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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第1章
6/23

日本航空303便

「――自分のプライドを守るためだけの小さな正義では、わたしは殺せないわ」


 ゴプ、と大平の口から血が零れる。それでもまだ終わりではないと、少女は胸からナイフを引き抜いて、流れるようにその首に走る動脈を切断した。

 血が迸る。噴水のように湧き出た鮮血が、少女の全身を赤く染め、大平であったものは倒れ伏した。倒れた先から尚も血液が零れだし公園を血に染める。


 ――パチン。

 少女が指を鳴らすと同時、赤い月の夜は終わりを告げた。


 暗い闇を金色の月光が照らし、空には月のみならず無数の星々が輝いている。

 そこは既に異界ではなく、和巳のよく知るいつもの夜だった。


 石垣卓弘の死体は、どこにもない。また、幽霊少女に降りかかったはずの多量の鮮血も消え去り、少女の服は血の染み一つ――汚れ一つない。

 和巳は唖然と呆けた。言葉が出なかった。

 まるで、これまでの出来事が夢のようだ。


 ぽんぽんと音がして、公園の電灯に明りが灯る。それをきっかけとして、これまで二者の戦いに目を奪われていた和巳は我を取り戻した。

 時計を見る。時刻は十七時。少女と多少の話をしたあと、『カクリヨ』が展開されたとき――石垣が現れたときのままだった。

 周囲を見渡す。粉々に壊れたはずのベンチや、そのベンチと共に吹き飛んだ鞄とディアーのケーキは、先と変わらずベンチの上に置いてある。和巳が捻じ曲げたジャングルジムもまた、何事もなかったかのように元の凸の形をしている。

 何が起きていたのか、わからない。

 唯一説明ができるのであろう少女に目を向けると、彼女はまるで牙のような黒いナイフを奇怪な鞘にしまい込み、和巳に歩み寄った。


「さて、天城和巳。わたしは貴方を助けたのだから、これは十分に恩を売ったと見てもいいでしょう。恩人のわたしは貴方に相応の報謝を求めたいと思うのだけれど、どうかしら」


