「馬鹿じゃないの?」
聞いてくれればわかるが、酷い話なんだ。
妻が出て行って、もう二年になる。世の中、実に不条理だ。
私は世の不条理が悪いと思っているし、妻が悪いと思っている。だが、友人のリカルドなどは「お前が悪い」などと憎まれ口を叩いてくる。
正直、自分には自分の落ち度がわからない。リカルドは口が悪いから、私をからかっているつもりなのだろう。面白くはないと、そろそろビシリと言ってやるべきだろうか。
スカーレットは私の妻だ。
社交界に現れるとともに、話題と、男たちの目を攫っていった女だった。それほどに美しかったんだ、彼女は。
名前の通りに真っ赤な髪。快活に笑う様。最新モードのドレスが大好きで、そのくせ知的。ダイナ伯爵家のご令嬢らしい。
これは、ものにしたい。男としては本能だろう。スカーレットは人気だった。皆が狙っていた。彼女を横に置いておけば、社交界でどれだけ鼻が高いか。
だから私もスカーレットと会ってすぐ、絶対に彼女と結婚すると心に決めた。
申し遅れたが、私はアーネスト・ガーヴェイ。
公爵家に生まれた私には、当然、良い縁談がいくつも持ち込まれていた。それを蹴って、伯爵の娘と結婚しようというのだから、よほどのことなのは分かるだろう? それほどスカーレットを愛していたんだ。
あっちだって、私との縁談は破格の話だ。伯爵は喜んで承知してきた。
反対したのは私の祖母だ。あろうことか、スカーレットを娼婦だと言ったのだ。
私は当然、憤慨してスカーレットを庇った。なんて言い草だと。すると、祖母は言ったのだ。
「ダイナ伯夫人は、元は歌い手だった。爵位もなく、音楽堂で歌を披露する、下賤な職業婦人だ。それを見初めて拾い上げた者がいて、伯爵夫人なんて名乗っているが、娼婦と変わらない。私はそんな者は好かないよ」
とはいえ、それはスカーレットには関係ないだろう。今は伯爵夫人であり、その娘だから立派な令嬢だ。
頑固な祖母を説得するのも大変だった。もっとも、結婚した後も祖母は頑なに、スカーレットに目通りを許すことはなかったけど。
家同士の話がつき、私はスカーレットを貰った。
スカーレット・ダイナはガーヴェイ夫人となり、私の妻となった。
「これからよろしく、旦那様」
と、スカーレットはニッコリと笑った。花咲くような笑顔だった。私に嫁げたことを感謝しているようだった。
「ずっと仲良くしましょうね」
「ああ、頼むよスカーレット。君には何不自由ない暮らしを約束しよう」
「アーネスト、私、あなたのことをアルトと呼んでもいいかしら。仲良くなりたいから」
二人だけの呼び名なんて思いもかけなかったが、確かにこそばゆい。
私はそれを許し、こちらはスカーレットの名前が好きだったからそのまま呼ぶことにした。夫婦、という感じで良い。
スカーレットを連れて外に出る。思惑通り、社交界では衆目されて私は有頂天だった。
競り負けた、他大勢なる男たちのまなざしが、なお一層気持ちよかった。
リカルドは悔しそうに「今日も見せつけるために新婚さんのお出ましか」などと言う。彼も、スカーレットを狙っていた一人だ。
「大切にしてやれよ。彼女は素晴らしい人だからな」
「無論だ」
大切にしてやれ、まではわかるが、中には「お前のほうが飾りだな」などという口さがない奴も出てきた。
「出来たお嫁さん貰って、一家の主としては形無しだな」
どういう意味だ全く。失礼にもほどがある。私あっての妻だろうに。
「あらガーヴェイ公爵、ごきげんよう。夫人は今どちらに?」
というのも、よく聞く言葉になってきた。私は妻の案内板か。なんだか最近、私が「社交」していない気がする。賑やかな社交界で、ちょっとヒマだ。
「いや、実際いい仕事してるよ、スカーレット嬢は」
と、リカルドまで訳知り顔してくる。なんなんだお前は。
「単なる僻みだよ。ま、アーネストもがんばれ」
スカーレットは確かに今日もニコニコしてパーティ会場にいる。それが仕事だからな。彼女の周りには、常に誰かがいる。
ただちやほやされてお喋りしてるだけで、頑張ってるも何もないもんだ。華やかな装いをしてるんだから、目立って当然だろう。私が添え物みたいに言われるのは心外だ。スカート履くだけで褒められるなら、私だってやりたい。
困ったことに、周りに褒められて調子に乗ってきたのか、スカーレットまで私を馬鹿にするような言動をしてきたので、さすがに苦言を呈したこともある。
例えばあれはパーティが捌けて、夜。自室に戻ったことだった。
「今日も疲れちゃって」
などと言ってメイドに足を揉ませ、カヌレを齧るスカーレットの気の抜けようといったら。
「だらしない恰好するなよ。天下の美女が聞いて呆れる」
「今日の靴は合わなかったわ。少し締め付けていたの」
そんなもの、言い訳になるか。私はまだ盆に乗っていたカヌレを没収してやった。
「あー。まだ食べてるのに」
「いい加減にしろ。太るぞ。それに何だ、ダラダラして。旦那様の前で女を捨てるな」
スカーレットは髪も下ろし、ネグリジェ姿でカウチに足を伸ばしていたが、やっと体を起こして不承不承聞いてきた。
「女を捨てるなって……もう寝るだけじゃない。まさかベッドに入る前までコルセットをしておけって意味じゃないでしょう?」
「当然、そういう意味だ。旦那様の前で女を捨てるな。わかったか」
まだ不服そうだったので、仕方なしに説明してやる。
「お前の仕事はなんだ? 私はお前の女らしいところに惚れたんだからな。あまりがっかりさせないでくれ」
それでスカーレットはやっと頷いた。
確かにスカーレットは綺麗だ。そして、それは自慢でもある。
だが男に媚びる必要はない。そうだろう? 私と言う夫がいるのだから。
今日はやたらと好色そうな男がスカーレットと親し気に話をしているのが気になった。そうなると、着ているドレスの、胸の開き具合も気になる。やたら接近しているが、あれだと上から覗けるのではないか?
