悪夢の再来 <後>
「悪魔は悪魔らしく、彼らの正義を試してやろうじゃない」
白比丘夜宵はそう言った。
どうやら夜宵の計画というのは、多くの人々が集まる場所で夜を発動し、人々の精神を汚染することから始まるのだという。
和巳はその計画に大反対した。
人には人の領分というものがある。仮に一定のラインを越えることがあれば、その者はまさしく人でありながら鬼と成るというのが持論だ。和巳の言う鬼は人でありながら人を殺し続けた者――つまり殺人鬼などがこれに該当する。
そして多くの人々を殺す危険がありながら、敢えてそれを行うということは、人を殺すも同然だ。殺人鬼となんら変わりはない。
「人道に反する作戦は御免だ。それをやるくらいなら、玉砕した方がまだマシだ」
そう言って興奮する和巳を宥めた夜宵は、静かに言った。
「どうやら貴方は忌鬼について聞くことはあっても、形代については聞かなかったようね」
「形代について?」
「忌鬼が夜を使えば人の心に魔を差すように、形代が天恵を使えば、人の心の魔――この場合は悪意というべきかしらね、それを抑えることができるのよ」
「それってつまり、忌鬼と形代が同時に力を使えば……」
「ええ。多少の差異は現れるけれど、『魔を差す』という特性が中和されるわ」
と、いうことはだ。
仮に和巳や夜宵が大々的に『夜』を使ったとしても、形代のうちの誰かが天恵を使ってくれさえすれば、精神の汚染を中和することが可能であるということだ。
「だから言ったでしょう、彼らの正義を試すと。仮に誰かが人の集まる場所で夜を使ったなら、真っ先に飛んでくるのは、最も移動手段に優れた空矢であるはずよ。草壁たちが来るまでの間に空矢を始末することができれば、勝敗は大きく此方に傾く」
もっとも、これは総て草壁たちの正義を前提とした計画だ。
仮に彼らが正義よりも自身の利益を優先した場合、和巳か夜宵は無差別大量殺人鬼となり、舞台となる白那岐タワー周辺は303便の再来となるだろう。大規模テロ発生と銘打ち、原因不明の世界的な大事件として名を残すことも考えられる。
「もし草壁たちが来なかったら……」
自身なさげな和巳の声に、「来るわ」と夜宵は断定した。
「草壁は自身の正義を曲げられない。空矢も303便の再来となれば動かざるを得ない。残る影山は姿を現すことこそ少ないけれど、仲間を見捨てられる男ではない」
「……人の正義感を利用するなんて、いい気分じゃないな」
「ならどうするの。正々堂々、玉砕必至のカミカゼでもするつもりかしら」
彼女の作戦は確かに合理的だ。上手くいけば敵を総て倒すことができるし、玉砕覚悟で挑むよりはよっぽど勝率だって高い。けれど、白那岐タワーの周囲に存在する総ての人間の心に悪を差すというのは――303便の再来になる可能性が少しでも存在するというのは、和巳にとって諸手を上げて賛同できる計画ではなかった。
実行の有無を決められずにいた和巳に、夜宵は告げる。
「無理に協力しろとは言わないわ。あの303便を知る貴方に要求するには、酷なことだと思うから」
二年前の事故を思いだしたのか、夜宵は静かに目を伏せた。
「……もしぼくが協力しないなら、きみはどうするつもりだ」
「そうね。一人でも計画を実行するつもりよ」
どうして、と和巳は思った。
和巳と夜宵は協力関係を結んだ。その条件は、夜宵が夕凪を助けることを手伝う代わり、和巳が草壁たちを倒すことを手伝うというものだ。本来和巳に拒否権はない。夕凪を助けた事実を提示すれば、和巳はどれだけ気が進まなくとも協力せざるを得ない状況になる。
そのために、夜宵は和巳に恩を売ったのだろうから。
