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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第1章
3/23

始まりの悪夢


「貴方、なかなかどうして強いのね。まるで人ではないみたい」


 和巳が振り向いた先には、一人の少女が立っていた。

 どこから現れたのか、いつの間に現れたのか、そんな考えには及ばなかった。何よりも先に、彼女から向けられた冷たい視線が和巳の思考を凍らせた。


 少女は和巳と同程度の身長だ。年齢の方も同程度に思われる。黒く長い髪をハーフアップに纏めて、黒と白の無彩色で色を固めている。それだけならばただの少女のように思われるが、決定的に違う何かがあった。

 圧、とでもいうのだろうか。彼女を中心として世界が強い力に惹かれるような錯覚を受け、和巳は無意識下で後ずさる。


「そんなに怖がらないでよ、傷つくわ」


 くすりと笑い、一歩、少女が和巳と距離を詰めた。

 口だけは微笑の形をしていても、釣りあがったその目だけは笑っていない。彼女の刃物のように鋭い瞳が、和巳の正気を切り刻んで恐怖を植え付ける。

 心臓がうるさい。唇は震えて、蛇に睨まれたように身体は動かない。


 和巳が胸に抱くこの感覚は、久しく抱いていなかった死に対する恐怖だった。


 思い切って背を向け、和巳は少女から逃げ出した。だが、足が縺れた――違う、何者かによって足の動きを阻害されたのか――この状況ではどちらでも同じだ。和巳はバランスを崩す。

 背後に回っていた少女の手が和巳の身体を回し、うつ伏せに倒れた。

 強く後頭部を打ち付けた和巳の上に少女が跨る。その手には小型の黒いナイフが握られていた。


「さようなら」


 和巳の首にナイフが翳され、手慣れた様子でナイフを引こうとする少女の手が、不意に止まった。


「……貴方、形代(かたしろ)ではないの?」


「かた、しろ?」


 理解できない。言葉の意図も、言葉の意味も。

 和巳が口を開閉させていると、少女は唐突に和巳から上空へ視線を向け、危険を察知したのか後方へ大きく跳躍した。

 少女が警戒し後退した理由が――二〇ほどの齢の女性が和巳の横へ着地する。


「貴様、何をしている」


 女性は恐らく、少女を睨んだ。

 しかし年長者の睨みをものともせず、少女はくるくると回りながら服を翻し、女性を嘲るように笑った。


「あら、随分と野暮なことを聞くのね。貴方は上から見ていたでしょうに。けれど答えてあげる。わたしはまだ何もしてないわよ。貴方に邪魔をされたもの」


 少女の挑発するような物言いに、女性は強く拳を握った。

 和巳には、何がなんだかわからない。ただでさえ殺されかかって動悸が激しく乱れ、冷静にものを考えられない状況だ。

 不安を隠せない和巳に、少女は艶やかな笑みを向けた。


「もし貴方が生きていられたら、また会いましょう」


 それだけ言うと、少女は女性を一瞥して走り去っていった。

 何が何だかわからずに立ち上がることも忘れていると、女性は和巳に手を差し出した。倒れこんだままの和巳は、差し出された手に気付いて起き上がる。


「危ないところだったわね」


 先端の尖ったミディアムの髪と、どこか矢を彷彿とさせる、綺麗ながらも鋭さを備えた女性だ。シンプルながらも動きやすさなどの機能性と、大人の女性らしさを出した空色の服装をしている。


「その、助けてくれてありがとうございます……」


 と口では言ったものの、未だに何が起きたのかが分からない。現実味もわかない。

 何をしたらいいのかもわからないので、今は深呼吸して動悸を静めることに尽力する。


「間に合ってよかったわ。でも――」


 女性の視線が、周囲に散らばる不良たちに注がれた。


「これは一体、どういう状況だったの」


 客観的に見て、この不良たちは和巳がボコボコに殴り倒したようにしか見えない。事実その通りではあるのだが、事実を説明しただけでは正しく伝わるとは思えない。

 とりあえず誤解がないことを願って説明をしようとすると、


空矢(そらや)