そう思ったらもうたまらない。なにやら楽し気に話をしている二人に割り込み、「ちょっとおいで」とスカーレットを引きはがしてきた。
「何よ、何かあったの?」
不審そうなスカーレットを部屋の隅に連れていき、詰問した。
「一体、どういうつもりだ!」
「どうって、何が?」
「お前はガーヴェイ夫人なんだぞ、わかってるのか!?」
スカーレットは戸惑った顔をした。
「……そりゃあそうだけど……何? 何を言いたいのか分からないわ」
「分からないだと?」
どうして分からないんだ。私たちは夫婦のはずだ。それなのに「分からない」とは。なんてバカなことを言うんだ。
「私の気持ちが分からないのか? お前はそんなに不出来な女だったのか?」
「分からないわよ、ちゃんと言って頂戴。さもないと分かるわけがないわ」
ああスカーレット、お前はしばしば私を失望させる。お前も結局、完璧ではないのだ。
「服だ。私はそれは好みではない」
「は? 部屋を出る前から見てたじゃない? その時には何も言わなかったのに?」
「君はバカなのか? その、やけにデカい頭の飾りも取るんだ。はしたない。もっと落ち着いたドレスを着なさい。色も。飾りも。露出のないものに今すぐ着替えてこい」
幸い、今日のパーティはうちで開催していたものだ。さっさと着替えてきさえすれば許せる。
憮然とした態度のままスカーレットは部屋に引っ込み、時間をかけてやっと出てきた。かと思えば、黒いドレスを着てきたのだ。パーティ会場は、一瞬どよめいた。
「おい。それは喪服じゃないのか?」
慌てて捕まえてそっと聞いてみれば、スカーレットはシレッとした顔で軽く言うのだ。
「他になかったわ」
そうして奥のソファに陣取る奥様方の相手をしに、にこやかに歩み去っていった。
「美人な奥さんだと、気が気じゃないな」
笑いながらそう囁いてくる、客の方が私の気持ちをよっぽど分かっている。
さらに頭にきたのは、夜になって団欒の時間に、ねずみ色のガウンのようなものを着て現れた時だ。
「当てつけか、それは」
こっちが怒ってみせているのに、スカーレットの方も腰に手を当てた偉そうなポーズで言ったのだ。
「どうしてよ。地味なのがお好みなんでしょう?」
「私の前では女を捨てるなと言っただろう!」
「ワケが分からないわ。地味にしろと言ったり派手にしろと言ったり。着せ替え人形じゃないのよ、私」
なんて生意気な口をきくんだ。立場わかってるのか。
「着せ替え人形でなくてなんなんだ。誰のお陰で贅沢な暮らしができていると思っている!」
腹立ちまぎれに、思い切りテーブルに拳を叩きつけてやった。スカーレットはビクリと肩を震わせたが、恐れ入った様子は見せなかった。
「少しは謙虚さを身に付けろ! お前との結婚にあたって随分と骨も折ったんだぞ。率先して身の潔白でも示してみたらどうだ!」
そうだ。反対する祖母を宥めてやったんだ、私は。その恩も忘れて。
自分の出自に少しでも負い目があれば、もう少し弁えるはずなのに。私の傍に寄り添い、たまに頷きしおらしく笑い、ただ黙って人の話を聞く。旦那様をたてて、周りに売り込む。
それだけでいいのに、出しゃばって女王のように振る舞ったりして、もう未婚でもないというのに。
……それともまさか。本当に浮気だとか……?
だから私にそんな態度がとれるのか? 空恐ろしくなって、思わず問い詰める。
「浮気でもしてると思っているの? 私が? それ本気で言ってるの?」
何故そこで詰るような声色を出せるんだ、スカーレット。
私はお前を信じたいんだ。好きな女だから。だから従順になってくれればいつだって抱きしめてやれるというのに、反発するのは可愛くない。
「疑わせるお前が悪いと言っているんだ。今日だって私に恥をかかせて、非常識だぞ」
「非常識!? 人の話に割り込んできた貴方が難癖をつけてきたのに? 私が恥をかかなかったとでも思ってるの?」
「私は嫌だったんだ! 私の気持ちに先回りして行動しないとダメだろう、妻なら!」
スカーレットは青ざめた顔を横に向けて呟いた。
「馬っ鹿じゃないの?」
これは許せない。これは許せないだろう?
