『束縛』
犯人の目的が和巳である以上、何かしらのメッセージを残している可能性が高い。そう思って和巳は部屋を散策していたが、一向に見つからなかった。ところが、家に帰宅しようとしていた若菜が玄関に張り紙を見つけた。扉に配置されていたため分かりやすい場所ではあったのだが、室内ばかりを探していた和巳は完全に見落としていた。
そこには、やはり切り抜きでこう書かれていた。
『学校で待ツ』
若菜は家に帰る前に、和巳に問うた。
どうするつもりなのか、と。
「ぼくだって、罠と分かっていくほど馬鹿ではないです。犯人はぼくを狙っている。となれば、ぼくが来なければ別の手段を考えると思いますから」
嘘だ。
犯人は既に二人殺している。今更夕凪を殺すことをためらうはずがない。もし和巳が出ていなければ、おそらく夕凪は見せしめに殺されるだろう。――あの二人のように。
しかしそんな嘘も、若菜の前では筒抜けだったらしい。「一時間」と言って、若菜は人差し指を立てた。
「一時間だけあげる。一時間たったら、わたしは警察に連絡する。それまでになんとかできないって言うなら、今すぐ連絡する。――いいね?」
「わかりました」
若菜はそれ以上言うことはないと、車に乗って帰宅した。
一人家に残された和巳は、靴紐を強く結んで外に出る。
犯人が誰か、推測ではあるが特定できた。どこにいるかもわかる。夕凪が危険な状況にあるのも、理解している。――ならば、行くしかないだろう。
こんな状況でありながら、和巳は夕凪が攫われたことに対して少なからず感謝していた。もしこれが夕凪ではなかったら、翔也や翠、琴葉、若菜を除いた誰かであったなら、和巳は恐らく危険を冒してまで助けに行こうとは思わなかっただろう。
夜宵の指示通りに夜宵を待ち、適当に役割をこなしていくだけだった。その中で命を落とす、あるいは途中で投げ出すこともしていたかもしれない。
だが夕凪は和巳にとって、最も大切な日常の象徴だ。だからこそ、覚悟が決まった。
例えこの命を失おうと、夕凪だけは失うわけにはいかない。
夜宵には少なからず悪いと思ったが、こうしている間にも夕凪が危険な目に遭っているかもしれないと思うと気が狂いそうになる。行動を起こさなければならない、その衝動が冷めないうちに、和巳は学校へと向かった。
時刻はもう昼手前だ。水戸の死体は無くなっている。警察も一旦は引き上げたらしく、見るものがなくなった野次馬ももういない。周囲には誰一人としていなかった。
『立入禁止』と書かれた黄色いテープをさびれた鎖のように巻きつけられた人気のない昼の学校が、どこか青い夜空に浮かぶ赤い月のようだった。
――ぞわり、と。
和巳は全身に鳥肌が立つのがわかった。
学校には、確かに何かが居る。それは間違いない。
白比丘夜宵よりも遥かに禍々しく、悪意に満ちた何かだ。
夕凪が危険な目に遭っているかもしれないという不安が実感を増す。
夜宵を待つ――なんて考えは浮かばなかった。
昇降口を越え、土足のまま校舎に入ると、一層、異質が肌に染み込んだ。
隔離世――といったか。いつか存在した赤い月がこの先にあるような気がして、和巳は右手で校舎の空気に触れてみる。指先に、粘着質なゼリーを思わせる感触があった。
右手を離して歩けば、普通の学校としてこのまま先へ進むこともできる。だが、このゼリーのような感触の先に右手を触れさせたまま進めば、隔離世へと赴くことができる。それが、人ならざる者の本能的な感覚として理解できた。
現実の道を行くか、隔離世を行くか。
「……そんなの、とっくに決まってる」
呟いた和巳は決意を証明するように目を閉じて、隔離世へ赴くことを強くイメージする。その右手を、凝り固まった空気の中に差し込んだ。
次に目を開けば、そこには暗い夜が広がっていた。
