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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第3章
21/23

黒蛇の心

「――待っていろ。きみの望み通り、いつか必ず殺してやるよ」


 和巳が居なくなったその場に残されたのは、夜宵と草壁の二人だけとなる。

 お互いの瞳には、憎しみも歓びもない。

 二者はただ静かに対峙した。

 しかし、と先に口を開いたのは草壁だ。


「大堂聖議会に黒蛇(レイヴィーア)とまで呼ばれた冷酷無情な貴方が、随分と人間らしい顔をするものだ。人に忌み嫌われることなど、とうの昔に慣れたでしょうに」


「そうね。本当、貴方の言う通り。なのにどうしてかしら、彼が隣に居るときだけは、忘れることができたのよ。……わたしが、人ではないということを」


 静かに目を閉じた夜宵が次に目を開くとき、その右眼は既に人のものではなかった。瞳孔が縦に開いた鋭い眼――蛇の眼だ。

 産毛が逆立つように動きを始めたかと思えば、夜宵の右半身は漆黒の鱗に覆われた。肌には鱗、腕に爪。その様はまさに、黒蛇。空矢が蛇女と揶揄したのもこの姿を見たためだ。

 人からかけ離れた夜宵の姿を見て尚、草壁は態度を崩さない。静かに手の平を開閉し、その手にボウと燃ゆる炎を握った。


「さて。私と貴方が正面より潰し合うのは、先日を除けば実に二度目になりますね。あの時はまんまと逃げられましたが、此度はそうはいきません」


 前回の戦いでは、相手は草壁一人ではなかった。のみならず、敵の襲撃を予想していなかったために武器は小太刀『黒龍爪(こくりゅうそう)羅号(らごう)』が一つであった。

 だが現在、夜宵の敵は草壁一人。手には己が最大の獲物、大太刀『黒龍鱗(こくりゅうりん)羅号(らごう)』がある。


「ええ、その通り。今度は以前のようにはいかないわ。わたしは、此処で貴方を殺す」


「私を殺すとは、大きく出たものです。ならばその刀で私が斬れるか否か、試すが宜しい」


 刹那、草壁の炎が最上階のフロアの半分を焦土に変えた。

 その炎は岡に対して放った炎の比ではない。十倍、二十倍、あるいはそれ以上。

 咄嗟の判断で跳躍した夜宵は、草壁の炎を躱した。天井へ大太刀を逆刃にしてほぼ真横に突きたて、空中に留まる。炎が去ったのを見計らって、蛇のように音もなく着地した。

 パラリ、と黒墨になった床が音を立てた。


「流石は黒蛇、この程度では終わりませんね」


 草壁の生涯、この懺悔の炎を受けて生き延びた者はただの一人として存在しなかった。しかし唯一の例外となったのが、眼前のこの少女だった。

 まして彼女は、今の一撃を回避した。人を殺す異能に誇りも何もあったものではないが、しかし己の罪を認めず悔いず、改めぬその態度にはいささか腹が立たないこともない。

 次の一撃は、確実に。


 炎を放とうとする草壁に向けて、夜宵が駆けた。

 最上階の床のほとんどは草壁の炎に焼かれて黒ずんでいる。そんな床の上を走るなど、正気の沙汰ではない。しかし夜宵は蜥蜴のごとく身を屈め、しなやかな足運びで炭化した床を踏み抜かぬように接近する。

 これには草壁も予想外という他なく、咄嗟に背後へ下がった。しかしその時にはもう遅い、夜宵の大太刀の攻撃圏内だ。夜宵は大太刀を振るい、草壁の伸ばされた右腕を斬る。


 がいん――本来切断されるはずであった肘は残り、草壁の腕から血が舞った。右腕に代わって翳された左腕を回し蹴りで退け、そのまま回転の勢いを込めて草壁の胴体を狙う。だが草壁の胴体が切断されることはなく、その代わりに草壁の足が数歩後ろへ下がった。


「相も変わらず、とんでもなく堅いわね」


「貴方こそ、尋常でない動きをする。ただ不死身なだけと侮っていましたが、なるほど、今ならば井坂(いさか)さんが貴方に敗北したという事実も呑み込める」


 井坂というのは、大堂聖議会における七人の選ばれし者――『神託の使徒』の一人であった人物だ。そして現在、草壁が席を置いている位置の前任者である。

 そして二年前、夜宵が殺した形代の名だ。


「だがそれでも、貴方が私に勝てる道理はない」


 どうかしら、と夜宵は皮肉気に笑う。けれど、このままでは勝機がないことは分かっていた。草壁が所有する『楯』、草壁はこの楯を石垣と同程度の防御を誇ると言っていたが、そんなものは行き過ぎた謙遜だ。

