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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第3章
22/23

叛逆の赤い月

 

 天城和巳は、静かに、しかし胸の内を怒りで焦がしながら階段を下りていた。

 頭の中で思い起こすのは、やはり先ほどの夜宵との会話だ。


 貴方は要らない、と言われた。

 所詮は駒であったと、そう言われた。


 ならば、これまで和巳が夜宵に抱いてきた気持ちは何だったのか。

 恋ではない。愛でもない。強いていうのなら、友情のようなものだ。

 彼女ならば信頼できる。彼女ならば、和巳を裏切らない。そんな確信を抱いてしまうほど、和巳は白比丘夜宵という少女を過信していた。

 彼女の態度と姿勢、何よりも自分の人を見る眼がそれに値すると判断したからだ。


 しかしどうやら、彼女との間に育まれた絆は偽りのものであったらしい。

 和巳の胸に燃える怒りは、なにも夜宵に対してだけのものではない。夜宵の本質を見抜けなかった自分に対して、なによりも、夜宵に自分を信頼させることができなかった自分に対してだった。

 恩を返すと言った。結局その恩を返さないまま、和巳はこうして逃げ出している。

 今から戻ろうか、そう何度も思ったが、夜宵の眼を思い出す。

 あれは、確かな拒絶だった。


 和巳は夜宵に対して「いつか殺してやる」と言ってしまったが、あれはその場の勢いによるところが大きい。本心から殺したいと思うほど彼女を憎むことはできないし、許してもらえるのなら、今すぐ階段を駆け上って彼女に頭を下げることも辞さない。

 しかし、信じるに値すると思った少女に、あの眼をもう一度向けられるかもしれないことを考えると、和巳は耐えられないと思った。


 和巳は裏切られたという立場でありながら、夜宵の期待を裏切ってしまったかのような心持ちで、静かに階段を下りていく。

 階段を下りる和巳の頭上では、絶え間なく炎が燃える音が鳴り響き、窓の外には、タワーの一部であるガラスや鉄が時折落下していた。和巳では太刀打ちのできなかった草壁に、夜宵は対等程度には戦えているらしい。

 ――今更戻った所で、自分に何ができるわけでもない。

 そうして和巳が半分ほどまで階段を下りた瞬間――世界が、赤に染まった。


 赤い。赤い。赤い。

 その赤は、血の赤で。

 その赤は、炎の赤だ。


 暗い。狭い。熱い。怖い。けれど身体は動かず、どうにもならない。ただ眼前に死のみがあると知り、そして何もできぬまま、迫りくる死を想像した。

 死神に鎌を突きつけられるような気分、と死を恐れる人は言う。

 違う、そんな優しいものではない。鎌ならば首を狩られればすぐに死ぬ、痛みはない。しかし炎は違う。足元から着々と迫り、気絶することも許されぬまま、足から焼かれていくのだ。皮膚が爛れ、爪が剥がれ、果実の皮のように皮膚が捲れ、そして肉を焦がされる。それだけで途方もない熱さだろう。想像を絶する痛みだろう。だが炎は止まらない。肉を焼けば骨、そして骨の芯まで焼かれた暁には、『自分』は何も残らない――。


