一人の少女
草壁巌二の前から撤退することに成功した和巳と夜宵は、天城家へと向かった。
どうしてこの家に来たのかと問えば、夜宵はある意味で最も安全な場所であるからだという。この場所は既に空矢たちに知れていると思うのだが、だからこそ「ここには戻らないだろう」という固定概念を利用した作戦らしい。
次いで何をするかと聞くと、夕凪の安全の確保だという。夜宵は和巳に指示して、若菜に連絡させた。
思い返してみれば、若菜が警察に連絡する期限は一時間だったはずだ。あれからちょうど一時間が経過するかどうかといった所である。
電話をかけると、ワンコールもしないうちに繋がった。若菜は電話に出るなり、真っ先に和巳と夕凪の心配をする。
和巳は夕凪の安全を伝え、それと同時に夕凪を迎えに来てくれるようにも頼んだ。不躾な頼みだとは思ったが、若菜は快く了承してくれた。
和巳は生涯、本当に若菜には頭が上がらないと思う。
そうして若菜に夕凪を託した和巳は、夜宵と共に家の中いた。
相手は一応形代――正義の味方を名乗る者たちだ。まさか和巳が忌鬼だからといって、夕凪や若菜を人質に取ることはあり得まい。しかし和巳を一人にするのは大変危険であるため、草壁を打倒するまでは共に行動するべきである、というのは夜宵の判断だった。
その意見に、和巳は賛成した。岡や空矢と相見えて、和巳は己の無力を改めて思い知っていた。また、草壁と一瞬とはいえ戦闘を繰り広げるほどの実力と機転を持つ夜宵の判断より優れた案を、和巳が出せるとも思えなかったからだ。
和巳は他にやることもないので、岡に荒らされた部屋を片付けることにする。その横で、夜宵はソファーに寝そべりながらゴロゴロと本棚から散らばった本の一つを読んでいた。
いくら長いものとはいえ、スカートで寝そべるのは感心しない。
注意するか否か迷いながら和巳が片づけを続けていると、夜宵は不意に「そういえば」と口を開いた。
「貴方の家、二人暮らしなのかしら。両親の生活の様子が見られないけれど」
「……両親は二年前に他界したよ。303便事故ってあっただろ。これでもぼく、一応は奇跡の生還者なんだ」
「そう。そうだったの」
そういって静かに目を伏せた。
しばらくして夜宵は唐突にソファーの前に立ち上がって、静かに両手を合わせる。
「何やってるの、きみ」
「わたしは、これから和巳を危険な場所に連れ込むのだもの。今のうちに貴方の両親に報告と謝罪をして、祟られないようにしておくわ」
「幽霊を信じるタチなのかい、きみ」
「信じてはいないけれど、いたらいい、とは思う」
いたらいい、というのは、また変わった意見だと思った。
翔也とはまるで正反対の主張だ。
そうして和巳が片付けを続けていると、夜宵もソファーに寝そべって本を読み始めた。
しばらく浮かせた足を揺らして本を読んでいた夜宵が、唐突に顔を上げる。
「急にどうしたのさ」
「……時間よ。隔離世が解けた」
和巳が説明を求めると、夜宵は隔離世を展開するにも制限時間があるのだと言った。どうやら展開して一時間程度が制限時間の目安らしい。普通の忌鬼や形代は離れた場所で展開された隔離世の存在に気付くことは難しいらしいが、彼女はそれが可能なのだという。
草壁が隔離世から解放されることにより、草壁の上に墜落した学校も消滅してしまう。ということは、草壁は再び行動が可能になるということだ。
草壁は配下として連れている形代よりも頭が回る。まずはここを探しに来るだろうという夜宵の推測から、二人は夜宵の住んでいるという自宅へ向かうことにした。
夜宵が普段生活している家は、計都から少し離れた矢代市という場所にあるらしい。計都から駅が三つほど離れている土地だ。計都ほど自動車工業が盛んではないのであまり市としてお金を持っているわけではないが、土地神信仰が強く残った土地であるので、祭りは三ヵ月に一度ほど行うことが特徴である。
和巳も、小さな頃は家族と共に矢代の祭りに行ったものだ。
「矢代か。久々に行くな」
切符を買おうと和巳が販売機で値段を確かめる。計都駅からは二百三十円だ。和巳が切符を購入すると、夜宵はトートバックをごそごそ漁りながら、「ない」と呟いた。
「ないって、何が」
「財布を忘れたみたいだわ」
「忘れたって、どこに」
「家に」
夜宵は何でもないことのように答えた。
「……きみ、今日はどうやってここに来たの」