 石垣の胸を貫いたナイフ『黒龍牙』、そしてそれより鋭い切れ味を誇る大太刀、『黒龍鱗』。その乾坤の一刀を二度も受けて切れぬものは、夜宵の経験上でも初めてのことだった。

 確かに井坂も『楯』を所有していた。しかし、草壁のそれは井坂の比ではない。間違いなく彼は、前任者を上回る実力者である。――加えて厄介なのは、彼の異能。


 ボウ、と草壁の腕に炎が灯る。その輝きは次第に大きさを増していく。しかし草壁と同程度の大きさになってからは大きさが変化しなくなり、どころか、次第にその大きさを縮めていった。代わりに、草壁の腕の炎は熱量を高めていく。


「まるで小さな太陽ね。笑えないわ」


 言った瞬間、夜宵は躊躇わずにガラスを突き破って白那岐タワーの外へ飛び出した。そんな夜宵を追わぬまま、草壁は静かに微笑を浮かべる。


「笑えないのは此方ですよ。これだけの罪を背負っておきながら、私の炎を受けて生きていられる貴方に感服します。ですが、いよいよ貴方も終わりだ」


 草壁の炎が一瞬のうちに膨らみ、大爆発を巻き起こした。


       ◇ ◇ ◇


 かつて白那岐タワーであったものは、今ではもう、見る影がない。

 当初こそ周囲にそびえるビル群を上空から眺めることができるという題目で、地表三〇〇メートル近い大型建造物だった。しかし草壁渾身の炎を受けた白那岐タワーは、上部およそ一三〇メートルほどがごっそりと削られ、天井も吹き飛んだために大空がむき出しになり、ガラスというガラスが余りの熱量に膨張し割り砕かれ、吹き曝しになっている。


 そんな中、一人の神父がゆっくりと身体を起こした。

 全身が痛む。だが、その痛みは炎の一撃を受けたことが原因というよりは、炎が床を吹き飛ばしたことにより受けた、百数十メートルの落下の衝撃によるところが大きい。

 む、と小さく唸りながら、痛む箇所を軽く動かした。それだけでバキバキと音が鳴る。

 いくら黒蛇でも、あの炎を前にしては生きながらえることはできないだろう。そう思って草壁は空を見た。空にはまだ、赤い月がある。

 それを見てハッとした。崩壊した白那岐タワーが存在している時点で、ここはまだ夜宵の創り出した隔離世の中だ。そして隔離世が未だに消えていないということは、白比丘夜宵はまだ生きているということになる。


「……なるほど、確かにこれは不死の化け物だ」


 草壁の前には、大太刀を杖代わりにして立ち上がった白比丘夜宵の姿があった。


「貴方に、化け物どうこう言われたくはないわね」


 しかしその姿は満身創痍だ。左腕は動かないのか力なく垂れており、両足も震えている。全身には大きな火傷の跡があり、彼女の額からは焦げた床に小さな血だまりを作るほどの流血があった。

 それでも、夜宵は足を前に向けた。

 対する草壁はほぼ無傷だ。勝ち目などとうにない。

 ここでの得策は、尻尾を巻いて逃げること。誰だってそうする。例え草壁であっても、彼女の立場であればそうするだろう。なのに、どうしてそれをしないのか。

 奇妙だ、と草壁は呟いた。


「なんのために戦うのですか、黒蛇。白比丘弍識(しらびくにしき)の亡き今、貴方は自分の生存のみが目的のはずだ。いつものように逃げればいい。私を倒すことにこだわる理由など、どこにもない」


