#3
サオリが、2月15日にクロラビを卒業していた。
2月15日――僕が滑り止めの大学を受験していた日。サオリはなんの前触れもなく、卒業コンを行うこともなく、ひっそりとアイドルを辞めていたのだ。
大学の合格発表日にサオリの卒業を知って以来、僕は現場に行けていない。だからSNSで流れてくる情報しか知らないが、クロラビのメンバーも運営も、サオリに言及することを避けているらしい。まるでサオリというメンバーなど、はじめから居なかったかのように。
「たぶん、あの日にはもう……辞めるって決めてたんだろうな」
最後にサオリに会ったの日ことを思い出す。あの日――新曲『Dreamer』の、CDお渡し会の日。別れ際に手を振ってくれたサオリは、なぜか泣きそうな顔をしていた。「またね」という言葉とともに。
それは、自分にもファンにも嘘をつけないと言った彼女がついた、最初で最後の嘘だったのだ。
でも今更それに気づいたって、僕にはどうすることもできない。
だって僕はもう二度と、サオリに会えないのだから。
「せめて『大学受かった』って、伝えたかったな……」
大学に入れたら、浪人していた頃よりもっともっと、現場に足を運べるのだと思っていた。バイトをして、サオリに積んで。接触で推しのパフォーマンスを褒めて、たわいもない会話をして。そういう毎日が待っているのだと……僕は信じて疑わなかったのだ。
そうして月日は流れ、4月になる。
大学の入学式の、前日。僕はライブハウスCOSMOSを訪れていた。
「訪れた」って言っても、中に入るわけじゃない。外から思い出を眺め、別れを告げに来たのだ。
「たしか、このあたりだったよな……」
この1年間通いつめた、繁華街の一角。
はじめてサオリに会い、彼女がビラを渡してくれた場所に立った。雑踏のなか立ち尽くす僕を、通り過ぎる人々が不思議そうに見てくる。
「もうすぐ、あれから1年か……」
もしもあの日、僕がサオリのビラを受け取らなかったら。僕の浪人生活は悲惨なものになっていただろう。
サオリがいたから耐えられた。2週間にいちど、サオリの歌を聴くために頑張れた。そんな1年だった……。
「お兄さん」
誰かから肩を叩かれ、はっと我に返る。
振り返ってそこに立つ人物を認識すると、僕は驚いて目を丸くした。
「ゆ、ゆずちゃむ!?」
そこに立っていたのは、クロラビいちの人気メンバーだったのだ。
ピンク色の衣装を身にまとい、たくさんのビラを両手に抱えて。ゆずちゃむは心配そうな顔で僕を見上げていた。
ビラ配り中のアイドルと長話するのはよくない。そう思った僕は、軽く会釈してその場を立ち去ろうとしたけど、ゆずちゃむは構わずに話を続けてきた。
「やっぱり、サオリ推しのお兄さんだよね。名前はたしか……のんたん、だっけ」
そう言われて、僕はちょっぴり驚く。てっきり、ゆずちゃむは他メンバーのオタクのことになんて興味ないし、知らないものだと思っていたから。
「う、うん。僕がのんたんです」
僕が頷くと、ゆずちゃむは頭の高い位置で結んだ黒髪ツインテールを揺らし、柔らかく微笑む。そこでようやく、僕は今日が金曜日であることに気づいた。
おそらく、今日の夜にライブがあるのだろう。その宣伝のために、昼から夕方にかけてメンバーがビラ配りをしているのはよくあることだ。――そう、あの日のサオリみたいに。
「ずっとライブ来てないよね。……やっぱり、サオリが辞めちゃったから?」
「うん……」
ゆずちゃむにそう問われ、僕は正直に頷く。
僕はクロラビの現場に、クロラビを見に来ていたんじゃない。サオリの歌を聴きに来ていた。
「そっか。つらいよね……」
悲しげに眉根を寄せるゆずちゃむ。その表情は、「ガチ恋釣り師」として作り上げたアイドルの仮面じゃなく、彼女の心からの感情を映しているように見えた。……まぁ、僕がそう思いこみたかっただけかもしれないけど。
「なんで、何も言わずに卒業しちゃったんだろうな……」
ライブハウスCOSMOSを見つめながら、僕は小さく呟く。
会えなくなるって分かっていたら、もっとたくさんのことを伝えたかった。
サオリはSNSをやっていない。サオリに会うには、クロラビの現場に行くしか手段がないのに。そんな彼女がクロラビを辞めてしまったら、アイドルとオタクの接点なんてゼロだ。
僕の言葉を聞いたゆずちゃむは何かを言いかけ、それをぐっと飲みこんだように見えた。サオリよりも10センチくらい背の高い彼女は、大きな黒いカラコンをつけた瞳で僕を見据える。
「……きっとサオリは、のんたんに言ってもらった言葉を胸にしまって、今もどこかにいるよ。のんたんだって、そうでしょ?」
「……うん」
その通りだ。
サオリに……推しに言ってもらった言葉の数々を、僕が忘れるはずがない。
「接触で積み重ねたふたりだけの思い出が、会えなくなってもオタクとアイドルを繋げるんだよ」
こみ上げる涙を、抑えきれなくなった。
……そうだ。僕は知っていたはずだ。
サオリは媚びない。なぜなら、どこまでもファンに誠実だからだ。