夜宵はどうやら、昨日の深夜に忌鬼の能力の発現を探知したために、七時過ぎに電車に乗って計都高校へ向かったらしい。お金もないのにどうして電車に乗れたのか聞くと、彼女は「隔離世を使ったの」と言った。
「……どういうこと?」
「隔離世というのは、先ほども言ったように平行世界のようなものなのだけれど、いきなり平行世界に消えたり、戻ってきたりするところを見られたらどう思われると思う?」
「瞬間移動したー、とか?」
「そうよ。でもそんなの見たことがないでしょう」
「そりゃそうだ」
「仮に瞬間移動したとしても、それは人間の常識には当てはまらないことだから、多くの人の脳は無理やり「気のせいだ」と判断してしまうのよ。仮に「瞬間移動だ」と騒いだ者がいたとしても、大衆が認めなければその者は異常者扱いされるのがオチだわ。多くの日本人が心霊現象を信じないのと、似たような理屈よ。だから、それを利用して――」
隔離世を使って改札口を抜け、無銭で乗車したというわけか。
これまで彼女が計都へやってきた都合何度かも、おそらく無銭乗車だろう。
「賢しいな、きみは……」
「『賢い』と言って頂戴」
隔離世を展開しようとする夜宵を止めて、和巳は「そういうズルはよくない」と文句を言う。しかし夜宵は、
「わたしは自分の力を上手に使っているだけよ、どこに問題があるのかしら。草壁を筆頭に、散々多くの形代たちから『忌鬼だから』と人間扱いされなかったというのに、こういう時ばかり人間扱いされるのは納得できないわね」
と口を尖らせる。
それでも無銭乗車が釈然としなかった和巳は、夜宵の分の切符代も払うことにした。
◇ ◇ ◇
矢代駅に着いた二人は静かに足を運ぶ。平日の昼間だ、周囲を歩いているのは老人か主婦くらいのものだった。計都に比べると舗装されていないアスファルトに少し居心地の悪さを感じながら、和巳は夜宵に付いていく。
「そういえば、そろそろ昼時ね。貴方、お腹は空いている?」
「ん、もうそんな時間か」
水戸の死に始まり、夕凪の失踪を挟んで岡や草壁との死闘を繰り広げていたものだから、肉体以上に精神が疲弊していた。またこれから夜宵の家――まあ一応は女の子の家――に行くわけであるので、和巳は少しばかり緊張をしていた。そのためあまり気にならなかったのだが、指摘されてみれば確かに空腹を感じる。
「中々良い店を知っているのだけれど、どうかしら」
「どうかしらって、きみ文無しだろ」
夜宵は「貴方、賢しいわね」と言って歩き出した。
どうやらまた和巳に払わせる腹積もりでいたらしい。悪女だ。
「まあいいわ。どのみち貴方には荷物があるし、家に付いてから食事にしましょう」
さくさく、と夜宵は早足で道を進んでいく。
入り組んだ街道を十分ほど歩いて、二人はようやく夜宵の家へと到着する。そこは矢代の中でも特に目を引く、高級感溢れるマンションだった。
「ちなみに聞くけど、これ隔離世ではどうにもならないよね?」
「家賃くらい払っているわよ、失礼ね」
「きみ、普段は何の仕事してるんだ……?」
夜宵は、「これ」とレバーを引いて三つのボタンを押すような仕草をする。何のことかわからない和巳に、「これならわかる?」今度は球体を握って手首を回す動作を見せた。
よくテレビで流れる、パチスロのCMの仕草だった。
返す言葉が見つからない。
愕然とする和巳の手を引いて、夜宵はマンションの自動ドアにパスワードを打ち込み、エレベーターに乗り込んだ。『7』というボタンを押す。
「わたしにはどうやら、その手の才能があるらしくてね。昔は株を買って儲けていたのだけれど、株はお金になるのに時間がかかってしまうからから。その点こちらは、座ってボタンを押すだけで日給十万程度を稼げるもの。おかげで戻れなくなったわ」
もっとも、店には嫌われるけれど、と夜宵は付け足す。
それで生計を立てていると言われては、和巳も文句の言いようがない。しかし。
「それだけ稼いでいるなら、電車賃くらい払えよ……」
「お金は有限だもの。節約できるなら節約するべきというのがわたしの持論」
「その割に、服はいろんな種類のものを持ってるみたいだけど」
「女の子は誰でも綺麗でありたいものよ」
「……パチスロは綺麗な稼ぎ方なのかなぁ」
「仕事とプライベートは別ものよ。区別はしっかりとなさい」
なぜか諭されたところで、チンと鈴の音が鳴る。