 静かに、和巳は身体を起こした。まだジャングルジムに突っ込んだ痛みが、そして蹴り飛ばされた痛みが身体の節々に残っていたが、立てないほどではない。

 無言で立ち上がって、少女を睨み付ける。


「報謝というのは、感謝の念があって初めて成り立つものだ。ぼくは、きみに感謝の念を感じることはできない」


 確かに彼女は、結果的に和巳を助けてくれた。しかし先の会話が真実ならば、彼女は敵の存在を察知しながらも行方をくらまし、和巳一人を敵に対峙させたのもまた事実である。

 彼女の目的が分からない以上、彼女に対して肯定的な考えはできなかった。

 もとより和巳は、一度はこの少女に殺されかけているのだから。


「……なんでもっと早くに助けなかったんだ」


 困った顔をする少女に、和巳は問うた。


「だってわたし、見ての通りかよわい乙女だもの」


「よく言う……」


「それで、聞きたいことはそれだけかしら。此方はいくつも質問に答えてあげたのだもの、そろそろわたしの要望も聞いてもらいたいところだわ」


 どこまでも、人を小馬鹿にしたような態度。それが無性に和巳を苛立たせた。

 頼むにしても、もう少し頼むときの態度というものがあるだろう。まるで頼むという態度を見せず、それどころか応えて当たり前と思っている彼女の姿勢が気に食わない。


「助けてくれたことには感謝してる。だけど、だからと言ってキミのことを信用できるとは思わない。前に殺されかけたこともあるんだ。きみの要望を聞く気はない」


 殺されかけた相手を、一度助けられたからと信用するのは危険だ。

 なにより目の前の彼女は、敵がいることを知っていながら、和巳を一人で敵と遭遇させたのだ。それが和巳に恩を売るためであったかもしれないと疑うのは、当然の事だろう。


「――そう、残念だわ」


 少女はそれほど残念がる様子を見せないまま、自分の唇に手を当てた。

 次の瞬間、和巳の喉元にナイフが当てられた。目の前に居たはずの少女は、気付けば和巳の背後に回って腕を首に回していた。

 彼女が少しでも手を引けば、和巳の首は先の石垣のように切断されることだろう。


「……もう一度だけ聞くわ。わたしは今、絶賛協力者を募集しているの。貴方、わたしと共に来るつもりはないかしら。貴方なら、それが務まりそうなの」


 今度は、甘く優しげな声で少女は問うた。


「断る」


 彼女は結局、自分の事を何一つ明かさなかった。自分の夜も。敵に黒蛇と呼ばれていた理由も。そして、自分の名前でさえも。なのに協力しろというのは、虫の良い話だ。

 確かに和巳は無知だ。どうして襲われたのかも、自分の正体が何であるのかも、何一つわからない。だからこそ、それら総てを教えてくれて、これからどう生きていくのかを導いてくれる協力者が現れるのはとてもありがたいことなのだと思う。

 けれどそんな疑問も協力者の存在も、どうでもいいことだ。


「言ったはずだ。ぼくはきみが信用できない。もし協力してほしいなら、ぼくを信用させてみろ。それができたら、報謝でもなんでも嫌になるほど返してやる」


 信用できない協力者ほど、危険なものはない。

 逆に、こんな状況で得た協力者もまた、彼女からしたら信用出来たものではないだろう。ゆえにこの場は凌げても、やがては切り捨てられるという結末が目に見える。


「……見かけに似合わず、中々の頑固者なのね」


 スッと、ナイフが引かれた。てっきり首を切断されるかと思ったのだが、彼女のナイフは首の薄皮を裂くばかりで、肝心の動脈を傷つけられることはなかった。


「生死の狭間にありながら、己の意志を貫くその姿勢。気に入ったわ」


 そう言って、彼女は和巳を締めていた腕を解き、解放した。

 断れば殺されると思っていただけに、解放されるというのは予想外だ。

 疑念を抱く和巳の背中を、少女は励ますようにさすった。


「必ず、わたしは貴方を手に入れる。それまで死ぬことは許さないから」


 そう耳元で囁いた少女は、最後にぽんと和巳の肩を叩いて背中を向けた。

 無防備な背中だった。あの背中を狙えば、少女を殺せるかもしれない――そんなことを思わせるほど無防備な背中だ。しかし少女の後ろを狙うことほど後味の悪いものもない。

 和巳は自分の荷物を手に取った。鞄の中身、そしてケーキを確かめる。中身はやはり先ほどと変わらぬままだった。少しばかり形が崩れているが、それはおそらく、あの少女から逃げる際に落としたせいだろう。

 そういえば、と少女は最後に一度だけ和巳に顔を向けた。


「貴方はまだ、自分は日常の中で生きていけると思っているのでしょうけれど、それはもう叶わない願いよ。貴方が今の貴方でいられる場所は、もうこの世の何処にもない」


 そして彼女はどこかへ去った。

 少女の呟きは、和巳の心に呪詛のように溶けていった。


       ◇ ◇ ◇


 結局、少女に食べられたモンブランの分を補うために適当にコンビニでチーズケーキを買って、和巳は家に帰宅することにした。その頃には時刻は十八時を回っていた。

 いつもより少し遅いくらいの時間であったので、怒られずに済んだのは幸いだった。

 夕凪の出迎えを受けて居間へ向かうと、鼻歌を歌いながら調理にいそしむ一人の女性の後ろ姿が見えた。

 春見若菜だ。彼女は普段介護服を着ているのだが、今日は違う。きわどいハーフパンツを履き、キャミソールの上から薄手のカーディガンを羽織っている。


「ただいま、春見さん」


「いいタイミングだぞ和巳くん。もうできる所だから、ちょーっとだけ待っててね」


 何も手伝うことがないのは申し訳ないと思ったのだが、手伝いを申し出たら夕凪と若菜に断られてしまったので、部屋に鞄を置いて、和巳は大人しくダイニングテーブルに座って待つことにする。

