魔界の王
魔界の王、その名はヴァルグダンテ。魔界の誕生以来、王として君臨してきた王の中の王。その冷酷無比な残虐性には魔界の住人ですら恐れられていた。
魔界には各世界を侵略するために力自慢の猛者たちが軍を率いて侵攻を進めていた。その中の一つに魔法を操るクレバラン率いる軍勢が影の国に幾度となく挑戦をし、ことごとく失敗に終わった。
今、クレバランはヴァルグダンテを前に震えていた。
魔界の気温はとても低く、人間には寒すぎるが、決して寒さのせいではなかった。クレバランも魔族としての強靱な肉体を所有していた。強靱な肉体は強靱な精神を生み出す。クレバランも魔族の名に恥じない強者だった。
「よもや、おめおめと負けて帰ってくるとはな?」
ヴァルグダンテの声を聞き、クレバランはなお震えた。体中の血が凍って死んでしまいそうだった。
魔王の名を冠しても、ヴァルグダンテの容姿はか弱い人間のそれに近かった。獰猛で野蛮な獣や異形な爬虫類の容姿に近い他の魔族なら見た目だけでも恐ろしいが、ひ弱な人間に恐れを抱く魔族はいない。しかし、綺麗な顔立ちをしたヴァルグダンテの口から漏れる声を聞くと、その見た目とは裏腹に戦慄せずにはいられなかった。
「お、恐れながら……。かつて『少年』が記したという『預言書』が影の国に保管されているというのは事実でしょうか?」
クレバランはヴァルグダンテの顔色を終始うかがいながら慎重に言葉を続けた。
「影の国への猛攻は今も続けてますが、まるで落ちそうもありません。影の戦士の強いこと、強いこと。三十万を超える我が軍の戦力の大半がすでに失われています。このままでは……」
クレバランはそこで言葉に窮した。全滅、壊滅、敗北……どれも口にしてはならない言葉しか浮かばないことに気づいたからだった。
魔王ヴァルグダンテは任務の失敗を認めない。それはどれほど魔界に貢献してきた者であってもだ。迂闊にも口にすればたちまち無能扱いをされかねない。そうすれば任を解かれ、二度と表舞台に立つことはないだろう。また、多くの犠牲を出したとあれば処刑もあり得た。
『処刑人』と呼ばれる暗殺部隊が魔王の直属部隊にあった。魔族の中でも特に危険な連中が配属されていることを、クレバランはよく知っていた。血も涙もなく(魔族だから当然と思えるが、クレバランのような戦士は義に厚かった)ヴァルグダンテに用済みとされた魔族の多くは彼等に殺されてきた。
まずいことになった……。このままでは無能の烙印を押されかねない。
用済みとなれば『処刑人』に処刑されてしまう。死は目の前にあった。
「このままでは、何だ?」
ヴァルグダンテは緩めなかった。
「ぐっ……」
何かいい案はないか?
『処刑人』に殺された数多くの仲間の顔が浮かんでは消えていった。そのあまりにむごい最後を知っているからこそクレバランは慎重に言葉を選ばなければならなかった。まだ死にたくはなかった。しかし、いい案はまだ浮かんでなかった。
「まさか、このままでは全滅してしまうのか?」
「そ、そんなことはありません。絶対に。しかし……」
「しかし、なんだ?」
「はぐぅっ……」
「どうした?」
「あ、相手の影の戦士があまりにも強すぎます。私の魔法も通用しません……」
「それはお前が弱いからではないか?」
「はぐぅ……」
まずい。このままではまずい。
「私はこれまで数多くの世界を侵略してきました」
「知っている。だから影の国を任せたのだ」
「しかし、影の戦士はこれまでの相手と比べものに……」
「つまり全滅するということか?」
「ぐっ……」
何かいい案は……。
「も、もしも、『預言書』がなければ、そもそも影の国と戦う理由もありません。無益な争いで大切な部下を死なせずにすみます。その『預言書』が確実に影の国に保管されている根拠は?」
根拠。そうだ、根拠だ。いくら魔王でも理由もない争いはさせられない。
「俺の友人に一人『少年』がいてな」
ヴァルグダンテがはじめてクレバランの前で笑みを見せた。
「教えてくれたんだよ。彼が」
「影の国に『預言書』があると?」
『少年』が何故、魔王にそんなことを教えたのかはクレバランの知るところではなかった。
「それでしたら援軍をよこしてください。確実に影の国を落とせるほどの大軍を……」
「援軍を送る気はない」
「なっ……?」
「送らない。現状の戦力で何とかしろ」
「何故です? 『預言書』があるのなら今すぐ増援を……」
「あるかはわからない」
「は? どういう意味です?」
「彼が教えてくれたのは『時が来れば面白いことが始まる』ということだけだ」
「面白いこと? では『預言書』は?」
「あるのかも知れない。だが俺にはわからない」
「そんないい加減な……」
クレバランは急に腹が立ってきた。何故ここまで馬鹿にされなければならないのか?
