どっちを選ぶの?
子供の頃、家庭の事情で引越しをすることが多かった。あの時も引っ越ししたばかりだった…。
「トリックオアトリート」
家の前で叫ぶ子供たちの声が聞こえた。母は予め用意していたお菓子の包みを持ち出して子供たちに差し出した。
「ありがとうございます!」
お菓子を受け取ると元気よくお礼を言って立ち去る子供たち。
この町内ではハロウィンの行事として子どもたちが町内を回る風習があるのだという。母は町会の寄り合いでそのことを知らされていたので、予めお菓子を用意していたようだ。
子供たちが立ち去るのを見届けると、僕にも同じものを手渡してくれた。
「はい。これは俊哉の分よ」
「ありがとう…。ねえ、今のはなぁに?」
「ハロウィンって言ってね、10月31日に行われるお祭りなの。子供たちが“トリックオアトリート”って叫んで町内のお家を回るの。“トリックオアトリート”って言うのはね、いたずらかお菓子かどちらかを選んでってことなのよ」
「だからお菓子をあげたの?」
「そうよ。いたずらされたら困るでしょう?」
「そうだね…」
そう返事をしたのだけれど、解かったような、解からなかったような、そんな感じだった。その時、既にボクの意識は菓子の包みに釘づけだったから。
その町に居たのは僅か一か月程度だった。その後も何度か引越しを繰り返し、高校進学を期にボクは独り暮らしを始めた。それは両親が将来のことを気遣ってくれて高校は転校させない方がいいということになったからだ。ボクは学校の近くにある家に下宿して高校を卒業した。そして、大学には進まず、下宿のある地元の企業に就職した。
食卓には鮭の切り身と納豆、漬物と味噌汁が並んでいた。食べ慣れたいつもの朝食。
ボクは高校を卒業した後も同じ下宿に世話になっていた。
「今日から社会人ね」
下宿のおばさんがにっこり笑って言った。
「はい。おかげさまで」
「何かお祝いをしなくちゃね」
そう言ったのは下宿の一人娘の啓子だった。啓子はボクより一つ年下で、ボクが通っていた同じ高校に通っている。
「そうね。今夜はご馳走を用意しておくから早く帰って来てね」
「私も手伝う」
「おばさん、ありがとうございます。啓子ちゃんも」
高校に通っていて3年間、おばさんは僕の母親代わりだった。啓子も妹のようにボクに懐いていた。
「あら! 私はついでみたいに言わないでよ」
「ごめん、ごめん。啓子ちゃんが料理をしているところを見たことがなかったから」
「まあ、失礼ね。確かに料理なんてしたことはないけど、いつも見ているから大体のものは作れるわよ。たぶん…」
言葉の終わりが最初の勢いに比べると、だんだん尻すぼみになって来たところが啓子らしい。
「じゃあ、お手並み拝見だね。楽しみにしてるから」
ボクはそう言って、下宿を出た。
新入社員はボクも含めて男性が5名。事務系の女性が2名の合計7名。
午前中は新入社員研修についての説明があった。それから入社式。式の後は社長や役員たちとの食事会。食事会の席では7人の新入社員に対面するように社長を中心に副社長、専務、総務部長と人事担当が顔を並べた。
「よかった…」
隣に座っていた同じ新入社員の女の子に声を掛けられた。
「就職試験の時に一緒だったでしょう?」
彼女はそう言ったのだけれど、ボクは覚えていなかった。
「そうだっけ?」
「えーっ! 忘れちゃったの? 合格したら一緒に頑張ろうって約束したじゃない」
「ごめん…。就職試験のときは緊張していて何も覚えていないんだ」
「そうだったのね…。まあ、いいや。じゃあ、改めて約束しよう。一緒に頑張ろうね」
そう言って微笑む彼女は三谷由紀惠と名乗った。由紀惠は地元出身で私立の女子高を卒業してこの会社に入ったのだと言う。父親は市議会の議員らしい。ということは入社試験も形だけのものだったのだろう。
「そ、そうだね。よろしくお願いします。ボクは…」
そう言って、席に置かれている名札を指した。
いよいよ明日から一週間の社員研修を経て本格的にこの会社で働くことになる。
下宿に戻るとエプロン姿の啓子が迎えてくれた。
「お帰りなさい。会社どうだった?」
