空想物語という名の預言書
ロマンス。今僕の手元にある本のタイトルだ。意味は空想物語。内容は預言書だ。
本を開いてみる。
前書きのような文があり、世界中の子供たちにこの本を捧げると書いてある。さらにページをめくる。この本には目次がない。三部構成で過去、未来、そして終焉となっている。影の国は第三部に書かれている。影というのはある特殊な能力を持った人間のことらしい。またその国がどこにあるのかも記されてはいない。つまりタイトルから考えて、本当に存在するのかもわからないのだ。
ただ……。
僕は身震いした。
あの魔女は確かにいた。彼女の口から確かに影の国という言葉を聞いた。そしてその国は滅んでしまったと。それは間違いない。が、しかし……。
彼女は消えてしまった。跡形もなく。綺麗さっぱり。まるで魔法を使ったように消えた。どうしてあの時、魔女という言葉が浮かんだのかはわからないけど……。
不意に背後に気配を感じて僕は振り返った。
そこには普段と変わらない読書を楽しむ人々がいた。そう、日常的な風景がそこにはあった。気のせいかと向き直ると、もう一度背後に何か得体の知れない不安が迫るのを感じた。
魔女……。後ろにいるのか?
僕は振り返った。振り返った顔はどこか怯えた顔をしていたに違いなかった。
誰もいなかった。
なんだ脅かすなよ。
心臓に悪いじゃないか。
ほっと胸を撫で下ろす。
「えっ……?」
誰もいない?
さっきいた読書を楽しんでいた人達は?
僕は勢い席を立って振り返った。そこには大きな音を立てた僕を非難する目で見ている人達がいた。
何だいるじゃないか。脅かすなよ。心臓に悪いよ、本当に。
非難の視線に申し訳なさそうに僕は席に座った。
「えっ……?」
悲鳴に似た叫びを上げて僕は立ち上がった。
周りが今度はどうしたとばかり嫌気をさした顔で僕を見ている。
「ほ、本が……ない。……なくなっている!」
今まで読んでいたあの本が消えていた。
口をパクパクさせて、僕は全身が凍る思いで突っ立っていた。
「本なんて読んでなかっただろ?」
斜め前の男が迷惑そうに憮然と言った。
「よ、読んでました。ここで……」
僕は慌てて叫んだ。
「読んでないよ。君はそこでぼんやりと考え事をしてただけさ」
さっきの男が言った。ほかの数名が同意した。
「考え事をしていたって……そんな……」
そんな訳ないじゃないか。
僕は図書館を出た。
太陽がどれほど傾いていたかは覚えていない。とても空を仰ぐ気持ちにはなれなかった。
「どういうことだ? 何が起きた? 一体僕は何をした?」
僕はヘマをしでかしたのか?
だって、魔女がいて、預言書があって、影の国が……。
僕は顔を上げた。
その時の僕の顔は輝いていたに違いなかった。
「ああ、何だ……。僕は知ってるじゃないか……」
魔女の顔も、本の表紙も、そこに書かれていることも、鮮明に覚えている。
それが物語っていることは一つだ。
僕は経験している。確実に。
僕は携帯端末を取り出し家庭用のAI、ニックネームは『ボロ』を呼び出した。
「ボロ。これから僕が話すことをテキストにして保存してくれ」
『了解シマシタ』
AIの発生音は音声合成ソフトで人間らしい抑揚を再現できる。
僕はわざとロボットらしい声を選んでしゃべらせている。
「本のタイトルはロマンス。意味は空想物語。内容は……」
急に負荷がかかった。肉体と精神が分離する加速的な負荷。
「フルダイブした?」
仮想空間へのゲートは存在していないはず。
しかし空間転移は確実に行われ、新しい世界が構築されていった。
タウン型の似たような建売住宅が建ち並ぶ町並みは超高層ビルが乱立する都市型へと変わった。
そして僕の姿は……。
「あれ? そのままだ」
普通はその世界にマッチングした姿になるんだけど。
空間転移は時間軸を利用した量子空間移動でゲートを通過した利用者以外、第三者への干渉は一切ない。時間軸は個別に用意され同時利用者からの干渉を受けず、一般的な時間は相対的に存在しているだけで、見かけ上の時間だ。共有時間ともいう。
空間転移は個別の時間軸を経由するので、新しい世界が構築していく過程は他者の目には見えない。時間と空間は密接に繋がっていて、共有時間が存在するところには共有空間が存在する。仮想空間はこの共有空間の一種だ。
情報端末を使用した擬似的なダイブは外部からの刺激によって擬似的な世界を体感するが、最新のフルダイブは量子コンピューターの超高速演算による量子認識情報の変換によって実現され、肉体と精神を分離させることができる。肉体は並列多重世界の一つに保存される仕組みになっていて、肉体と精神は同時に存在し、ユニット型の新しい肉体に神経接続され活動できるようになる。だからゲートを通過した人間は一時的に現実世界から消えることになる。
まさにフルダイブ。潜ってしまうんだ。
これらの仕様によってゲートを勝手に開いてはいけないことになってはいるんだけれど……。
「新作ゲームの宣伝かな?」
ゲームは得意じゃない。でもプレイするのは嫌いじゃない。
大都市の造形やスケールからして相当予算をかけているのがわかる。抜き打ちでお試しさせて、ベータテストのデータを回収するとか。
それにしてもすごい作り込みだ。まるで本物だ。
『期待しているところ悪いね』
「子供の声?」
急に声だけが耳元に届いた。
『失礼だな。君とたいして変わらないよ』
「僕のことを知ってるのか?」
心を読んでいる?