 夕凪と若菜は、二人でせかせかと調理を続けた。

 夕凪はほとんど目が見えないというのに、もう幾度も台所を使って慣れたのか、特に危なげなく動いている。また目が見えない夕凪に気を付けつつ立ち回る若菜の方も、熟練とでも言うべき動きだ。台所を使用する二人の姿は、ある種の芸のようになっている。

 なるほど、あそこに和巳が立てば、邪魔になること請け合いだろう。

 まるで本当の姉妹のように息が合っている。


 春見若菜は、どこかギャルっぽさを感じさせる社会人女性だ。本人曰く名前の通りの清純系らしいのだが、明らかに天然のものではない白よりの金髪と、じゃらりと付けられたピアスがいろいろと台無しにしている。性格も無駄に男らしく、姉御肌だ。

 若菜は障がい者の介護を仕事としており、現在は視覚障がい者である夕凪の介護をしてくれている。本来はただの介護士なのだが、勉学を学びたいという夕凪の意志を受けて勉強の付き合いまでしてくれているのだから、入学したばかりの高校を中退してしまった夕凪を心配する和巳からしたらありがたい話だ。


 現在、若菜は一日八時間、週五回――一週に約四〇時間の付き添いという契約なのだが、彼女の厚意によって業務とは無関係に夕凪の面倒を見てくれることもある。

 和巳が安心して学校へ行けるのも、若菜の存在によるところが大きいだろう。


 見ての通り夕凪を妹のように思ってくれているようであるし、夕凪も若菜のことを姉のように慕っているのでとても仲が良い。

 今日のように友達感覚で天城家で食事をするのも、別段珍しいことでもない。


「さあできた! 和巳くんは最近忙しいみたいだし、たまにはお兄ちゃんお疲れさまって言ってあげないとね。喜びなさい、今日はわたしの奢りだぞ!」


 そういって二の腕を叩く若菜は、とても男らしかった。


       ◇ ◇ ◇


 春見若菜には、父親がいない。

 母はいるが、どうも不仲であるらしい。若菜が高校の時分、父と母が離婚してから、母はあまり笑わなくなったという。そんな母を笑わせようと、自分が父親の代わりになると決意して前に進んだ結果、若菜は今のような性格になったのだと聞いている。


 どうして父親になろうとして前時代的なギャルのようになってしまったのかはまるで分らなかったが、彼女には彼女なりに思うところがあったのだろう。見た目はともかく、性格だけは男にも負けない、頼れる姉御肌となった。

 だがそれでも母は笑わなかった。また若菜も仕事に就いたことから共に食事をする機会が少なくなり、今では住む家は同じでも、会話はなく食事も別々になっているそうだ。


 若菜はこの天城家で食事をするときが一番幸せであるという。

 もしかしたら、父がいなくなったことで失ってしまった家族の団欒が、この空間には存在するからかもしれない。


       ◇ ◇ ◇


 夕食はたくさんのエビフライだった。肉付きや美味しさから、中々値が張ったものなのだと一口で分かるほどのものだ。天城家であのエビを食べるとなると、月に一度も食べられないだろうなと和巳は思った。

 しかし美味しいとはいえ、胃袋にも限界はある。若菜の買ってきたエビの量は三人分にしては少し多く、「ご馳走さま」と手を合わせる頃には、三人ともお腹をさすっていた。


「一応昨日の謝罪として買ってきたんですけど、これは後日にしましょうか」


 そういって和巳が白い箱を出すと、「ディアー!」と若菜が身を乗り出した。夕凪もそれに次ぐように「ディアー?」と身を乗り出し、二人は喜んでフォークを握った。


「えっと……食べます?」


「「食べます!」」


 どうやらデザートは別腹であるらしい。


 デザートを食べ始めると、若菜が不意にテレビを付けた。彼女は母親と食事をする際にはテレビを付けていないと間が持たないそうで、食事中にはテレビを流すことが習慣化しているらしい。天城家では基本的に食事中はテレビを付けることが少ないのだが、彼女がいるときは付けてもいいことにしている。