「遊びじゃないんだ。戦争は!」
「遊びだよ。暇つぶしの」
「暇つぶしだと……!」
クレバランは激昂した。体中の血が沸騰してしまいそうだった。
ヴァルグダンテはそんなクレバランを見て、
「ほう、いい顔になったな。戦う男の顔だ。悪くないぞ。処刑されていった奴らもそんな顔で俺を睨んでたっけ。悪魔だと罵ってな。ふん。この世に天使や悪魔がいるかはわからんが、悪魔はよほどひどい奴らなんだろうな?」と、いびつな笑みを見せた。
「壊れている……」
「まあな。俺は永きに渡って、この玉座に座り続けるだけの存在だった。退屈で死にそうだった。でも死ねなかった。恨んだよ、神を。そんなとき『少年』が現れた。彼からおもしろい話を聞いた」
「それが『預言書』だと?」
「そうだ。お前は知らなかったな。『預言書』の力を」
「力……?」
「もっとも知ったところで意味もないか」
「はっ…………!」
クレバランは背後に異様な殺気を感じた。
「くっ…すでに『処刑人』が隠れていたとは……」
「そろそろお別れか。『預言書』は他の者に取りに行かせよう」
「あるかどうかもわからないというのに……」
「『ある』といわなければ戦争はできないだろう?」
「おのれ……ヴァルグダンテ……!」
ヴァルグダンテは初めからクレバランを生かしておく気はなかった。
クレバランは覚悟を決めた。
どうせ殺されるのなら、その少女のような綺麗な顔に傷一つつけて、あの世への戦利品にしてくれようと。
クレバランもまた人型のそれに近い姿ではあったが、強力な筋力と鋭い爪を持ち、玉座に座るヴァルグダンテまでの距離数メートルなど、跳躍一つで縮めることが可能だったし、油断をしていればたとえ魔王とて、その喉を爪で切り裂くことも訳ないことであった。
幸いにもヴァルグダンテは護衛をつけていなかった。己の力への自信なのか。それともおごりか。背後にいる『処刑人』の存在も魔王の油断に繋がっていたのかも知れなかった。
(殺れる!)
今まで魔王に逆らうものなど誰一人いなかった。それはクレバラン自身もそうだった。しかし考えてみれば馬鹿げた話ではないか。己の大切な部下が戦場で死んでいく中、この見るからにひ弱な人型生物は玉座に座っているだけなのだから。
魔法は使えない。魔法力場の形成に時間が必要だったし、その行為は相手もチャンスになってしまうからだ。
クレバランは跳躍した。
ヴァルグダンテの顔が一瞬蒼白となった。
「獲ったぞ! 魔王、その首!」
クレバランの鋭い爪がヴァルグダンテの首をなぎ払った。
ヴァルグダンテの首が、よく磨かれた王の間の床に転がった。
「ふん。たわいもなかったな?」
あっけもない幕切れにクレバランは拍子抜けした。
背後から感じた殺気がいつの間にか消えていた。
「王が死んで逃げたか?」
忠誠心などなかったのだろう。クレバランは魔王が不憫に思えた。
無益な戦争をやめ、部下たちを引き上げさせなければ。
クレバランは玉座に背を向けた。
「死ぬことはできなかった、そういったのに……」
「なっ……!?」
クレバランは声の方へ向き直り、ギクリとした。
玉座から首なし胴体が起き上がり、床から首を拾い上げていた。
「この程度で死ねるのなら『処刑人』で事足りる。お前は思慮も浅いようだ」
首を元の位置に戻してヴァルグダンテはまた玉座に座った。
「さて、お前にふさわしい死を与えてやろう」
クレバランの視界が暗転した。
「俺と同じ死に方だぞ?」
クレバランの首は胴体から離れ、王の間の床に転がった。