 そんな恐怖を抱いて暗闇の中へ堕ちる和巳に、光が差した。

 月の光だ。そして月の光を背に受ける、長い黒髪の少女だ。

 月明かりのために顔は良く見えない。ただ、長い黒髪だけは強く印象に残っている。

 そして、少女は口を開いた――。


       ◇ ◇ ◇


 頭が痛い。

 足も痛いし腕も痛い。

 眼も鼻も喉も痛みを訴え、ともすれば全身の中で痛みのない場所がないのではないかと思うくらいには、全身が悲鳴を上げていた。


「――み、――ずみ」


 誰かが名前を呼んでいる。とても心配した声だ。返事をして、安心させてあげないと。

 そう思って和巳は目を開いた。

 そこは総てが燃える炎の中だった。先ほどまで和巳が降りていた階段は消え去り、空には炎を映した赤い月が浮いている。月明かりを背に受けて、一人の長い髪の少女が言った。


「生きてくれたのね。よかった……」


 その声を、和巳は知っている。

 あの少女だ。二年前に和巳と夕凪を助けた少女。恩を返したいと願って、そして恩を返せずに記憶の中だけの存在になっていた、あの少女。


「きみ、は――」


 和巳は強く、少女の服を掴んだ。今度は逃げられないように。今度は、顔くらいはしっかりと見ることができるように。

 しっかりと目を開いた和巳の眼に映ったのは。

 ――白比丘夜宵だった。

 考えて見れば、簡単なことだ。彼女が303便を落としたというのなら、彼女も303便に乗っていても何もおかしくはない。


「きみ、だったのか――」


 声が震える。言いようもない感情が、和巳の内に駆け巡る。

 驚きに目を開く和巳を静かに抱き起し、夜宵はそこらに転がる瓦礫を背もたれにして和巳を座らせた。


「大丈夫。貴方は、何も心配しなくていい」


 夜宵は静かに立ち上がった。しかしその全身からは大量の血が流れ出していて、立ち上がる足も心元なく揺れている。


「わたしが、貴方を守るから」


 この場を去ろうとする夜宵の腕を、和巳は咄嗟に掴んだ。


「どうして、きみがぼくを守るんだ」


「わたしは貴方を死なせたくない。それだけでは不足かしら」


 何を言っているのかわからない。先ほどの夜宵とは別人のようにも思えた。

 けれど和巳の前にいるのは確かに夜宵だった。

 共に一日を過ごした、和巳の知る白比丘夜宵だった。

 そして、かつて和巳を助けてくれた、一人の少女だった。


「きみは、ぼくの親の仇だぞ。いつか君を殺すかもしれない」


 夜宵を掴む腕に、力が入った。

 しかし夜宵は静かに微笑み、「それでもいい」と和巳の腕を振りほどく。


「だって貴方は、笑ってくれた。わたしと居ても楽しいと、そう言ってくれたから」


 そんなことで、と思った。

 そんな小さなことで、夜宵は和巳を助けたのか。

 だとしたら、夜宵が和巳を突き放したのも、和巳を戦場へ置かないためだったとでもいうのか。


「貴方にとっては大したことはないのでしょう。けれどわたしにとっては大切なこと。自分の総てを投げ出せるくらい、大切なことなの」


 そう言い残して、夜宵は大太刀を片手に、和巳に背を向けた。

 彼女の姿を目で追うと、その先には草壁の姿がある。夜宵は見るからに満身創痍だが、相対する草壁は僅かな傷や衣服の汚れはあるものの、大きな傷を負っているようには見えなかった。