そう聞かれて由紀惠の顔が思い浮かんだ。けれど、それを掻き消して啓子の問いかけに答えた。
「まだ判らないよ。それより、啓子ちゃんは何を作ってくれたのかな」
「へへへ、早くおいでよ」
啓子は満面の笑みを浮かべてボクの腕を掴むと、食堂へ引っ張って行った。そこにはボクの好物ばかりが並んでいた。
「お帰りなさい。会社どうだった?」
おばさんが桂子と同じことを聞いた。
「まだ判らないって」
ボクの代わりに啓子が答えた。
「ところで啓子ちゃんは何を作ってくれたの?」
「ジャジャーン! 見て! すごいでしょう」
そう言って啓子が指したのは手作りだというのがすぐに判るケーキだった。
「なに、それ? 誕生日じゃないんだから」
「そうよね。私もそう言ったんだけど、お祝いだからケーキなんだって」
「だってそうでしょう? 文句があるなら食べなくてもいいわよ」
「文句なんてないよ。ありがたくいただかせてもらいますよ」
研修は配属される部署に分かれて行われる。ボクは工場のラインを管理する部署へ配属される。事務系の由紀惠とは顔を合わせない。
研修では二年先輩から仕事の流れや機械の操作方法を学ぶ。初日の研修を終えると、新入社員同士で懇親会をやろうと言うことになった。ボクは下宿にその旨を報告し、夕食は要らないと伝えた。
会場は近くの居酒屋で行われた。みんなビールのジョッキを片手に乾杯した。ボクと由紀惠だけは高卒なのでウーロン茶での乾杯だった。
「研修、どんな感じ?」
隣に座った由紀惠が聞いてくる。
「先輩が親切に教えてくれて、やり甲斐はあるよ」
「へー、そうなんだ。良かったね」
「三谷さんの方は?」
「由紀惠でいいよ。私はつまんない」
「えっ? どうして?」
「だって、トシ君と別々なんだもの。トシ君も事務系だったらよかったのに…。ねえ、今から移動願い出せない?」
「何をバカなこと…」
「だって、一緒に頑張るって約束したじゃない!」
ボクは由紀惠の言葉の真意を測りかねた。由紀惠の表情をちらっと見る。彼女の顔はほんのりと赤くなっている。
「三谷さん、もしかしてお酒を飲んでるの?」
「飲んでるわよ。もう、子供じゃないんだし」
「でもまだ未成年だよ」
「いいじゃない! 体はもう大人よ。ほら、トシ君も飲みなよ」
そう言って由紀惠はボクのグラスにビールを注ぐ。ボクは注がれたビールを一口だけ飲んだ。苦い。
宴もたけなわとなり、幹事の吉永が立ち上がった。
「じゃあ、これからも同期一同、誰一人欠けることなくみんなで切磋琢磨して会社を盛り上げていこう」
そして、三本締めでお開きとなった。大卒の連中は勢いのまま、二次会のカラオケに行くと言った。ボクも誘われたけれど、歌は苦手なので断った。二次会へ向かう面々を見送ると、ボクは下宿の方へ足を向けた。その途端にズボンのすそを引っ張られた。
「ねえ、私も連れて行ってよ」
酔った由紀惠が座り込んでいた。
「大丈夫?」
「見て解かるでしょう? 大丈夫なわけないじゃん」
「タクシー拾って来るから、ちょっと待ってて」
「ダメ、お金ないから」
ボクは自分の財布の中身を確認した。余分な持ち合わせは無く、さっきの飲み会の会費を払ったので空っぽだった。
「困ったなぁ…。どうしよう…」
「だから、トシ君の家に連れて行って! 近いんでしょう?」
確かに下宿はここから歩いて5分ほどのところにある。けれど、おばさんたちに迷惑をかけるわけにはいかない。何よりもボクが女性を連れて帰ったとなると啓子がどんな顔をするか…。そうこうしているうちに由紀惠は酔い潰れて路上で眠ってしまった。ボクは仕方なく、由紀惠を背負って下宿に連れて帰った。
心配した通りだった。あの日以来、啓子は機嫌が悪い。毎日顔を合わせるのだけれど、ほとんど口を利いてくれない。逆に、由紀惠は妙に懐いて来る。そんな日々が続いて夏が過ぎ、秋になった。この頃になるとボクも下宿を出て一人暮らしを始めようと考えるようになっていた。
「いつまでもここに居ていいんだよ」
おばさんはそう言ってくれた。
「でも、新しい学生さんのためにもボクみたいな居候は退くべきだと思うし」
