巨大な巻角が生えていた。
目の周りはフジツボのような赤いかさぶたで覆われ、細く長い指の先には黒い爪がついていた。
彼は船の舳先に立ち、森を見つめていた。
村長は、その姿を見て、おののいて言った。
【村長】「なんじゃと!……あれは、悪魔じゃ……!」
【アイル】「悪魔!?」
【村長】「ああ間違いない、あれは悪魔じゃ。それもただの悪魔ではない……魔王ゼクターが生み出した、大悪魔と呼ばれる者に違いない」
【ゲイル】「おい、あいつら船を下ろしているぞ!」
彼の言う通り、悪魔の背後ではオーク達が、船の舷側から小舟が降ろしていた。小舟の中には三匹のオークが乗っていた。
彼らは船を漕ぎ、波打ち際へと近づいてきた。
【アイル】「浜には、俺たちの足跡が残っています」
アイルは言った。村長は、それを聞いてちぃと舌打ちをした。
【村長】「皆、聞け。今すぐ人々を避難させなければならない。わしとゴードンは村の人間を避難させる。ルーはケルンに、カインはローアンに行き住人を避難させろ。わしの名前を使え」
村長はそう言うと、今度はアイルたちに向き直っていった。
【村長】「「ヤゴー、ゲイル、アイル、お前たちは馬を使ってローゼンハイムへ向かえ。王に事の次第を伝えるのじゃ」
【ヤゴー】「わかりました」
【村長】「うむ。ではすぐに出発しろ」
村長がそう言うと、村人たちはすぐに各々行動を開始した。
ーーーーー
アイル達は、馬を駆け街道を走った。
朝方の街道は人通りが少なかったが、アイルたちは、すれ違うすべての人達に声をかけた。
「敵襲だ!スホルトに悪魔が出たぞ!」
アイルたちは、人とすれ違う度に、三人で大声で叫んだ。
あるものは驚き、目を見開いた。そして迷った挙げ句進路を変えた。あるものは怪訝な顔をし、それを無視した。
こうして幾人もの旅人とすれ違いながら、アイルたちはローゼンハイムに向かった。
やがてアイルたちは、ローゼンハイムにたどり着いた。
ロードランの首都ローゼンハイムは、大河ラインベルクが形作る巨大な三角州の上に建てられた都市だった。
都市全体を囲むように、ラインベルクから枝分かれした幾百もの川が流れ、複雑な水路を形成していた。外部からその内城に至るには、いくつとも知れない小川を渡る必要があった。
彼らは馬を駆けた。そしていくつもの橋を渡り、やがて城の外壁にたどり着いた。
城門の向こうの霧の中に、巨大な王城の尖塔が浮かんでいた。
内城門の前には、人々が普段より長い待機列を作っていた。
【ヤゴー】「ちっ。今日は検問が強化されてやがる」
ヤゴーが言った。アイルたちは列の脇に割り込み、進みながら叫んだ。
【ヤゴー】「敵襲だ!スホルトの浜辺に悪魔が現れた!ここを通してくれ!」
列に並ぶ人々は、みななんだと振り返り、道を開けた。アイルたちが城門の前まで行くと、若い衛兵がその進路を遮った。
【若い衛兵】「止まれ!止まれ!」
彼はそう言い、両手を広げ馬の前に立った。
【ゲイル】「急いでるんだ!通してくれ!」
【若い衛兵】「駄目だ!」
こうしてゲイルと衛兵が大声で押し問答していると、人混みの奥から髭を蓄えた中年の兵士が前に進み出た。彼はゲイルに話しかけた。
【中年の兵】「お前、ゲイルじゃないか?久しぶりだな。」
【ゲイル】「ああ」
【中年の兵】「三年ぶりじゃないか。なんで会いに来ない?」
【ゲイル】「悪いが急いでるんだ。ここを通してくれないか」
ゲイルは兵士に向かって事情を話した。彼は、若い衛兵と視線を交わした