 低い男の声がした。人通りのない道の上には、一人の男が立っていた。


草壁(くさかべ)さん。……申し訳ありません、黒蛇(こくじゃ)には逃げられました」


 そう言って、空矢と呼ばれた女性は丁寧に頭を下げる。

 草壁と呼ばれた男は、黒い修道服を纏った神父だった。

 四〇代、いや、もっと上だろうか。短い白髪と、顔に刻まれた皺が齢を感じさせる。四角い顔と、細められた目が形作る微笑が仮面のようだった。


「構いませんよ、空矢。貴方は彼を助けたのでしょう。人を助けるは善行、己が目的に準じ、救える命を見捨てるは愚行なり。人命を慮った貴方の行動は正しい」


 静かに道路から河川敷まで降りてきた草壁という男は和巳の前に立ち、和巳の頬に、年齢を感じさせない筋肉質な手を添えた。


「酷い怪我だ。この近くに私たちの教会があります。治療をさせてはいただけませんか」


 治療をしてあげるのではなく、させてもらう。微妙な考え方の違いに、和巳は草壁という男に聖職者らしき一面を見た気がした。


「いえ、ぼくは――」


 助けてもらった上に、治療までしてもらうわけにはいかない。これ以上恩を受けるのは勘弁したいところだ。そう思って断ろうとした和巳だったが、草壁は小さく頭を下げた。


「どうか、私達を助けると思って」


 頭を下げてまで治療をさせてくれと言われては、和巳も断り辛い。

 できれば早く家に帰っておきたかったが、下手に傷を残して帰宅しては夕凪を心配させるのも事実だ。


「……わかりました、お願いします」


 釈然としないながらも、和巳は頭を下げた。


       ◇ ◇ ◇


 教会に連れていかれる。それだけで、和巳は何かしらの宗教、或いは怪しい信仰に勧誘されるのではないか、教会という得体のしれない場所で何かをするために、この男は実は神父の格好をして人を騙しているのではないか――などといろいろ勘ぐった。

 しかし人通りが多く、また和巳も知っている道ばかりを通っていたことから、和巳はこの神父への疑いを少しばかり薄めることにした。

 それに、空矢という女性に命を救われた恩もある。


 河川敷から約二〇分ほど歩いたところに、一本道の先に三件の家が並んで立つ行き止まりがある。

 三件のうち二軒は非常に似通ったつくりであったのだが、同じ作りの家に紛れようとして紛れこめず、あからさまに浮いた状態で、それはあった。

 

 なるほど、確かに教会だ。画像検索すればすぐに出てくるであろう、西洋風の建造物。しかし長年管理されていなかったのか、隣の二軒の家とは違って建物の周辺には大きな雑草が無数に生い茂っている。

 唖然とした和巳に、苦笑した草壁は汚い教会であることを謝罪した。


「えっと……草壁さんたちはここに住んでるんですか?」


「いえ、今は白那岐(しらなぎ)の方でルームシェアを。ここは職場のようなものですよ」


 白那岐市というと、駅を二つ三つ跨いだ場所だ。日本三大都市ほどではないが、少なくとも計都市よりはよっぽど都会である。

 そんな所からここまで何をしに来ているのかと思ったが、和巳は口には出さなかった。


 草壁に案内され、和巳は教会の中へ入ることになる。

 草壁と一対一ならば絶対に断って速攻帰宅の道を選んでいただろうが、恩を受けた空矢も一緒であったから、何か恩を返せる機会はないものかとこうして付いて来たのだが、それも間違いだったかと思う。