だが夜宵はそれを要求しない。しかも、一人でも計画を実行するという。もし和巳が協力しなければ、成功率は限りなくゼロに近づくはずだ。だったら、一人で戦うよりも、和巳を見捨てて矢代を去ればいい。協力関係を反故にするのは和巳だ、夜宵には和巳を恨むことはあっても、助ける義理などないはずなのだ。
なのに、どうして夜宵はそれをしないのか。
夜宵の瞳を除いても、その真意は伺えない。けれど、決して協力の無理な要請をしない夜宵の態度に、和巳は大きく嘆息した。
「――もしこれも計算通りというなら、きみは大したやつだよ」
「どういうこと?」
夜宵は本当に意味が解らないのだろう、きょとんと首を傾げた。
和巳は彼女の計画に乗る気ではなかった。それは自分たちが生き残るために不特定多数の他者を人質のような形で使うことに抵抗があったからだ。
だが、自分たちが生き残ること以外の理由が和巳に生まれてしまった。
和巳が303便の生き残りであると伝えてしまったから、夜宵に気を使わせてしまったのではないだろうか。それで夜宵が和巳に遠慮するというのは、フェアじゃない。
なにより、最も大きな理由が一つある。
「白比丘、ぼくはきみに恩を受けた。何度も命を助けてもらったし、夕凪を助け出すのに協力してもらった。だからぼくは――その恩を返すよ」
「……いいの? だって、この作戦は――」
どうして作戦を提案した夜宵が驚くのかわからない。
けれど和巳は、構わないと頷いた。
「きみに命を助けられた。この恩を返すには、結局ぼくがきみの命を助けるしかないじゃないか。今回は、その機会にうってつけだ。……だから、構わない」
「恩を返すために、外道に堕ちるというの? それでは本末転倒よ」
まるで夜宵は、和巳を作戦から外したがっているように思えた。しかし和巳はもう、決めてしまった。恩を返すと――夜宵を助けると決めてしまった。
悲しそうに和巳から目を逸らした夜宵は、静かに口を開いた。
「ねえ、和巳。総てが終わったら――わたしを、殺して頂戴」
◇ ◇ ◇
白那岐タワーの頂上で、白比丘夜宵は計画通りに『夜』を使った。
大きく隔離世を展開し、その中で自分の『夜』を。
空には、大きな赤い月が輝いている。
「馬鹿ね、わたし」
人を傷つけるのが嫌だと言いつつも、積極的に多くの他者を傷付けようとしている矛盾した自分。そんな自分を客観的に見ると、どうしようもなく滑稽だった。
自分は、罪人だ。人を殺した、たくさん殺した。生きるために殺した。仕方ないと言いつつも、正当な防衛だと言って殺した。
けれど、本当の理由はもしかしたら――人に疎まれることなく生きていけたその者たちが、羨ましかったからなのかもしれない。
日本における昔話に登場する女たちは、嫉妬に狂い、蛇となって男を殺すことがある。しかし自分はどうだ、幸福に暮らしている者総てを嫉妬に狂って殺そうとしている。
醜い女だ。嫉妬の蛇だ。
決して、夜宵は恩を返されるような存在ではない。仇を討たれることはあっても、恩を受けることは有り得ない。だから夜宵には、和巳がどうしても理解できない。
嫌な人間だったはずだ。恩を返したいと思えない、そんな人間を演じたはずだ。なのにどうして、天城和巳は自分などに恩を返すなどと言ったのか。
彼の真摯な瞳を直視するのが辛かった。彼の穢れない笑顔を見るのが辛かった。自分のことを信じてくれる、自分の隣で笑ってくれる。そんな存在を――ずっと求めていた。
けれど和巳は駄目だ。和巳では駄目なのだ。
罪の意識で、押し潰されそうになる。だから――。
「だから、かずみ。すべてがおわったら、わたしを、ころして」
夜宵は己の展開した隔離世の中に、奇妙な波紋を感じた。大きな波紋ではないが、小さな波紋でもない。空矢だ。夜宵の夜の展開を察知して、空矢が早くも現れた。