妻の分際で夫を馬鹿にするとか。女がこんな口汚いこと言うなんて絶対に許せない。百年の恋も冷める一言だ。
当然、私は激高し、反射的に手が出た。スカーレットが床に転がるのを、沸騰した気持ちの中で眺めていた。
「謝れ! 謝れ!」
胸倉を掴み起こし、二度、三度と殴っていると、メイドが悲鳴を上げ、助けを呼ぶのが背後に聞こえた。
邪魔をするな。当然の結果だ。罰を与えているところなのだ。
スカーレットは泣いていた。好きなだけ噛みついたクセに、泣いて許されようとする軟弱さも許しがたい。慌てて飛び込んできた執事らを「うるさい!」と一喝し、机の中を探って銀の鋏をつかみ取る。
スカーレットの真っ赤な髪を手に巻き付けて、私はそれをじょきじょきと切り落とした。メイドの息を呑む音が聞こえる。括ることすら出来なくなった赤髪はバラけ、女の頬にザラザラと散らばった。これで当面は人前に出られまい。浮気相手の前にも。
「この女を修道院に連れていけ!」
夜中であろうが構うものか。家長に逆らった罰なのだ。私に向かって舐めた態度を取るとどうなるか、思い知らせないといけない。
とはいえ、私は心が広いから許すつもりではいた。
私の妻だから私が責任を持たないといけないし、どうせ彼女が私なしで生きて行けるわけがないのだ。
少しだけ離れて暮らし、反省する時間を設ける。そのための数日、というつもりだった。
タイミング良く……良かったのか悪かったのか……スカーレットの母親から手紙が届いたのは、彼女を追い出した翌日だった。
本人はいないからと、代わりに私が目を通した。健康を気遣う言葉と夫婦仲を伺う言葉。そして、「アルトも待っています」という言葉が、時節の挨拶の前に書かれていた。
これで私は決意した。離婚だと。
やっぱりいたんだ、浮気相手が。アルトという男が他所にいて、こっそり会っていたに違いないのだ。その愛称を貰って浮かれていた私もいい面の皮だ。あの女は腹の中で、純朴な男をどれだけ嘲笑っていたんだろう。
私は一息に書面を認め、修道院に使いをやって、この通り離婚する旨取り計らってくれと頼むことにした。
それでスッキリしたつもりになっていたが、どうしても腹の虫が治まらなかったため、馬車を仕立てて出かけることにした。ダイナ伯爵の元だ。
考えてみれば離婚したのだから報告にもいかねばならんし、文句の一つもつけてやる権利はある。なんなら、慰謝料をふっかけることだって出来るわけだ。別段、金には困ってないからそこはあまり本気で考えていなかったが、ともかく溜飲を下げる何かが欲しかった。
何も知らない伯爵夫妻は快く私を迎え入れてくれた。
スカーレットが来なかった事は不思議がられたが、言いたくないこちらの態度を見て取ったのか、追及はされなかった。いざという時に、効果的に言いたいじゃないか。そういうものは。
「それより、アルトという御仁はどちらにおられるかな」
と、私は聞いた。
「ぜひ、お会いしたい」
「アルト……ああ、アルトはここにはおりません」
ダイナ伯夫人はにこやかに答えた。
「ここではなくハートコートに……私の兄の住まいですが……そこに眠っています」
「眠って?」
「はい。アルトは兄の子で、私の甥……スカーレットにとっては従兄弟ですね。小さい頃はよく遊びに来ていたんですが、体が弱く、十を待たずに亡くなってしまいまして。二人は仲がとても良かったので、スカーレットもとても悲しんで……大きくなった今でも、何かにつけては墓前に報告に行くんです。例えば、結婚が決まった時だとか。あの時のスカーレットは本当に嬉しそうだった」
「……」
お会いになりますか? と夫人は聞いてきたが、それを辞退し、私は帰ることにした。
浮気じゃなかった。余計なことを言わずに良かった。夫人もなにかしら察していたのだろう、すんなりと見送ってくれた。
なんだ。やっぱりスカーレットは潔白だった。なら、何も問題はない。離婚届もチラつかせたのだから、飛んで帰ってくるだろう。ごめんなさい、私の態度が悪かったですと、ちょっと頭を下げるだけ、難しいことはないはずだ。
寛大な気持ちで私は待った。
だが、スカーレットはその日は戻らなかった。翌日も戻ってこなかった。数日待ってもまだこない。強情っぱりめ、まだ懲りないのかとイライラしながら、仕方なくもう一度使いを出した。もう帰ってきてもいいぞというお迎えだ。アイツも、意地を張って戻るに戻れなくなっているのかもしれない。
馬車が戻ってきた。が、スカーレットは乗っていなかった。使いに出した下男が、困ったように告げた。
「いないそうです」
「いない? どういうことだ」
「スカーレット様は、修道院を出られたそうでございます。どこに行かれたのかと問いましたが、修道女たちは頑として教えてくれず……」
「何だそれは。どういう意味だ!?」
下男が恐る恐るに差し出した手紙のようなものを毟り取り、目を通す。
出した離婚届だった。スカーレットのサインが入っている。そして、教会が神の名に於いてそれを受理したというサインも、並んで書いてあった……
