恋人殺しの鉄仮面
和巳は白那岐タワーの最上階から、一人の人影が堕ちる姿を視認した。今日の夜宵は藍色のチュニックにデニムのショートパンツ、黒のストッキングと黒のスニーカーという、黒づくめの格好だった。しかし空から墜ちたのは、空色と白をベースにした服装の女性だ。
一目で、それが空矢なのだとわかった。
空矢は血を流してはいなかった。代わりに、身体が光の粒子となって欠けていく。
夜宵が言っていた。忌鬼や形代は一般に言われる肉体は存在せず、ある種の精神体になっているのだという。そのため命を失う時には、死体となるのではなく、形代ならば光の粒子、忌鬼ならば黒い灰となって空気に溶けるのだそうだ。
言われてみれば、岡もその例外に漏れてはいなかった。
「勝ったのか、白比丘」
そのことに、これといって感慨を抱くことはなかった。
計画が成功したという喜びよりも、成功してしまったか、という言葉にできない虚しさがあった。もう、後戻りはできない。
「……天城和巳。貴方も、此処に居たのですね」
どこか悲しそうな男の声が、背後から聞こえた。
かつては慈愛に満ちていた彼の声も、今では仇敵を相手にするような低い声に変わってしまった。
和巳は振り返る。
そこにはやはり、草壁が立っていた。草壁の隣には、影山というのだったか、まるで個性を感じさせない、文字通り影のような中年の男が立っている。
二人とも、計画段階の夜宵の話ではあと数十分はここには来られないという話だった。しかしここに居るということは、おそらく空矢がこの場へ跳ぶ際、草壁と影山を連れて来ていたのだろう。
階段を駆け上ってきたのか、草壁はともかく、影山の息は少しだけ上がっていた。
「貴方も黒蛇の計画に乗じた、ということですか」
いつもの微笑で、草壁が問うた。
「違うよ。ここにいるのは偶然だ」
和巳の言葉に、草壁は「む」と片方の眉を上げた。
草壁に「どうしてここにいるのか」と問われたときには、偶然と答えろというのが夜宵の指示だ。草壁の天恵は、相手の罪の度合いだけ威力が増す『天焼懺悔』。逆にいえば、罪と呼べるものが存在しない相手に対しては、大きな効果を発揮することはない。
ここで夜宵の共犯者と認めてしまえば和巳は罪を背負うことになったかもしれないが、それをしなかった以上、草壁は和巳に罪をかぶせることはできない。和巳が嘘をついていたとしても、嘘であるという証拠を提示できないからである。
強力である反面、融通の利かないところが草壁らしいと思った。
「少し遅かったわね、仮面男。猛禽女はもう、いないわよ」
草壁、そして影山の背後から、白比丘夜宵が現れた。その手には大きな刀、曰く大太刀『黒龍鱗・羅号』が握られている。
影山は和巳のみと相対する時とは異なり、夜宵を前に大きく緊張を見せた。しかし草壁はなんら態度を変えることはなく、「そのようですね」と頷いた。
「これでようやく、一対一対二という状況まで盛り返したわけだけれど。いっそ、逃避行でもしてみるのはいかがかしら」
「ご冗談を。もとより我らは貴方を始末するためにここまで来ました。どれほど不利な状況であろうとも、ええ、例え敗北が目に見えていようとも、我らは貴方に勝負を挑もう。仮にも正義を名乗る我らが、悪を前に背中を見せることは許されまい」
「そう。……貴方も、そう思っているのね」
草壁から視線を横にずらす。夜宵に見つめられた影山は一瞬怯んだが、それでも真っ直ぐに夜宵を見つめ、静かながらもしっかりと頷いた。
「私は、草壁さんが間違っているとは思いません。また、己の行為を正しいと思ったことはありませんが、間違ったことをしているとも思っていません。現に貴方は多くの人を危機に陥れた。早急に対処するべきだと思われます」
「――上等よ」
一にも二にもなく、夜宵は一気に影山へと距離を詰め、手に取った大太刀を突き出した。影山は咄嗟に刃を回避するものの、大太刀を手に持った夜宵の身体までは避けることが叶わなかった。夜宵に押し出されるように、影山の身体はタワーの超硬化ガラスを粉砕して何百メートルもの地表を目指す。
