雨が降る
翠の病室へ辿り着いた和巳と琴葉は、病室の前に立ち竦む翔也を目にした。
翔也にはいつもの爽やかな雰囲気がまるで感じられず、それどころか数日眠っていないかのような憔悴しきった顔をしていた。服装は雑に着込んだ私服だ。昨日の夜に連絡を聞き、慌てて病院へ駆けつけたのかもしれない。
「ああ、来たのか。今は……」
翔也は俯いたまま病室に目をやった。
今は中に入れないのだろう。和巳と琴葉は、翔也の横に並んで待つことにした。
◇ ◇ ◇
「翔也くん、翠ちゃんに何があったの?」
かれこれ十分ほど待った頃だ。重苦しい空気の中で口を開いたのは琴葉だ。
翔也は、すぐには答えなかった。
数分が経過して、ようやく「ああ」と呻くような声を出した。
「……わからねえ。ただ、昨日の夜、誰かに襲われたらしい」
「襲われたって、どうして翠ちゃんが……」
その問いに、翔也は答えることはなかった。しかしその代わり、「昨日さ」と翔也が小さな声で告げた。
とても小さく、病院の静まった廊下でなければ聞き取れないほどの声だ。
「翠から電話が来たんだ。普段は『電話なんて面倒だ』なんていう、アイツがだぜ。何か急な用かと思ったら、変な手紙が来たって言いやがった。そんなことで電話すんなよって言ったら、翠は笑ったよ。本当だねって」
そう言って翔也は廊下の壁を伝うように座り込み、頭を抱えた。
「違うよな……あいつだって女の子だ、変な手紙、怖かったはずなんだよ……だからあいつは、俺を頼ろうとしたんだ――俺だけが、あいつを守れたんだ……」
なのに俺は、守れなかった。
呟いた翔也の声は、泣きそうなほど震えていた。
「こんなバカな話があるかよ。あいつはちゃんと助けを求めてたのに。散々危険なことは俺に任せろって言ってたくせに……いざ危険なときに俺を頼ろうとしたら、俺はその手を振り払ったんだ。――そりゃ、頼られねえよな……」
和巳は翔也に何の言葉もかけられなかった。もし何か元気づけようとしたら、その分だけ翔也は自分を責め、自分を傷付けるだろう。
琴葉もそれが分かっているのか、何も言わなかった。心なしか己の肩を抱き震えている。彼女にも思うところがあるのだろう。
ただ、三人で病室が開くのを待つだけだった。
◇ ◇ ◇
それから三〇分ほど経過して、ようやく扉が開かれた。
うずくまっていた翔也も、病室から洩れた光にゆっくりと顔を上げる。
二人の警察官が病室から姿を現し、和巳たちを見て一礼した。一礼を返すと、警察官たちは静かに去っていった。
警察官たちが開いたドアが、静かに閉まる。
翔也は立ち上がろうとしなかった。翠に合わせる顔がないと思っているのだろうか。
「翔也、行こう」
和巳が翔也の肩を叩くと、もう一度ガラリと扉が開いた。
「なーにシケた顔してんのよ、みんな。ほら、もっと元気出しなさいって!」
明るい声で病室から顔を覗かせたのは、笹田翠本人だった。
「み……翠ちゃん、大丈夫なの?」
「ああん、琴葉! 見舞いに来てくれたんだね琴葉! あたしはだいじょぉーぶ! 琴葉が来てくれただけで、元気がいっぱいだよーぅ!」
ぎゅっと翠は琴葉を抱きしめるのだが、翠の左腕に付けられた大きなギプスが琴葉の後頭部でゴツンと鈍い音を立てた。
「あ、ごめん」
琴葉は痛みに泣きそうな顔をしながらも、「無事でよかった」と翠を抱きしめ返した。
ひとしきり琴葉とハグを終えた翠は和巳に向き直る。
「天城も来てくれたんだね、ありがとう。妹ちゃんのこともあるだろうに、長く待たせちゃってごめんね。ほらほら入って入って。さっき警察の人がフルーツ詰め合わせ置いてってくれたからさぁ、みんなで食べよー!」
元気に笑う彼女の姿は、いつものままだ。琴葉も和巳も、自然と笑顔になれた。
「うん、そうする」
「お言葉に甘えて」
と病室に足を運ぶが、翔也だけは病室の前にうずくまったままだった。
「はーい、陰険男が追加で入りまーす!」
うずくまった翔也の腕をギプスのついていない右手で引っ張って、翠は病室へ入った。