「――まだ生きているのですか、黒蛇」


「ええ。『蛇のようにしつこい女』が売り文句なの」


 そして、夜宵と草壁が激突した。

 始めこそ拮抗していたが、やはり夜宵では草壁には適わない。次第に押され始め、防戦一方になっている。見るまでもない、このままでは夜宵が負けるだろう。


 助けなければならない。そう思っても、激痛が走り、身体にうまく力が入らなかった。

 見れば身体の一部が火傷によって焼けただれている。痛いわけだ。


 ――だが、何もせずに寝ている理由にはならない。


 決めたじゃないか、あの日に。

 二年前、助けてくれた彼女の姿を見て、受けた恩を返すと決めた。

 それを辞めてしまったら、自分が生きてきた意味がなくなる。

 天城和巳が、天城和巳である理由を失くしてしまう――。


 立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに倒れこむ。

 倒れこんだ視線の先で、夜宵が戦っている。

 草壁を手に持った大太刀で斬りつける。彼女の剣術は素人目に見ても美しいものであったし、その剣捌きは並みの達人にもできないだろうと推測できるものだった。

 だが、相手が悪すぎる。

 草壁に夜宵の刃が届くことはなく、それどころか、草壁の拳が夜宵の身体を吹き飛ばした。倒れこんだ夜宵の腕を蹴りつけて刀を落とし、顔面を拳で強打する。


 ――やめろ。


 うつ伏せになった夜宵の襟を掴んで持ち上げた草壁は、静かに掌に炎を灯す。あの爆発を、再びこの場で行うつもりなのだろう。


 ――やめろ。


 今あれを受けてしまったら、夜宵は死ぬかもしれない。


「やめろ!」


 和巳が叫ぶと、草壁の視線が和巳に向けられた。

 生きていたのか――草壁の眼が見開かれると同時に、新たな敵を捕捉した。

 和巳を見る夜宵の視線が、「どうして」と問うている。

 だがそんなことは、決まりきったことだ。

 ずっと、この機会を待っていた。二年前に受けた、返しきれないほどの恩。今受けた、助けてくれた恩。それを返す絶好の機会が、ここにはある。

 もし今何もできなければ、天城和巳の二年間はなんの意味もない塵芥だ。


「白比丘を殺していいのは、ぼくだけだ。自己犠牲に浸りたいなら、一人で浸れ」


 ボロボロの身体のまま、和巳は立ち上がる。

 足が震える。全身が痛む。休め、休め、と痛覚が訴える。少しでも気を抜いたら、怠惰な足が今にも膝を折ってしまいそうだ。

 和巳は一歩、震える足で、しかししっかりと歩を進めた。


「貴方は先ほど、そこの黒蛇に裏切られたでしょう。なにゆえ、今になってこの女を助けようとするのですか」


 和巳はその問いには答えなかった。代わりに、一歩前に踏み出した。

 思い出したのは、夜宵が和巳の買ったモンブランを勝手に食べている光景だった。


 一歩、踏み出す。思い出したのは、夜宵がパフェを頬張る瞬間。


 一歩、踏み出す。思い出したのは、夜宵が服を選んでいる場面。


 一歩、また一歩。もう一歩。踏み出す度に、和巳には夜宵との思い出が蘇る。

 和巳が夜宵と出会って、まだほんの一週間程度だ。時間にしてみれば二四時間にも満たないだろう。けれど、そんな僅かな時間にも、和巳の胸には、白比丘夜宵という少女の姿がこんなにも焼き付いている。


「……なあ、草壁。あんたは知ってるか。白比丘ってさ、甘いものが好きなんだ」


 草壁は首を傾げた。本当に何を言っているのかわからない、と言った風だった。

 だが、構わない。


「やたらファッションとか気にして、高そうな服ばっか集めてさ。ウチより広い高級マンションに住んでてさ。そのくせ節約家で、タイムセールとかも見逃さなくて、白比丘が作ってくれた季節外れの鍋も、悔しいけど美味しくってさ。嫌な性格してるけど、結構、可愛いところもあるんだよ」


 一歩。

 また一歩と踏みしめて。


「それって、いけないことなのかな。みんなが当たり前にしてることを、当たり前にしたいだけなのに。小さな幸せを噛みしめることも、許されないことなのかな」


 和巳は、草壁と正面から対峙した。

 問いを投げかけた和巳。草壁は重い声で「その通り」と、ハッキリ告げた。


「人にはそれぞれ、役割があります。幸せになるもの、不幸になるもの。富豪であるもの、貧しくあるもの。強くあるもの、弱く在るもの――その中で貴方がた忌鬼は、生きてはならぬものだった。それだけのことです」


「――そっか」


 知らないやつのことは、どうでもいい。それは和巳の本心だ。

 けれど知ってしまった。白比丘夜宵という少女の本心を知った今、知らないふりなんてできるはずもない。


「……だったら、覚悟しろ。ぼくはたった今から白比丘の味方だ」


「それはつまり、私と戦うということか」


「いや、違う。あんたを倒すってことだ」


 言い切った和巳を睨み、草壁は己の手に炎を灯した。

 岡を燃やしたあの炎。先ほどまで存在していた白那岐タワーを崩壊させたのも、おそらくはこの炎によるものだ。岡や夜宵に比べたら、和巳の罪はあまりに小さい。しかしだからといって、和巳に向けられる炎が無視できるようなものではない。

