竜と少年とはじまりの朝
◇◆◇
「嘘だろォォーーーー!?くそっ…出せよ!」
蹴っても叩いてもビクともしない。フィーグニルの口の中は生温かく、べとべとして気色悪い。しかもちょっと臭い。
俺が必死でもがいている間に、いくつかの異変が同時多発的に起こった。
バキバキと何かが砕け散るような音にガラガラと崩れるような音、強い衝撃に激しい揺れが続く。口の中に飲み込まれた状態だというのにそれらをはっきりと感じられる。
「何が起こってるんだよこれーーーー!?」
破砕音は徐々に遠のいていったが、乗り物酔いになりそうな揺れはなかなか治まらなかった。早くこの最悪の状況から脱出したい。俺は身をよじってなんとか体勢を変える。
「このッ」
フィーグニルの上顎のあたりに狙いをつけて強めに蹴り上げた。途端、奴は盛大にむせて俺を吐き出した。何しやがる、という怒鳴り声が頭上から降ってきた。
風が耳元でひゅうひゅうと鳴り、体に纏わりついた唾液を引き剥がしていく。
「うわあぁっ!落ちてる!?」
そうっと目を開けると、俺は空中を落下していた。
高い山の端から昇ってきた朝日が最初の光を投げかけ、この世界を、俺が見たことのない世界の景色を照らし出していく。
「すげえ……」
遠く、近く、連なる山々の中腹から裾野にかけて緑の森があり、森が途切れると草原やなだらかな丘陵が広がっていた。その合間を縫う銀色に輝く幾筋もの糸のように見えるのは川だろう。川のそばには、村か町か、民家がまとまって建ち並んでいるのも見えた。早起きの住人がいるのか、薄らと細く白い煙が立ち上る家もあった。
銀色の筋のひとつは真下にある湖にも注いでいる。静かな水面に光が反射してきらめいて眩しい。
「マズいっ」
ぐんぐん水面が近づいてきて、俺が大きく息を吸い込むのと着水したのはほとんど同時だった。
夜明けを迎えたばかりの湖水はひどく冷たい。そこへつっ込んだのがきっかけになったのか、突然、俺はなぜあの岩場にいたのか思い出した。いや、正確には俺じゃない、別人の記憶が溢れてくる――――
◇◆◇
小人族の中でも、丘陵地帯に住まう者たちはひときわ温厚で争いごとを好まない性質を持つといわれる。彼らは独自の集落を作り上げ、人間や動物、時には小さな精霊たちを交えて、平穏な日々を過ごしていた。
ところが、数日前に異変、地震が発生した。
幸いにも人や建物の被害はほとんど無かったが、集落に近い山中にある谷の一部が崩れていることが確認されたので、”少年”を含めた数人の若者は調査のため山に入った。そこで偶然にも崖っぷちに立つ真っ白な鹿を見つけた。転落しそうなその鹿を助けたが、逆に自分が運悪く岩場の底へ滑り落ちてしまった――――
その”少年”の名前はロム・グラント。ロムの家族や友人に、彼が見てきたであろう景色……俺にとっては見ず知らずの記憶が俺の物として、一気に大量に押し寄せてきて、頭が痛くなる。息ができなくて苦しくなってきた。耳の奥できいん、と耳鳴りが響く。はやく水から上がらないと!