病室はお世辞にも広いとは言えなかったが、他に入院患者もいないため、狭いと感じることもなかった。暗くなってきた外と比較して、天井から降り注ぐ光を反射する白い床が妙に明るく見えて不気味だった。
――この病室は、妙な匂いがする。
病院の匂いではない。薬物とは異なる匂い。もっと、異常な匂い。
例えるならば、腐敗し溶けだしたプラスチックのような匂い。
これに近い匂いを和巳は知っている。あの少女だ。黒い髪の少女。
あまりの悪臭に和巳は思わず鼻口を塞いだ。
「ん、どした天城」
しかし翠は平気そうな顔でキョトンと首を傾げた。
翔也や琴葉もまた、不思議そうな顔で和巳を見る。
この匂いに気付いているのは、和巳一人だけであるらしい。
「……いや、何でもない。ぼくも一週間くらい前はここにお世話になったからさ、なんか懐かしくて感極まっちゃったよ」
「なんだそれ、病院へのホームシックかよぅ!」
うりうり、と和巳の胸をギプスで小突く翠。そのギプスから、一段と強い悪臭が漂っているように思った。
◇ ◇ ◇
翠が果物を食べようと言い出したまでは良かったが、肝心の彼女は片腕がギプスに封じられているので皮を剥くことができないことが判明した。では誰が剥くべきかという話になった折、真っ先に翔也が名乗り出る。だが、彼が普段握るのは包丁ではなく竹刀だ。なので日常的に包丁を握っている和巳が果物係に命じられることになった。
翠も琴葉も、食欲のなさそうな翔也ですら和巳の切ったリンゴを口にした。
しかし和巳だけは、どうしてもリンゴを口にすることができなかった。
鼻につく悪臭が、いつまでも離れなかった。
◇ ◇ ◇
それから数刻を過ごしてから、琴葉と共に和巳は病室を出ることにした。このあと翠の両親が病院に見舞いに来るらしいが、翔也は面談時間ぎりぎりまで翠と共に一緒にいるつもりらしい。
翠を病室において、和巳と琴葉を病院の外まで翔也が見送ってくれた。
外では、いつの間にやら雨が降っていた。
病院内の売店で購入した傘を片手に「また明日」と琴葉は窓から顔を出す翠に手を振っている。
和巳は手を振って帰る前に、翔也に問うた。
「翔也。笹田の左腕は……」
翠の左腕は、無事なのだろうか。彼女は弓道を続けられるのか。
和巳の問いに、明るく振る舞っていた翔也の顔が曇った。
「日常生活にはさほど支障はないらしい。ただ、肉の筋が傷つけられた」
――弓は引けなくなった、ということらしい。
それでも笑顔で、みんなを落ち込ませまいと振る舞う翠の姿を思い出し、和巳は胸が痛くなった。
「そっか。……教えてくれてありがとう」
一言告げてこの場を去ろうとする和巳に、翔也が「待てよ」と声を掛ける。
「どこに行くつもりだ」
「……笹田は、優しいやつだ。こんな目になんか、あっちゃいけないようなやつだよ」
翔也の友達という理由だけで、不良の中に飛び込んで和巳を助けてくれるような子だ。
その結果が大好きな弓道を封じられることだなんて、報われない。こんな理不尽なことが、あっていいわけがない。
背中を見せた和巳の腕を、翔也が掴んで歩みを止めた。
「だからどうするってんだ」
「犯人を捕まえる」
ためらいなく言った和巳に、翔也は息を呑んだ。
もしかしたら、今の和巳にいつかの和巳と重ねたのかもしれない。二年前、視力のほとんどを失った夕凪を集団で苛めた一部の女子生徒たち。彼女らを前にした和巳と、今の和巳は同じ目をしているのだろう。
「お前じゃ、無理だ」
翔也は和巳の腕を強く握る。決して行かせない、そんな決意が腕を通して伝わった。
だが和巳の胸には、どうしようもない理不尽への怒りが溢れた。この怒りを押しとどめてどうする。弱者が虐げられるばかりだなんて、間違っているだろう。
「ならどうしろって言うんだ! 友達を傷つけられて黙ってろって言うのか!」
突然の大声に、隣にいた琴葉が肩をすくませるのが分かった。
怯える琴葉を見て、和巳は少しだけ冷静になった。
「……ぼくには、無理だ。絶対に見つける。絶対に、報いを受けさせる」
翔也の腕を引き離そうとした和巳の腕を、翔也は更に強く握った。