窓の外には赤い月。忌鬼のみが展開することのできる特殊な結界――曰く、隔離世。
異空間に入り込んだ瞬間、和巳の目に入ったのは、ナニカをずるずると引きずる少年の姿。次いで耳に入ったのは、どもるような声だった。
「あれ、来てくれたんだ。てっきりもう来ないと思ったからさ……ちょうどぼくから天城くんの所にね、行こうとしていたんだよ」
その姿は制服ではなく私服。ぶかぶかなズボンと、だぶだぶのパーカー。暗い色相で統一されており、根暗な性格を彷彿とさせる色彩だ。お世辞にもいいファッションとはいえない。少し黒ずんで、大きく油の浮いた肌に、服装と同じく下あごの肉が揺れている。醜く垂れた黒い瞳とニキビだらけの顔が、イボガエルを彷彿とさせた。
和巳は直接的に彼を知らない。だが、話には何度も聞いていた。ここ数日の間でも、彼の名前は何度も聞いている。
「――岡圭太だな」
和巳の問いに、岡はニンマリと笑みを作った。
「うん、その通り」
岡からは、嫌な匂いがする。ひどい悪臭だ。腐食したプラスチックのような匂いだ。
不快を隠すこともなく、和巳は眉をひそめて岡を睨み付けた。
そのとき、ふと気づく。
岡が手に持って引きずっているものに、見覚えがあることに。
「――おい、それは、」
なんだ、という言葉が、咄嗟に出なかった。
何をされたわけでもない。ただ、猛烈な悪寒と予感が、和巳を苛んだ。
頭がくらくらと揺れて、眩暈がする。赤い月の異様な雰囲気に当てられたか、なんて考えも浮かんだが、それだけではないことは和巳が一番よく分かっている。
岡の後ろに広がる狭い廊下には、まだらな赤い線が引かれていた。壊れたライン引きでも使っているのかと思った。赤く見えるのは、赤い月の光の反射によるものだと思った。
違う。この赤は、天城和巳がよく知る、あの赤だ。
二年前に、見た。たくさん流れる赤を、見た。飛行機の中で、零れる赤を。
――あの、嫌な、赤だ。
歯が、噛み合わない。疲れてもいないのに、息が切れる。呼吸が、上手くできない。胃が重くなって、なんだか寒い。身体に、力が入らない。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。その言葉を狂ったように頭の中で反復し、口に出す。しかし噛み合わない今の和巳の口では、何かの呪文のようになっていた。いや、それはある意味では、和巳にとっての呪文だろう。現実を逃避するための、魔法の呪文だ。
だが現実は――和巳の前に広がる赤の線は、逃避を許さない。
「うそ、だ――」
岡が掴んで引きずっていたナニカを見て、和巳は大きく目を見開いた。
掴んでいたのは、色素が薄めの茶色がかった長い髪。そこから垂れ下がるように吊るされているのは、白い肌。目があって、鼻があって、口があって。それは、人の顔で。
仮に男子生徒が持っているものが人であったとして、和巳はここまで震えることなどなかっただろう。けれど、けれど。その人は。
見間違えるはずもない。――天城夕凪だ。
「なん、で――夕凪、が?」
和巳の開いた瞳孔が、ぼやけた夕凪を映す。
彼女の額や口からは血が糸のように垂れ、人形のように力なく床に伏している。その眼は閉じられて、血と埃に汚れた白い服が、暴力を振るわれたことを物語っていた。
和巳は、歩を進めた。震えのため重心が定まらず、酒に飲まれたような千鳥足になる。
一歩、また一歩と歩を進める放心状態の和巳を見て、岡は笑った。
置手紙に気付かなかったのかい。遅かったから暇つぶしに殴ったよ。兄さん助けてと泣き叫ぶ様は、見ていて気持ちがよかった。
誰かが、そのようなことを言っていた。
和巳の耳には、何も入らない。ただ夕凪の前まで歩いて行って、その手を取ろうとしたとき、何かに邪魔されたのはわかった。それから、何かに押された。ふらついた和巳の足はバランスを取り切れず、尻をつく。
