夢の夢の夢の跡で
くちなしの花の、良い香りがする。私の好きな匂い。ひっそりと咲く白い花を、私は想った。小さくて可憐な花。ジャスミンの香りに似ているようでいて、少し違っている。濃厚な、甘い香り。
まどろみの中で、そっと私は目を開けた。放課後の誰もいない教室。窓から西日が差し込んでいる。四角く切り取られたオレンジ色の数を、ぼんやりと私は数えた。窓ガラスが白っぽく光っている。
——夢?
段々と、意識がはっきりしてくる。私は、夢を見ていた。夢から醒めた感覚がある。でも、夢から醒めた現実は、また夢かもしれなかった。夢から醒める夢を、延々と見続けているような気持ちがする。
黒板に、白い色で書かれた『6月30日(金)』の文字。遠い意識の中にある放課後は、再び雨が降り始めていた。夜を、家庭科室に呼び出した日。夜を、殺した日。
はっとして、私は立ち上がる。椅子が、けたたましい音を立てて倒れた。乾いた音が、反響する。そして、教室はまた静まり返った。
手を着いた机には、理科の教科書が開かれたままになっていた。期末テストの中日。家では誘惑に負けてしまうからと、教室で残って勉強していたところ、寝てしまっていたらしい。
——どれが、現実なの?
思い返した6月30日の金曜日は、テスト2日め。国語と数学と英語を受けた後。7月3日の月曜には理科と社会を控えていた。
——この世界に、夜は?
左斜めの前の、夜の机の脇には、スクールバッグがかけられている。まだ、夜は校舎にいる。
ほっと、私は胸を撫で下ろした。悪い夢を見ていたみたいだった。少しずつ、その夢の内容が曖昧になっていく。大切な夢だったような気がして、シャーペンを手にした。でも、私が夜を殺してしまう場面しか思い出せない。
机とにらめっこしているところで、聞き慣れた声がした。
「歩さん。まだ、いたの?」
しっとりした声の先に、左腕にノートと教科書と筆箱を抱えている夜の姿があった。
さらさらの黒い髪を耳にかけ直しながら、彼女は首を傾げている。真っ黒な瞳の目線は、倒れている私の椅子に向けられていた。我に返った私は、慌てて椅子を直しながら言う。
「うん。でも、寝ちゃってた」
バツが悪くて、目を合わせられない私に対して、夜は言った。
「私は最後に自分が頑張ったって言えれば、それでいいと思うの」
夜と目が、合う。彼女は満面の笑みを浮かべていた。余りにも、綺麗で眩しい。その彼女が、また首を傾げる。
「あら? 歩さん。タイがないけれど、どうしたの?」
fin