「なあ和巳。お前が行って何ができる。お前まで危険な目にあったらどうする。これは、警察に委ねるべき案件だ。お前が余計なことをするべきじゃない」
ああ、わかっている。わかっているとも。
だが納得はできない。警察が動くのは、いつも事件が動いてからだ。303便のときがそうだった。今回小牧が死んだときも、そして、翠が傷つけられた今も。
このまま放っておけば、また誰かが傷付くかもしれない。
ならば次は誰だ。翔也か。琴葉か。若菜か。それとも、夕凪か。
いずれにしても認められるわけがない。許せるはずがない。
今の翔也のように、「何かできたはずだ」と後悔して嘆くことだけは絶対にしたくない。
「翔也は悔しくないのか。笹田が――恋人がこんなことになったんだ。筋が傷つけられたってことは、弓道ができなくなるってことだろ。……なんでだよ。なんだって笹田がこんな目に遭わなきゃいけなかった。彼女に、一体なんの罪があった!」
それでも、翔也は決して腕を離さなかった。
「俺だって悔しいさ。悔しくないわけないだろ。けど、これはただの学生にどうこうできる問題じゃないってことはわかる。犯人がどんな奴か知ってんのか? 何が凶器か分かるのか? 俺には……わからねえ。だから俺は、翠の隣にいてやることしかできない」
「――それは」
和巳は言葉に詰まる。
――貴方が今の貴方でいられる場所は、もうこの世の何処にもない。
あの少女の顔が脳裏をよぎる。
心当たりがある、とは間違っても言えなかった。
「今回のはこれまでみたいに、学校内だけでどうにかなる問題じゃないんだよ」
翔也の言葉に、和巳は強く歯を噛みしめる
ああ確かに、今回のことは翔也には何もできないだろう。けれど、自分なら。
――忌鬼と呼ばれる自分なら。
胸を焦がす黒いものを飲み込んで、和巳は翔也の言葉に頷いた。
「ごめん。少し熱くなった」
◇ ◇ ◇
翔也と病院で別れた和巳と琴葉は、静かに帰宅の道のりを歩いていた。琴葉と和巳の家はある程度同じ方向にあり、途中までは道が同じだ。
そんな折、不意に背後から奇妙な気配を感じた。これは、病院で感じたものと同じものだ。あの、腐敗して溶けだしたプラスチックのような匂い。
――近くにいる。
おそらく、あの少女がいるのだ。なぜかそう思った。
彼女が和巳と琴葉の後を付けるように、一定の距離を保って監視しているのだろうか。
雨の中を、和巳と琴葉は無言で歩いた。
翠の見舞いを終えてから、琴葉はどこか浮かない顔をしていた。初めこそ翠の心配をしていたと思ったのだが、少し違うような気がする。彼女は彼女なりに不安に思う何かがあるらしい。
しかし今の和巳には、彼女に構う余裕がない。
むしろ会話のないことが好都合と、あの気配の動きに集中することにした。
そうして歩いていると、先日の河川敷を通ることになった。
人通りが少ない道であるため夜に通るのは危険だが、病院からの近道だ。
河川敷もあの少女の気配を警戒しながら歩いていると、不意に琴葉が立ち止まった。
和巳も釣られて足を止めると、河川敷に沿った道の先で、一人の男が座っているのを見つけた。この雨の中、傘も差さずにだ。
黒い髪をオールバックにして、龍の柄が入ったジャンバーを着ている男。
水戸裕也だ。
水戸はどこか遠くを見るような目で河川敷を見つめ、ポケットから取り出したアルコール飲料の蓋を開ける。そのまま自分で飲むことをせず、河川敷に流した。零れた飲料は雑草や石の間を伝わって、雨や川に流されていった。
中身のなくなった缶を水戸は放り投げる。その缶が、和巳の足元に転がった。
缶を和巳が拾うと、奇異な目で水戸は此方に目を向けた。
「天城……」
和巳の姿を視認すると同時に、水戸はジャンバーのポケットに手を入れて和巳に歩み寄ってきた。琴葉は一歩引いたが、和巳は引くことはしなかった。
和巳の目の前に立った水戸は、ポケットから抜いた左手で和巳の顔面を有無を言わせず殴りつける。突然の衝撃に、和巳は傘を落とした。
雨が、和巳の頭に降り注いだ。
「お前、ゲンさんに一体何をしたんだよ!」
水戸は両手で和巳の胸倉を掴んだ。水戸の表情に、これまでのような嘲りは欠片もなかった。怒りもほとんどない。