影山と共に落下した夜宵が心配ではあったが、これも手筈通りだ。影山と草壁を大きく引き離し、そして夜宵が早急に影山を始末して合流し、二人で草壁を落とす。残る和巳がするべきことは、草壁をここに留めること。
「悲しいですね。嗚呼、悲しいことです。天城和巳、貴方ならばわたしの理想を理解できるかと思ったのですが……黒蛇にそそのかされましたか」
「それもあながち間違いじゃないよ。けど、それだけでもない。自分で決めたことだ」
「そうですか。では、すぐに迎えに上がります。それまで少々お待ちを」
そう言って夜宵と影山を追うように歩みを始める草壁の前に、和巳は立ちはだかる。
「どういうつもりですか」
「別に、どうもこうもないよ」
和巳を避けて進もうとする草壁の前に、再び和巳が立ちはだかった。
「通しては貰えないのですか」
「残念だけど、通す気はない」
「――貴方、黒蛇に惚れでもしましたか」
微笑をもって和巳に問いかけた。しかしその瞳の奥には、逃れようのない敵意が込められている。
草壁の睨みに震えた。腰が竦んで、逃げ出したくなる。けれど、ここで逃げるような軽い気持ちで草壁の前に立っているわけじゃない。
恩を受けた。恩を返すと決めた。ならばその恩一つ返せずに、前を向いて歩けるものか。
胸を張る。例え身体は震えていても、その瞳だけは揺るがない。
「さあね。ただぼくは、白比丘を守ると決めた。それだけだ」
和巳の目を見て、冗談ではないことを悟ったのだろう。草壁は細い眼を更に細めて、大きく嘆息した後に「宜しい」と呟いた。
「致し方ありません――大堂聖議会、神託の使徒が一人、草壁巌二。此処に貴方を滅しましょう」
「天城和巳だ。どうぞ、お手柔らかに」
二人は互いに歩を進め、睨み合う。拳を握りしめ、歯を食いしばり。
その拳で眼前の敵を打ち砕かんと、咆哮する。
◇ ◇ ◇
影山氏法という男は、変わった男だった。
印象が残りにくい人。落ち着いた物腰で、あまり話さない。これといって、特徴がない。良くも悪くも普通。服装もありがちな服装で、これといって個性を感じられない。普通すぎることが逆に個性。
そして、誰よりも人を信用する男。
そんな評価を周りに与えるような男だった。
彼は基本的に心優しい性格である。本当は忌鬼とはいえ、人の形をしたものを殺したくなどないし、人と争うことも好きではない。しかし彼は、草壁巌二が新たな神託の使徒として周囲に認められるために架せられた試練、『黒蛇討伐』に力を貸すことを決めた。
影山は、草壁巌二という男の生き様が好きだった。
かつて恋人を殺め、後悔の海に溺れながらも、必死で前に進んできた男の生き様を、素晴らしいと思った。美しいと感じた。
だが多くの者から見て、草壁の人生は到底憧れるべきものではないだろう。
父の言うことを聞いて育った幼少期、母は事故によって草壁を庇い死亡した。このときを境に、草壁は『対価なくしてものは得られぬ』という等価交換の原則を知る。
以降、草壁にとって、何かを犠牲にして何かを得るということが当たり前になる。
勉強のために友人を捨て、家庭のために娯楽を捨て、最後に残った父のために、最も大切であるはずの自分を捨てた。そうして生活する中で、父に見合いを提案される。
草壁はそれを承諾した。相手は草壁に釣り合わぬと思うほど、美しい女だった。
彼女とは、正式に結婚を前提とした付き合いをするようになった。だが彼女は、忌鬼だった。結婚式前夜に彼女は不本意ながら夜を使用してしまい、草壁の父を含めた多くの人間を発狂させ、殺し合わせた。
彼女は己の存在の罪深さに、己の力の恐ろしさに涙を流す。
そして彼女は、草壁に告げた。
――わたしを、殺して下さい。
彼女は多くの人を不本意ながらも殺めてしまった。また間接的に草壁から父を奪った。それに釣り合う等価はないが、それでも、草壁が彼女から奪えるものが一つだけあった。
