先輩、桜リレーしましょう。
「先輩の家の近くにいます。少しだけ、出てきませんか」
後輩のケンヤからそんなメッセージが入った。
気付けばもう3月も終わりかけていた。
昨年から続いた色々なごたごたと、それに伴う自分の能力の無さにすっかり精神をすり減らした私は、大学のサークルにも顔を出さず、バイトも辞め、ここのところ半ば引きこもりのような生活を送っていた。
たまに入っていた友人からの連絡もどんどん少なくなっていったが、それでいいと思っていた。
人間関係の繋がりが薄くなるほど、身軽になるほど、自分の心も自由になる気がした。
けれど、現実はそんな希望とは裏腹で、自由になったはずの私の心にはいつも鬱屈した暗いもやがかかっていた。
サークルの一年後輩のケンヤは、いつもへらへらとした緊張感のない、今どきの感じの男の子だったが、不思議とそういう子の多くにありがちな身勝手さや傲慢さがなくて、私とも馬が合った。
まだ私が色々なことに前向きだったころには、二人きりで居酒屋を朝まではしごしたこともあった。
その時はやけにべたべたと私に甘えてきて、閉口したのを覚えている。
それでもサークル内で何の噂にもならなかった程度には、私は女と見られていなかったわけだけれど。
「めんどくさい」
私がそう返信すると、愕然とした表情で白目を剥いたウサギのキャラクターのスタンプの後で、「可愛い後輩が家の近くまでやって来ているというのに……?」というメッセージが返ってきた。
こいつ、何で私の家を知ってるんだろ。
一瞬そう考えた後で、ああ、そういえばいつか飲んで遅くなったときに、私の家まで送ってくれたことがあったっけ、と思い出す。
そんなことを考える間にも、私の指はスマホの上を滑る。
「家の近くってどこよ」
「えーと、ここはですね」というメッセージの後で、きょろきょろと辺りを見回すウサギのキャラクターのスタンプ。それが絶妙に可愛くなくて腹立たしい。
「三丁目児童公園、ですって」
そのメッセージに私は一言、「知らない」と返す。
「出れば分かります」
次に送られてきたウサギは、真剣な顔で私を見つめていた。
「すごく大きな桜の木がある公園ですよ」
ああ、と思った。
そういえば、もう桜の季節なのか。
去年はサークルで花見なんかもしたっけ。
そうだ。ケンヤが私を送ってくれたのはその時だった。
別れ際に、ケンヤがその公園の桜を見上げて、こんなすごい桜があるんですね、来年はここで花見しましょうよ、とはしゃいだ声で言ったのだ。
やだよ、ばか。近所迷惑で怒られて気まずいの私だけじゃん。
自分がそのときそう返答したことまで思い出した。
あの公園か。
いくらケンヤとはいえ、他人と会うということ自体ひどく億劫だったけれど、桜を見たいという気持ちの方がわずかに勝った。
「30分待てる?」
私の返信に、ウサギが両手で、頭の上で大きな丸を作った。
本当に、可愛くない。
「先輩。久しぶりです」
久しぶりに会ったケンヤは、私の記憶の中のケンヤとは少し髪型が変わっていた。
「また髪型変えたんだね」
人と話すのは何日ぶりだろう。
私がぼそりと言うと、ケンヤは嬉しそうな顔で頷いた。
「俺んち、親父もじいちゃんもみんな禿げてるんで。髪で遊べるうちに遊んどかないと」
「前の方が良かったかな」
「じゃあ明日戻します」
「いいよ、別に」
私は、公園の大きな桜の木を見上げた。
桜の花の色は不思議だ。
遠くで見るとピンクなのに、近くで見上げると、ほとんど白にしか見えない。
「今年も桜が見れたよ」
私は言った。
「ありがと、ケンヤ」
「少し歩きませんか」
ケンヤは笑顔で言った。
「天気もいいし、散歩しましょうよ」
「いや、いいよ」
私は首を振った。
「目的もなく歩くのって苦手なんだ」
自分のそういう性格がいろいろと軋轢を生んだことは分かっている。だけど、変えられないものは仕方ない。
きっと自分にはろくな未来は待っていない。