 教会内部は比較的清掃が行き届いていて、また窓も一般の建築物でいう二階相当の高さに設置されているものだから、伸びきった雑草が太陽光の阻害をするわけでもない。

 ステンドグラスが照らす光の下、和巳は草壁と共に礼拝堂の座席に座った。

 ちなみに空矢は草壁の横に立っていたのだが、草壁の「空矢も座りなさい」という指示を受けて、現在は草壁を跨いだ少し奥に座っている。


「しかし、貴方はどうしてあんなところにいらっしゃったのですか。私達が言える立場ではありませんが、本来人の寄り付く場所ではありますまい」


 消毒液をしみこませた綿を和巳の頬に当てながら、草壁は問うた。

 まあ、なんというか。曖昧に濁すように和巳は口を開く。

 別段やましいことは何もないし、あの暴力も正当防衛で済む話なのだろうが、自分自身が状況を把握していないせいで、どこか後ろめたさを感じてしまう。


「友達が不良に絡まれていたので助けたら、帰りに不良に呼びだされてました」


 とりあえず事実を述べて苦笑すると、草壁は細い眼を僅かばかり開いた後に「己を犠牲にして友人を助ける。素晴らしい心掛けです」と賛辞を呈した。しかし反面、和巳の身体の傷を目にしては、小牧たちの行いに対して不快を示す。


「よくもこんなにも酷いことを。人と猿の違いは他人を思いやる事であると言いますが、人を思いやることもできぬ者はいかんとも――」


 そこまで言って、草壁は口を閉じた。「神父たるもの人を悪く言うものではないですね」と。

 やはり微笑を崩さぬ神父は、そっと治療をしながら告げた。


「ときに貴方、天使や悪魔という存在は信じておりますか」


 草壁がそれを問うたとき、心なしか空矢の表情が険しくなったような気がする。

 少し緊張をしながらも、和巳は「無信仰だからわからない」と答えた。


「そうですか。私も母がアメリカの人間でなければ神など信じてはいなかったかもしれませんねえ」


 言われてみれば、神父の顔立ちは少しばかり日本人離れした高い鼻がある。

 母がアメリカ人であるなら、その顔にも納得ができた。


「……奇妙な問いの続きになりますが、この世に悪魔という存在があると仮定するならば、貴方は悪魔がどんな存在だとお思いになりますか」


 本人も認める奇妙な質問に、和巳は首を傾げた。

 しかし神父の態度は、表情こそ変わらぬ微笑ではあるものの、至って真面目であるように思われた。

 想像もつかないが、きっとそれは悪い運命のようなものではないか。と和巳は言った。

 和巳の脳裏には、二年前の事故があった。もし仮に悪魔というものがいるのなら、突然人の命を奪う『運命』などと呼ばれるものなのではないかと思ったのだ。


「なるほど、運命ですか。既に決まりきった悪なる事象こそが悪魔そのもの――ふむ」


 さも興味深そうに草壁は唸り、うむ、と頷く。


「私はね、人の理性というものは素晴らしいと思うのです。それこそ人が人である証だ。我のためでなく人のため、それができる人間は特に、心底尊敬に値する」


 貴方もそんな人間の一人でしょう。

 草壁は突然そんなことを言い出した。脈絡のない会話の流れに、和巳はやはり首をかしげてしまう。

 空矢に助けを求めようとしたが、空矢は草壁と和巳を会話に興味がないようで、姿勢よく座ったまま右手のミサンガを指先で弄んでいた。和巳の視線に気づくと、空矢は慌てて姿勢を正してミサンガを触るのをやめた。


