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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第2章
14/23

天焼懺悔

「なるほど、『束縛』。貴方の夜はそれですか」


 岡の側部の壁が爆発し、そこから一人の男が姿を現した。

 本来有り得ぬ場所から、有り得ぬ方法で現れた謎の男。その出現に動揺する岡の顔面を、男の拳は容赦なく殴り飛ばした。

 強烈な一撃に岡は口から血を噴き、また折れた無数の歯が床に散乱した。


 男は短髪で白髪。四角い輪郭の中に細められた眼が、仮面のような微笑を形作っている。全身は黒い修道服に身を包み、首に下げた十字が小さく金属音をたてた。

 ――草壁巌二だ。


 草壁の登場によって、岡の意識から和巳が外されたのだろう、先ほど和巳を縛った鎖は完全に消失し、和巳はその場に逆さ磔の状態から落下した。受け身の取れない状態での落下は頭部に少なからず痛みをもたらしたが、この場は既に、痛いと呻くことすら許されない緊張の中にある。

 壁を崩し、岡を殴った。ただそれだけの行動であるにも関わらず、この場において草壁巌二という男は空気の総てを掌握するほどの存在感を醸し出していた。

 ――アレは、別格だ。


 草壁は大平のように和巳に殺意を向けていない。空矢のように、空を飛ぶという異能を見せたわけでもない。ただ、岡を殴りつけて一撃のもとに叩き伏せただけ。

 こんなことは、きっと大平や空矢にもできたはずだ。

 それなのに、彼から溢れる圧倒的な存在感は、他の二人と比較にもならないと和巳は感じていた。ただ立っているだけで、気圧されるような何かがあった。


「忌鬼、岡圭太。貴方の罪は三つある」


 その声は、低く厳かな声だった。

 ぞわり、と背筋が震える。

 子供に言い聞かせるように優しく、仮面のような微笑を持って草壁は告げる。

 自身に向けられた言葉ではないことを、和巳は感謝した。今現在、彼の視線が自身に向けられていないことを、祈ったこともない神に感謝した。


「一つ。相手が許しがたい悪人であったとはいえ、人の命を殺めたこと」


 草壁は静かに、一歩を踏み出した。

 這いつくばるように、岡は草壁から離れようとした。しかし先に受けた一撃で軽い脳震盪を起こしたのか、惨めに手足は空回りをしている。床をのたうち回る彼の様は、油の上で立ち上がれずに蠢くカエルを思わせた。


「二つ。未来ある少女の腕を逆恨みで傷つけ、その未来を奪ったこと」


 ずん、と草壁が岡の横に並んだ。

 岡は得体のしれないカエルのような奇声を喉から発し、近くにいた夕凪の身体を盾のように草壁に向けた。


「ぢがづぐな、ごどずぞ!」


 多くの歯が欠け、また動揺して羅列の回らない岡が叫ぶ。

 草壁の細い眼が、一段と細まった。微笑の仮面の奥に、不快の色が覗いた気がした。


「三つ。――貴方は、自己中心がいささか過ぎる」


 告げた瞬間、草壁の右腕が岡の首を捕えた。

 夕凪を掴んでいたはずの岡の腕は、すぐに夕凪から自分の首を掴む草壁の腕に向けられた。岡の腕から離れた夕凪の身体は床に伏す。夕凪の身体を気遣ってか、草壁は尋常ではない腕力をもって岡の肉体を片腕で持ち上げ、夕凪と岡の間に自身の肉体を挟むようにして半回転した。

 岡はかなり豊満な肉体を持った男だ。身長は和巳と同程度だが、その体重は優に和巳の倍はあるはずだ。それを軽々と片手で持ち上げた草壁は、やはり微笑を崩すことはない。


「貴方に罪があるように、自ずと私にも罪が生じてしまいました。貴方が人を殺めようとした際、その者を助けられなかった罪。未来ある少女たちを傷つけた折、少女たちの未来を守れなかった罪。そして、貴方という存在を早期に察知し事前に始末することができず、こうして被害を出してしまったという罪。――いずれも、軽いものではない」