「なんで、夕凪がこんな……」
震えながらも夕凪に手を伸ばそうとする和巳の腕を、岡は踏みつけた。汚らわしい虫を踏み潰すかのような仕草だ。周到にぐりぐりと足を捻じり込み、このまま千切れてしまえばいいという深い悪意を込め、嗜虐の視線が向けられた。
「教えてほしいかい? なら、教えてやってもいいよ」
踏みつけられた腕は、痛くなかった。
ただ、どうしようもなくもどかしかった。夕凪が近くにいるのに、その髪を撫でてやれない。夕凪が倒れているのに、助けてやれない。
必死に伸ばそうとする腕を、岡は床に押しつける。
「キミの妹がこんなになったのはね、全部、キミが悪いからなんだよ。……キミが! ぼくの琴葉に! 近づいたりするからなんだよッ!」
今度はねじ切るようにではなく、幾度も、幾度も、幾度も和巳の腕を踏みつけた。しっかりと足を振り上げて、断頭台の刃の如くに振り下ろす。
「だからキミの妹を殴ってやった! 痛いと泣いていたよ、やめてと訴えてきたよ! ははは、助けを乞う弱者は滑稽だよな、最高だよ! そして次は、お前がそうするんだ! ぼくの琴葉と仲良くしてごめんなさいって、もうしませんって、泣きながらなァ!」
興奮するにしたがって早口となり、どもって所々を噛みながら、笑いながら足を振り下ろす。幾度も振り下ろす。和巳の腕の皮膚が切れても。そこから、血が流れても。そこから、肉が覗いても。
ただ、振り下ろす。斧のように。罪人の首を落とす斬首台のように。
呆けた目で、和巳は彼の顔を見上げる。その顔には、覚えがあった。
「……きみ、岡だな。岡圭太。確か、自殺したって聞いたけど……」
岡圭太。殺害された小牧弦・水戸裕也を中心とした不良グループに虐められていた不登校の生徒。白河琴葉にストーカー行為を行い、それを知られた彼は自殺を行って死亡、あるいは精神病院へと入院していたはずだ。
――それが、どうしてここにいる?
「……なんだ、ボケたのか? そんなに妹が大切だったのか?」
「ああ、そうだ……」
呟くように言った和巳の言葉を聞き、岡は不快な笑みを見せた。
「そうかそうか、そうだったのか! てっきり妹よりも、もう一人の女をいたぶった方が面白いと思っていたんだけどね、そうか、やっぱりこっちで正解か! ぼくと琴葉の仲を邪魔したやつには相応の報いを受けさせないといけないからね、一番大切な人を目の前で殺してやろうと思っていたんだけど――やっぱりぼくは、運がいい」
今の岡の表情を敢えて表すのならば、愉悦の極みと言ったところか。それほどまでに彼の表情は歓喜に満ち、またそれと同じだけ、歪んでいた。しかし。
「――本当に、どうでもいいことだ」
続けた和巳の言葉に、その表情は凍り付いた。
ふざけるな、と岡が激昂する前に、和巳の視線が岡を射抜いた。
岡は小牧たちに囲まれ、嬲られたときのことを思いだす。彼らは岡をいたぶることを楽しんでいた。殺さず如何に虐げるかに重点を置いた、言うなれば殺意のない眼だった。
だが、和巳のそれは違った。岡は思わず、身をすくませる。
和巳の腕が床を叩いて、身体を起こした。威圧されているうちに、和巳の腕を解放してしまったらしい。
腕が痛むはずなのだ。絶望的状況のはずなのだ。
なのに、和巳は。
「お前が夕凪をこんなにしたんだろ。なら、理由はそれだけでいい」
和巳は、笑った。
緊張感もなにもない笑いだった。この場に相応しくない笑みだった。だがそれだけに、岡は得体のしれない眼前の少年に恐怖する。
小牧たちの心理は、腹が立つものの理解ができるものだった。実際、岡も弱者を虐げるのが好きだから、あのとき彼らが笑いながら岡を殴りつけたことも納得できる。
だが、目の前のコレは理解できない。
どうして笑った? 何がおかしい?