意外なところから手掛かりがきた。リカルドの奴だ。
「ところで細君はお元気か」
うちを訪ねてきたリカルドは、挨拶もそこそこにそう聞いてきた。この時から嫌な予感がしていた。
「元気だ、今日は留守にしているが」
「……放逐などはしてないだろうな」
「してない!」
なんでそんな事を言われなきゃならんのだ。失礼な。放逐などしていない。アイツが勝手に出て行ったんだ。
リカルドはしばし、胡乱なものを見る目で私を眺めていたが、「じゃあ、あれは他人の空似なんだな」と言った。
「……なんだと?」
「おっと。その反応。なあ正直に言ってくれよ。僕だって友人の奥方が信じがたいところにいたら気になるじゃないか」
クソ。腹の立つ言い方だ。
「言っておくが離縁などしていないからな。誤解だ。ちょっとした行き違いだ。説得すれば戻る。どこにいる?」
仕方ないので釣られてやる。早く言え、とせっついて、なんとか答えを貰った。
貰ったが、これは信じがたい。もったいぶって私に確認を取りに来るだけのことはある。
「劇場だよ」
呆れたことに、スカーレットは町の劇場に立って歌っているというのだ。
ガーヴェイ夫人ともあろうものが、とんだ恥さらしだ。そうすれば、私が飛んで迎えに行くとわかっている。
こっちが譲歩するのは気に食わないが、このままだと私の評判にも関わってくる。致し方ない。
私は早速車を飛ばし、教えられた劇場に行ってみた。なんとか言う劇団が使用しているようだ。入口でチラシを配られ、そこでまた私は激怒した。コーラス・ガールの中に、確かに彼女の名前があったのだ。「スカーレット・ダイナ」と。
「何がスカーレット・ダイナだ!!」
お前の肩書はガーヴェイ夫人だ。ふざけるな。チラシを破り捨て、ホールに突入した。そのまま奥に進もうとしたら、チケットを買えなどというしゃらくさい事を言われた。
「うるさい! 私はアーネスト・ガーヴェイ公爵だぞ!」
しかし、ものの価値のわからない庶民は、寄ってたかって私を外へ押し出した。何たること。いや、こういう時は裏口だ。キャストは裏に詰めているはずだ。私は裏口に回り、同じくスカーレットの名前を呼ばわってみた。出てきた座長と名乗る男は、私を私と思わぬ目で見て一旦引っ込み、もう一度出てきたかと思うとこう言った。
「そんな男は知らんと言っている」
「知らんがあるか! 自分の旦那を知らんとは何事だ! スカーレット! どこだ! 帰るぞ!」
その時、時間になったのか、キャストがぞろぞろと移動のために出てきた。その中にある、ひときわ目立つ赤髪。
「スカーレット! スカーレット! 私だ!」
彼女はチラリと私を見た。目が合ったはずだ、確かに。だが何も言わず、窓の外の鳥でも見たかのようにまた前を向き、スタスタと去っていく。
「やめろスカーレット、お前は公爵夫人だぞ! 大衆の前に出るなんて恥ずかしいマネをするな! 戻れ!」
「恥ずかしいマネか。おいベネット、こいつをつまみ出せ」
座長の命令で私は二度目、劇場を追い出された。
「彼女、人気らしいぞ」
劇団のチラシを手にヘラヘラと笑う、リカルドは全く他人事だ。むしろ私をからかって楽しんでいるように見える。腹が立つ。
「歌も上手くて華がある。次には演劇で役を貰えるらしい。話題性もあり評判は上々だとか」
「その話題性は、私の心理的苦痛の上に成り立っているんだぞ馬鹿者」
せっせと紙にペンを走らせながら、私は文句をつけた。公爵夫人がコーラス・ガールなんて、そりゃあ話題になるだろう。自分を売り込むためとは言え、小賢しいことだ。しかも今度は女優だと? お目出たいもんだ。
私は彼女との離婚を否定しているため、他の貴族たちはこれをただの夫婦喧嘩か、あるいはスカーレットの名を語る偽者の女なのかと思っている。だとしても、私が被るイメージダウンは甚だしい。
彼女に認める手紙にも恨みが籠る。あれから何度も劇場に出かけていったが、スタッフがもう私の顔を見ただけで追い返そうとしてくるので、仕方なく手紙で彼女に直接訴えているところだ。これもそろそろ、三十通を超える。
もう怒っていない、早く帰ってこい。お前の名前も傷がつく。そんなところだとロクな暮らしもできないだろう。私は心配している。
そんなことを何度も書いたのに、あいつはどうして戻らないのだ。ちゃんと見ているのか。
私たちは夫婦だ。結婚した者が長く離れるのは良くない。お前だっていらぬ勘ぐりを受けてしまうぞ……
そう書きかけて、私はふと手を止めた。
そもそもは彼女が他の者に色目を使ったからこんなことになっているのだ。もしかして男好きの彼女は、やっぱり誰か他に好きな男でも出来たのではないか。
今までは浮気をしていなかったとしても、市井に出ればそこら辺のつまらん男に囲まれる。
もしかしてもう貞節を欠いているのではないか。容姿を褒められチヤホヤされて、バカになってしまう可能性はある。女は見せかけだけの言葉に弱いものだ。
そう思うと、居ても立っても居られなくなってきた。