「だからわたしの考える悪魔というものは、人の理性を奪うものであるのだと思うのです」


 再び言葉を続けた草壁に視線を戻し、和巳は唸る。


「理性を奪う、ですか」


 草壁は人の理性を素晴らしいと思っている。だからその理性を奪うものこそが悪魔であると考える。なるほど、こうして繋げてみれば、草壁の言葉の意味がわかる。


「あまり難しく考えずとも結構です。そうですね、例えば日本にはこんな言葉があるでしょう。『魔が差す』という言葉です――」


       ◇ ◇ ◇


「制服から見て、計都高等学校の生徒でしょう。名は天城というそうです」


 天城和巳という少年を見送った後、空矢は教会へと戻り、草壁の隣に立った。

 その視線は「どうしますか」と指示を乞うている。草壁は教会の椅子に腰を掛けたまま、天城和巳の座っていた椅子を見た。


「できればウチに欲しいですね。石垣くんよりは、よっぽど使えそうだ」


「……その、石垣の件ですが」


 石垣という名前を耳にして、空矢は罰の悪そうな顔をした。謝罪を告げようとした空矢の前に、「言わずとも結構」と草壁は制止の意を込めた右手を出す。


「どうせ彼は、黒蛇の捜索という建前で生まれたばかりの忌鬼(いみおに)を探しているのでしょう。まったく、彼の眼は大したものですが、放浪癖には困ったものですねえ」


 困ったと草壁は言うが、その微笑からは困ったという感情は伺えない。


「すみません、私がもっとしっかりと言いつけていれば」


「咎めても行くでしょうから、空矢の過失ではありませんよ。アレが勲章集めのために討伐に挙手したことなど十分承知していますから、想定済みの結果です。それよりも――」


影山(かげやま)は先ほど、大平の監視に」


 草壁の問いを先回りする形で、空矢が答える。

 ならばよろしい、と草壁は満足気に頷いた。


「では私達は彼の帰りを待ちましょう。……状況が、より好転するやもしれませんよ」


「それは――『黒蛇』討伐の?」


 空矢の視線が鋭くなる。黒蛇と呼ぶモノへの憎悪が、瞳の奥に幽かに燃える。


「ええ。もっとも、あの天城少年がどちら側であるのかが重要な点となりますがね」


 神父の微笑は崩れない。やはり、彼が何を考えているのかわからない。

 彼の言う『どちら側』とはどういう意味か。空矢は小さく首をかしげた。


       ◇ ◇ ◇


 和巳が家に帰る頃には、時刻は既に十九時を回っていた。

 夕食の当番は夕凪なので、今から食事を作るということはないのだが、長い間待たせることとなったことに違いはない。

 帰宅早々、やはり「遅い」と怒られ、その他ガミガミと細かなことを怒られた。さりげなく、今朝も弁当を作らせてくれなかった云々と、帰宅に関係ないことも怒られた。

 しかし最後に「春見(はるみ)さんにも迷惑になりますから」と言われては、和巳はとにかく頭を下げる他なかった。


 春見若菜(わかな)というのは、障がい者介護センターの職員である。

 彼女の勤める障がい者介護センターは、勤務する介護士を障がい者の家へ派遣して面倒を見ることを業務とした企業である。そのため、若菜は視覚障がい者である夕凪の面倒を見るために、日中の間――特に和巳が学校へ行っている時間――に天城家を訪れる。


 若菜は本来、週に五日、一日八時間という契約にあるのだが、夕凪と大層意気投合したようで、仕事の有無に関係なく友人として天城家に訪れることもある。和巳にとっても、頼れるお姉さんのような存在だった。

 和巳が学校などの都合でやむなく外出する際には、彼女の助けがほぼ必要不可欠だ。そのため時折無理なお願いをすることもあるのだが、若菜は快くそれを引き受けてくれる。それゆえ、日々のお礼と称して天城家で食事をしてもらうことがあるのだが――まさに今日がその食事の日であった。

 春見はこの後も仕事が入っているにもかかわらず無理をしてまで顔を出してくれたのだが、和巳の帰宅が遅れたせいで食事会が叶わなくなってしまったのだ。


「春見さんに連絡してください。ここで、今すぐ」


「はい。誠に申し訳ありませんでした。連絡させていただきます、はい」


 和巳は妹の前で正座をしながら、若菜へ謝罪の連絡をすることになった。


       ◇ ◇ ◇


 先に夕凪と春見が夕食を食べたということなので、残された和巳は一人で夕食を食べることになる。

 今回の遅れの主な原因は小牧や水戸たちにあると思うのだが、しかし遅れるという連絡を怠ったのは和巳だ。一人寂しく夕食をついばむのも致し方ないと思っていたが、愛しの妹はちゃっかりといつものように向かいの座席に座っていた。

 夕凪の前にあるのは食事ではなく、読書用の本だったが。


 夕凪は視力が極端に低いが、メガネを掛けた上で顔を近づけて焦点を合わせることができれば、本を読むことも一応は可能らしい。しかしそれでも読みにくいものは読みにくいだろう。多くの視覚障がい者は点字図書、音訳図書、或いは拡大図書を読むというので和巳も夕凪に勧めてみたのだが、そういった障がい者用の書籍は非常に少ないのだという。

