作者、『フラスコに花束を』を振り返る。
深夜。私がスツールに腰かけて、パックをしながら、リデルにメスを持たせていたところだった。
不意に。頭の中で、カツン、と靴を鳴らす音がした。あの、黒いブーツが見える。
——うわっ、悪魔ちゃん来ちゃったよ。と私は思いながら、パックを外した。
硬くて重い十字架を両手で大事そうに抱えて。暗闇の中から、ゆっくりと彼女は現れた。
「あれ? 私が今持たせたのは、もっとお手軽な医療用のメスのはずだよ?」
私は首を傾げる。指をパチンと鳴らして、両手の十字架を小さなメスに変えてあげた。
「十字架……」
独特の甘い声で、リデルが言う。青く澄んだ瞳が、私を見つめる。
「え。鈍器はダメだよ? 鈍器投げて、歩の頰に傷を負わせるつもり? そもそも投げられないし、肩壊れるよ?」
信じられない! と私は、わざとオーバーなリアクションをしてみせた。現実を諭すためだ。肩を押さえてうずくまる結果にしかならないことは、わかるはずだった。
「十字架、の槍……」
哀愁を漂わせながら、愛らしい声音でリデルが私に訴えかけてくる。
無理矢理、持たされていたメスから、リデルは指を離した。乾いた音を立てて、メスが床に落ちる。そして、メスは床の上を滑って、どこかへ行ってしまった。
些細な抵抗が、かわいく思えてきた私。落ちたメスを探すために、きょろきょろと辺りを見回しながら、口を開いて本音を漏らしてしまう。
「うーん。今回は、ごちゃごちゃ周りに医療器具がたくさんありそうだから。ね? そもそも、私は槍も好きじゃないよ? 十字架の槍って空気抵抗受けそうで汎用性が」
ここで。私はリデルの瞳の奥底に、青い炎が灯り始めたことに気がついた。空気を読んで、口をつぐむ。
「十字架……」
同じ言葉を、リデルは繰り返し言い続けている。説得は無理そうだった。代替案を出すしかない。
ドレッサーの引き出しを開けて、長らく使っていなかったロザリオのネックレスを、私は引っ張り出した。
「これ、あげる」
私が利き手を伸ばすと、意外にも素直にリデルは両手を出した。ロザリオを小さな手の平に置く。
「はい。だから、ここはメスね」
私は言い切った。毅然とした態度を取ったところ、仕方なく頷く彼女の姿が見えた。