夜宵は静かに、背中に背負った五尺を越える刀身の大太刀を鞘から抜いた。ナイフとも、小太刀とも比べものにならない大きな刀だ。柄の部分を含めれば、夜宵の身長に等しいほどの大きさがある。
「黒蛇ァ!」
たちまち空矢は夜宵の眼前まで現れて、蹴りの一撃を夜宵に放った。しかし手に持った大太刀を軽々と振り回し、夜宵は空矢の攻撃を阻害する。夜宵に一撃を躱された空矢は空中を滑るように速度を緩めた。そんな彼女に、夜宵は長い黒髪を揺らして振り返る。
「一日ぶりね、猛禽女。傷の方はどうかしら」
昨日、夜宵が空矢に与えた傷だ。左肩を、骨に至るまで小太刀で切り付けた。
夜宵ならばあの場で空矢を仕留めることも可能であったはずなのだが、空中に逃れられてしまっては、対処は難しい。またその頃、夜宵は和巳と岡の戦闘を察知していた。それだけではなく、そこに草壁が向かっていることもだ。
空矢を倒すべきか、それとも和巳を助けて次の戦いに備えるべきか。最適解を即座に導き出した夜宵は空矢を見逃がし、和巳の元へ向かうことを決定した。
その結果、空矢は傷を負ったまま生き延びていた。
「答えろ黒蛇、貴様、何を考えている! あの悪夢を再び起こす気か!」
傷が痛むのか、空矢は左腕を力なくぶら下げている。
「そんなつもりは毛頭ないわ。ただ、貴方だけを呼び出したかったの」
あの悪夢――303便墜落事故のことを言っているのだろう。この空矢もまた、303便の乗客の一人だった。ゆえにあの悲劇を知っている。ゆえにあの地獄を知っている。
「ふざけるな!」
夜宵の罪悪感の欠片もない返答に、空矢は強く歯を噛みしめ、怨嗟をむき出しにする。
次の瞬間、空矢は空を跳ぶ。四方八方、縦横無尽に飛び回る。彼女の並みならぬ動きに夜宵の眼は遂に追えず、諦めた夜宵は目を閉じた。
「それで……そんな理由で、人々が集まる此処で夜を使ったというのか! 私が来なければ、一体、何人の罪なき人々が狂い、争い、死んだと思っている!」
「鳥のようにうるさい女ね。こうして貴方が駆け付けたのだから、まだ殺人未遂でしょう」
背後からの一撃を、夜宵は難なく凌ぐ。己の一撃が幾度も防がれる屈辱、己の攻撃が通じぬ敵を相手にする恐怖、焦燥。しかしそれ以上に空矢の胸に焦がれるものは、怨恨だ。
「あの時も、そうだったのか。あの時もそうやって、お前は――」
「ええ、そうよ。わたしは貴方たちを犠牲にした」
「お前が……お前のような奴が居るから――お前が、あの人を殺したんだ!」
左舷より迫る空矢の一撃。それもまた、やはり目を閉じたまま夜宵は大太刀を振るうことで退ける。目に頼らず敵を察知する力――夜宵にはそれがあった。
これまで行われた空矢の攻撃は都合三度。その総てが必殺。だが掠ったのは初めの一度のみで、それ以外は夜宵の足元を抉る、或いは空を切るだけに終わっている。空矢が焦るのも、至極当然と言えるだろう。
幾度も、幾度も。幾度も幾度も幾度も、空矢は蹴りを繰り出した。それでも、当たらない。黒蛇を前にしては、届かない。
よくよく見れば、夜宵はほとんど動いていない。彼女を中心とした半径数メートルの範囲から出ることのないまま、空矢の攻撃総てを躱している。
自分では勝てないと思った。このまま草壁を待ち、夜宵の相手は草壁に任せるべきだと思った。――けれど、引けない。
大切だった人を死なせる原因を作ったこの怨敵を前に、そしてこの場を地獄に変えようとした悪鬼を前に、空矢が引くことは許されない。
「私はお前を、許さない!」
最後の覚悟を決めて、空矢は夜宵に渾身の手刀を繰り出した。しかし乾坤一擲を賭した空矢の一撃は夜宵に届くことはなく。
「ごめんなさい」
夜宵の振るった大太刀は、空矢を正面より両断していた。