――"のんたんを失望させるようなことは、絶対にしない。だから私を信じていて"
接触で、サオリはそう言ってくれた。だから僕は信じる。信じなくちゃいけないのだ、推しの判断を。
サオリが何も告げずに僕の前から姿を消したのは、彼女が「その方が良い」と判断したから。だから僕は、サオリのオタクは、彼女が隠したそれ以上を知る必要はないのだ。
それが、僕と彼女が築き上げた信頼の証だから。
「これまでのんたんが見てきたサオリのこと、どうか信じてあげてね」
ゆずちゃむがビラを差し出してくれる。
僕はこのあとのライブには行かない。それはゆずちゃむも重々承知しているはずだ。それでも、僕はこのビラを受け取らなくちゃいけないと思った。
「……ありがとう、ゆずちゃむ」
ビラの写真に映る女の子は、6人。オレンジ色のあの子はもういない。
駅への道のりを歩きながら、僕は年甲斐もなくぼろぼろ泣いてしまった。
◇ ◇ ◇
大学に入学式して、はや数ヶ月。最初は慣れなかった新生活も、慣れてくればルーティンと化していた。
特に面白くもない授業を受けて、たまにサボって。授業が終わったら一人暮らしの友達の家で飲んで、ゲームに明け暮れる。
サークルは軽音楽サークルに入った。バンドを組んでボーカルをやっている。
僕にとって音楽とは「聴くためのもの」で、自分でやってみようとは思わなかったのに。「やってみたい」という気持ちが芽生えて、実際にチャレンジできたのは、サオリが「まずは一歩踏み出して」と歌っていたからに他ならない。
――サオリは今、どこで何をしているのだろうか。
ゆずちゃむと話したあの日以来、僕はライブハウスCOSMOSに行っていない。クロラビ用SNSアカウントも消してしまった。
他の推しを作ろうかと思ったけど、そもそも推しって「作る」ものじゃないし。それに、サオリ以上に推せるアイドルなんてこの世に存在するのだろうか。
「おーい、広瀬! なにぼーっとしてんの?」
バンド仲間の声が聞こえて、僕ははっと我に返った。
「もしかして緊張してる? しっかりしてくれよボーカル!」
――そうだ、もうすぐ僕らの出番だ。
6月某日。僕らのサークルは大学近くのスタジオを借りて、新入生ライブを行っていた。……まあライブと言っても、集まるのはサークルのメンバーとその身内だけで、部外者はほとんど来ないのだけど。
いよいよ僕らの出番がやってきて、心拍数が一気に上がる。高校時代、野球部として試合に出たときはこんなに緊張しなかったのにな。
照明を浴びながら、練習してきた曲を必死に歌う。ボーカルって他のバンドメンバーの姿が見えないから、ちょっと心細い。
……ああ、つくづく、サオリって凄かったんだな。
ここよりももっと広いライブハウスで、もっと大勢の前で。感情をむき出しにして、彼女は全身で音楽を表現していた。対する僕は、音程を外さないようにするだけで精一杯なのに。
サオリのあの歌声は、生まれながらの才能、たゆまぬ努力、そして彼女の歩んできた人生が作り上げたものだ。
サオリは僕にプライベートを明かすことはほとんどなかったけど、きっと波乱万丈な人生を送ってきた人なんだろうと思う。
対する僕は……このまま普通にバイトをして、普通に単位をとって、普通に大学を卒業する。そしてどこかの会社に入って、たぶん営業マンになって、会社で出会った感じの良い人と結婚するだろう。
僕が歩むのはそういう人生だ。ごく平凡で、なんてことない人生。そんな僕がつくる僕の歌声は、サオリのそれには到底及ばない。
別にそれで構わない。構わないのだけれど……。
◇ ◇ ◇
新入生ライブは無事に終わり、片付けをして、僕はスタジオを出た。打ち上げに誘われたけれど、今回はパス。初めてのステージで緊張して気疲れしてしまったのだ。
「はぁ……」
すっかり暗くなった時間。駅への道のりを歩きながら、小さくため息をつく。
どこか満たされない自分を自覚していた。
歌うのも、サークル仲間と音楽の話をするのも楽しい。今後もライブはたくさん予定されているし、ステージに立てる機会は何度も巡ってくるだろう。
それでも……もし今後どこかで、サオリに出会ったとき。今のままじゃこの大学生活を、彼女に誇れる4年間にすることはできない。
もっともっと、夢中になってもがける何かが欲しい。
――"のんたんは何がしたいの?"
あのときのサオリの問いかけに、僕はまだ答えられない。
地面に落ちていた視線を、なんとか持ち上げる。――と、少し離れた先にある自販機のそばに、小柄な女性が立っているのを見つけた。
ウェーブのかかったセミロングの茶髪に、かっちりと着こなした黒いパンツスーツ。サオリより少しだけ背の高そうなその女の人は、僕の顔を見るなりずんずんと近づいてくる。
「キミ、ちょっといいかな?」
人気のない夜道にパンプスのコツコツという音を響かせ、女性は僕の目の前までやってきた。
「は、はい?」
な、なんなんだこの人。僕に何の用が……?
訝しむ僕をきらきらした瞳で見上げ、彼女はこう言ったのだ。
「キミ、アイドルやってみない?」
と。