【中年の兵】「今の話は本当か?」
【ヤゴー】「あったりめえよ!本当に決まってるぜ」
【若い衛兵】「ならば真実だという証拠を出せ!」
【アイル】「ここに、兵士から授かった認識票があります」
若い衛兵がそう言うと、アイルは懐から認識票を取り出し見せた。銀色に光る認識票の四隅は、血に洗われて赤黒いかさぶたがこびりついていた。
中年の兵は、認識票を手に取ると、それを検分し、言った。
【中年の兵】「わかった。通っていい!」
【ゲイル】「すまんな」
ゲイルは言った。そして馬を走らせ、城門を通過した。
アイルたちの背後で、中年の兵が他の衛兵に向かって叫んでいた。
【中年の兵】「今すぐスホルトに馬を出すぞ!はやく準備しろ!」
アイルたちは、城門を後にし、城へ駆けた。
ーーーーー
アイルたちは、街の大通りを駆けた。ヤゴーは馬を走らせながら、大声で叫んだ。
【ヤゴー】「スホルトに敵襲だ!道を開けてくれ!スホルトに敵襲だ!」
町の人々は、なんのことだとみなアイルたちを見上げた。彼らは道を開けた。
そうして彼らは、丘の上に造られた内城の前までやって来た。
アイルたちは、馬を降り、門兵に向かって叫んだ。
【ゲイル】「俺達はスホルトから来た!お前たちの兵から言伝を預かっている!中に入れてくれ!」
ゲイルの大声を聞きつけて、城壁の上にたくさんの兵士が集まってきた。そのうちの一人が、城壁の上から言った。
【兵士】 「ならばその言伝を述べてみよ!」
【ゲイル】「俺達は王にのみ直接伝えるように言付かっている!」
【兵士】「ならん!信用できん!」
アイルは一歩進み出て、言った。
【アイル】「我々は符牒を預かっています!『その王命は銀である』と!」
壁上の兵士たちがざわめいた。
【兵士】 「いま一度述べよ!」
【アイル】「その王命は、銀である!」
ある兵士が、ゲイルを指さしていった。
【兵士】「隊長!自分はあの細い方の男を知っています。ゲイルという男で、10年ほど前にこの城で徴募兵として勤めていました」
【兵隊長】「……ああ!確かに私も見覚えがある!……よし、そのものたちを通せ!俺もすぐ降りる!」
隊長と呼ばれた男がそう叫ぶと、衛兵は扉を開いた。アイルたちは中に進み出た。一階に降りた兵士たちが、アイルたちの前に進み出た。
【兵士】「よう、俺はケインだ。覚えているか?」
【ゲイル】「ああ、覚えてるよ」
【兵隊長】「久しぶりだな、ゲイル」隊長と呼ばれた、口ひげをたくわえた年かさの兵士がゲイルに声をかけた。
【ゲイル】「ジークラット隊長、お久しぶりです」
【ジークラット】「ロアンのところまで案内してやる。ついてこい」
隊長はそう言い、アイル達を先導した。
彼らは薄暗く湿った螺旋階段を上がった。隊長の鉄の具足が石畳の階段をたたく音が、かつんかつんと響き渡った。彼らは廊下を進み、扉の前に連れてこられた。扉は分厚い樫でできており、茶色い膠が塗られあでやかな光沢を放っていた。
扉の前に立つ衛兵は、隊長と目線を交わすと、扉を開いた。隊長はアイルたちを待たせて先に部屋に入り、一分ほどしてから部屋から出てきた。そして、アイルたちを部屋に招き入れた。
扉をくぐると、部屋の中の視線が一斉にアイル達に向けられた。応接間は広く、豪華な調度品で飾られていた。高い天井には鮮やかなテンペラ画が描かれていた。東洋から取り寄せられたものであろう白磁の壺がいくつも立ち並び、壺の下には東夷の女が編んだものであろう豪奢な分厚い赤い絨毯が部屋に敷き詰められていた。部屋の中央には大きな椅子があり、その上に従者に囲まれた老人が座っていた。
