それは突然やってきた
僕がディープラーニングという言葉を覚えた頃にはすでに世界は人工知能が当たり前のように人間の面倒を見ていた。量子力学の進歩はめまぐるしくて、あらゆることを数式で解決できてしまう今は、科学が魔法を超える日も近いと思われていた。もちろん魔法とは空想の産物で何でもできてしまう便利な道具のことだ。子供の頃一度くらいは魔法を使ってみたいと思ったことがあるだろう。現代ではそんな魔法みたいなことを人工知能つまりAIが実現している。
部屋に置いてあるマスコットに話しかければ天気予報から株価の動きまで教えてくれるし、学校の授業からテストの採点までAIがやってくれて先生も楽ができる。体調管理から健康維持に必要な運動プログラムや食事のメニューまでAIに任せておけばいい。最新式のAIに至っては人間の代わりに働いてお金を稼いでくれる。人間は家庭用のコンピューターを購入しさえすれば生活のすべてをAIがやってくれるわけだ。夢のような話だろう。
しかし、世の中にはそんな楽な生活に嫌気がさす人間もいる。彼らは自分たちで考え、自分たちで決断し、自分たちで行動する社会を求め、地下深く潜っていった。彼らには守りたい誇りがあったのだと思う。
でもどうだろう?
僕は楽をすることが悪いことだとは思えない。なぜなら人間の進化は時間の解放によって行われてきたからだ。AIによる時間の解放は人間の脳のさらなる進化、新しい領域への到達を予感せずにはいられない。僕はそれを体験したいんだ。面白そうだろう?
突然何かが目覚めたら。自分の中に隠れていた得体の知れない力が覚醒したら。そんなことを考えていると時間があっという間に過ぎていってしまう。おかげでこの前なんか一日の授業の内容を全く覚えてなかった。ほんと高校生にもなって何やってるんだろうと思ったけれど、空想する時間が楽しくてやめられそうもない。
現代のAIは高度な計算を高速に処理できるので、仮想現実をいとも簡単に構築できてしまう。フルダイブなんて当たり前の世界がここにあるんだけど、僕は頭の中で空想世界を展開するのが好きなんだ。こういうところ少し古いのかな?
古いといえば昔の本は紙でできていて、大きさや厚さが何種類もあった。ページを一ページ一ページ手でめくって読む。読んでいた箇所を保存できないので栞というやつを目印に挟んでおいた。実を言うと僕は紙の本を読むのが好きなんだ。インクで印刷された文字は古いとかすれて読めなくなってしまうけど、時間が空間と密接している感じがしてくる。そういう経験を通して僕の中に新しい感覚が目を覚ましていくのを体感したくって、紙の本を置いてある図書館に通っている。今日もそんな刺激を求めて街の中心にある大型図書館へやってきた。
今や書籍は電子化されていて、ブラウザさえあれば端末を選ばないし、端末さえあればどこでも読めるけど、大きさや重さがある紙の本は持ち運ぶのが大変なので、図書館で保管してある本を読む方が効率がいい。
この街の図書館は結構有名で、かなりの量の本が大切に保管されている。
それでもスペースに限界があるので歴史的価値の高い書籍が選択されてしまうけど、個人では所有できない量の本が棚に並べられているので、本が好きな人にとってはここはまさに憩いの場で、朝からずっとここで本を読んでいたりする。僕もたまにはそんなことをしてみたい気もするけど、そこまで夢中になる本にお目にかかったことがない。
人気のある有名な書籍は古くても電子化されていることが多いのでいつでも読めるから、僕はあえて人気のない本を選んだりしている。
携帯端末に本のタイトルを入力して検索すると電子化されているかどうかすぐにわかる。
あらゆる端末がネットワークに接続していて、いろんな情報をダウンロードできる。検索した本の内容とゲームの内容がリンクしておすすめ情報にゲームのタイトルがずらりと並んだり、物語に登場する国や地域へ旅行可能かも教えてくれる。
こういう情報解析はAIが瞬時にやってのけるんだけど、その仕組みはネットワークの中心にある量子コンピューター。こいつの演算処理があまりにも高速なので複雑な解析も一瞬に終わってしまう。なのでまるではじめからデータが存在しているかのように錯覚してしまう。
これはAIの知能がすこぶる高い証拠でもある。
この錯覚を利用した仮想空間のリアルさといったら半端がない。ダイブした仮想世界と現実世界の境界線はあまりにも曖昧で、どちらの世界が本物なのかわからなくなることがある。いや、この世界も仮想世界なのかもしれない。
……な訳ないか。
仮想空間はどんな空想も実現できる夢の世界だ。少なくともこの世界にはテストという息苦しい現実が存在する。この世界は本物だろう。
電子書籍の仮想空間化は簡単らしい。ヒット作品にゲーム要素を追加した空間がいくつも存在しているし、そういった世界にフルダイブしている人もたくさんいる。僕も何度かダイブしたことがあるけど、ゲーム要素がネックで強制的に終了してしまう。ゲームはあまり得意じゃないから仕方がない。
さて、気を取り直して本を探そう。
僕は人混みを避けて奥へ移動した。だんだん人がまばらになっていく。さらに奥へ向かうとほとんど人がいない。このあたりでいつも僕は本を探している。ゆっくり探せるし読書スペースにも余裕があって落ち着くからだ。
今度読もうと思っていたタイトルがある棚へ向かう。ファンタジー系のタイトルで……あれ?