 実際、白比丘夜宵がいつもそうしてきたことを草壁は調べて知っている。

 守るべき大切な人がいなくなった今、夜宵は己の命を懸けてまで草壁と戦う理由などどこにもない。


「さあね。自分でもサッパリだわ。でもね、ここで諦めたら駄目な気がするの」


 いつの間にか、夜宵の身体にあった火傷のほとんどが消えていた。のみならず、先ほどまで震えていた足も、力なく垂れていた腕も、今では不自由なく動かせる。

 ――『生存』。それが、白比丘夜宵の持つ夜だった。

 どんな傷であろうとも、生きている限りは再生する。それこそまるで、蛇が脱皮をするように、そこに己の命がある限り、彼女は何度でも蘇る。


「強いていうなら、理由はただの一つだけ」


 白比丘夜宵は、生きる理由がほしかった。

 白比丘弍識。夜宵の親代わりであった人。その人のために生きてきた。その人の他には何も望まなかった。けれどその人も、いなくなってしまった。

 今となっては、夜宵の目的は自分が生きること、それのみだ。

 けれど、心の奥底では己の死を望んでもいた。

 兄が死んだ。父と母が死んだ。かつて仲間だった者たちも死に絶え、そして遂には弍識が居なくなってしまったこの世に、夜宵の存在を望むものは誰もいない。

 一人でいい。自分の隣で誰かが笑ってくれたなら、自分と出会えてよかったと思える人がいてくれたなら、それだけで、夜宵はこの先も生きていけるだろう。

 それだけで、その人を守るために自分の総てを懸けられる。


 隣で、笑ってくれた少年がいた。自分に恩を返すと言ってくれた少年がいた。

 そんなものは要らないと思ったし、自分は恩を受けてはいけない存在であることも分かっていた。

 それでも、嬉しかった。

 自分を必要としてくれる人がいることが、堪らなく嬉しかった。


 だから夜宵は、天城和巳を切り捨てた。

 もし和巳を協力者として最後まで残してしまったら、きっと彼は、これまでの仲間のように、いつかどこかで死んでしまうだろうから。

 ああ。これが、そう――


「――友達、なのかも」


 小さく言った夜宵は、口元をほころばせて大太刀を構えた。


「そうね……きっとそう。わたしは、和巳に死んでほしくない。笑っていてほしいのよ」


 憎まれてもいい。いつか殺されてもいい。

 ただ一時、彼はわたしを認めてくれた。わたしの隣で、笑ってくれた。自分の家族を害するかもしれないわたしを相手に、一人の人間として接してくれた。

 それだけで、彼のために戦うには十分だ。


「黒蛇と呼ばれ、数多の形代から恐れられた貴方が、随分と丸くなったものだ」


「貴方に、わたしの何がわかるのよ! 家族が死んで、仲間も死んで……最後には、弍識すらも死んでしまった。わたしにはもう、何も残ってない――」


 捨て惜しむ命ですら、もう。


「――もう何も、残ってなんかいないのよ!」


 夜宵は強く足を踏み込み、草壁に向けて駆け出した。手に持つ大太刀は重い、しかし、この重みで足を鈍らせるほど温い鍛え方はしていない。また、草壁の炎によって受けた先ほどまでの傷はほとんど癒えた。活動に支障はない。


 夜宵は草壁に向けて大太刀を振るった。草壁は驚くべきことに、その一撃を腕で防いだ。『楯』の加護は健在だ。しかし夜宵も止まらない。

 一撃、二撃、三撃、四撃――次々と繰り出す猛攻を前に、しかし草壁の微笑は崩れない。大太刀の重量に振り回された夜宵の隙を狙って、水月に一撃、掌底を叩き込む。

 夜宵の肉体は軽々と吹き飛び、床に転がる。胸へ受けた衝撃に咳き込んだ。しかしすぐに大太刀を構え、次の一撃を繰り出さんと前に出る。


「形代として生まれた貴方には、わからないかもしれないわね。出逢う人すべてに存在を否定されるのって、結構きついのよ」


 無償の愛を注いでくれるはずの家族はとうの昔に死んだ。

 かつて仲間であった者たちも、形代に殺され、死んだ。

 最後には、ずっと一緒にいられると思っていた弍識までもがいなくなってしまった。

 夜宵にはもう、何も残っていない。

 死にたくないという思いを除いては、何も残っていなかった。


「そんなわたしがね、守りたいと思えるものに出会ったの。あいつの馬鹿な笑顔を曇らせたくないって、そう思ったのよ」


 大きく振りかぶって、腕ごと草壁を叩き切るつもりで夜宵は大太刀を振り下ろす。

 だが草壁の腕は、僅かに血液を滴らせるばかりで、斬れる気配が一向に見られない。ともすれば、夜宵の大太刀が先に欠けるかもしれないほどだった。


「人の堕落を喜ぶ貴方が一体、どの口でものを言う」


「ええ、本当にその通りよね」


 草壁の言葉に、夜宵は自虐的に笑った。


「ええ、そうよ。わたしはね、人の堕落が好き。幸せそうにしている奴が不幸になるのが好き。強運を振りかざしてる奴が、一世一代の大博打で負ける様が好き。男に困ったことのない奴が、年を取ると同時に相手にされなくなって絶望する様が好き。誰かの恋人を奪ったやつが、自分の大切な人を奪われて嘆く様が好き。何よりも、幸福な未来を欠片も疑わず、ただひたすらに輝いている子供の笑顔が一転して曇るのが、大好きよ」