 咽喉部を圧迫され、思うように声を出せない岡はうめき声をあげた。

 しかしその声は、草壁には届いてはいなかった。


「罪深い。罪深いでしょう、嗚呼――あまりに罪深いでしょうとも。貴方と言う存在が生まれ落ちたと知りながら、黒蛇討伐という大願成就に目がくらみ、私はあろうことか、貴方の始末を怠った。その結果、私は数多の人々の幸福を奪ってしまったのです」


 草壁が言葉を紡ぐほど、岡の咽喉部を圧迫する腕の力が強まった。喉を掻き毟るほどに岡は苦しんでいる。決断の末に岡は己の力を振り絞り、あの鎖を召喚した。

 小牧を殺し、水戸を殺し、翠を、若菜を、夕凪を傷付け、そして和巳を縛ったあの鎖だ。あの鎖はただの鎖ではない、触れただけで対象の力を奪う異能の鎖だ。

 仮に草壁と言えど、あれに縛られれば多少は動きが阻害されるのではないか――。

 その考えは、甘かった。

 鎖は確かに草壁の全身に巻き付いた。その量は和巳の際の比ではなく、二倍、いや三倍はあろうかという量をもって草壁の肉体を拘束した。しかし草壁は拘束されたことに気付いた風もなく、


「嗚呼、また私は罪を背負った――」


 草壁は岡を掴んでいない左手で、自身の顔を後悔の一念から包みこむ。

 それだけで――あろうことか。

 あろうことか、草壁の左腕を拘束していた鎖は、古びたゴムのように千切れ飛んだ。


「嗚呼、失礼。私としたことが。少々興奮してしまったようです」


 そういって草壁は、静かに岡の身体を床におろした。その拍子に、大半の鎖が千切れ飛ぶ。千切れた鎖の断片が、和巳の頬を切り裂いた。

 岡の鎖が、拘束具としての役割を果たせていない。それどころか、縛られたはずの草壁は、己が鎖で拘束されていたことすら気に掛けた様子がない。

 正真正銘、この神父は化け物だ。

 その事実に和巳は絶句した。岡は、恐怖に口を震わせ涙を流した。


「さて、お互いの罪を自覚したところで本題に入りましょう」


 静かな微笑を取り戻し、草壁は岡を見た。岡の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。それに不快を示したのか、草壁は器用に左手のみを使ってポケットからティッシュを取り出し、ありったけのティッシュで岡の顔を拭う。


「申し訳ありませんが、貴方の出したものは貴方で始末を付けていただく」


 顔を拭ったティッシュを岡のパーカーにねじ込んで、草壁はコホンと咳ばらいをする。


「話を戻しましょうか。貴方には貴方の罪がある。しかし、私には私の罪がある。互いに罪科があるならば、私が一方的に貴方を罰することが筋に合わぬのは自明の道理。そこで私は、貴方に懺悔の機会を与えることにしました」


 その言葉に、岡は一縷の望みを見た。

 懺悔の機会が与えられると言うことは、許される機会も与えられると言うことか。

 その言葉に、和巳も心の隅で安堵した。

 もしかしたら、この場を生きて帰ることができるかもしれない、と。


「では、懺悔の規則をお教えしましょう。私が神より与えられた『天恵』は、とある御方(おんかた)より命名された『天焼懺悔(てんしょうざんげ)』と申します。この力は相手の罪深さを知れば知るほど力を増す熾天使の炎をかたどったものでしてね、対象の罪科を焼き払うという特性を持ったものなのです。仮にこの『懺悔の炎』に身を焼かれ、貴方がその息を止めていなければ、貴方は己の罪を十分に悔い改められた証を立てたことになる」


 つまり、どういうことなのか。

 和巳と岡は、続く草壁の言葉に耳を傾けた。


「神の赦しを得られたものを、私の一存でどうにかするわけにもいかないでしょう。仮に『懺悔の炎』を耐えることができますれば、私はそれ以上貴方に手を出さぬことを、永劫神に誓いましょう。……いかがですか、貴方は己の罪を悔い改める気がありますか?」


 岡は即座に二つ返事で頷いた。反省している、二度としない。どうか懺悔の機会を与えてくれ、と草壁に頭を下げて懇願した。

 その様はまるで豚だ。目の前の餌に食い付く豚同然の、醜い態度だ。

 しかしもし和巳が岡の立場であるならば、彼と同じことをしたかもしれない。それほど、彼我の差は圧倒的すぎた。どうしても埋められない溝が、そこにはあった。

 仮にこの懺悔を断ることがあれば、瞬く間に彼の拳によって、文字通り肉体を粉砕されるだろう。だから生きるためにはなんでもする。頭を下げるだけで、多少の苦しみを耐えるだけで死をまぬがれることができるのならば安いものだ。