草壁が彼女をどうしたかなど、もはや言うまでもあるまい。
それが草壁巌二という男の半生だ。
残りの半生は、忌鬼を殺すためだけに注がれた。力が足りなければ身体を鍛え、能力が上手く使用できなければ訓練を行い、ひたすらに、ただひたむきに草壁は前に進んできた。
後悔の海で溺れた。自責の念で潰された。前に進めば進むほど、人を救うために人を殺すという矛盾に苦しみ、正義を建前にして誰かの平和を犠牲にする醜悪な自分に嘔吐した。
それでも彼は止まらなかった。
平和な世が欲しいと、誰も悲しまぬ世が欲しいと言った。
そんな草壁を見て、影山は堪らない気持ちになった。
影山は人を信じることが好きだった。けれど、人を疑うことは嫌いだった。そしてこの世には、信頼できるものより、信頼できぬ者の方が多いことを知っていた。だから、平和な世は、誰もが悲しまない世というのは、いつしか、己の胸の中だけにある、遥か遠くの夢物語なのであると思うようになった。
だが、草壁は違った。胸にある夢物語を現実のものとしようとした。
草壁の理想はまさしく影山の理想の姿であり、そしてその大きすぎる理想に身を焼かれながらも、草壁は前に進んでいるのだ。
そんな草壁の生き様に、影山は惚れた。
だから影山は、草壁を信じたいと思った。草壁を支えたいと思った。
捨て駒でも良い。ただ草壁の、そして己が目指す理想郷へ近づけるのならば、その踏み台になっても構わないと思った。
幸い、影山の形代としての力は『第三視点』と呼ばれる支援に向いた能力だ。
第三視点。自分の影をもう一人の自分として使役することのできるものである。もう一人の自分は影であるので攻撃されても死なない。そもそもが影であるので、影山本体にはなんの影響も与えられない。影は『のっぺらぼう』と称され、顔はあっても個性がなく、見つけたとしても誰なのかを判別することができない、そんな力だ。
これによって草壁は、自身の能力の発動に必要不可欠な情報収集能力を得た。
影山の力では、笹田という少女が襲われた際にも、岡という少年の行動を妨害することしかできなかったが、それでも、大平卓弘と戦闘した天城和巳の情報を伝えるなど、多少は草壁の役に立ったと思う。
でも、それももう、終わりだ。
影山氏法は白比丘夜宵と戦った。
しかし影山の力は『第三視点』、空矢のように空を呼ぶことができなければ、草壁のように強力な能力でもない。勝ち目など、初めから欠片もなかった。
それでも、影山は戦った。
「ねえ、どうして? どうして貴方はそうまでして戦うの?」
少女が問う。
黒い刀を振り回し、無力な、しかし死を恐れぬ男を恐れるように。
「貴方は弱い。わたしには勝てない。空矢のように復讐が胸にあるわけでも、草壁のような正義を掲げているわけでもない。貴方の戦う理由は、どこにあるの?」
少女の問いには答えなかった。
答える余裕もなかった。
ただ、頭の片隅で考えた。
ここで命を散らす論理的な理由など、彼女の言う通りどこにもないのだ。
草壁が白那岐タワーに踏み込む前に言ったように、大堂聖議会へ新たな忌鬼に関する情報を少しでも持ち帰ることの方がよっぽど意味がある。
けれど影山はそれをしたくなかった。
それはきっと、誰にもわからない、影山だけの理由だ。
例え死ぬとわかっていても、草壁と共に戦いたかった。
ただ――それだけだ。
夜宵の振るった刀が、影山の攻撃を悉く退けた。第三視点を用いた奇襲も失敗に終わった。
そして鋭い刃が、吸い込まれるように影山の胸へ突き刺さった。
あらゆる攻撃手段を封じられ、あらゆる策も水泡と消え、そして最後に残った自分の命も、終わる。
もう、影山にできることは何もない。だからせめて、最後は祈ることにした。
「草壁。貴方だけはいつか、まだ見ぬ果てを――」
まだ見ぬ果てを、見ることが叶うようにと。
そして願わくば。かつて愛し、かつて殺した者と、添い遂げることができるようにと。
影山氏法は、一人、光の粒子となって空気に溶けた。