私はペンを放り投げ、出かけると言ってリカルドを叩き出した。急いで劇場へ行く。ちょうど開演前の時間だったのでチケットを購入した。私を見つけたスタッフが早速寄ってきたが、「見に来ただけだが何か」と、チケットを振りかざしてみせるとしぶしぶ中に通してくれた。
そうでもしないと入れてくれないからだが、言われてみれば観劇するのは初めてだ。
急いでたものでうっかり一般席を買ってしまったが、良席には貴族たちも一杯いる。ここであまり事を荒立てるのは良くないかもしれないと、私は大人しく椅子に座ることにした。
幕が開く。
話の筋はくだらないものだった。全く、くだらないものだった。
何の罪もない、若く美しい伯爵令嬢が、不実な婚約者に婚約を破棄されてしまう。だが、実は家の力は女の方が強く、婚約破棄するとなると男が破滅するというのだ。そこに気づいた男は慌てて許しを乞うも、きっぱりと突っぱねられて女は幸せになり、男を誘惑した他の女もろとも、浮気者どもは地獄を見る……という話。
くだらないだろう? なるほど観劇する女が好みそうな、客に媚びた話だ。
しかもこの伯爵令嬢役を務めるのだ、スカーレットが。私への当てこすりに違いない。
ヒロインであるスカーレットはすぐに舞台に現れ、自慢の喉を披露し始めた。
確かに、歌は上手い。親譲りなのだろうか。しかしやはり、話の頭の悪さが気になってどうしようもない。相手役の伯爵がたいしていい男でもないのが、さらに腹だたしく思えてきた。
伯爵令嬢のキャラも、また、良いとは思えない。
まず髪だ。しばらく前に私が切ってしまったため、おおよそ真っ当なレディの姿ではない。
それなのにカツラも使わず、まだ肩に届くだろうか程度の長さでブッツリと切りそろえただけの恥ずかしい姿を晒し、堂々と人前に出られるスカーレットの肝にも驚いたが、逆にそのイメージを利用して、随分と蓮っ葉な伯爵令嬢を演じていた。
男をぶった切り、コケにして、嘲笑う。最近はそんなものが好まれているらしい。頭がクラクラしてきた。確かにそれならこの頭は、真っ赤な色味と相まってインパクトが強いだろう。
劇は進み、男が転落するシーンになってきた。あの時の衝撃を、私は忘れない。
スカーレットはスカートをひらめかせ、そこにあったスツールに音高く片足を乗せた。そして決め台詞を叫んだのだ。
「バカじゃないの!?」
その瞬間、私は目が覚めた。
男はあわあわと狼狽え、女は得意満面になっている。そのシーンが、何もかも耐え難かった。
セリフとはいえ、また男にそんな言葉を吐くのか、スカーレット。
どうして私はこの顔を綺麗だなどと思ったのだろう。
とんだアバズレだ。破廉恥だ。跳ねっかえりだ。それに、なんて下品な赤毛。こんな劇場の舞台で、大衆に脛を晒して。これは男が守るべき淑女じゃない。町に立っている、娼婦と変わらない。ああ、祖母の言った言葉が正しかったと、私はしみじみ思い知った。まさにその通りだ。この女は公爵夫人なんかではなかった。汚らしい娼婦だ。こうして男を誘っているのだ。
嫌悪感に負けて、私は席を立った。もう帰って来いと言う気もなくなった。
スカーレット、残念だったな。お前の舐めた態度のせいで、私はもうお前に気がなくなったんだぞ。
考えてみれば、私は離婚していたんだった。手回しがいい。だったら再婚するのも問題ないはずだ。
伝手を使い、新しい妻を娶った。エレナ・パンドールは侯爵家の三女だ。大人しく従順だというので、まず問題はないだろうと貰ってやった。スカーレットと違い侯爵令嬢でもある、少しは躾が行き届いているだろう。
スカーレットには最後の手紙を書いた。
強情を張れば私が帰ってくると思ったのかもしれないが、私は新しい家庭を持ったのでそれはなくなった。少しは反省して、私をアテにせず一人で生きるように。
エレナは確かに大人しい女だった。
私の後をそっとついてくる性格で決して出しゃばらない。これに比べればスカーレットはやっぱりダメだ。鼻っ柱が強かった。エレナのような女でなければ。
ある日ふと思い立って、私はエレナを観劇に誘った。
スカーレットが主役のあの演目はまだ続いている。なんでも世間に大ウケしていてロングランだとか。信じられない。世の中、案外頭の軽い者が多いんだな。
今日もスカーレットは舞台で、私はふしだらな女だと叫んでいる。みっともない。こんなところで体を張って稼がないとならないなんて、ご苦労なことだ。だが仕方がない、自分で選んだ道なのだからな。私を失った人生を、じっくり後悔すればいいだろう。
滑稽な笑い話の登場人物にされた哀れな女を見終わった後、私は妻にどうだったか聞いた。
「面白い話だったわ」
劇の余韻にぼうっとしていた妻はそう答え、当然、私は彼女を叱り飛ばした。
あれはいけない女の見本だ。決して賛同してはいけない。夫を支え、尽くしていればまず間違いはないのだから、自分が偉いと勘違いして好き勝手する考えの足りない女は、最後に身を持ち崩すことになる。お前だって私がいないと生きていけないだろう?