 和巳もまた、拳を握る。


「人の役割とか、そんなの全部どうでもいいんだ。ぼくはここに生きている、そして白比丘の味方をしてやりたいと思ってる。あんたが――邪魔だ」


「結局貴方も、心根は蛇と同じ化け物ですか。ならば。此処で黒蛇諸共に果てるが宜しい」


 二者はほぼ同時に拳を放った。

 拳と拳の衝突。

 その結果――和巳は、推し負けた。

 だが即座に体制を整えて拳を放つ。草壁もまた、拳を放った。互いの顔面を射抜く一撃、しかし倒れず、再び一撃。二者は互いに一歩も引かぬ殴り合いを展開した。


「犠牲を出さずに人を救えない輩が、偉そうに上から目線で語るんじゃない! 人類生贄に差し出して、自分の守りたいもの守って、それのどこが悪いんだクソッたれ!」


「かような悪行は認められぬ! 諸共、此処で、果てよ!」


 ――人の理性は素晴らしい。

 目の前の神父はいつかにそう言った。ああ確かに、人の理性は素晴らしいと思う。けれど、理性ある人が一体、和巳に何をしてくれたと言うのだろう。

 両親が死に、夕凪が目を悪くした。それを奇跡の子供だ悲劇の生存者だのとテレビのネタにして、珍獣のように扱って。散々持ち上げ、もてはやしておきながら、それでも多くの人たちはいつだって、その手を差し伸べてくれることはなかった。


 自分には関係ない。自分には関係ない。

 ――自分には、関係ない。


 胸にそれを言い聞かせ、何も、してくれはしなかった。

 そんな人たちを助けたいなんて、和巳は少しも思わない。これまで助けてくれなかった人たちを助ける理由なんて、どこにもない。


 だから和巳は、恩を受けた人には恩を返したいと思うようになった。

 二年前、夜宵に助けられたという事実も、和巳が病的なまでに恩を返すことにこだわるようになった理由の一つとして挙げられると思う。けれど、それだけではなかった。

 二年前の事故を経験して、そこから人間という生物の醜い本性を見た気がした。恩を返すべき人と、恩を返さなくてもいい人。和巳にとって、人間は大きくその二種類だ。


 草壁の言う『人々』は、口先だけの同情を与える偽善者だ。同情するなら金をくれ、とまでは言わない。少しでも気遣う気持ちを見せてくれればよかった。

 だが結局、彼らの心にあるのは、珍しいものを見る好奇の心だけだった。


 そんな中、白比丘夜宵は違った。和巳のために警告してくれた。和巳のために協力関係を申し出てくれた。それは総て、自分の目的を達するためであったのかもしれない。けれど、少なくとも今は。そして二年前の彼女は――和巳のためだけに、助けてくれた。


