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叛逆の赤い月  作者: 九尾
終章
23/23

木の芽ひとつ

 形代・草壁巌二らを倒して、一週間が経過した。

 計都において発生した連続殺人事件の犠牲者は水戸を最後に息を潜め、ほんの一週間という時間の中で、人々の記憶から忘れ去られていった。初めこそ警察の無能を嘆いていた地域住民たちも、今では「これも警察の功績か」と諸手を上げている。

 和巳も琴葉も何度か重要参考人として呼び出されることがあった。若菜の進言から、和巳は夕凪や若菜も被害者であるということを警察に伝えたが、おそらく事件解決に至ることはないだろう。

 犯人である岡はもう、この世にはいないのだから。


 岡の被害者と言えば、小牧と水戸にもう一人いる。笹田翠だ。

 どうやら彼女は、小牧たちにしていたのと同様に、嫌がる琴葉から岡を突き離そうとしていたらしい。その結果、岡の恨みを買って狙われたというのは、嫌な話だ。

 その翠の腕については、残念な結果となった。命が奪われなかっただけマシと言えばマシなのだが、しばらく弓道から離れなければならなくなった。しかし翠は決して弱音を吐くことはなく、むしろ落ち込む翔也の尻を蹴り飛ばすという逆転現象が起きていた。

 元気なのはいいことだ。きっと翔也が隣にいてくれれば、無理に元気を見せる翠も潰れることはないだろう。もしかしたら、二人っきりのときには弱音を零したりもしているのかもしれない。


 思えば和巳が忌鬼という特異な存在になってから、未だに二週間程度しか経過していないのだ。まさに怒涛の二週間であったと言えるだろう。しかしそんな二週間も、とんでもなく慌ただしかったのは、草壁を倒すまでの一週間だった。

 逆に次の一週間は、これまでの出来事が夢ではないかと錯覚するほど平和なものであったから、それはそれで不安になったものである。


 たった二週間。されど、二週間。

 この二週間で、変わってしまったことが多くあった。けれど、変化が決して悪いことばかりだとは思わなかった。失ったものもあれば、得られたものも多い――。


       ◇ ◇ ◇


 時刻は夕刻、空は赤。風と共に空に舞う落ち葉が、秋はもう終わりだと告げている。


 和巳は小さな紙を片手に、目的地へ辿り着いた。

 そこは、矢代市の街角にある、名はないが新しい、小さな(ほこら)の前だった。

 悲しい場所だと思った。洞窟を模した祠の周りには雑草が乱雑に散らばっており、僅かに顔を覗かせる地面が、どこか悲壮感を漂わせている。

 強く目を引いたのは、祠の背後にそびえる九メートルほどに育った椿だ。おそらく何十年も昔に植えられたものなのだろう。祠の様子から見ると、祠を立てるのと同時に植えられたもののようだった。

 その椿は、枯れていた。


「来たのね、和巳」


 椿の前でしゃがみ込み、両手を合わせていた少女が口を開いた。


「久しぶりだね、白比丘」


「ええ。一週間ぶり、かしら」


 和巳は夜宵の隣に座って、静かに両手を合わせた。十秒ほど黙祷をした和巳は、「あのさ」と小さな手紙をひらひらと揺らす。


「きみ、突然こんなものを寄越してさ、なんのつもりだい。気付かなかったらどうするんだ。時間もかなり限られてるし、久々に死ぬほど走った」


 久々といっても、前に死ぬほど走ったのはつい一週間ほど前の話だが。

 もちろん着替える時間もなかったので、和巳は制服のままだった。


「気付かなくても、良かったのよ。むしろ、来ない方が良かったのかもしれないわ」


 そう言って、夜宵は静かに立ち上がった。

 人を呼び出しておいてこの物言いだ、やはり彼女は何も変わっていない。そんな夜宵の態度に機嫌を一切損ねない和巳も、随分と夜宵に慣れてきたのだと思う。

 立ち上がった夜宵は、優しく椿の幹を撫でた。ポロリと、樹皮が落ちる。


「この椿はね、わたしにとって、とても大切だった人が植えたものなの。この祠もね、その人が立てたのよ。自分自身を祀るための祠なんだぞって、子供みたいに笑いながらね。でも、今なら分かる気がするわ。あの人はたぶん、自分が長くないことを知っていた」