エレベーターから出た和巳は704号室へ案内され、その玄関を見て唖然とした。ただの玄関なのに、兎にも角にも広いのだ。
靴も夜宵のものなのか、地味なスニーカーからど派手なブーツまで、靴屋のように綺麗に並べられている。ちなみに、左右に設置されている靴箱を開けてみる勇気はなかった。
普通よ、と歩き出した夜宵に恐る恐るついていくと、案の定、和巳は絶句する。
リビングだけでも、天城家の居間と台所を足した部屋の倍はあった。しかししっかりと掃除されている辺り、夜宵の真面目さも垣間見えた気がした。
夜宵は部屋の中央にあるソファーの上に転がっているピンクの長財布を手に取って。
「では食事に行きましょうか。荷物は適当な場所に置いておいてくれればいいわ」
◇ ◇ ◇
そうして昼食のために向かったのは、『Le Cinel』という名前のスイーツ店だった。
店内に入り、メニューに目を通すと同時に和巳は目を見開いた。どのケーキもカットで千円は下らず、パフェに至っては二千を超えるものばかりだ。メニューも写真を見る限りデザート系ばかりで、主食になりそうなものが何もない。
しかもフランス語ばかりで、そもそもメニューが全く読めない。
「白比丘。ここはやばい、店を変えよう」
「値段が高いことには同意するわ。けれど、美味しさも保証する」
そういって夜宵は「待って」と静止する和巳を無視して、呼び出しベルをなんの躊躇いもなく鳴らした。
すぐにやってきた店員は、非常にお洒落な恰好をしている。店員と話す夜宵はこなれていて、何度かこの店を利用しているようだった。
夜宵の着る服は、パッと見るとシンプルな身なりではあるものの、見れば見るほど綺麗な服装だ。服のみならず、トートバックや小物もそこそこ値が張りそうなものである。
先ほどと同様、赤茶色のベレー帽にピンクのスニーカーを履いて赤の調和性を上下に確保しつつ、グレーのパーカーの上から羽織った空色のカーディガンと赤ベースの配色を、白いロングスカートで上手く調和させている。ちなみに先ほどはカーディガンではなく薄手のデニムシャツだったが、デニムは草壁との戦いで失われたようである。
夜宵はそんな整った身なりであるからか、比較的余裕の態度で店員に注文を始めるのだが、相対する和巳はジーパンに白のシャツという恰好だ。気持ちお洒落を気取るために、いつか夕凪と若菜におすすめされた空色のネクタイを付けてはいる。
が、自分の場違い感が尋常ではなく、気が気でなかった。
カチカチに固まっていると、夜宵に話しかけられていたことに気が付いた。
「――それで、和巳はどうするの?」
メニューの話らしい。まったく決めていない。
選んでいないと言うと、夜宵は仕方ないと嘆息しつつも、適当にメニューを選んでくれた。それには素直に感謝したいところだが、店を変えよう、と提案した直後に呼び鈴を押すという問答無用の行いは、決して許すべからず、と心に誓った和巳である。
固まる和巳。窓の外を眺めながら冷淡な態度を見せつつ、にじみ出る期待を隠しきれない夜宵。二人が無言のまま待機していると、両手にパフェを持つ店員がやってきた。
「お待たせしました。カップル限定、シュクル・ドゥ・プリエールがお二つですね」
山のように盛られたアイスと生クリームの間には苺やバナナを中心としたフルーツがケーキの層のように詰められている。上部は苺と生クリームを中心として綺麗に彩られており、想像以上に美しいと感じる品だった。
店員が去っていくと同時に夜宵はスプーンを手に取って、早速口に一口運んで舌鼓を打つ。前に『dear』のモンブランを食べていたこともあったし、どうやら彼女は甘い物が好きらしい。
見かけに反して、可愛いところもあるものだ。
しかし和巳はすぐに手を出す気に慣れず、うんうんと唸りながら財布の中身を想像しつつ、目の前のパフェを睨んでいる。
ついでに一つ、気になったことがあった。
「ところでカップル限定ってなに」
パフェのてっぺんで、ハート型のチョコレートが幸福を主張している。
「文字通り、カップルだけが頼める限定メニューだけれど、なにか」
「違うよね。ぼくら、カップル違うよね」
夜宵は目を細め、刃のような視線を和巳に向けた。その視線に和巳は思わず怯む。
「最後の日くらい、いい思いをさせてくれても、いいでしょう」
鋭かった視線を緩めて、夜宵はスプーンで掬った苺を眺めた。