三人は、王に敬礼した。
【ジークラット】「この者たちが、殿下に言伝を持って参りました」
【ロアン】「名乗れ」
ロアン国王が言った。彼は低く威厳のある声をしていた。
【ゲイル】「私はスホルト村において狩猟を営むゲイルというものです。スホルトが悪魔の襲撃を受けたため、馳せ参じた次第であります」
【ロアン】「話は聞いた。大悪魔が出現したそうだな」
【ゲイル】「は。わが長ザハードいわく、それはゼクターの生み出した大悪魔であると。我々は、死んだ兵士から言伝を授かって参りました」
【ロアン】「……なるほどわかった。その言伝を述べたものの名は」
【ゲイル】「名は分かりません。ここに軍票があります」
彼はそう言い、アイルか軍票を受け取り、それを差し出した。モノクルをかけた文官らしき装いをした男が、それを受け取り、検分した。
彼は驚きに一瞬目を見開いた。
【文官】「これは、トルドー軍曹のものです」
【ロアン】「トルドーはどうした」
【ゲイル】「死にました」
【ロアン】「……あい分かった。トルドーの言を述べよ」
ゲイルは一瞬躊躇して、こう答えた。
【ゲイル】「なりません。王とのみで直接話せと申しつかっています」
王は文官に目線を送った。文官は首を横に振った。
【ロアン】「ならん。いますぐにここで話せ」
【ゲイル】「は。”裏切者の名は、クラウザーだ”と」
部屋が静まり返った。文官は目線を伏せたままその場に固まった。王は椅子のひじ掛けを強く握った。彼の、歴戦の戦士の筋張った太い指が、ひじ掛けを覆う厚い布地に食い込んだ。
アイル達は、何事かと顔を上げた。部屋の高官たちの視線は、一人の人物に注がれていた。
アイルはその視線の先を追った。灰色のローブに身を包み、ながく白いひげを胸元まで蓄えた魔法使いが、表情を消して微動だにせず立っていた。
ーーーーー
やつがクラウザーなのか?アイルはことの成り行きを息を詰めて見守った。
王が椅子から立ち上がろうと腰を浮かした。
その瞬間、灰の魔法使いは、口元をにやりとゆがめた。彼の小さな黄色い歯が、唇の隙間から覗いた。
彼は杖を振りかぶりった。
【クラウザー】「灼熱の炎よ、不断なる憤怒とともに、敵を燃やし尽くせ」
クラウザーが呪文を唱えた。すると、杖の先端にはめ込まれた宝石が、赤く眩しい光を放った。隊長はアイルを突き飛ばし、魔法使いに突進した。そして走りながら剣を抜き放ち、上段に刃を振りかぶった。
しかしその剣は間に合わなかった。宝石の赤い輝きはその臨界点に達し、一瞬の閃光が部屋をまぶしく照らした。そして、杖の先端から灼熱の赤い炎が噴き出した。
【ジークラット】「ぐわあああああああ!」
炎が隊長の体を包んだ。隊長は叫び声をあげ、その場に崩れ落ちた。
【文官】「白銀の光よ、聖なる意志のもと、敵を穿け」
呪文の詠唱を終えた文官が、その両の手のひらを魔法使いに向け、白い光線の魔術を放った。魔術師は杖を振り、その光線を弾き飛ばした。激しい擦過音とともに鋭角にはじかれた光は、天井のテンペラ画に当たり太い線条痕を残した。
魔術師はすぐに身をひるがえし、壁のステンドグラスを突き破って、外の空間へ飛び出した。
王もすでに呪文の詠唱を終えていた。その両手の間には、直径三フィートはある大きな水球が浮かんでいた。彼は隊長に向けてそれを放った。水球が隊長の全身を覆い、彼を包んでいた炎はすぐに消えた。
