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叛逆の赤い月  作者: 九尾
第2章
12/23

標的

「遅い」


 少女が和巳の額を蹴りつけたせいで、痛みに呻きながら仰向けに転がり込んだ。

 何をする、そう言って起き上がろうとした刹那、和巳の頭上を何かが通過する。

 ぴ、と遅れて音がして、和巳の額に赤い筋が引かれた。

 頭上を通過した何か、それが額を切ったのだ。突然の不可思議な現象に、和巳は言葉を失った。

 しかし目の前の少女――白比丘夜宵は、まるで来訪者の存在に気付いていたかのように、突如として現れた『敵』へと目を向ける。


「久方ぶりじゃない、猛禽女。相も変わらず、何処からでも飛んでくるのね」


「私の名は空矢麻耶(まや)だ。猛禽などと呼ぶのは止めてもらいたい」


 夜宵が挑発した相手は、数日前に和巳を助けてくれた女性――空矢だった。

 どうして空矢が此処にいるのか、いや、それ以前に。


「空矢さん、ぼくを狙ったのか……?」


 和巳の問いに、空矢は答えない。ただ、鋭い視線の一瞥をくれただけだ。彼女の視線は、すぐに夜宵へと向けられた。


「ところで貴方、今更現れて何の用? そこの和巳は既に、わたしとのっぴきならぬ関係にあるのよ。略奪愛は美しくないと思うのだけれど、どうかしら」


「彼はもう、『要らない』。それが上の指示だ」


 空矢がそう言って跳躍すると同時、和巳と夜宵を中心に異界が生じた。

 空には太陽の横に黒い月。――隔離世だ。

 どうやら、空矢が展開したものであるらしい。


 空矢は宙に跳ぶ。十、二十、三十メートル――更に上へ。見るからに人間離れした跳躍力を誇り、空へ空へと彼女は昇り、やがてその姿を見失う。


「おい白比丘、なんなんだよアレ!」


「あれが空矢の『天恵』。忌鬼に夜が与えられるように、形代にも異能が与えられるのよ」


 だからって、あんなのはアリなのか。大平という男も、目の前の夜宵も、ここまで人間離れした力を見せることはなかった。


「天城和巳。此処で始末する」


 既に上空に姿を消した空矢。その声だけが虚空に響く。


「待って、どうしてぼくが空矢さんに狙われなきゃいけないんだ! 空矢さんはぼくを助けてくれたんじゃなかったのか!」


 それに対する返答は、空から放たれる一矢によって返された。

 先ほどと同様、超高速で迫る何か。避ける術もなく呆けていた和巳の前に立ちはだかった夜宵が、どこから取り出したか、刃渡り二尺の小太刀を振るってそれを弾いた。

 夜宵の足元には、彼女が持っていた白いトートバックがある。どうやらあの小太刀は、その中に隠されていたものらしい。


「――ちぃ」


 小太刀に弾かれた何かは空中でくるくると回転し、近くにあった滑り台の上に着地する。空矢だ。超高速で迫った何かは、空中において高速移動を行った空矢だった。


「何かの冗談だろ……」


 空矢が高速移動による蹴りを放ったこともにわかには信じがたい事実であったが、それ以上に信じられなかったのは、空矢が和巳を殺そうとしたことだった。


「どうして? 空矢さん、助けてくれたじゃないか。草壁さんと一緒に、ぼくの怪我の治療をしてくれたじゃないか……」


 和巳の訴えを、「状況が変わったのだ」と空矢は一蹴する。


「状況って、そんなことで……」


 状況が変わるだけで、彼女は人を殺すのか。

 状況が変わるだけで、一度は助けた命を殺すのか。

 なんだよ、それは。とんだ身勝手じゃないか――。

 心中で複雑な葛藤を抱える和巳に、夜宵は「それだけで十分な理由なの」と告げた。


「奴らにとって、忌鬼は人ではない。赦しを乞うたところで意味はない。だから、殺すしかない。もし生き残りたいのなら、戦う覚悟を決めなさい」


 戦う覚悟。そんなことをいきなり言われても、決まるわけがない。

 彼女の言う戦いの覚悟とは、殺し合いをする覚悟だ。――人を殺す覚悟だ。


 空矢が飛んだ。和巳を守るように夜宵が動き、手に持った小太刀が再び空矢の蹴りを弾く。

 刀を受けても切断されない空矢の肉体は大概人間離れをしているが、遥か空中より時速何百キロもの速度で放たれる空矢の蹴りを小太刀一つで見事に逸らす夜宵もまた、和巳には人ならざるものであるのだと感じた。