もし道を踏み外せば、お前もああやって人前に立って、自分の身を売っていかないとならなくなるぞ。
この脅しが利いたのか、エレナは青い顔をして頷いた。
それからしばらく私は、「哀れな女の末路」を見せるために、頻繁にエレナを連れて劇場に足を運んだ。
いい反面教師だ。何度も教育を重ねるうち、エレナは私の文句に付き合ってスカーレットを嘲笑うようになってきた。彼女は彼女で、昔の女のどうしようもない姿を見て暗い喜びに浸ることが出来ているようだった。女はねちっこいな。怖い怖い。
その分、私への感謝と愛も深まって、夫婦仲は良好だ。その辺り、むしろスカーレットに感謝したいくらいだった。
ところでどうも最近、領地の収支報告が芳しくない。
ここでは大きな染色工場を抱え、工員が住まうことで税収を稼いでいるのだが、原材料の綿花や絹糸が軒並み値上がりしているとのことだ。
どうするのかと問われて、私は眉を寄せた。
「どうするもこうするもあるか。がんばるよう工場長に言っておけ」
とはいえ、外交は工場長などにはできまい。私は主な仕入れ先の貴族たちを呼び寄せ、パーティを開いた。その途中で気が付いたが、生産地はほぼダイナ伯爵の領地ではないか。嫌な予感しかしない。
「スカーレットによく頼まれていたからねえ。彼女は実にいい外交官だったね……ああ、離婚したんだっけ」
しこたま飲んだ酒のせいで言葉をオブラートに包み忘れた相手は、思ったことを好きに言う。
「彼女に頼まれたからご贔屓にしていたんだ……今が適正価格なのさ。他にも卸し先はあるからな。値下げ? そうだなぁ、考えておこう」
考えるだけで済ませるパターンだ、これは。皆、似たり寄ったりの反応だった。
私はエレナに言った。
「お前、もう少しお客様に愛想よくしないか」
エレナはいい妻だったが、社交界では十人並みだった。彼女より目立つ女は一杯いたし、なによりスカーレットには遠く及ばない。
だが、それでは困るのだ。客に上手く酒を振る舞い、美貌と話術で楽しませてやってもらわないと……
「どういう意味ですの、旦那様」
エレナは傷ついたと言わんばかりの態度で聞いた。
「私に酌婦のようなことをしろと言うの? 今まであんなに、男に媚びる女はダメだって馬鹿にしてたではないですの」
「そうではない、相手に機嫌よく話を合わせてやったりだな」
「だから今までは口を噤んでいろと仰ってたではありませんか。急にそんなこと言われても出来ませんわ」
「貴族ならその程度、嗜みではないのか? スカーレットはやってたぞ」
とたんにエレナはワッと泣き出し、走って部屋に閉じこもった。クソッ。面倒くさい。愚直というのも考えものだな。
じりじりとした逼迫具合は季節が変わっても良くならず、かえって被害は拡大していった。
あらゆる産業が「スカーレットがいたら……」と言い出したのだ。
「今のアンタには恩義は何もない。残念だが」
そう言い切った、命知らずな平民すらいた。機械技師だったので黙っていたが……そうでなければ無礼討ちだったろう。織機の修繕に、高額むしり取って帰っていった。腹立たしい。
エレナは相変わらず役に立たない。どうにも手の打ちようがなかった。
最近、観劇をしていない。
そのせいもあるかもしれない、と私は反省した。
確かにスカーレットはアバズレだが、人を誑し込むのは得意だ。またエレナに観劇をさせて少しは学ばせよう、と思った。
実は、しばらくは足しげく通い、二人でスカーレットの悪口を言いあっていたのだが、エレナが段々と劇場に行きたくなさそうな素振りを見せ始めたのだった。
自分一人でも出かけていたが、それにもエレナはいい顔しない。仕方なく私も行かなくなり、劇場からはすっかり足が遠のいていた。
きっと同じ演目で飽きたのだろう。今度、タイトルも変わるらしいし、ちょうどいい。
そんな想いで気軽に誘ってみたのだが、これが大失敗だった。どえらい剣幕で噛みつかれた。いきなりだ。
クッションが飛んできた。本が飛んできた。ワーワーと泣き喚く、エレナの声は何を言っているのかわからなかった。
ようやく聞き取れたところによると「浮気者!」ということらしかった。何故。
「何でずっと通ったりしてるのよ、別れた女の元に!」
鼻を真っ赤にして彼女は叫ぶ。
「まだ好きなんでしょう! 前の奥さんのこと!」
それからベッドに倒れ伏し、これ見よがしにわあわあと声を上げ、こっちの言葉に耳も貸さない。
ほとほと困り果て、もう知るかとその日は放っておいたら、なんと翌日実家に帰ってしまった。
パンドール家から使いが来て、実に面倒くさい尋問を受けるハメになった。しばらく向こうでゆっくりするそうだ。もうどうとでもなれだ。
むしゃくしゃ腹を抱え、私は劇場へ馬車を向けた。スカーレットの哀れな姿でも見て嘲笑ってやるためだ。他人の不幸も、自分がまだマシな気分になりたいときには役に立つ。私は紳士だが、稀にはそんなカンフル剤が要るような、弱った時くらいあるのだ。
例の劇団は河岸を変えていた。
街の中央にある大劇場で公演するらしい。人をコケにしたあの作品で相当儲けたのかもしれない。腹立たしいかぎりだ。
出されたチラシをつい受け取ってしまった。スカーレットは、また主役を張るようだ。それはいいとして、なんと今日は国王も観劇にお越しになると特筆していた。騒いだり暴れたりすると即座にしょっぴかれることになるぞという、警告文だ。
……どうも名指しで牽制されている気がするが、まあいい。国王に不敬を働くことがマズいくらい、子供でもわかる。大人しくしておくさ。
それにしても、王にご来訪いただくほど格を上げたのか。あの劇団が。偉くなったもんだ。