「そんなことはないのに。ちゃんとお家賃も貰っているし、私たちも新しい子よりトシ君の方が気が楽だし。ねえ」
おばさんはそう言って啓子の方を見た。
「別にいいんじゃない! どうせあの人のところにでも行くんでしょう?」
啓子はそういうと、自分の部屋へ戻って行った。
9月末の3連休を利用して引越しをすることになった。引っ越しといっても今住んでいる下宿から歩いても10分ほどの場所だ。会社には少しだけ近くなる。木造二階建てアパートの2階がボクの新居で初めての一人暮らしの舞台となる。
下宿から荷物を運び終えるとおばさんが引っ越し祝いをやってくれた。入社祝いの時と同じようにボクの好物が並べられていた。違うのは啓子の手作りケーキが無いことくらいだった。その啓子は部活の仲間とカラオケに行くのだとかで遅くなるとのことだった。
「寂しくなるねえ…」
「近いんだし、たまには遊びに来ますから」
「だったら、ずっとここに居ればいいのに」
「そうは言っても啓子ちゃんも年頃だし、同じ屋根の下に他人の男女が同居しているのもうまくないですし」
「あら、そんなことを気にしているの? 啓子のことなら気にしなくてもいいのに」
「いや、そうはいかないですよ」
「私はいっそのこと、二人が結婚しちゃえばいいと思っているのよ」
おばさんの言葉にボクはびっくりした。ここに来て3年半。啓子のことは妹のように思っていた。ところが、今、おばさんの口から飛び出した言葉によって、ボクの心の中で何か不思議な感情が浮かび上がってきたように感じた。
結局、啓子は帰って来なかった。
アパートに戻ると、由紀惠が待っていた。運び込んだ荷物の整理をしてくれていた。
「お帰りなさい。取り敢えず、寝る場所だけは確保しておいたわ」
「あ、ありがとう…」
引っ越しを強く望んだのは由紀惠だった。半ば強引に父親の知り合いだと言う不動産屋に連れて行かれ、由紀惠の顔もあり、敷金も礼金もなしということで即決で契約させられた。もちろん、部屋の鍵を受け取ると、由紀惠はすぐに合鍵を作って1本を自分のデニムのポケットに突っ込んだ。
「明日もお休みだし、今夜は泊って行ってもいい?」
「それは無理だよ。布団だってボクの分しかないし、二人で寝るほど広くない」
「大丈夫よ」
そう言うと由紀惠はボクに抱きついて横になった。
「ほら! 大丈夫でしょう?」
目が覚めると、部屋が甘い香りに包まれていた。
「パンケーキを焼いたの」
焼きあがったパンケーキを由紀恵が持ってきた。それをちゃぶ台に置くと、由紀恵は再びキッチンへ向かった。今度はほろ苦いコーヒーの香りが立ち込めてくる。同時にドアをノックする音が聞こえてきた。
「先輩、入るよ」
返事をする前にドアが開いた。ドアを開けたのは啓子だった。ワンルームのアパートは玄関から部屋全体が見渡せる。手前にあるキッチンにいた由紀恵に啓子は真っ先に目が行った。
「あら? どなた?」
由紀恵が尋ねると、啓子はボクを睨みつけて部屋を出て行った。
「だれ? 知ってる子?」
由紀恵の問いかけには答えずに、ボクは慌てて啓子を追いかけた。
啓子は学校へ行く途中に寄ったようだ。部活の朝練があることはボクも知っていた。学校の手前でボクは啓子に追いついた。
「お邪魔してごめんなさい」
そう謝った啓子の表情はその言葉とは裏腹に怒りさえ感じられるものだった。
「彼女は…」
「いつかウチに連れて来た人よね。普通に考えればわかることなのにね」
そう言って啓子は校門に向かって歩き出した。
「違うんだって。彼女とは何でもないんだ」
「なんでもない人が部屋に泊まるわけないでしょう」
「だから、それは彼女が勝手に…」
「どっちにしても私には関係のないことよね。もう二度とお邪魔はしませんから。練習に遅れるので、もう行くわ」
もはや啓子には取り付く島がなかった。
部屋に戻ると由紀恵は一人でコーヒーを飲んでいた。
「あ、お帰りなさい。ねえ、今日は天気もいいしどこかに出掛けない?」
「あのさ、もう、勝手に人に付きまとうのはやめてくれないか?」