「では、懺悔を始めましょうか」


 ボウ、と音がする。草壁の右掌から、小さく炎が灯った。どうやらあれが懺悔の炎らしい。しかし岡の罪のわりには小さいように思う。あれを受けただけで罪を許してしまうというのはどこか釈然としないが、しかし和巳自身にも降りかかる可能性があることを考えると、軽いものであるに越したことはない。

 しかし、岡を前にした懺悔の炎はどんどんと勢いを増し、その炎は学校の天井を焼くほどにまで成長した。それでも尚、成長の勢いは止まらない。

 待ってくれ、滑舌悪く岡が問うた。やはり微笑を崩さぬまま、草壁は告げる。


「貴方は人を二人ほど殺めたでしょう。ならば二度は死ななければ割りには合わない」


 岡は言葉を失った。

 それからゆっくりと後退し、静かに立ち上がり。

 草壁に背を向けて、もたついた足で、和巳や夕凪とは反対の廊下へ逃げ出した。

 逃げる岡を追わぬまま、草壁は静かにその炎を岡へと向けた。


「丁度、無関係のお二人を巻き込んではいけないと困っていた所です。貴方の方から離れていただけるとはこれ幸い、その殊勝な態度は認めましょう」


 そう言って草壁が強く右手を突き出すと、炎は草壁の手を離れて真っ直ぐに岡へ向かい、そしてたちまち岡の肉体を包み込んだ。

 絶叫が廊下に響く。

 それはこれまで和巳が聞いたどんな音よりも不快で、どんな声よりも悲痛に満ちていた。ただただ廊下に響く悲鳴を聞いて、草壁は思い出したように人差し指を天に差す。


「これは余談ですが、人を一人でも殺めた状態で私の懺悔の炎を浴びて生きていた者は、ただの一人を例外として他にはいません」


 そんな草壁の言葉に帰ってきたのは、先と変わらぬ絶叫だった。

 絶え間なく響く岡の喉より捻り出される阿鼻叫喚の声は、廊下の窓を震撼させて、音叉のように鳴り響く。

 岡の声は次第に小さくなっていき、いつしか炎がものを焼く音のみが廊下に聞えるようになった。最後には、岡であったものが床に倒れ込んだ。

 ザン、と音を零したが最後、岡の肉体は骨も残らず灰に帰した。そしてその灰も、まるで闇に溶けるかのように消え去った。


「死して骨も肉も残らぬ、これが忌鬼の死です」


 故に――忌鬼として生まれたその命には、意味がない。

 語り聞かせるような草壁の言葉に、和巳は強く拳を握らずにはいられなかった。

 いつか死を迎えるのであろう、自分に対して。自分にそんな命を与えた、世界に対して。

 本当にそうだろうか、と問いを掛けずにはいられなかった。


「ええ、残念ながらそうなのです。貴方たち忌鬼は、人類の癌だ」


 微笑を崩さぬまま岡の死を見送った草壁は、そう言って和巳に歩み寄った。

 岡がいなくなったことで、赤い月の隔離世が解除される。

 和巳と草壁は、人一人いないただの学校で対峙した。

 逃げなければならないと思った。しかし草壁の後ろに夕凪がいる。和巳は床に座り込んだまま、目の前に立った草壁を見上げた。

 和巳の目線に合わせるようにして、草壁がしゃがみ込む。


「天城和巳。申し訳ありませんが、貴方のことも調べさせていただきました。善良な父・和希、善良な母・夕の下に天城家の長男として誕生。両親同様に正義感が強く、大変な妹思いであった。しかし二年前の日本航空303便墜落事故により両親は死亡、最愛の妹は視力を著しく落としてしまう」


 和巳は草壁の言葉に頷くこともしなかった。

 草壁は和巳に構わず続ける。


「貴方は忌鬼として生まれることがなければ、極めて善良な市民であった。中学時代、素行の悪い女子生徒に少しばかり脅迫まがいのことをした事もあったようですが、それは総て己の為ではなく、愛する妹を守るため。己が周囲から非難を受けることも厭わず他者を助けるという美しき自己犠牲の精神は、私には到底、責めることはできない」