ただ――悲しい眼をしていた。
「何をしたって、きみもあの場にいたじゃないか。正当防衛だよ」
その言葉に、「ふざけんな」と、水戸はもう一度和巳の頬を殴りつけた。
「ふざけてるのはどっちだよ。ぼくが意中の女性と仲良くしてるからって、呼び出して袋叩きだもんな。そんな小牧に乗っかるきみたちの方が、大概どうかしてるだろ」
「違ぇ、違ぇんだよぉ……!」
泣きそうになるほど顔を歪めて、水戸は強く和巳の身体を押した。
バランスを崩して和巳はアスファルトの上に腰をぶつけた。立ち上がる様子のない和巳を睨み、水戸は叫んだ。
「んな事じゃねえ! あれからゲンさんはおかしくなった……ああ、あれは変だった……狂ってたんだよ! じゃなきゃ、あのデブがいるとか言い出す筈がねえ!」
あのデブとは誰のことなのか。和巳は頭の中で考えるが、それ以上に『狂っていた』という水戸の言葉に意識が向いた。
狂ったとは、どういうことなのか。
「あれだろ、俺らをボコしたのも、なんか変なクスリ使ったからなんだろ? じゃなきゃ、あの人数をどうにか出来るはずがねえ……なあ、教えろよ天城。何やったんだよ、何やってゲンさんをあんなにしたんだよ。――返せ、返せよ。……ゲンさんを返せよ天城ォ!」
バチンと大きな水音を立てて、水戸の拳が和巳の顔を弾いた。
水戸の言葉が頭に入ってこない。ただ、疑問ばかりが和巳の頭に渦巻いた。
そういえば、どうして自分はあの人数を相手に喧嘩で勝てたのだろう。
どうして、小牧がおかしくなったのは自分のせいだと責められているのだろう。
『キミは生きているだけで悪なるものだ。多くの人を不幸にする悪なるものだ。だからこそ、ここで死ななければならない』
石垣という、和巳を襲った男の言葉が蘇った。
――ああ、そっか。
――ぼくが悪なるものってやつだからか。
雨が降る。雨が降る。――雨が、降る。
降り注ぐ雨が、天城和巳の『人』というメッキを引きはがしていく毒の雨に思えた。
一つ、また一つと『人』の部分が剥がされて。そこに残るのは。
のこるものは、いったい、なんだろう。
「――おい聞いてんのか、なんか言えよ。なんか答えろよ、天城ォッ!」
荒れた路上に倒れ込んだままの和巳の胸倉を掴んで、水戸は無理やり立ち上がらせた。
和巳の瞳は、どこを見ているのかわからない。ともすれば、本当に何かしらの薬を使用して精神に異常をきたした様にも見える。
和巳の様子に少しばかりの恐怖を覚えた水戸は、自分の恐怖を緩和する意味も込めてか、強く叫んだ。
「てめェ、周りのやつ全員殺されてぇのかァッ!」
「……ころ、す?」
ぜんいんころされたいのか。ころす。殺す。――殺す? 誰が? 誰を?
ぼくの、大切な人たちを?
その言葉を受けて、和巳の瞳に黒い何かが灯った。
これまで一切の抵抗をしなかった和巳が腕を伸ばし、水戸の手首を掴む。
ギチギチと、手首が軋む音がする。水戸はあまりの痛みに和巳から腕を離そうとしたが、どうしても離れない。焦る水戸に和巳は問うた。
「一つ聞きたい。笹田をやったのはきみか」
和巳の問いに水戸は答えない。和巳の腕に、力がこもる。
「それとも、きみたちがやったのか」
あまりの激痛に水戸は顔を強くしかめ、遂に口を開いて悲鳴を上げた。
「笹田のことなんか知らねえよ! 俺たちは何もやってねえ!」
「――そうか。ならよかった」
ぼきり。何かが折れる音がした。
水戸が目を見開く。水戸の手首が、力なくぶら下がっている。
悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ水戸を放って、和巳は背後の琴葉に目を向けた。
琴葉の目に映る天城和巳は――果たして、どう見えただろう。
「ごめん。変なことに巻き込んだ」
琴葉は子犬のように小さく頷き、和巳の傘を拾った。
差した傘から雨が滴る。己の肉体に降りかかっているわけでもないのに、和巳は雨が自分の中の何かを流していくような感覚を覚えていた。
雨が降る。雨が降る。
――雨が、降っている。