 病弱であったために外に出ることが少なく、本を読むことが多かった夕凪。やがて本が好きになった彼女の視力がこうして悪くなるというのは、運命の悪戯という他ない。


 ――貴方は悪魔がどんな存在だとお思いになりますか。


 草壁の言葉だ。和巳の意見は、やはり先ほどと変わらない。

 悪魔というのは、人に不要な過酷を強いる運命というもののことだと思う。


「そういえば夕凪。夕凪は悪魔ってどんな存在だと思う?」


「なんですか、突然」


 顔を本に近づけて、懸命に文字を追いながら夕凪が答えた。


「さっき神父と会ったって言っただろ。その神父からそんな話をされたんだ。神父が言うには、悪魔は人の理性を奪う存在、まあ『魔が差す』っていう言葉的に言うなら『魔を指す』存在だーって言ってたんだけど、夕凪は悪魔がどんなものだって思うかなって」


「悪魔……ですか。よくわからないですけど」


 本から顔を離した夕凪は、胸を抑えて苦しそうに告げた。


「わたしの思う悪魔は、兄さんや春見さんたち、大切な人を奪う存在ですよ」


       ◇ ◇ ◇


 食事、入浴などを済ませて寝支度を整え、さあ寝ようと和巳が布団に入ろうとしたときだ。

 なぜか和巳の布団の半分を、夕凪の身体が占拠していた。


「……夕凪、これじゃあぼくが眠れないんだが」


「冷たい布団は嫌だと思って温めておきました」


「かの太閤殿下の真似事かい、殊勝な心掛けだね」


「いえ。寝室で信長さまを待つ濃姫の心持ちで」


 家臣どころか正室だ。唖然とした和巳に代わり「冗談ですよ」と夕凪は笑う。


「さっきの兄さんの話を聞いたら、なんだか不安になってしまったんです」


 後天的に視力を失った夕凪にとって、世界はとても朧げなものであるらしい。声が聞こえても、存在を感じられても、目がハッキリと見えないため不安になる。

 彼女の心が安らぐのは、見知った誰かに触れているときだけだという。

 だから和巳は、夕凪の手を繋いだ。彼女が安心できるように。彼女が悪夢を見ないように。夕凪もまた、和巳の手を握り返した。


 お休みなさい。どちらともなく互いにいって、二人は目を閉じる。

 しかし和巳は、どうにも眠ることができなかった。

 まだ、河川敷でのことが頭に残っていたからだろうか。


 あの少女は何者だったのか。空矢、そして草壁は何者なのか。今後何かしらの形で空矢たちには助けられた恩を返していきたいと思うが、しかしその反面、彼らと深くかかわってはいけないと心が警鐘を鳴らしてもいる。

 かれこれ半時間ほど不安と格闘した頃だろうか。「兄さん」と、夕凪の声がかかる。


「……なんだい」


 少し遅れて和巳が問うと、和巳の腕に、夕凪が強く抱き付いた。


「我儘を言ってごめんなさい。でもなんだか、兄さんが遠い所へ行ってしまいそうな気がして――お願いですから、どこへも行かないでくださいね」


 返事の代わりに和巳は、夕凪の頭を優しく撫でた。


       ◇ ◇ ◇


 その夜、和巳は夢を見た。

 あの夢だ。二年前の夜の夢。

 目に映る人の形をしたものたちは、互いの爪と、互いの牙を用いて互いの命を削り合う。刃物を使うことはない。銃器を使うこともない。ただ生物として己の持てる力を振るい、その力に溺れながら殺し合う。

 理性も知性も情けも容赦もない、相手を殺すためだけの獣のような醜い殺し合いだ。

 つい先ほどまで、彼らは普通の人だった。飛行機の中、空港へ辿り着くその時を待つ乗客だった。ある者は飛行機からの景色を楽しみ、ある者は空中の滞在時間を仕事に、あるいは趣味に費やして、またある者は眠りながら、その時を待っていた。