 どこか遠い所を見るような夜宵の横顔を見て、和巳は一週間前のことを思いだした。


 ――幽霊が居たらいい。


 たしか夜宵は、和巳の両親に手を合わせながら、そんなことを言っていた。

 幽霊でもいい、その人に会いたい。もしかしたら、あの言葉にはそんな意味合いが含まれていたのかもしれないと思った。


「だからせめて、この木だけはわたしに残そうとしたのかもしれないわね。でも、ほら、見ての通り枯れてるじゃない。意味がないわよね」


 ぎこちなく、夜宵は笑った。

 和巳は何も返せない。ただ、胸が強く締め付けられるような思いがあった。


「わたしの夜はね、『生存』。どうしようもなく死を忌み嫌い、どうしようもなく死を恐れたわたしは、あるとき死なないことを望んだの。そんなもの、本当は要らなかったのに」


 かつての想いをなぞる様に、夜宵は椿をなぞる。

 和巳の眼に映る夜宵はただの少女だ。けれど、何故だろう、彼女の遠くを見つめる表情が、百の齢を重ねた魔女のようにも思えた。


「ただ、誰かが隣にいてくれればよかった。隣で笑ってくれる誰かがいれば、それだけでわたしは幸せだったのよ。でも、馬鹿よね。わたしは死なないことを望んでしまったの。一番叶えたかった願いは、叶わなくなった」


 そんな願いを一時だけ叶えてくれた人がいた、と夜宵は呟いた。


「その人は、白比丘弍識(しらびくにしき)と名乗ったわ。変わった女性だった。家族を失い、ただの孤児となったわたしをね、その人は育ててくれた。そんな彼女を見て思ったわ。わたしもいつか、彼女のように誰かを助けたいと」


 夜宵は小さく髪を揺らして、和巳に振り向いた。

 微笑んだその顔から、一筋の涙がこぼれた。


「でも、ほら――わたし忌鬼だったから」


 人を不幸にする存在。人に魔を差す悪魔。

 忌み嫌われし鬼。

 人を助けたいと願った少女の願いは、決して叶うことのない幻想だった。


「人を助けたかったけどね、死ぬことも怖かった。だから殺したわ。生きていればいつか、また弍識と会えると思ったから。それまでは死にたくない、そう思って生きてきた。でも、変な話よね。弍識が死んでしまったことを知っても、わたしは生きている。みっともなく、生きるために多くの人を犠牲にしてきたのよ」