 だから、どうだというのだろう。

 和巳の疑問に、「しかし」と草壁は無情に告げた。


「誠に心苦しい話ではありますが、貴方は忌鬼だ。忌鬼は残らず粛清対象だ。もし人として出会えていたのなら、また違った未来があることを考えると実に惜しい。そこで私は考えました。貴方に忌鬼という存在を語った上で、尚も貴方が生きようとするならば、正々堂々と勝負をすることを誓いましょう。もし貴方が勝たれれば、私を殺すが宜しい」


「……もし負けたら、貴方は死んでもいいと思うのか」


「ええ、それが最も公平だ。しかし貴方が敗北すれば、私は貴方を殺します」


 では先述の通り、忌鬼という存在について語りましょう。

 そう言って、草壁は口を開いた。


「以前は『悪魔』という言葉を使って説明しましたね。忌鬼という存在は人の心に悪を差す存在なのです。より日本的に言うならば、『魔が差す』というやつです」


 悪魔とは、どのような存在か。初めて会ったときの会話を和巳は覚えている。


「この世には、救えぬものが多すぎる。悪に染まる人の心もまた然り。人々は己の理解できぬ犯罪の行動原理を動機などと最もらしく述べていますがね、そんなものは本来必要ない。人の心には誰しも少なからず悪がある。動機など必要ないのです。犯罪に至る理由はただ一つ」


 それが『魔が差す』ことなのだと、神父は言う。

 しかし和巳には、何が言いたいのかよくわからない。それを感じ取った神父は、細い眼を閉じた。


「例えば駅のホームなどで電車が通る。そこに飛び込んでみたい、或いは誰かを突き落としてみたい――興味本位でも構いません、少しでもそう思ったことはありませんか?」


 和巳は頷きかねる。けれど、どうしようもなく精神が疲弊していたとき、そう思ったことは確かにあった。死にたいと。或いは、人を殺してみたい――と。

 小さな興味。小さな好奇心ではあれど、そう思ったことがあるのは確かだ。


「けれど実行はしないでしょう。それは理性が衝動を押しとどめるからです。しかしこの状態の人間はかなり危うい、ほんの少しでも天秤が傾けば、人は衝動に従って己を、或いは他者を殺すのです。ですが通常、人の天秤は動きません。衝動よりも理性のほうが遥かに強い。けれど忌鬼は、この天秤を揺らしてしまう。すなわち『魔を差す』のです」


 人の精神が疲弊している際、人はある種の憑き物に憑かれているのだと神父は言う。

 そしてその状態で何かしらの後押しがあった場合――例えば上司への恨み、例えば同級生への嫉妬、嗜虐願望、攻撃衝動、好奇心、自己嫌悪――それら刹那的かつ強烈な衝動が加速されたとき、すなわち『魔が差した』とき、人は鬼と成る。

 人を殺す、鬼と成る。

 忌鬼とは、人を鬼たらしめる存在に他ならぬ。

 故に鬼。忌避されるべき鬼。近づくことすら禁忌とされる鬼。人に害なすが故に、人の心に魔を差す故に、共に生きてはならぬ、異常のもの。


 ――だから、小牧だったのか。和巳の胸に何かが落ちた。


 水戸は、和巳と争ってから小牧がおかしくなったと言っていた。和巳は自身が悪魔的存在であるなら周囲の人間から汚染されるべきだと考えていたのだが、和巳の周りにいる者たちより、小牧の嗜虐願望、あるいは攻撃衝動が強かったのは明らかだ。だから小牧は、誰より早く魔に差された。汚染されたのだ。

 天城和巳という忌鬼が、小牧弦という人を鬼に成らしめていたのだ。

 言い返さずに歯を噛みしめた和巳を見て、神父はやはり微笑の鉄仮面のまま続けた。


「こんななりの私が言うべきことではありませんがね、人の心には必ず悪がある。わたしにもありますよ、悪の心は。けれど、その悪の心を超える理性を持っているからこそ、本能のみで生きるのではないからこそ、人間は素晴らしいと私は思うのです。理性なくして生きるものはただの獣と同じだ、本能に従って自由に生きたいのならば野生に還られれば宜しい。だが多くの人々は違う、悪の心があり、それを抑える理性を持っている。そしてその理性を、人としてなにより大切なものだと知っている」