 だが彼らは狂った。唐突に狂った。狂って、殺し合いを始めた。


 何ら変わらぬ、普通の景色だった。ありふれた日常だった。しかしいかなる理由によるものか、それは瞬く間に崩壊し、地獄と化した。

 幼児の悲鳴が耳を裂いた。男の怒声が鼓膜を震わせた。人の肉が千切れる音が、脳に叩き付けられた。頬に飛び散る暖かいナニカ。それは、鉄を思わせる嫌な匂いで。

 眼を、開く。

 そこは既に、和巳の知る機内ではなかった。


 血。血。血。鮮血、凝血、溢血、悪血、出血、喀血、紅血、腥血、膿血、流血。

 赤が流れて、赤が零れて、赤が固まり赤に染まり赤に濡れ、赤に赤が赤赤赤赤――。


 これをなんと表現すればいいのかわからない。ありきたりで陳腐な表現をするならば、まさに地獄絵図だった。そうとしか例えようがなかった。

 その光景を和巳は、小さく震えて見ることしかできなかった。

 和巳の体格では大人には及ばないと思ったし、そもそも異常なる人々の争いの中に飛び込む勇気もなかったのだと思う。ただ、身体が恐怖で動かなかったことと、そのときの気持ちだけは、あれから二年経った今でも鮮明に思い起こすことができる。


 ――自分たち家族だけはどうか助かりますように、だ。


 なんと、傲慢なことか。なんと、自己中心的なことか。

 結局のところ、天城和巳という人間は自分と自分の周りが幸福であれば、他の者がどれほど悲惨な最期を遂げようとも構わないと考えているのだ。


 轟音が鳴り響き、機体が大きく揺れた。つい先ほどまで隣で殺し合っていた者たちはその衝撃に遠く離れ、子供を庇うようにシートへしがみ付いていた天城家の面々と、狂うことのできなかった一部の人たちだけが、機体の後部座席に残っていた。

 そして――墜落。

 その後のことは、和巳もよく覚えていない。

 ただ、そこは暗くて狭かった。和巳の腕の中には夕凪がいた。そして和巳の隣には、濃厚な血の匂いを漂わせる両親だったものがあった。背後からは熱い何かが迫っている。どうやら自分たちは飛行機の残骸の下敷きになっているらしい。そこに炎が迫っている。


 暗い。狭い。熱い。怖い。けれど身体は動かず、どうにもならない。ただ眼前に死のみがあると知り、そして何もできぬままにただ、迫りくる死を想像した。あのときの恐怖は、今でも忘れることはできない。また、何にも例えようもない恐怖だ。

 死神に鎌を突きつけられるような気分、と死を恐れる人は言う。

 違う、そんな優しいものではない。鎌ならば首を狩られればすぐに死ぬ、痛みはない。しかし炎は違う。足元から着々と迫り、気絶することも許されぬまま、足から焼かれていくのだ。皮膚が爛れ、爪が剥がれ、果実の皮のように皮膚が捲れ、そして肉を焦がされる。それだけで途方もない熱さだろう。想像を絶する痛みだろう。だが炎は止まらない。肉を焼けば骨、そして骨の芯まで焼かれた暁には、『自分』は何も残らない――。