わざわざ心配して訪ねてきてくれた後輩の男の子の誘いを、こんな無下に断るような女には。
だけど、ケンヤはそれでもにこにこと笑う。
「そう言うと思ってました、先輩なら」
「え?」
「桜リレーしましょう」
「は?」
意味の分からない言葉に、思わず険しい顔でケンヤの顔を見返す。でもケンヤはそんなことでは怯まない。いつものへらへらとした表情で、もう一度繰り返した。
「桜リレーしましょうよ、先輩」
「……何それ」
「あれ? 聞いたことないですか?」
「もうテレビもネットもほとんど見ないから」
最近バズった言葉か何かなのだろう。ケンヤはいつも、流行にも敏感だった。
「そういうのには出てません」
ケンヤは言った。
「俺が考えたゲームなんで」
「ゲーム?」
「はい」
ケンヤは桜の木を見上げる。
「今、この桜の木の下にいるじゃないですか。ここから見えるほかの桜の木ってないですか」
「え?」
桜の季節だ。華やかなピンクの綿菓子みたいな花は、すぐに見つかる。
私は右手を挙げて指差した。
「……あそこ」
比較的大きな住宅の庭に一本、公園の桜とは比べものにならないくらいにささやかな桜の木が生えていた。
「あー、あそこ行きますか。先輩、攻めますねぇ」
「……何が」
言っている意味が分からない。
私がじと目で睨むと、ケンヤは楽しそうに笑う。
「要は、この桜が見える範囲で、次の桜を探すんです。で、次の桜が見える範囲からその次の桜を。そうやってどんどん桜を探していって、どこまで行けるか試してみようというのが俺の考えた桜リレーで、先輩に今日来ていただいた趣旨です」
「一人でやりなよ」
「えー、寂しいじゃないですか。一人じゃ」
ケンヤは笑顔でそんなことを言うが、私は知っている。ケンヤには、その程度の遊びに付き合ってくれる友人などいくらでもいるということを。
「だから、別にこの木の真下にこだわらなくてもいいんです。この木の桜が見える場所から、次の桜が見えれば」
そう言いながらケンヤが走り出す。それを追いもせずに黙って見ていると、ケンヤは曲がり角で立ち止まって大きく手を振った。
「ほら、先輩。こっちこっち」
やるなんて言ってないのに。
でも、ここでさっさと帰るほど非情にはなれなかった。
ため息をついて私はケンヤのところまで歩いた。
「何?」
「ほら」
ケンヤが指差す先には、公園の桜ほどではないけれど比較的大きな桜の木が見えていた。
「この位置なら、公園の桜もあそこの桜も見えるでしょ」
ケンヤは得意そうに言った。
「これでバトンが繋がりました」
行きましょう、と言ってケンヤが走り出す。
「次の桜は、先輩が見つけてくださいね!」
付き合う気はなかったのだが、まあどうせすぐに桜が見付からなくなって終わるだろうと高をくくっていた。
それで、最初の二、三本は付き合ってやるか、と思ったのが運の尽きだった。
私は舐めていた。
日本人の桜への愛を。
桜の名所でも何でもない、ただの住宅街のこんな場所でも、桜はその目立つピンクの花をそこかしこに覗かせ、リレーを繋いだ。
うへ、まだ続くのかよ、とうんざりしていたが、あるところを越えてからはだんだんと楽しくなってきた自分に気付いていた。
ケンヤがずっと楽しそうなせいもあった。
まるで子供みたいに、先輩、あそこにある、とはしゃいだ声を上げる。
「ケンヤ、向こうの桜の方がいいんじゃない」
「あ、本当だ。先輩、よく気付いたっすね!」
そんなことを言いながら、二人で次の桜まで歩く。
身体を動かすごとに、自分の中に沈殿していたどろりとしたものが薄れていくような気持ちになる。
元の桜がギリギリ見える地点まで足を延ばし、なるべく遠くの桜を選ぶ。
そうすることで、距離を稼げる。
だが三本の桜を選べる地点で、ケンヤが選んだ桜が袋小路のどん詰まりに咲いていたせいで、私たちはどこにも行けなくなり、リレーは終わりを迎えてしまった。
「あれ、次の桜がどこにもない」