「うーん、流石は和巳くん。良い仕事をするなぁ!」


「流石は兄さんです。ちゃっかりと限定ケーキを買ってくるあたりも流石です」


 女性二人が件のモンブランを口に運び、美味しいと舌鼓を打つ。

 和巳は一人チーズケーキを前にして嘆息した。

 実は密かに和巳もモンブランを楽しみにしていたのだが、食べられてしまったのだから仕方がない。普段お世話になっていることへのお礼、昨日の謝罪という意味を込めたケーキだ。まさか夕凪や若菜にコンビニのケーキを食べさせるわけにもいかないだろう。


 和巳はあの少女を恨めしく思いながらケーキを口に運ぶ。

 コンビニのケーキだ。不味いとは言わないが、美味しいと絶賛するほどでもない。

 二人が満面の笑みでモンブランを頬ばる姿を見て、少し落ち込んだ。そんなとき、不意にテレビの音声が耳に入ってくる。


『二年前に起きた日本航空303便墜落事故。未だにこの事故の原因は解明されておらず、専門家の中でも多く意見が分かれています……』


 テレビが流しているのは、二年前に日本で起きた惨劇の特集だった。

 二〇一五年十月十日。乗員乗客203名のうち、187人もの人が死亡した大事故である。生存者は僅か16人。一九八五年の日本航空123便墜落事故、及び一九九四年の中華航空140便墜落事故と共に、日本三大飛行機事故の一つに挙げられている――。

 そんな説明と共に数少ない生存者が紹介され、コメントを述べ始める。

 ケーキを口に運んで笑顔になったはずの夕凪の表情が曇った。和巳もまた、和やかにデザートを食べる気分にはなれない。若菜は静かにテレビを見ている。


「……これって、ほんとのことなのかなぁ」


 ぽつりと、若菜が呟いた。

 テレビに映る生存者の一人、牧という中年の男性は、


『あの事故は本当に意味が解らない。墜落する少し前に、突然乗員乗客の一部が発狂したんです。残る人たちもたくさん発狂していった。そして狂った殺し合いが始まったんです』


 とコメントする。

 他の生存者たちも同じようなことを言っている。そしてそれが正しいことを、和巳と夕凪は誰よりもよく知っていた。

 303便墜落の主な原因は、操縦士のミスで転落したことだと言われている。しかしその直接の原因の詳細は分かっていない。専門家の間でも、人を狂わせる他国の細菌テロが原因である、原因不明の疫病が発症したのだろう、墜落した時のショックで人が殺し合う幻覚を見たのではないか、などと意見が分かれている。

 実際何が起きたのか、和巳にはわからない。しかし、確かに人が狂気に染まったのを見た。そして、醜く野蛮な殺し合いを見た。


「細菌テロとか言われてもさーあ、ちょーっと信じられないよねぇ」


「そうですね……」


 夕凪は食べる気分ではなくなったのか、フォークを置いた。

 和巳はさっさと口に詰めてケーキを咀嚼することにした。味はよくわからなかった。

 若菜も食欲がわかないのか、栗をフォークでつついている。


「和巳くんたちの両親って、この事故で亡くなったんだよね」


 和巳と夕凪に目を向けないまま、若菜は呟いた。夕凪は目を伏せて口を強く結んでいる。和巳は見るに堪えかねて、テレビを消そうとリモコンに手を伸ばす。


「――実はこれ、わたしのお父さんも乗ってたんだ」


 夕凪は顔を上げ、和巳は伸ばした手を止めた。


「前にも言ったけど、うちの両親はわたしが高校のときに離婚したの」


 それは聞いたことがある。父親がいなくなって寂しそうにしている母を見て、若菜は自分が父親の代わりになろうと決意したのだという。しかし、その父親が亡くなっているというのは聞いたことがなかった。


「この日の夜にね、うちの家族は両親が離婚してから初めて、三人で食事をしようってことになってたの。あたしの提案。お母さんはあまり乗る気じゃなかったんだけど、承諾してくれた。それで、とある店でお父さんを二人で待っていたの。でも、」


 若菜の父は、いつまでも現れなかった。結局食事は二人で行い、母は「あの人の仕事ばかりに気を回すところが嫌いなのよ」と呟いた。母の言葉は、これ以上父を嫌いになりたくないと言っているようにも思えたという。