「ところで猛禽女、近頃姿を見せないあの仮面男はどうしたの。もしかして、二十年遅れのうつ病でもこじらせて、引きこもりにでも転職したのかしら」


「返答に応じる義理はない」


「ごもっとも」


 再び夜宵は火花を散らす小太刀で空矢の攻撃を凌いだ。

 あまりに常軌を逸した戦いに、和巳はどうすることもできない。そんな和巳に、夜宵は静かに目を向けた。


「覚悟を決めろとは言ったけれど、少し突然になってしまったわね。この場はわたしが凌ぐから、和巳は家に帰りなさい」


「きみは……」


「その代わり、家を出てはダメよ。夕凪という子の件は、おそらく近いうちに片が付く。だから貴方は」


「よそ見とは。良い身分だな、黒蛇!」


「だから貴方は、大人しくしていなさい」


 背後から撃ち込まれた空矢の蹴りを、夜宵は小太刀で背中から受け止めた。

 驚愕の表情を浮かべた空矢だったが、即座に小太刀を――否、小太刀の手前にある空気を踏みしめ、再び空へ跳躍して姿を消した。

 和巳は立ち上がることのないまま、へたれ込んでいる。

 空を縦横無尽に飛び回る敵を前に、夜宵は言った。


「早く行きなさい、和巳。死ぬわよ」


「けど、きみが一人で勝てる相手なのか……」


 もしここで夜宵が倒されることがあれば、空矢は今度は和巳を狙うだろう。和巳が一人で、果たして空矢を相手にどこまでやれるのか。

 恩を受けたと思った相手に突きつけられた殺意、そして容赦のない敵意。それらを前に困惑し死の恐怖に怯える和巳に、夜宵は「何度も言わせないで」と無情に告げる。


「貴方が邪魔だと言っているの」


 仄かに敵意を込めた夜宵の言葉に、和巳は背筋を震わせた。

 この場で自分にできることは何もない。それをはっきりと自覚して、和巳はこの場を去るために背を見せて走り出した。


「行かせるものか」


 当然、空矢が狙うのは無防備な和巳の背中だ。

 しかし立ちはだかる夜宵が空矢を拒む。幾度も空矢は和巳を狙った攻撃を放ったが、その悉くを夜宵に阻止された。


 これまでの戦闘から、夜宵は空矢の狙いが自分ではなく和巳であることは十分に理解していた。しかし己に向けられる攻撃はともかく、他人を守る行動は夜宵が苦手とすることの一つだった。