ケンヤは困ったように周囲をきょろきょろと見まわす。
「くそ、ここまでかな。いや、そんなはずは」
「さっきのところに戻ろうか」
私が声をかけると、ケンヤは悔しそうに頷く。
「俺の決めたルールでは、後戻り禁止なんですけどね。仕方ないですかね」
その顔が本当に心から悔しそうだったので、私はもう一度辺りをぐるりと見回した。
日本人の桜愛を舐めてはいけないと、さっき思い知ったばかりではないか。
「あ、ケンヤ」
「はい?」
「あれ」
私が指差した先を、ケンヤが訝し気に見つめる。
「え、どこっすか」
「ほら。あの建物の陰」
「え? え?」
ケンヤはますます困惑した顔をする。
「ないですよ、桜」
「見えるでしょ。ちらっと、ピンク色が」
「え? あ、ああー! あれか!」
ようやく見えたようで、ケンヤも大きな歓声を上げた。
建物の陰にごくわずか、ちらりとピンク色が覗いていた。
あれはきっと、伸びた桜の木の枝の先っぽだ。
「行きましょう、先輩。あ、でもあそこってどうやって行くんだろ」
言いながら、もうケンヤは駆け出していた。
「わあ」
思わず私もそう声を上げて足を止めた。
私が見つけた枝先の桜は、川沿いに咲く桜並木のうちの一本のものだった。
私たちの目の前に、見渡す限り川沿いをどこまでも続くピンクの絨毯のような桜が広がっていた。
さっきまでほとんど人とすれ違わなかったのに、川沿いには花見を楽しむたくさんの人の姿があった。
「はは、こりゃすげえ。先輩、これならどこまでも行けますね」
ケンヤがそう言って私を見た。
「このまま海まで出れちゃいますよ」
「そこまでは無理でしょ」
「いや、行けますって」
興奮したようにそう言ってから、ケンヤは不意に表情を改めた。
「先輩」
「何?」
「桜リレー、やってみてどうでした?」
「どうって」
私は肩をすくめる。
「まあ、最初はめんどくさいと思ったけど。意外と続くもんなんだなって、そこはちょっと面白かったかな」
「そうでしょう。先輩ならきっとそう言ってくれると思ってました」
ケンヤは頷いた。
「最初は一本の木から始まって、途中で途切れそうになったりしても、諦めないで続けてたら、ほら、こうして大きな川に出て、きっとそのまま広い海にまで出られるんです」
その言葉は、まるで今の私の状況について言っているようで、思わず険のある声が出る。
「なに、ケンヤ。それ、私を慰めてるつもり?」
「はい。慰めてるつもりです」
ものすごく真剣な顔で、ケンヤは言った。
「生意気だったら、すみません。でも、一つずつ次の目印を探して進んでいけば、きっといつかはこうして大きな川に出られると思うんです。だから、諦めちゃだめです」
本当に生意気だ。
「次の目印って言ってもね。ケンヤ、知ってる?」
私はケンヤの真剣な顔から目を逸らし、咲き誇る桜を見た。
「桜って、すぐに散っちゃうんだよ。そりゃ今は満開の季節だからすぐに見つかるけど。でもいつまでも目印になんてできないんだよ」
「先輩こそ、知ってますか」
ケンヤは私から目を逸らさなかった。
ケンヤのくせに、ものすごく真剣な目で私を見つめていた。
「桜って、毎年咲くんですよ」
ケンヤは言った。
「来年も、再来年も。何があったって、桜は毎年咲くんです。咲かない年なんてないんです」
そんなこと、知ってるよ。
そう言おうとしたけれど、不意に涙で目の前が霞んだ。
慌てて目をこする。
「ちょっとベンチに座りましょう、先輩」
ケンヤが普段の軽い声で言った。
「海まで歩くんだから、少し休まないと。あ、何か飲みますか」
本気で言っているのか、それとも冗談なのか。
ケンヤのことだから、案外本気で海まで歩くつもりなのかもしれない。
桜リレーはそこまで繋がるだろうか。
それは分からない。
「ほら、先輩。何飲みますか」
ケンヤが自動販売機の前で呼んでいる。
今はなんだか、ケンヤと二人なら海まで歩いてもいいような気もしていた。