『これはゲームじゃないよ。君があの本のことをしゃべろうとしたんで、急きょこっちへ飛ばしたんだ』
「飛ばした? 君が? どうやって? まさか影……」
『影じゃない。僕は彼らに頼まれたんだ』
「頼まれた? すると影の国はまだ……」
『大丈夫さ。君が読んでいたあの本は偽典だよ。あの女にうまいことやられたんだ。君は世界をずらされていたことに気づかなかったね?』
「ずれされていたって。わかるわけないだろ?」
でも少しはわかる。仮想空間を経験していたから。
それに気づいたから僕の記憶にしか存在しない本の内容を記録しようとしたんだ。
『この世界は君が思っているほど本物じゃない。いつでも降格されてしまう』
「いつでも偽物になるってことか?」
『おそらく君は受容体を持っているんだね。あの女はそれで近づいたのかも知れない』
「えっ、すると僕は何かすごい力を持ってるのか?」
『可能性はゼロじゃないね。保証はできないけど。君にはあの偽典のことを黙っていて欲しい』
「来た!」
あの本はやっぱりあったんだ。間違いじゃない。
この展開はまるでファンタジーだ。僕はこれから起きる冒険を予感した。それだけで僕の心はときめいた!
「いいとも。その代わり僕と友達になってくれ!」
そう、こういう場合一緒に冒険の旅に出るのがお約束だ。
さあ、冒険の扉が開くぞ。すごい経験ができそうだ。
『お金が欲しいとかじゃなくて?』
「僕をなんだと思ってるんだ。で、いつ冒険に出るんだ?」
僕はそんなつまらない人間じゃない。
『君じゃ三秒も持たないよ。友達になってあげるから、この世界でおとなしくしていて欲しい』
「うっ……! 確かにゲームでも秒殺されるけど……」
屈辱。当たってるだけに。
僕と冒険に出るのが嫌だってことか。
こうなったら……。
「じゃあ、あの本のことはみんなにしゃべっちゃおう!」
さあ、困れ!
その時、僕の顔は悪魔のように笑っていたに違いなかった。
『そういうこと言ってると友達できないよ。じゃあね』
「えっ……?」
突然、僕の周りの景色が元に戻った。太陽はすでに沈んでいた。つまり夜だった。
しかも時計を確認すると夜中の二時を回っていた。あたりに人の気配はなかった。
「あ、あのガキ……!」
やられた!
魔女だけでなく子供にまで!
いいか、覚えていろよ!
こういうことは誰かに相談するのがいいと思う。
そう、それは正しい考え方だ。
しかし、だ。昔の学校ならクラスに一人か二人くらいは頭のいいやつがいて、こういうときに力になってくれるって黄金パターンだけれど、今は端末を使った自宅学習だから、学校の施設ってものがない。
だからそういうことを期待してもどうにもならない。黄金パターンよ、さようなら。
まあ、でも僕にも友人くらいはいるんだ。
「ジン。久しぶりに会ったと思ったら相談か? 俺に勉強の相談は無理だぜ?」
こいつはキッド。もちろん勉強の相談はしない。
「ねえ、ジン、聞いてよ。キッドったら宿題をAIに解かせて送ってるのよ。これって不正行為よね?」
そしてミカ。この二人が僕の友人だ。
「ばれなきゃ不正にはならないのさ。わかる?」
「絶対ばれてるわ。だって全問正解でしょ?」
「俺が何問か間違った答えを書き込んでるからばれないね」
「あ、そういうやり方があるんだ?」
待て、待て、待て。真面目に宿題はやろうよ。二人とも。
「でもやっぱりよくないわ。私、報告する」
「やめろ! 俺がどうなってもいいのか?」
「いいわよ。どうなっても!」
「バカッ! お前のこと美人だから優しくしてやってたのに……男の怖さを教えてやる!」
「ちょっ……やだっ! やめて……何する……の!」
ゴスッ!!
とても鈍い音が聞こえた。
襲いかかったキッドの顔左側面にミカの右拳がめり込んでいるのが見えた。
膝から崩れ落ちていくキッド。
「グフッ……! な、なんてヘビーなパンチなんだ……。お前ならきっと三階級制覇も夢じゃない……」
「誰が三階級も制覇するのよ? これ以上体重が増えたら嫌よ」
二人のやりとりを見て相談する相手を間違えた気が今更ながらしてきた。
大丈夫だろうか?