 怖い。死にたくない。こんなところで終わりたくはない。和巳が強く夕凪を抱きしめたとき――光が、見えた。空を照らす月光だ。満月だった。

 炎を映した赤い月を背後にする、長い黒髪の少女の姿があった。


「生きていてくれたのね。よかった」


 見知らぬ少女の手には、小さな刃物が握られている。どうやらその刃物で、和巳たちにのしかかっていた鋼板を切り裂いたらしい。

 和巳が開けた周囲を見渡すと、他にも何人かの乗客たちも残骸の下から助け出されているようだった。少女が多くの人々を助けて回っているらしいことが想像できた。


「……ごめんなさい。貴方の両親は助けられなかったみたい」


 和巳と夕凪を包み込んだまま動かない両親を見て、少女は悲しそうに呟いた。

 両親はおそらく、最後の瞬間まで和巳と夕凪を守ろうと庇ってくれたのだ。我が子のクッションになるという役割を果たし、そして死んだのだろう。悲しいと思った。


 少女は和巳に手を差し伸べる。和巳はその手を掴み、夕凪と共に外に出ることができた。


 ――きみはぼくを助けてくれた。恩を返したい。


「オン? ……ああ、恩ね。わたしにそんなものは返さなくていい」


 少女はぶっきらぼうにそう言って、次の生存者の救助に向かう。

 和巳は少女に途方もない恩を受けたと思った。そして、その恩を返さなくてはいけないと思った。どうしてかはわからない。ただ、あの死への恐怖を拭ってくれた彼女こそが、和巳にとって形容のできない存在に昇華したことだけはわかった。

 だから和巳は立ち上がろうとした。立ち上がって、彼女と共に生存者の救助を手伝おうとした。だが足が思うように動かない。倒れそうになったところを少女に支えられた。


「無理をしないで。貴方の足、多分折れているわ」


 ――それでもいい。ぼくは、きみに恩を返さなきゃいけない。


 少女は困ったようにため息をつく。


「そんなもの、わたしは望んでいない。恩を返したい気持ちは、人に押し付けるものではないでしょう。わたしは要らないと言っているのだから、それは恩ではなく仇になるわよ」


 ――……。


 黙り込んだ和巳に、少女は今度は優しい声で微笑んだ。


「もしも恩を返したいと思うなら、わたしではなく、他の人に返してあげて頂戴」


 燃える炎。零れる赤に、無数の骸。大切なものを失ったという喪失感。

 肉体的な痛みと精神的疲労によって意識を失う直前に、和巳は誓った。


 あの少女に返せなかったこの恩は、人に返すことで償うのだと。


       ◇ ◇ ◇


「……最悪だ」


 翌日の朝、和巳は目を覚ました。

 あの日の夢を見たせいで、全身が汗で濡れている。昨日と比べてマシなのは、布団の上で寝たおかげで身体が痛くないことか。


 ――身体が、痛くない?


 自分の思考を反復して、疑問に思う。

 和巳は自分の身体を抱きしめるように全身に触れた。どこも痛くない。昨日は河川敷で小牧や水戸に散々殴られたのだ、打撲の十や二十はあって当然だ。しかし、痛みがない。

 これはいよいよ天に召されたか、などと冗談半分に思ってみるが、全身に染みる不快な汗と、ぼうっとする頭が目覚めの朝であると知らせている。


「……なんだよ」


 汗を流すためにシャワーを浴びた後、和巳は洗面所の鏡で自分の身体を目にした。

 昨日、水戸や小牧らに散々殴られ、散々石ばかりの河川敷に顔を叩きつけられたのだ、傷だらけになっていることを覚悟していたのだが――傷がない。擦り傷程度ならば多少はあったが、気になるほどではなかった。


「……なんなんだよ、これ――」


 昨日の出来事が夢のようだ。

 身体が軽い。

 まるで自分が、ここにいる気がしない。

 天城和巳という存在はまやかしである。そんな感覚に囚われて、眩暈がした。


       ◇ ◇ ◇


「おはよう、翔也」


 学校に到着した和巳は、挨拶をして自分の席へ鞄を置いた。

 教室で待っていた翔也は、和巳の姿を見つけた途端に、駆け寄って来た。朝部活を終えたところなのだろうか。しかしそのわりに、シャンプーの匂いはしなかった。


「なあ、和巳。お前、大丈夫か?」


 いつもの気楽な声とは違い、和巳を心配した様子で翔也は問いかける。

 普段との落差に、和巳はつい身構えた。


「大丈夫って、何が?」


 もしかして、顔色が悪くなっているのだろうか。

 和巳の問いに、翔也はすぐ答えることはしなかった。

 数回にわたる深呼吸を繰り返し、自分でもこれから告げる事実を再認識するように、一つ一つの言葉をゆっくり、はっきりと告げた。


「――小牧弦が、死んだ。殺されたんだ」


「……え?」


 和巳の心臓が跳ねた。

 昨日のことを思い出し、胸に不安が押し寄せた。自分の手を見た。

 その手は、血に濡れているように見えた。


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