 食事を終えて帰宅したその日の深夜、二人の下に緊急の連絡が伝わった。

 父が飛行機事故に巻き込まれて死んだ、と。

 多くの人々と共に大破した303便は多くの亡骸を抱きかかえたまま炎上したため、どれが誰の遺体であるか判別できない状態にあった。若菜と母はやむなく事故現場に花を添え、骨も遺体もない形ばかりの葬式を行った。母は遺体のない棺桶を前に号泣した。


「――だから、せめて真実が知りたいの。あの夜、何があったのか」


 若菜は和巳と夕凪を見た。その目は決して人を問いただす類のものではなく、純粋な懇願によるものだとわかった。

 二年前の事故は大々的にマスコミに取り上げられたし、奇跡の生存者として和巳や夕凪も当時テレビに映されたことがある。誰がそれを知っていてもおかしくはない。現に和巳は、事故直後は教師やクラスメイトからかなり気を使わせたことを覚えている。


 ――若菜は、303便の生き残りと知って和巳と夕凪に近づいたのだろうか。


 そんなことを和巳は頭の隅で考えたが、かぶりを振って否定した。

 仮にそうだとしたら、どうして若菜はこれまで父の話をしなかったのか。和巳や夕凪と二人きりになる場面はこれまで何度もあった。さりげなく話を引き出すことなど、若菜にはわけもないことだったはずだ。それでも事故について聞かなかったのは、きっと和巳も夕凪もあの事故で心に大きな傷を負っていたからだろう。

 マスコミからテレビの出演依頼が来ても、その度に断っていたことは記憶に新しい。

 しかし、今ではその傷も随分と塞がった。父と母の居なくなってしまった枠を、春見若菜という女性が埋めてくれたからだ。


 だが若菜の問いかけに、和巳も夕凪も答えることはできなかった。

 言いたくないのではない。思い出したくないのでもない。

 本当に、何が起きたのかわからないのだ。

 テレビで述べられていること以上のことが、本当にわからない。人が発狂したのはわかる。人が殺し合いを始めたのもわかる。しかしどうしてそれが起きたのか、原因がまるでわからない。


「……ごめんなさい、テレビ以上のことはわからないんです」


 思った通りに、夕凪は口を開いた。

 和巳は何も言えなかった。ただ、すみませんと口を開くのが精一杯だった。

 しばらく唖然とした若菜は、しかしすぐにいつもの『笑顔の若菜』に戻る。


「ごめんね、嫌なこと聞いたよね。……うん、本当にごめん」


 若菜はテレビを消して、残ったモンブランを口に詰めて立ち上がった。


「わたし、もう帰るね。せっかくいい雰囲気だったのに、台無しにしてごめん。二人が303便のこと凄く気にしてるのは知ってたけど、……どうしても知りたかったの。どうして父さんが死んでしまったのか、知りたかったの。でもさ、そんなの身勝手な話だよね。二人には、関係のないことだった」


 早口でまくし立てた若菜は、深く頭を下げてもう一度だけ「ごめんなさい」と謝罪した。

 そのまま去っていく後姿を見送ってから、和巳は思い出したように玄関へ向かう。

 若菜は玄関の電気もつけずに靴を履いていた。その背中には、悲しみと落胆と、自責の念が感じ取れたような気がする。


「見送りありがとう、和巳くん。でも、今は夕凪ちゃんの隣にいてあげて」


 背中を向けたまま立ち上がった若菜は、静かに玄関の扉を開いた。

 なんだかこのまま若菜を返してはいけない気がして、和巳は「あの」と口を開いた。

 しかし何を言えばいいのかわからない。自分で自分の気持ちが整理できないほど、心の中がかき乱れている。言いようもない複雑な感情が、胸の内にあった。

 けれど、一つだけ確かなものもある。


「ぼくも夕凪も、春見さんのことが好きです。それは……変わらないから」


「……ありがとね。わたしも二人が大好きだよ」


 和巳の言いたかったことが上手く伝わったかどうかはわからない。けれど最後に和巳に振り向いた若菜は、確かに心から笑っていたと思う。


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