肉の焦げる甘い匂いが部屋に漂っていた。
ーーーーー
ゲイルは割れた窓の下へ駆け寄り、外を覗き込んだ。高さ八十フィートはあろう空間から地面に飛び降りたのにも関わらず、クラウザーの姿はもうどこにもなかった。
【ロアン】「医者をここに呼べ。奴らはすぐに動いてくるぞ」
その時、遥か下方に見える密集した家の路地の隙間から、赤い煙が一本の筋を描いて空へと高く立ち上った。
ゲイルは部屋を振り向いて叫んだ。
【ゲイル】「煙があがっています!何かの合図かと!」
彼がそう言うと同時に、西の方角から、なにかの火砲の発撃音のようなものが響いてきた。
突如、西の城壁が吹き飛び、爆発した。その爆発は地面を震わせ、振動が白磁の壺をガタガタと震わせた。王たちはみな、窓に駆け寄り、音のした方角を注視した。
南の城壁では、爆発の砂塵が一面に広がり、その中央で煙がもくもくと天に向かって立ち上っていた。
その奥に見える水平線には、30を超える帆船が、帆を高く上げてローゼンハイムに近づいていた。
ーーーーー
【ロアン】「今すぐ兵を出すぞ。ジークラッドはどうだ?」
王は訊いた。隊長は甲冑を外され横たわっていた。モノクルの役人が隊長の胸に両手を当てて呪文を唱えていた。隊長の体は白い光に包まれていた。それは、恐らく神術のたぐいなのだろう。隊長の皮膚の真っ赤に裂けた傷口は、みるみるうちに塞がった。
【文官】「もう大丈夫です。命に別状はないかと」
役人がそういうと、隊長は天井に握った手を掲げた。それは自分は無事だという合図だった。
王は安心して一瞬顔を緩ませた。しかしすぐに気を引き締め、言った。
【ロアン】「コルトを呼べ。ハミルトンは、私と兵舎に来い」
【アイル】「あの!!」
アイルが声を上げた。
【アイル】「我々にできることは、ありますでしょうか」
アイルは王にそう言った。一介の猟師である彼は黙っているべきだったが、愛国心から彼の口から言葉が衝いて出てきた。
【ロアン】「ない。君たちははやくここから逃げなさい」
【ゲイル】「私は十年前にこの城に勤めていました。このヤゴーという男も、軍務経験はありませんが、いっとき冒険者をやっていたことがあります。手伝わせてください」
【ロアン】「……」
王は、腕を組みひとしきり悩んだ。この喫緊の事態に、なおも時間を取り思考を逡巡させた。
【文官】「王」
文官は、見かねて王に声をかけた。しかし王はそれを遮り、アイルたちに言った。
【ロアン】「君たちは軍籍にない……であるからこそ、この任務を果たせるかもしれん」
王は腕を解き、三人をまっすぐ見つめながら言った。
【ロアン】「これから話すことは、内密に行ってほしい」
アイルたちは、辺境伯の言葉を待った。
【ロアン】「アマンダを……王女を、君たちとともに、連れて行ってくれ」
王女という単語に、アイルは思わず姿勢を正した。ヤゴーは、急な事態にキョロキョロと周りを見回した。ゲイルだけは、直立不動のまま微動だにしなかった。
辺境伯は使いをやり、王女をここに呼んだ。王女は、小人の使いとともにやってきた。
彼女は、眼を見張るような赤く長い髪を持っていた。その頭の天辺には、大きな三角帽を被っていた。
【ロアン】「アマンダよ、帽をとりなさい」
彼女は、そうすることをためらった。
【ロアン】「いずれわかることだ」
ロアンの言葉を聞き、彼女はゆっくりとその帽子を脱いだ
帽子の下の頭の上には、黄色い天使の輪が、薄ぼんやりした光を放ちながら浮かんでいた。
(絵1.4)