わからない。理解も納得もできない。
得体のしれないものを相手にすることに恐怖を感じた岡は、一歩下がった。逆に和巳は一歩を詰める。それを数回繰り返した後、和巳が距離を一気に詰めた。
「――殺す」
瞬間。和巳の腕が伸び、岡の顔面を強打した。
走る激痛。迫る恐怖。岡の口の端から、何かが垂れた。
血だった。おそらくは今の一撃で口内が切れただけなのだろうが、それでも、岡の恐怖心を煽るには十分なものだった。
「――……」
余りの恐怖に、言葉が出ない。
痛い、痛い、痛い。そればかりが岡の頭の中を支配する。
岡は和巳を見る。和巳はもう笑っていなかった。瞳は大きく見開かれ、噛みしめた歯がむき出している。挑発することも、嘲ることもなく。ただ純粋な殺意がのみがそこにある。
岡の脳裏に、河川敷で袋叩きにされたときのことが思い出された。
殴られ、蹴られ、もう死ぬかと思った。あのときに勝る恐怖はない。そしてあの恐怖を知っている自分は、何者にも負けることはない――そう思っていたのに。
こんな殺意は、知らない。こんな恐怖は、知らない。身体の震えが止まらない。
思うように動かない身体。しかし和巳の拳は容赦なく、再度、岡の顔面を襲った。
鈍い痛み、そして胸を掻き毟りたくなるほどの恐怖。
岡は掴んでいた夕凪の髪を離して後方へ逃げようとすると、その襟首を和巳の腕が掴んだ。ひい、と滑稽な悲鳴が漏れる。
しかし和巳は一切の言葉を投げかけることなく、無言の殺意で岡の顔面を殴った。
「い、痛い、待って! 止めてくれ、止め――ぶフッ」
痛い、やめて。お願い。ごめんなさい。岡は繰り返すが、和巳は止まらない。
否、今更謝った所で、和巳はもう止まれない。
許さないと決めた。生かせば今後も障害になると判断し、ここで確実に殺すと決めた。その決意は決して変わらない。
和巳に殴られ続け、岡は死ぬと思っただろう。死ぬまで殴り続けられて、死体となっても殴られるのだと思っただろう。だがその心情こそが、今ある岡圭太という男の源泉だと和巳は知らなかった。
その思いが、岡の力を呼び起こすということも。
じゃらり――。
岡の顔面へ振り下ろされようとしていた和巳の拳が止められた。
「なんだ?」
振り返るが、そこには誰の姿もない。代わりに、どこからか現れた錆びた鎖が和巳の腕を拘束していた。
見れば鎖は、どこに繋がっているとも知れぬ暗黒の空間から飛び出している。
「――く」
和巳が腕に力を込めても、絡み付いた鎖は解けない。
その様を見て、岡の心には余裕が生じたのだろう。はははと、小さく笑った。
「そうだ、そうだよ、ぼくには力があったんだ。何も怖がることはないじゃないか……」
ギロリと、岡が塞がっていない和巳の左腕を睨む。じゃらりと音を立て、左腕に鎖が巻き付いた。その鎖もやはり異空間に繋がっているのか、暗黒の空間から伸びている。
拘束された腕を振りほどこうと和巳はもがいたが、思うように動かなかった。
ここに来て焦りを見せ始めた和巳が滑稽に映ったか、岡はカエルのように舌を揺らして口元を釣り上げた。
じゃらら……無数に飛び出した鎖が和巳の肉体を逆十字に吊るし、両手両足、更には首に巻き付いた。ぐっと、首が閉まり、呻きとも取れぬ音が、和巳の口から洩れる。
立ち上がった岡が、和巳に殴られた箇所をさすった。
「全く、痛いなあ……けど、これでわかっただろ。いくら怒っても、キミじゃぼくに勝てないんだ。だからキミは、自分の妹が滅茶苦茶になる様をそこで見ていてくれよ」
そう言って岡は倒れている夕凪に歩み寄り、汚れた服に手を掛ける。
「やめろ。……やめろ!」
岡が何をしようとしているのか理解してしまった和巳は、大声を上げた。
和巳の絶叫こそが最高のスパイスだ、とでも言わんばかりの恍惚とした笑みで、岡は躊躇なく夕凪の服を裂いた。少女の肩が露出し、白い下着が僅かに覗く。
岡の力では一度に服を裂くことは出来なかったらしい。だからと言って安心はできない。岡は再び、夕凪の服に手をかけた。
和巳の絶望を揺らす舌で味わいながら、腕が振り降ろされるその刹那。
「なるほど、『束縛』。貴方の夜はそれですか」
岡の側部の壁が爆発し、そこから一人の男が姿を現した。