「……最後の日、というと?」
「明日も同じようにいられる保証なんて、どこにもないじゃない。今回はたまたま貴方の時間稼ぎとわたしの奇襲が効いて上手く行ったけれど、本来、草壁はあんなことで後れを取るような相手ではないのよ。ただ幸運だっただけ。だから、次はないわ」
次はない。その言葉に、和巳は息を呑んだ。
今はこうして普通に食事をしているが、つい数時間前には草壁と交戦していたのだ。
人と、殺し合っていたのだ。
そのことを現実のものと思い込みたくなくて、自分の死から目を逸らしたくて、和巳は無意識下で「明日も同じ明日が来る」と決めつけていた。けれど夜宵は、違った。正面からその問題と向き合って、その上でこの店に入ることを決めたのだろう。
この店で良かったのかもしれない、と思った。
「ごめん、余計なこと言った」
謝罪する和巳を前に、夜宵は「それでいいのよ」と苺を口に含んだ。
「わたしは結局、わたしのやりたいことをしているだけだもの。貴方だって、文句や要望があるなら言えばいい。それを受理するかどうかは、また別の話だけれど」
「やりたいことをやれ、ね……」
自分がやりたいこととは、何だろう。和巳は夜宵の言葉を受けて自問した。けれど、答えはすぐに出なかった。その代わり、くうとお腹が空腹を訴える。
「早く食べないと、アイスクリームが溶けるわよ」
「……そうだね」
和巳はパフェを口に運んだ。
昼食時に食べるものではないと思ったが、とても美味しかった。
そして、美味しいものを食べて美味しいと感じられる――そんな当たり前が、堪らなく大切なのだと思った。
◇ ◇ ◇
その日は、夜宵に連れられて楽しいと思えることをした。
楽しいことと一概にまとめたが、正確には楽しいと思えること、楽しいと思われていること、というべきか。具体的には、一般に若者が好みそうなことをした。
映画館に何かあるのかと思えば、普通に映画を見て。
服屋で特別な服や武器を買うのかと思えば、普通にウィンドウショッピングをして。
何の意味があるのかと書店へ行けば、ただ本が並んでいるのを見るだけだった。
初めて会ったとき、和巳を殺そうとナイフを突きつけてきた少女、白比丘夜宵。彼女が今だけは、ただの女の子のようだった。女の子のように、スイーツを食べて。女の子のように、映画を見て。女の子のように服を見ては目を輝かせ、女の子のように書店で気になる本を見つけては――女の子のように喜ぶ。
共に歩いていく中で、和巳は気付くことがあった。性格が性格なのであまり表には出そうとしないが、彼女は楽しんでいるのだと。
和巳からしたら、当たり前のことばかりだ。今の若者にとっても、多くが当たり前だろう。そんなことで一喜一憂する彼女を見て、和巳は複雑な気持ちだった。
彼女の価値感は確かに自己中心的なものかもしれないが、基本的に人を傷つけるようなことは決してしない。彼女が人を傷つけるのは、自分を害するもの、あるいは自分を害する可能性のある存在を見つけたときだけだ。
結局それは総て自己防衛の手段であり、法や警察、憲法に自身の身の安全を守られない彼女は、そうでもしなければ生きてはいけないのだろう。
たった一人で生きてきた少女。
そんな彼女を一体、誰が責められるという。
少なくとも和巳には、彼女の生き方を責めることはできないと思った。
どうやら夜宵は、誰かと遊ぶということをほとんどしたことがなかったらしい。楽しんでいることを絶対に表に出すまいとしていたが、行動の節々からそれが漏れていた。
そんな夜宵の姿がどこか微笑ましく、和巳は夜宵の従者よろしく後ろを歩く。まったく不快を露わにしない和巳に疑問を抱いたのか、
「貴方って、ちょっとしたことで笑うわね」
夜宵は感情を殺した声で問いかけた。
自分のやりたいことをやっているだけなのに、どうして和巳が楽しそうにしているのか。どうやら夜宵は、それが不思議でならないらしい。
「楽しいときは笑うものだよ」
「……わたしといて、楽しいの?」
君の笑顔があんまりにも純粋で、童子のようだったから、見ているこちらも嬉しくなるんだ。
なんてことは、言えなかったけれど。
「……そうだね、楽しいよ」
きっとそう告げた和巳は、笑っていた。
「――変わっているわね、貴方」
そして言葉を返した夜宵も、少しだけ笑っていたのだろう。