「はあっ!……やばかった……」
慌てて浅瀬に這いあがり、2、3度深呼吸をしたところへ、ド派手な水飛沫が飛び散り、水面が激しく波立った。
静かな朝の空気を豪快な笑い声が震わせる。
「ガーーハッハッハッ!最ッ高の気分だ!!今!オレは自由だ!!」
俺がロム・グラントの記憶を通して思い出したことがあった。
山のどこかには“災い”が眠っている。
今から236年前に町を一つ焼き尽くしたと語り継がれる、生きた災厄。小人族は言い伝えの中の存在を信じ、恐れていたからこそ山の調査に向かったのだ。
最初に名を聞いた時、引っかかるものを感じた理由がようやく分かった。
「フィーグニル……伝説の、竜」俺は茫然と呟いた。
大きく広げた翼から、まっすぐ伸びた太い尻尾から、長い間閉じ込められていたせいで体についた汚れやホコリがみるみるうちに流されていく。あらわれた赤銅色の鱗は朝日を浴びて、燃え上がるように赤々と輝いていた。
「かっこいいな……」
どうやら俺は、とんでもないものを解き放ってしまったらしい。
「ははは!何だよその顔!お前なら出来る、って言ったろ?穢れなき血に依る封印は、穢れなき血に依ってのみ破られる!思った通りだったぜ」
洞窟の中で見た二つの黄金色の丸い光――それはフィーグニルの瞳だった――を細めて笑った。その顔を近づけてきたので、俺はやや後ずさった。
「傷も塞がったみてえだな」
「あ……そういえば」
気付けば体中にあった傷はなくなり、すっかり痛みも消えていた。
「竜の唾液にはちょっとした治癒効果があるのさ」
フィーグニルはドヤッ、といわんばかりに鼻を鳴らした。
「そういう事は先に言ってよ……いきなり喰われて死ぬかと思った」
俺は濡れた靴を脱いで逆さまにすると、中に溜まった水を全部捨てた。ついでに靴下や上着も脱いで、濡れたものをまとめて芝の上へ放った。
「あーあ、ずぶ濡れになっちまった。まったく……どうしてくれるんだよ」
「そんな事気にするなよ」
金色の瞳がまっすぐ俺を見つめ、興味がなさそうに言うので、それ以上怒る気が失せてしまった。そこで俺は、大きく伸びをして、ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
足元の草は朝露を含んで柔らかく、裸足で踏んでもちっとも嫌な感じがしない。
俺は今になってようやく、自分が両足で、ちゃんと立てていることを実感した。
「おお……立ってる……!」
頭のてっぺんから爪先まで具合の悪い所がまるで無く、今すぐ走り出す事さえできそうだ。
「ああ、気持ちいいなあ!」俺は心の底から笑った。
「……な、何だ?」
変なところでも打ったか、とフィーグニルは少し戸惑った様子をみせた。
「本当は立って歩くことすら、俺は自力じゃ出来なかったんだよ」
こんな日が来るなんて、つい昨日までは全く想像もしていなかった。
思えば、俺は、何度も絶望してきた。
ありふれた日常。普通の生活。
好きだったサッカーも辞めざるを得なかった。
病気が治れば全て元通りになると思っていたけれども、気持ちとは裏腹に身体は緩やかに弱っていった。
どうして俺なんだ、身体さえよくなれば――――と、何回恨んだか分からない。
「でも俺は本当は、1つも諦めたくなかったんだ……」
風が吹き抜ける湖の水面を覗くと子供のように小さな姿が映った。
身長は150cmもないくらいだが、小人族としてはレギュラーサイズなのだと、俺はもう分かっている。
「うわあ、変な感じ!」
少し癖のある栗毛色の髪と薄緑色の瞳を持つこの顔が、今の自分の顔だとはすぐには受け入れられそうにないけれど、不思議なことに意外と気に入った。
なあ、ヒロよ、と名前を呼ばれて俺はフィーグニルに視線を向けた。
「オレ達はもうダチになれると思わないか?」フィーグニルがニヤリして言った。
「え、さっき出会ったばかりの俺と、お前が友だち?」
病に侵された身から転生してしまったらしい小さな俺と、永い封印から解き放たれたという大きな竜の間に友情が芽生えるなんてことがあるだろうか。
けれども、俺は竜に向かって答えた。
「うん、良いと思う」
「おっしゃ、そうこなくっちゃな!」
フィーグニルは気をよくしたのか、笑いながら長い尻尾を振っていた。
「あはははは!俺もいま最高の気分だ!」
俺もつられて、大声で笑う。こんなに笑ったのはいつ以来なのか、思い出せなかった。