 そして、そんなことに喜んでしまう自分が、死ぬほど嫌いだ。

 そんな自分は死ねばいいと思うのに、死ぬ覚悟が決まらない自分が、大嫌いだ。


「でもね、彼の笑顔だけは守りたいと思った。わたしに向けてくれた彼の笑顔だけは、守りたいと思った」


 いつも誰かが、自分の隣で笑ってくれる。そんな幸福を夢想した。

 もし彼が隣にいてくれたなら、自分も彼のように笑えるのではないか。

 そんな甘い未来を、夢想した。


「貴方はこれまで、一体何人の人間を犠牲にしてきたと思っている……」


 草壁が、ギリと歯を噛みしめた。

 ああ、自分の柄ではないことくらい分かっている。

 けれど、夜宵が求めてきたものは、いつだってありきたりの幸福だった。

 友達がいて。好きな人がいて。恋をして、家庭を作って。

 そんな小さな幸福を、いつだって望んでいた。


「そう言って貴方は、一体どれほど多くの幸福を奪ってきたと聞いているんだ!」


 草壁の拳が夜宵に向けられた。その拳を大太刀を水平にして逸らし、草壁の側頭部に蹴りを叩き込む。だが、効かない。次は掌底、次は柄、その次は――。

 夜宵と草壁は、互いに一歩も引かぬ攻防を展開する。


「わたしだって人を不幸にしたいわけじゃない、人を殺したいわけじゃない! できるなら静かに暮らしたいわよ、でもいつも、貴方たちがそれを許してくれない。だから殺した、殺されたくないから殺してきたのよ! ええ、確かに貴方の言う通り、自分のために罪のない人々を犠牲にしてきたことも分かってる。――でも」


 自分のためではなく、誰かのため。そんな生き方が、あと一度でもできたらきっと、夜宵は少しだけ自分が好きになれるだろう。

 弍識のために戦った、あの頃のように。

 背後にいる大切な人のために戦った、あの頃のように。

 少しだけ、ほんの少しだけ――生きることに幸せを感じた、あの頃のように。


「最後くらい自分の好きな自分になれなかったら、なんのために生まれてきたのかも、わからなくなるじゃない!」


 強く叫んだ夜宵の一撃は、草壁の胴体を斬りつけ、その肉体を大きく後退させた。

 夜宵の肉体は満身創痍。先ほど受けた炎の傷は癒せても、今現在、こうして互いを削り合う戦いの傷までは癒せない。荒い呼吸を繰り返し、大太刀を握る。

 対する草壁の肉体は、それほどの負傷はない。夜宵の大太刀『黒龍鱗』によって斬りつけられた傷は少なからずあるものの、その多くがかすり傷だ。深い傷でも、一日あれば瘡蓋となって塞がる程度のものである。

 夜宵と草壁による勝敗の軍配は、次第に草壁に上がり始めていた。


「――く」


 草壁の掌底を受け、夜宵が攻めあぐねた。その隙を縫い、再び接近する草壁は右拳に炎を纏い、夜宵の顔面を殴りつける。草壁が夜宵との距離を大きく詰めたことによって、ここにこれまでの均衡が崩れ、草壁の一方的な攻勢となった。夜宵の唯一の武器である大太刀は、最大攻撃範囲も広い代わり、近距離では大きな効果を発揮しない。

 今の夜宵には、打開策が存在しなかった。

 草壁の猛攻を受けた夜宵は為すすべなく、その場に倒れ込む。


「やはり、婦女子を相手に暴力というのは、少々気が引けますね」


「恋人を殺した貴方が、どの口で!」


 刀を持った夜宵の右手を踏みつけて、草壁は右手に炎を纏う。その炎は次第に大きくなり、草壁程度の大きさを持った炎は、今度は段々と大きさを減らしていく。

 先ほど白那岐タワーの半分を吹き飛ばした大爆発を、草壁はまた行うつもりらしい。

 流石に二度目を、しかも正面から食らっては、夜宵の命もないかもしれない。

 踏みつけられた右手に力を込める。しかし草壁の足は万力のように動かず、四角い微笑は勝利を確信していた。


「終わりです――」


 草壁がその手に持った膨大な炎を解放したその刹那。

 夜宵の眼に、人の姿が映った。見知った姿だった。つい先ほど、守ると誓った少年の姿だ。それが、瓦礫と共に倒れている。

 夜宵の眼の前で、倒れている。


「かず、み――」


 どうやら先の爆発に巻き込まれたらしい。そして、今も巻き込まれようとしている。次も巻き込まれることがあれば、命はない。

 無意識のうちに夜宵の身体は動き、背後では、草壁の炎が放たれた。



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