「……だから、あんなことを言ったのか」


 ――総てが終わったら、わたしを、殺して頂戴。


「ええ。疲れていたの、生きることに。だって、諦めてしまえば全部楽になれるもの」


 楽しむことも、喜ぶことも諦めて、最後には生きることすらも諦めて。そうしてしまえば、もう死んでもいいやって思うことができれば、何も感じなくなる。

 人に憎まれてることを辛いと思って生きるより、人との別ればかりを悲しんで生きるより、そちらの方が、幾分も楽だからだ。


「今はどう思ってるんだい」


「自分でもわからないわ。生きていたいと思うし、死にたいとも思う。でも、わたしは簡単には死ねない身体だから、生きていくことになるでしょうね」


 生きたいから生きるではなく、死ねないから生きる。

 それはとても贅沢なことでありながら、同時に悲しいことだと和巳は思った。


「――死んで欲しいと思うでしょう?」


 不意に、夜宵が言った。

 その言葉に、思わず和巳は夜宵の瞳を見つめた。


「わたしは、死にたい、死にたいって言いながら、生きるために人を殺すような女よ。貴方の両親が死ぬ原因を作ったのは、そんな女なの。――憎いと、思うでしょう?」


「……そうだね」


 夜宵の言葉に和巳は頷いた。

 ずいぶんと自分勝手な理由で両親を殺されたのだ。もし、もっと早くに死んでくれていたら、両親は死ななかっただろう――と文句を言いたいくらいだった。


「そうでしょうね」


 夜宵は目を伏せた。

 けどさ、と和巳は言葉を繋いだ。


「二年前の事故に遭ったとき、ぼくも死にかけた。きみも言うように、すごく死が怖いと思ったよ。今だって、あの事故のことを夢に見るくらいトラウマになってる。そんなときに、「もう死ぬ」って思ったときに、ぼくはある人に助けられたんだ」


 暗闇の中で迫る炎熱の恐怖。全身が焼かれ苦しみ死ぬ未来。

 そんな中、一筋の光が差した。

 炎の中、月光を背に受ける少女を覚えている。


 和巳は少女に途方もない恩を受けたと思った。そして、その恩を返さなくてはいけないと思った。どうしてかはわからない。ただ、あの死への恐怖を拭ってくれた彼女こそが、和巳にとって形容のできない存在に昇華したことだけはわかった。

 昔はわからなかったその顔も、今では鮮明に映し出すことができる。

 あれは間違いなく、白比丘夜宵だったのだ。


「もう一度その人に会ったら、恩を返せるような男になろう。そう思って、できるだけいろんなことをやってきた。けど結局、ぼくにやれることは少なくてさ。いざ恩を返せる場面になっても、大したことはできなかった」