 だから夜宵にとって、和巳ほど邪魔な存在はいなかった。

 だがどうやら、和巳は無事この隔離世の中を抜けたようだ。これで邪魔ものはいない、存分に己の本領を発揮することができる。


 だらりと両手を下げた夜宵は、空を飛びまわる標的を視た。


「今すぐ撤退するなら見逃してあげる。けれど、邪魔をするなら斬り伏せる」


 夜宵の言葉に返されたのは、やはり空矢の蹴りだった。

 頬の真横を通過した空矢の蹴りは、小さな鎌鼬を巻き起こして夜宵の頬を切る。


「それが貴方の意志なのね。――残念だわ」


 静かに開いた夜宵の瞳。その瞳孔は、縦に長い『猫目』になっている。

 しかしその瞳は猫でなく――どこか蛇を思わせた。


       ◇ ◇ ◇


 和巳が公園を抜けようとしたとき、そこには得体のしれないゼリー状の見えない壁があった。どうやらこの壁が、このカクリヨと現世を繋ぐ境界のようなものであるらしい。

 忌鬼としての本能がそれを教えるのか、和巳には感覚的にそれがわかった。


 ゼリー状の壁に右手を差し込む。少しずつ腕を差し込み、最後には身体を。そうしてゼリー状の空間を抜けた先には、和巳の先居た場所がある。

 背後を振り向くと、誰一人いない公園と、空に輝く太陽があった。

 太陽の横には黒い月がない。隔離世を抜けたのだと自覚する。

 和巳は公園から逃げ出すように、家へ走った。


       ◇ ◇ ◇


 天城家はやはり惨劇が起きた後のままだ。玄関は荒らされ、居間にはところどころに少量の血が散っており、昨日までの日常が崩れてしまったことが嫌でもわかる。

 これも、自分のせいなのだろうか。

 自分が忌鬼となったことから目を背け、日常に縋ろうとしたことへの代償なのだろうか。

 和巳の胸にこみ上げるのは悲しみか。後悔か。それとも、自責の念か。


 ――わからない。


 ただ、無償に泣きたくなった。もう取り戻せないかもしれない日常に、この非日常を知らぬ昨日に戻りたいと思った。けれど、その願いは叶わない。


「夕凪……」


 近頃夕凪が読んでいた本が、倒れたダイニングテーブルと共に下に落ちていた。それを抱きしめて、和巳はこの場にいない妹の名を呼んだときだった。

 ごそり、と何かが動く音がした。

 和巳は咄嗟に本を下に置き、周囲を警戒する。

 この家を襲った犯人がまだ残っているのだろうか。出てこない敵に注意を払い、「誰だ」と和巳は虚空に問う。

 ごそごそ、とまた音がした。場所は寝室の方向だと思われる。

 思い返してみれば、和巳は玄関の惨状と居間の様子を見ただけで外へ飛び出した。居間とは反対側の襖にある寝室や、自室のある二階を調べようともしなかった。


「誰か、いるのか」


 ゆっくりと、人が潜めそうな家の角という角を警戒しながら寝室へ歩を進めた和巳は再度問う。すると、今度は女性のうめき声のようなものが聞えた。


「……和巳くん?」


 うめき声が問う。聞き覚えのある声だった。


「春見さん?」


 和巳が寝室へ走ると、そこには襖の上に倒れ込み、僅かな血を流す若菜の姿があった。

 すぐに和巳は若菜に駆け寄り、その身を起こす。

 若菜は頭から流血をしているが、それほどひどい怪我であるようにも思えない。ただ、腕や足には鞭で打たれたような痛々しい跡がいくつか付けられている。居間にあった奇妙な跡と似ているところを見ると、同じ凶器であると推測できた。


「春見さん、大丈夫ですか」


 軽く身体を揺すって声を掛けると、若菜はゆっくりと目を開いた。


「ああ、やっぱり和巳くんだ……」


 安堵の声を出して、若菜は和巳に強く抱き付いた。

 唐突の抱擁に驚いた和巳だったが、家の惨状を見る限り、よほど怖い思いをしたのだと思う。若菜の身体が震えている。


「もう大丈夫ですから」


 できるだけ優しい声で、若菜の背中をさすった。

 安心したように息をついた若菜の次の言葉は、謝罪の言葉だった。


「ごめん。夕ちゃんが、大変なの」


 少しずつ意識がはっきりとしてきたのか、春見は自分の力で身体を起こした。襖をやぶって寝室へ突き込んだ際に頭を打ったのだろうか、痛みに顔を歪めていたが、次第に半開きだった目が開く。


「ああ、ごめん。ちょっと寝ぼけてたかも。……ようやくハッキリしてきた」


 そう言って若菜は自らの足で立ちあがった。


「立って大丈夫なんですか?」


「うん、大丈夫。これでも看護の資格持ってるし、自分の状態は自分が一番わかってる。あと今のは忘れて」


 今のとはなんのことだろう。

 首を傾げた和巳に、「さっき抱き付いたことね」と若菜は冷静に言った。


「寝ぼけてたからって年下の男の子に甘えるとか、わたしのイメージじゃないから」


「こんなときにそんなこと言える春見さんの精神力に感服ですよ……」


 そんな軽口から、二人の状況整理が始まった。

 どうやら和巳が学校へ向かってしばらくした頃、何者かの来訪があったらしい。その折に玄関へ出たのが若菜だったのだが、何者かの姿を視認する前に春見は何かに吹き飛ばされた。そして襖と諸共に寝室で倒れていたのだという。

