夕刻メランコリー
殺さないことよ、最も残酷な殺し方は。
だから、私はあなたを殺さないの、と冷笑していた彼女が、最近……笑わない。
金曜日の放課後。校舎の外では再び、雨が降り始めた。息苦しい曇り空を映していた水溜まりが、雨粒によって揺らぐ。彼女は真っ黒な瞳を窓に向けて、空を仰いでいた。彼女の顔に表情はない。
私と顔を合わせるたびに、少々の皮肉を混ぜて、憎たらしい冷笑を浮かべていた彼女だが、最近はすっかり無表情になった。どうやら、私に興味がなくなったらしい。
それがどうも気に入らなくて。彼女と顔を合わせるたびに、私は嫌味を言った。すると、彼女は少しだけ口元を歪ませて、私を見る。否、見下す。
今まで私を侮辱するだけ、侮辱してきたくせに。そんな態度をとる彼女が、許せなかった。私の中で彼女への殺意が芽生えたのは、最近になってからのことだ。
この想いをどうにかしたくて。滅多に人が来ることのない、第3棟の校舎の家庭科室に、私は彼女を呼び出した。
「歩さん、お久しぶりね」
しっとりした声質の持ち主である有栖川夜は、不思議な人だった。端正な顔に、漆黒の髪。横髪を耳にかける彼女の仕草は美しく、どこか冷淡で艶やかな佇まいを魅せた。
彼女を自分と同じ高校生なのだと、認識することは難しい。だから、彼女を見る同級生の目は、いつも尊敬と嫉妬に輝いていた。
「お話って何かしら。また嫌味の1つでも言いに来たの?」
うんざりするくらい見てきたはずの冷笑なのに。久しぶりに見た気がする。黒くて冷たい瞳に私を映して、彼女は静かに微笑んだ。
笑みを見たかったはずなのに。改めて眺めると、やっぱり不快だった。まるで、矛盾を抱える私の心模様を読んだように。いじらしく笑いながら、彼女は言葉を口にする。
「私は忙しいのよ、あなたと違って。手短かにしてくださる?」
あまりにも彼女が憎らしくて。気がつけば、私は戸棚のガラスを拳で突き破っていた。ガラス片が空を切って、散らばった。床が煌めく。
一瞬だけ冷静になった。彼女が私を見ていた。笑っている。
湧き上がる殺意は、止まることを知らない。衝動的に、私は戸棚に収納されていた包丁を握りしめた。鋭い刃の先端を彼女に向ける。
切れかけの蛍光灯が瞬き、刃を濁らせる。ちらり、と私を見た彼女の瞳が恐怖に震える。でも、すぐに、また。あの冷笑を彼女は浮かべた。
「やっとその気になったのね。いいわ。待っていたのよ」
刃を横にして、利き手に力を込めて、もう一方の手を添える。ついに私は、笑っている彼女の胸に包丁を突き刺した。そして、彼女の身体を蹴る。
脳内が痺れて、思わず溜め息の零れるような快感が身体をめぐる。引き抜かれた刃。夏服の白いブラウスを染める紅。仰向けに崩れる彼女。長い黒髪が宙を舞う。私は彼女に跨る。もう、何も考えられなかった。
振りかざした刃は、彼女の胸を貫いた。何度も、何度も。飛び散る血が、白い壁に紅い花を描いて、綺麗だった。笑いが止まらない。心が躍る。刺すたびに脳内へ快感がめぐって、止められなかった。
光を失った瞳が私を見ている。黒い瞳に私だけが映っている。血溜まりに沈んだ彼女の顔が、不気味な笑みを浮かべていた。
ようこそ、と彼女の唇が小さく動いて、世界が暗転した。