 それは残念ね、と夜宵は呟く。

 どこか、知らない人の話を聞くような態度だった。

 しかし、


「でもその人は、隣で誰かが笑ってくれれば幸せになれるらしいんだってさ」


 和巳の言葉を受けて、夜宵が目を丸くした。

 なんだかおかしくて、和巳は悪戯が成功した少年のように笑いをかみ殺した。

 不快に思ったのだろう、夜宵は「どういうこと」と眉をひそめる。


「だからぼくは、その人の味方でいようって決めたんだ。例え世界総てを敵に回しても、その人がその人である限り、ぼくはその人の隣で笑うことにする」


 その言葉は、以前夜宵が発した言葉をなぞったものだ。


「何を、言っているの……?」


 震える声で夜宵が問う。

 和巳は、笑顔で告げた。

 その人は、隣で誰かに笑って欲しいそうだから。


「――ぼくを助けてくれたのは、白比丘だ」


 再び目を丸くした夜宵は、今度は開いた口も塞がらないようだった。


「嘘、そんな偶然……けど――」


 夜宵は言葉を失って、視線を彷徨わせている。

 二年前のことを思いだし、可能性を考慮しているのだろう。

 二年前に偶然助けられた少女に、また助けられるなんて、本当に天文学的な確率だと和巳も思う。それでも、助けられたという事実には変わりはない。


「きみはたくさんの人を殺したんだろう。たくさんの人を不幸にしたんだろう。でも、それだけじゃない。きみに助けられたやつもいるんだ」


「わたし、わたしは――」


 夜宵が次の言葉を続ける前に、彼女の瞳から大粒の涙が零れた。

 その涙は、先ほどの涙とは別のものだった。


「へん、よね。かなしく、ないのに――」


 夜宵は冷静に涙を拭った。しかし溢れた涙は止まる様子がない。拭っても拭っても、流れ続ける。次第に夜宵の肩は小刻みに揺れ、数刻もしないうちにしゃくりあげた。


「わたし、いきてちゃだめって、おもって……でも、かずみ、は――」


 和巳には、夜宵が何を背負って生きてきたのかを知らない。けれど、彼女が望んでいるものが何なのか、それだけは分かる気がした。

 だから、告げた。


「きみと出会えて、よかった」


「――」


 その言葉に、夜宵の最後の誇りが崩壊した。

 夜宵は、泣いた。

 その場にしゃがみ込み、丸めた両手で涙を拭いながら泣いた。

 声を上げて泣いた。拭っても拭いきれないほどの涙をとめどなく溢れさせて、子供のように泣きじゃくった。泣いて、泣いて、泣いて、

 生きてくれて、ありがとう。また出逢ってくれて、ありがとう。

 ――ありがとう。

 その言葉を繰り返して、黒蛇と呼ばれた少女は、ただ、泣いた。


       ◇ ◇ ◇


 夜宵が泣き止むのに、数十分ほど有しただろうか。

 泣きはらした目で「こっちを見るな」と言って背中を向け続け、まるで先ほどの涙など見せなかったかのように「今のはゴミが目に入っただけよ。泣いてなどいないわ」と気丈に振る舞う夜宵を見て、和巳はどこまでも強情な女だと思う。


 和巳に背を向けたまま鞄を漁ってティッシュやハンカチで涙を拭きとった夜宵は、「はあ、死にたい」と大きなため息をついて肩を落とす。

 和巳を前に号泣したことを、死にたいほど後悔しているらしかった。それでも、先ほどのように死を匂わせる雰囲気はないことに和巳は安心する。


「和巳。わたしはここを去るわ」


 まだ少しだけ涙声であったが、夜宵ははっきりと告げた。


「わたしが居たら、また形代が来る。それは望むことではないもの」


 そういうことか、と和巳は思った。

 おそらく夜宵が和巳を此処へ呼び出したのは、矢代を去ると伝えるためだ。

 あるいは、和巳に自分を殺して欲しいと頼むつもりだったのかもしれない。だが、今ではもう、そんな心配は不要だろう。

 彼女は既に、生きることを選択している。


「お別れよ、和巳。貴方と過ごした時間は短かったけれど、とても楽しかったわ」


 そう言って、夜宵は和巳に背を向けたまま歩き出す。どうやら、泣きはらした顔を見せることがどうしても嫌らしい。

 早足で歩を進める彼女に聞えるように、和巳は告げた。


「うん、ぼくもだ。だからいつか、今度はぼくが夕食をご馳走するよ」


 ――いつか。

 その言葉に夜宵はたまらず振り向いて、和巳を見た。

 泣きはらしたその目は赤くなって、胸元では不安そうに左手が震えている。

 何をそんなに不安に思うことがあるだろう。和巳は心の中で苦笑した。


「ぼくは当分死ぬ予定がないし、きみもそうだろ。生きていたら、きっといつかは会えると思うんだけど――変かな」


『生きていればいつかは会える』という言葉が、先ほどの自分の言葉にかぶせられたことに気付いたのだろう。夜宵はいつもの鋭い目つきを取り戻す。


「……ええ、変よ。どれくらい変かというと、何十年も泣いていなかった女の子が、恩を返さないと気が済まない変な男に泣かされるくらい、変なことよ」


 ――だけれど。

 小さく微笑んで、夜宵は告げた。


「だけれど、この青空が綺麗なことと同じくらい、素敵なことだと思うわ」


 長い黒髪を揺らして、夜宵は再び歩き出した。

 そんな夜宵に背を向けて、和巳も歩き出す。

 ここで別れたからといって、何が終わるわけでもない。ただ、各々目指すものが別にあるというだけだ。


 白比丘夜宵は今宵、ここを去る。

 天城和巳は今、己の戻るべき場所へと歩き出す。

 枯れた椿だけが、二人を見送るように佇んでいた。


 ――椿、という樹木がある。これは冬から春にかけて花を咲かせるものだ。早咲きのものは冬の最中に咲くこともあるという。

 椿は古来より、縁起の悪いものであるとされていた。椿の花が落ちる様が人の首が落ちる様に酷似しており、武士に嫌われたためである。

 しかし造園の世界において、椿を植える意味合いは大きく変わる。末長い「命」、そして「縁」を与えるのだという。


 ここにはもう、天城和巳はいない。白比丘夜宵もいない。

 誰もいない。誰も見ていない。枯れた椿の木の下で。

 小さな木の芽がひとつ、頭を出していた。


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