 恩を受けたと思った。恩を返したいと思った。

 なのに世界は、その彼女を受け入れない。忌鬼だから、人を不幸にする存在だからと、彼女の存在を否定する。

 だからこそ、和巳は自分の正義を貫こうと決めた。

 例え何が敵に回っても、自分だけは彼女の味方でいようと決めた。


 そのためには、世界が邪魔だ。優しい彼女を受け入れようとしない世界が邪魔だ。

 だから――こんな世界は、壊れてしまえばいい。


 和巳の想いに応じるように、和巳の腕には黒い霧が纏われた。

 世界を壊したい、そう望むほどにこの力は強くなる。破壊の力が、目の前に存在する曼荼羅の一部――世界を構築する四角、すなわち『人』そのものを破壊する。

 和巳の夜はそういうものであるのだと、理解した。

 仮にこの力に名前を付けるとするならば。

 ――『叛逆』だ。


「「ぉぉぉぉおおおあああああぁッ!」」


 和巳と草壁は一歩も引かず、己の総てを懸けて殴り合う。

 握る、拳。放たれる蹴り。躱す、当てる。避けきれずに身が削れ、防ぎきれずに二人は血を吐いた。それでも、また――拳を、握る。自分の正義を、貫くために。

 幾度も幾度も、互いに血反吐を吐きながら繰り返される攻防。

 しかしその攻防にも、次第に終わりが見え始めた。

 この勝負はもともと、草壁に対して和巳が気合いで食らい付いていただけだ。長期戦になればなるほど、戦闘の基本となる体力・技術の差が浮き彫りになる。

 一瞬の停止――その隙を華麗にすり抜けて、草壁の拳が和巳の脳を揺さぶった。


「――」


 けれど和巳は、倒れなかった。倒れるわけにはいかなかった。背後には、夜宵がいる。死なせたくない人がいる。こんな所で、倒れてなどいられない。

 再度拳を握って、草壁に向けて放つ。難なく凌いだ草壁は、和巳に向けて拳を振った。

 和巳はその拳を、避けられなかった。頭蓋が揺れて、視界が霞む。あまりの痛みと眩暈が、吐き気を催した。自分でも、今度は倒れるかと思った。

 けれど、意識しない所で足が動いた。倒れることはなかった。震える足、定まらない視点に力の入らない肉体。それでも拳を握って、草壁を目がけて放つ。

 だが、遅すぎる。難なく躱されて、草壁の拳が和巳の顔面を強打した。

 身体が、傾く。バランス感覚など、とうに狂っている。頭は常にぐらぐらと揺れて、視界だって定まらない。意識も朦朧として、力を込めなければ、気を失ってしまいそうだ。

 それでも。――それでも、天城和巳は倒れない。


「いい加減に、倒れよッ!」


 草壁が、和巳の頭部を狙って拳を振る。もう、避ける力も、防ぐ術も和巳は持ち合わせていなかった。次は倒れるかもしれないと懸念を抱くが、草壁の拳は止められない。

 その一撃は、果たして。

 ――防がれた。


「――ッ」


 とうに動かないと草壁が勝手に決めつけていた、白比丘夜宵が。満身創痍の肉体、その限界を振り絞り、手に持つ刃で草壁の拳を止めていた。


 ――一体何が、彼らを此処まで――


 さしもの草壁にも、焦りが生じる。もしかしたら、彼らはこのまま、永遠に倒れないのではないか。その僅かな揺らぎ、心の隙が。

 そして夜宵の創り出した好機が、和巳に勝機を運び込む。


「ぁぁああああああああッ!」


 放たれる、和巳の拳。訪れた勝機を拳ごと砕いてやろうと、草壁もすぐに拳を振るう。

 バキンと。草壁の拳が、砕けて粒子と消えた。しかし草壁は怯まない。尚も和巳に敵意を燃やして、残る拳を振りかぶり、叫ぶ。


「正義は勝つもの、悪は滅びるものだ! 此処で――此処で滅びよォッ!」


「ああ、そうだ……悪は滅びるものだ。そして……」


 人間の歴史を振り返れば、いつだって正義は勝者が名乗る。

 だというのなら――。


「あんたが、悪だ」


 草壁の拳は、空を切り。

 和巳の拳は、草壁の胸を貫いた。


「ご、ぶ――」


 草壁は自らの腕で、胸を貫いた和巳の拳を引き抜いた。そこからは流血する代わりに、光の粒子が零れ始める。草壁の命が終わるのだと、その粒子が告げていた。

 後方へよろめく。しかしそれでも、草壁は倒れない。自分の足で立ったまま倒れることなく、和巳を見た。


「誰かを守るためならば、他の総てを切り捨てるという傲慢。それは悪――ですが、ええ、理解していますとも。他の総てを守るために、誰かを切り捨てたという傲慢、私も人のことを悪と言えた義理ではない。貴方と私は、よく似ている」


 ごぼりと、草壁は口から血の代わりに粒子をこぼした。

 次第に草壁の姿が透けていった。しかしその瞳だけは、確かなものを映していた。

 天城和巳の、否、勝者の顔だ。

 勝者であるはずの和巳は、表情こそ達成に笑っていた。だが、その瞳からは一滴の涙を流していた。


「天城和巳。見事、私を打ち取った。見事、己の意志を貫いた。……勝者に涙は似合わぬものゆえに。貴方は勝利を誇れば宜しい。――笑えば、宜しい」


 そう言って、草壁は空を見た。

 赤い月の空だ。形代にとって、これほど嫌悪すべき空はないだろう。

 けれど草壁はどこまでも穏やかな顔で、静かに告げた。


「ようやく……ようやく会いに行ける。君の下へ。愛しき、人――」


 最後に小さく、《恋人殺しの鉄仮面》と呼ばれた男は、そう言った。

 その瞳には、一体何が映ったか。

 その心は、最後に何を思ったか。

 草壁は笑った。それは仮面のような作られた微笑ではなかった。草壁巌二という、一人の男の笑みだった。


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