 そう言って神父は――草壁は、諸手を広げて窓の奥にある青空を仰いだ。


「見なさい、この大空を。この輝きを。これこそ人の命、尊き魂の象徴。決して――そう、決して、曇らせてはならぬ、穢してはならぬものなのだ」


 草壁巌二は果たして、その空の先に何を見たのだろう。その輝きに、何を見たのだろう。

 仮面の下に見える瞳には、輝きがあった。尊いなにかを映しているようにも見えた。

 忌鬼とは。神父は静かに口を開き、再び微笑という仮面をかぶった。

 その瞳の奥はもう、仮面に隠されてわからない。


「そも忌鬼は人ならざる力を持った異能者だ。これが世間に存在すること自体、異常な事態であるとは思いませんか」


 それはその通りだと和巳は思う。だが、異能を扱うのは忌鬼だけではない。


「なら、あんたたち形代はどうなんだ」


「正しい疑問ですが、しかし論点が違う。問題はこの世に忌鬼が生まれたことなのです。忌鬼は、人の心を悪に染める。そんなものがうろついていては、人の世は悪に染まる。それを止めるために、形代は生まれた――聖議会(せいぎかい)はそう結論付けています」


 聖議会というのは、形代の組織のことだろうか。

 つまり草壁は、形代は忌鬼の抑止力として生まれたと言いたいらしい。


「貴方、『303便墜落事故』を思い出してください」


「……なんだよ、急に蒸し返して」


 和巳は不快に目を細めた。

 二年前の墜落事故。和巳は事故の数少ない生き残りだ。あそこで起きたことは、今でも鮮明に覚えている。あそこで見た赤。血の赤、狂気の赤、炎の赤。あそこで見た地獄。数多の残骸、無数の死体。あそこで奪われたもの。父の命、母の命、そして、夕凪の目。

 それらを思い出した和巳の反応を見て、草壁は言った。


「あれを起こしたのが忌鬼だとしたら、貴方はどう思いますか」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 しかし和巳はすぐに思考する。その可能性の有無を考える。

 そもそも303便の墜落の原因にはいくつかの要因が挙げられていた。乗客の発狂、それに伴うパニック、狂った者たちの殺し合い、暴動。――地獄絵図。しかしそのどれもが決定的な原因を見つけられず、墜落の理由は以前不明のままだ。


 しかし、だ。もし、あそこに忌鬼がいたならば。忌鬼の『夜』が、人の心を悪に染めたというのなら。それは、立派な原因として成立するのではないだろうか――。


「303便墜落事故だけではありませんよ。多くの無差別殺人事件や、動機のわからぬ突発的な事件の原因の多くが忌鬼にあるとしたら――いかがでしょうか」


 和巳は、何も言い返せなかった。

 人の心を悪に染める。その危険性を軽く見ていた。大平に指摘されながらも、実感が沸かなかった上に、無意識下で考えることを拒んでいたのだろう。もし考えてしまったら、事実にたどり着いてしまったら、二度と生きる希望を持てないと思っていたからだ。

 けれど、目の前の男に、その事実を突きつけられてしまった。


「人が死ねば、誰かが悲しむ。多くの人が死ねば、それだけ多くの人が悲しむ。当然のことです。わたしも、忌鬼のために大切な人を失いました。こんな思いを、他の誰かにさせたくはないのです。だから戦う。それが、私の生き様だ」


 和巳は、何も言えなかった。

 忌鬼という存在が如何なるものか。そして、草壁巌二という男がどのような思いで忌鬼という存在と戦ってきたのか。

 和巳の持つ『生きていたい』という願望が、とても小さく、そして醜悪なものに思えた。

 この人になら、殺されてもいい。

 和巳が少しだけ、そう思ったときだった。

 真昼の青空が赤に染まった。――夜が訪れた。


「意外ね。熾天使にのみ許された『(たて)』にも、和巳の夜は脅威になるの」


 赤い月を背に受けて、一人の少女が姿を現した。


「待たせたわね、和巳」


 ――白比丘夜宵だ。


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