中に入るともう大入り満員で、ボックス席も全部埋まっていた。仕方なく、庶民に交じって普通席に入る。大劇場は天井も高くて、普通席でもさほど息詰まりしないのがいい。演目が始まった。
観客からの、割れんばかりの拍手と共に迎えられたのは……スカーレットだった。
拍手、口笛、待ってましたと言わんばかりの歓声。私の知っている彼女。
いや、スカーレットはスカーレットだったが、私の認めるスカーレットだった……というか。
正直に言おう。ここで少し、ドキリとしたんだ。
スカーレットは髪を伸ばし、きちんと結い上げていた。「伯爵令嬢」役の時より、ドレスもいいものになっている。今日は悲恋の王女をやるのだ。いや、役はどうでもいい。
あの頃のスカーレット、結婚した時のスカーレットだ。出会った頃の、みずみずしい笑顔を湛えている。これが恋する表情なのだろうか。あの時、彼女は恋をしていたのだろうか。
まだ好きなんでしょう、というエレナの声が浮かぶ。
否定したかったが、今はもう高鳴る胸を誤魔化しきれないと、自分は自分に白旗を上げた。
そうだった。私はスカーレットが好きなのだ。あの頃のような美しさ、自信に満ちた笑み。
大人しく劇を見る観客も、彼女が舞台に上がるととたんにワッと沸く。あの頃の舞踏会のようだ。人気者だった。今や舞台に国王を迎えるほどに、皆に愛されている女優なのだ。向学心のないエレナより、よほど素晴らしい。
私はこの素晴らしい女が、私の妻であることに、深く自尊心を満足させた。
やはり私の妻は彼女しかいない。
劇が終わった。座長が出てきてヘコヘコと頭を下げている。スカーレットも、貴賓席に手を差し伸べて礼を申し上げていた。観客からの惜しみない拍手は、いつまでも鳴りやまない……
その日は……やはり警備も厳しかったし……大人しく帰り、代わりに手紙を書くことにした。
懐かしいな、昔はこうしてせっせと気持ちを届け、スカーレットの関心を引いたものだ。スカーレットも、あの時の気持ちを思い出せばいい。
公爵夫人スカーレットへ。
そう呼ばれるのは久しぶりだろう。またその身分に戻れるとしたら、嬉しいだろうと思う。私はお前をまだ愛せる用意がある。お前の部屋は手つかずのままだ、いつ帰ってきてもいい。辛かっただろう。もう身売りのマネはしなくていい。私と愛し合い、公爵夫人として采配を振るってくれれば、それで全てが上手くいくんだ……
愛の言葉を綴っていると、次々に溢れ出して止まらない。手紙は日課のように書いて、毎日のように出した。
そしてその間、確かに思い返してみれば、せっせとデスクに向かう私の横に立って、エレナが何か言ってたような気がする。
私が何と返したかも、もう覚えていない。いつの間に家に帰っていたのかも気が付かなかったし、また居なくなっていたのも気が付かなかった。
私たちは離婚していた。パンドールの家が全て手続きを済ませたらしい。離婚に際して、私が了承したとの意向を押し通したせいだ。どうやら生返事をしたらしいが、意識がない時のことを持ち出されても困る。
まあ、いい。却って都合がいい、私にはスカーレットがいるのだ。
もうスカーレットのことは諦めた方が、などと言っていたリカルドにも生返事をしていたら、これもいつのまにか居なくなっていた。馬鹿馬鹿しい。女にとってこんなありがたい申し出があるか。ハイと言うに決まっている。
私はご機嫌にペンを置いた。スカーレットへの愛を綴った手紙がまた出来上がる。
早速手紙を出そうと思って執事を呼んだら、申し訳なさそうに銀の盆を捧げ持ってきた。
「何だこれは」
「差し戻されたお手紙でございます」
紐に括られた手紙の束は、確かに今までスカーレットに認めた手紙だ。
「なんだこれは。どういうことだ」
「劇団宛てに出されていたからかと思われます。舞台は十日前に千秋楽を迎え、今は休演の状態でございますが……スカーレット様は劇団を辞したようでございます」
「なんだと」
手紙は十枚近く。確かに、劇団にいないなら届かないに違いない。
「スカーレットが今どこにいるのか知っているか?」
女一人の住処など割るのは難しいと思ったが、ダメ元で聞いてみた。すると執事は「はい」と答えたのだ。少し驚いたが、なら馬車を回せと命令した。今後こそ、迎えにいかなければならないだろう。
私は知らなかったが、大女優の住所として案外有名だったらしい。
スカーレットの住まいは、町の一等地にある大屋敷だった。ファンがよく口笛を吹いたり、花束を届けたりするらしい。
私は夫であるので、堂々と馬車を乗り入れた。玄関に立って案内を乞う。
出てきた老執事はしかつめらしい顔をこれっぽっちも動かさず、「奥様は只今おいでになりません」と言った。
「いつ戻る」
「お答えできません」
「待たせてもらおう、通してくれ」
「それは出来かねます」
「私はスカーレットの夫だぞ!」
「そのような事実はございません」
埒があかない。いいからどけ、と揉みあいになりそうになった、その時。
「ダンボルド、いいわ。私が話すわ」
声がして、執事が退いた。開けた視界に、スカートの裾を引き、二階からゆったりと階段を下りてくるスカーレットが見えた。
「今居ないんじゃなかったのか」
「そう言うように頼んだのよ、もちろん」
いかん、つい噛みつくところから始めてしまった。適当にあしらわれるのは気分が悪い。
だが、当初の目的を思い出して、私はぐっと堪えた。
「やっと話をしてくれたな。私の気持ちはもう分かっているだろう。さあ、帰ろう。私たちの家に」
「気持ちはよく分ってるわ。何を言っているのかは分からなかったけど」