「ロマンス?」
探しているタイトルがあった場所に分厚い本が置いてあった。以前来た時はおいてなかったような気がするな。タイトルを検索したら電子化はされていなかった。
初めて見るタイトル。厚めのその本に僕は手を伸ばした。
すると横から別の誰かの白い手が伸びてきて、僕より先にその本をつかんだ。誰もいなかったはず……?
僕の横に立っていたのは若くて長い黒髪が印象的な色白の女性だった。首から下はやはり黒っぽい服を着ていて、ちょっと神秘的に見えた。
慌てて手を止めたけど、指先が彼女の白い手に触れてしまった。
「あ、すみません……」
僕は慌てて手を引っ込めた。
「いいのよ。この本読みたかったの?」
彼女は手に取った本を差し出した。僕は受け取りながら彼女の顔を見た。微笑んでいた。そして、とても綺麗だった。特に瞳が明るく透明な赤色で魔力を帯びてるように力があった。その瞳でこちらを見つめている。本を受け取りながら僕は心臓がいつもと違う音を立ててることに気づいた。あれ?
「ねえ、君。名前は?」
「えっ……? 『僕』、ですか?」
思わず大きな声を出してしまった。意識しているようで恥ずかしい。顔が赤くなったのがわかった。
「そう、だけど?」
少しばかり彼女が笑ったように見えた。心臓が止まるかと思った。僕は努めて冷静を装うとした。
「あの……僕の名前はジンです」
うわずらないよう、いつもより低めの声で答えた。
「ジン……。そう、いい名前ね。それに……」
彼女は静かに顔を近づけてきた。
「それにとても綺麗な瞳。ライトグリーンかしら?」
間近に迫った彼女の赤い瞳が一瞬輝いて見えた。
「この本はね。遠い昔書かれた預言書なの」
「預言書?」
「そう。未来に起こる出来事が書かれているの。そして、この本に出てくる影の国はもうないの」
僕は彼女の声を聞いて血が凍るような気持ちになった。今すぐこの場から逃げ出したくなった。でも足が動かなかった。なぜそんな気持ちになったのかもわからなかった。でも僕の中でとても危険な感じが大きくなっていくのがわかった。
「その影の国はどうしたんですか?」
聞いた後で後悔した。これは聞いちゃいけないことに違いなかった。
「滅んだの。悪魔のような少年がやってきてね」
彼女がまた笑ったように見えた。僕の心臓はまた止まりそうになった。今度は本当に。死んでしまうかと思えるほど苦しくなってきた。いや、本当に死ぬかも知れない。誰か、助けて……。
魔女……。
魔女。そんな言葉が頭に浮かんだ。するとスッと力が抜けるような感じがして……体が動く!
「あ、あの……、本を譲ってくれてありがとう。し、失礼します!」
僕はその場を回れ右をして歩き出した。とにかくこの場から遠ざかろうと思った。人が多い方へ向かおうとした。誰かに助けを求めようとした。あれは魔女に違いない。そんな気がしてならなかった。絶対振り向いてはいけない。絶対。
それなのに僕は足を止めて振り返った。
そこに彼女の姿はもうなかった。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。本を抱きかかえながら。
「魔女……」
僕はそう呟いていた。
どうしてそんなことを呟いたのかは知らずに。