「付きまとうだなんて…。ごめんなさい。まだ私の愛情が足りないのね。これからは今まで以上にトシ君に尽くしてあげるから」
「そういうことではなくて…」
ボクの言葉を遮るように由紀恵は唇を寄せてきた。
「今日は取り敢えず帰るわね」
由紀恵が帰った後、一人になったボクはため息を吐いた。そして、夕方までかかって荷物の整理を行った。整理が終わるとボクは下宿に向かった。
下宿ではおばさんが夕食の支度をしているところだった。
「あら、もうウチが恋しくなったの?」
「いや、そうではないんだけど…。啓子ちゃん帰ってる?」
「なんだ、啓子に用事か。だったら、いっそ啓子も一緒に運んでいけばよかったじゃない。啓子ならまだ帰ってないけど。きっと部活の友達とカラオケにでも行っているんじゃないかしら」
「そう…。じゃあ、また来るよ」
帰ろうとするボクにおばさんは声を掛けた。
「あの子、ずっと言っていたわよ。トシ君のお嫁さんになりたいって」
「えっ!」
啓子が僕のことをそんな風に思っていたとは知らなかった。啓子のことは妹としてみていたけれど、それはそうしなければいけないという使命感からくるものだということをボクはずいぶん前から自覚していた。でも、本当のボクの気持ちは…。このままずっと一緒に居て、自然の流れで結婚出たらいいなとさえ思っていた。おばさんからそんなことを聞かされたら、今までくすぶっていたものに一気に火が付いた。
ボクは啓子たちがよく行くカラオケボックスを知っていた。二人で何度か行ったこともある。その店に着くと、ちょうど啓子たちが出てきたところだった。
「あっ、先輩。お久しぶりです。お元気出したか?」
ボクの姿を見て声を掛けたのは啓子ではなくて他の子だった。啓子の部活仲間ということはボクにとっても後輩になる。ボクは彼女に軽く挨拶をすると、彼女たちに断って啓子の手を取った。
「そうですよね。じゃあ、あとは二人でごゆっくり」
彼女たちは手を振ってボクと啓子を見送った。彼女たちはボクが啓子の家に下宿していることも、ボクたちが兄妹のように仲がいいことも知っていた。
ボクは改めて啓子を部屋に連れて来た。
「もう、妹じゃないから」
「えっ?」
「同じ家にいたら兄妹以上にはなれないから。だから、下宿を出た。ボクは啓子を恋人にしたい」
啓子は何も言わずにただ立ちすくんでいるだけだった。そこへ由紀恵がやってきた。両手にはスーパーの袋をぶら下げている。
「今日は私がごちそうを作ってあげる…」
面々の笑みが一瞬で曇る。そして啓子を睨みつける。啓子はボクの後ろに隠れるように由紀恵の視線から逃れた。
「どうしてこの子がいるの?」
「ボクが連れて来た」
「どうして? なんのために? ねえ! 私とその子、どっちを選ぶの?」
由紀恵の表情が次第に冷ややかになる。ボクは意を決して由紀恵に向き直った。
「ボクが好きなのはずっとこの子なんだよ。君じゃない」
「そう…。私じゃないのね。じゃあ、どうなっても知らないわよ」
そう言うと、由紀恵は部屋を出て行った。
「大丈夫?」
啓子が心配そうにつぶやく。
「あの人、市議会議員の娘さんでしょう? 何か仕返しされたりしない?」
「大丈夫! 何があってもボクは啓子と一緒に居られるなら構わない」
「先輩…。ううん、トシ君、ありがとう」
ボクは啓子をそっと抱き寄せた。
下宿には新しい学生が入ってきた。おばさんは相変わらず元気だ。最近は前から行きたかったという社交ダンスに夢中だ。下宿の仕事はほとんどやってない。代わりに下宿を切り盛りしているのは啓子だった。
ボクは会社をクビになった。アパートも追い出された。それが彼女の仕返しだった。それからは隣町のレストランで住み込みの見習いとして働きだした。そして、調理師の免許を取った。店の店長から独立の許しをもらったのを機にボクは啓子と結婚した。そして、二人で下宿を営んでいる。二階の下宿部屋を改装して今では三人の学生を下宿させている。同時に1階の台所と食堂も改装して小さなレストランを開いた。啓子のおなかの中には新しい命が宿っている。
「トリックオアトリート」
ボクが選んだのは悪戯のほうだったけれど、その選択は間違っていなかった。