「手紙は書いたぞ……当然、戻ってくるだろう? 早く戻ってきて、私の手伝いを少し頑張るだけでいいんだ。そうすればお前だって、何の心配もない、贅沢な暮らしができるようになるんだぞ」
「手伝いを少し……手伝いを少し、ねぇ。今は贅沢できないの? 頑張らないとならないくらい? ねえガーヴェイ公。もしかしてあなた、噂以上に資産がヤバいのではなくて?」
「他人行儀に呼ぶな!」
思わず声を荒げたが、噂になっている、の方に気が付き、少し慌てた。
「大したことはない。いや、そんな事実はない。お前が戻ってくればすぐ解決するものだし、問題などない」
「そうねえ、仮にも公爵ですものねえ。身代が傾くほどの負債などないわよね? 嗜んでいたギャンブルに深入りしない限り?」
スカーレットは含み笑いを零した。
「ヘンな見栄を張るから降りられないんでしょう、自分が弱いのは自覚して適当にやめればいいのに、困った人。それで『お前が戻れば』ですって? 私に遊ぶ金を稼がせようっていうのね」
「もちろん、今後は控えよう」
私は急いで言った。
「お前にも宝石を買ってあげよう。周りの貴婦人が羨むほどの大粒のダイヤはどうだ。新しいドレスでもいい。ともかく、恥ずかしいマネをして金を稼がなくて済むんだぞ、スカーレット」
「女優をやるのは楽しかったわ。天職かもね。歌も好きだし、自分ではない何者かになれるのも楽しかったわ。子供の頃、母がよく歌の歌い方を教えてくれた。身に付けていてよかった。こうして自分の身を助けているのだもの。でも、一旦終了……私はまた人生で、妻の役を頂いたのでね」
「スカーレット」
私は感激した。殊勝なところもあるじゃないか、スカーレット。
「そのために芝居を辞めたのか……迎えが遅くなってすまなかった、さあ、帰ろう。今度は祖母も許してくれるだろう」
「あーぁ、おばあ様! 本当、チクチクと嫌味をこめたお手紙は山ほど頂いていたわ。知ってたでしょう? 知ってて黙っていたでしょう? 私のような血を一族に混ぜたくはないんですって、良かったわねえ、このままさよなら出来そうで。あなたと元鞘なんて、するわけないでしょう? 当然よ。引く手あまたなのよ、私。大女優スカーレットの人気を知らないの?」
「そんなバカな!」
祖母が何を言っただとか、私には関係ないだろう! どうして私まで悪く言われないとならないんだ。そんな話、到底納得できるものではない。
「私はお前の夫だぞ! 私の他に、誰がお前の面倒を見てやれるというのだ! 何しろ私はガーヴェイ公……」
「余の前に立ち塞がる、この者は何だ」
急に背後から声がして、私は振り向いた。
召使たちが一斉に頭を垂れる。スカーレットも階段を下りて、優雅にスカートをつまみ、お辞儀を見せた。
「これはこれは。大変お見苦しいところをお見せいたしました、陛下。お待ち申し上げておりました、どうぞ、奥へ」
挨拶述べたスカーレットにうむ、と頷いて見せた来客は、こちらを一瞥してきた。
私は思わず一歩下がる。それから、慌てて面を下げた。まさか、そんな。
煌びやかな足元と、お付の者たちが通り過ぎていくのを眺めるしかできない。来客が階段を上り、スカーレットが続こうとした時に私は勇気を出して声をかけてみた。話はまだ終わっていないのだ。
「スカーレット!」
スカーレットは振り返り、同じくこちらを見た来客に微笑んでみせた。
「お先に、お部屋へ。すぐに話は終わりますわ」
偉そうな後ろ姿が見えなくなって、やっと私は全身の力が抜けた。思ったより緊張していたようだ。だがそれでも、何と言っていいのか言葉はどもる。
「どう……して……どうしてここにあれが……国王……陛下が」
「言ったでしょう? 私、再婚するの」
数段上から見下ろして、スカーレットは傲然と言い放った。
「お相手は国王陛下よ、文句ないでしょうお偉いお偉いガーヴェイ公。去年の冬に王妃様が身罷ったじゃないの」
確かに、国王は今、寡夫である。まだ若く、男盛りだ……だが、だが……
「文句は……ある」
「へぇ?」
「だって、私たちは夫婦なのだぞ」
「あなたが言い出した離縁よ? じゃあ訴え出てみる? ちょうど陛下もいらっしゃってるし……不良債権は全て没収あそばされて、貴方は牢屋の一等席にお部屋を案内されるだろうけれど? どうする? まだ食い下がる?」
「へ、陛下は関係ない! 私はお前の倫理に訴えているんだ! 私たちは夫婦だった! 一度は神の前で、愛し合うと誓った仲だ!」
そうだ、神だ。たとえ王であっても、ないがしろにはできないぞ。
「それを反故にするというのは、神をおろそかにするということだ! 愛で結ばれた私を置いて他の男と結婚など、ダメだ! 浮気だ! 一度は愛した相手なら、お前は最後まで添い遂げるべきだ! 夫と離れて別に生きようなんて、恥ずかしいことだぞ! 貞節を守れ、それが道理ってものだろう!」
スカーレットはニッコリと笑い、歌うように執事を呼んだ。
「ダンボルド、お茶をもう一席分、用意して頂戴。ガーヴェイ公爵も陛下にお目通り願っているわ。とびきり美味しいものをご用意してさしあげてね、最後のお茶になるかもしれないから」
クソッ。ああ、わかった、私の負けだ。素直にならなかった私が悪いのだ。
私は息を整え、真心を込めて思いの丈を彼女にぶつけた。その輝く瞳を真っ直ぐに見つめ。
「スカーレット! ……愛してるんだ」
彼女は答えた。
「馬鹿じゃないの?」
こういうものも書いておりました、よろしくね
「復讐乙女は二度、婚約を破棄する」
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