 しばらく意識だけはあったが朦朧としており、状況はよく把握できなかった。だが夕凪の悲鳴だけは聞き取れたらしく、夕凪に何かが起きたのだと理解して意識を失った。

 そして次に目を覚ましたら和巳がいた、と言うことらしい。


「言うほど大した情報ではないですね」


「頭痛堪えて状況説明した怪我人にそういうこと言うの良くない。もっと労わってよ」


 そう言って若菜は不機嫌そうに口を尖らせる。

 現在和巳と若菜は居間のソファーで話をしている。若菜は平気と言い張っていたが、頭を強く打ったのだ、心配にもなる。

 立ったまま会話をするのは辛いだろうと思い、和巳が若菜を運んだ。運んだ折に、


「和巳くんは優しいなあ。うちの嫁に欲しいよ」


「逆でしょう、普通……」


「ん、わたしが婿入りすればいい?」


「いやそこではなく」


 などという会話があったので、和巳は若菜を心配することを止めたのだ。その結果があの辛辣な一言である。


「しかし、犯人の姿もわからないっていうのはきついですよね……」


「ごめん。わたしも油断してたんだ」


 若菜が申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません、責めたつもりはなかったんです。玄関開けたらいきなりふっ飛ばされるとか、流石に翔也とかでも普通に何もできない思いますよ」


「翔也……ああ、瑠々の弟くんね。てかさ、わたしが言うのもなんだけどさ、和巳くんもだいぶ余裕出てきたよね。夕ちゃん攫われたっていうのに」


「そう見えますか」


「表面上はね」


 お互いに理解していた。表面上は普段通りにしてはいるものの、和巳も若菜も、姿の知れない来訪者に対して怒りがあることを。

 現に和巳は拳を強く握ったままであるし、若菜はしきりに貧乏ゆすりを繰り返している。


「でも変だね。夕ちゃんの話を聞く限り、和巳くんは行動派だと思ったんだけど」


 聞いた話というのは、両親を失った直後に起きた夕凪の虐め問題のことだろうか。

 あのときの和巳は、広い人脈を駆使して加害者生徒の素状や家庭事情、終いには好きな人や気になっている人まで徹底的に調べ上げ、それらを翳した上で「次に夕凪に危害を加えれば、社会的に抹殺する」と脅しをかけたのだ。

 決して褒められた行動ではなかったが、周囲の反応が「あの人怖い」ではなく「お前どんだけシスコンだよ」だったのは、おそらく翔也の影ながらの働きが大きいのだろう。


 確かに若菜の言う通り、和巳は考えるよりもまず行動するタイプだ。しかし、つい先ほど考えずに行動した結果がこれだった。行動して駄目なら、考えるしかない。

 何かヒントはないか、と和巳がうんうん唸っていると、若菜はあのさと口を開く。


「さっきから思ってたんだけど、警察には連絡しないの? なんか和巳くん、自分たちでなんとかしようと思ってるみたいだけど」


 若菜の言葉はもっともだ。しかし和巳はつい先ほど、夜宵に警察には連絡をしない方がいいと言われたばかりだ。彼女が言うならば、おそらく連絡しない方がいい。どのみち、忌鬼関連ならば警察にはどうしようもない。


「最近の猟奇殺人と関係あるかもしれないし、警察に任せるのが得策じゃない?」


「いえ、だからです。警察の動きが犯人を刺激してしまうかも」


「うーん、そういうもんなのかな」


 若菜はいまいち釈然としない様子だ。逆の立場なら、和巳だってそう思う。しかし被害者は小牧、水戸、翠に続いて夕凪なのだ。和巳がより警察に疑われることが目に見える。それだけは避けたかった。もし和巳が重要参考人だの何だのと警察に拘束されれば、夜宵との協力が反故にされる可能性があるからだ。

 せめて話題を逸らそうと、和巳はそういえばとポケットに手を入れた。


「春見さんはこんな手紙に見覚えはありませんか」


 それは『次はない』と書かれたあの奇妙な手紙だ。

 握り潰してポケットに入れたまま忘れていた。

 若菜はその手紙を見て、あからさまに顔をしかめた。


「それ、二日前くらいにも届いてた。あんまし気持ち悪くて、捨てそうになったやつ」


「なんて書いてありました?」


「確か、『言葉に近付くな』……だったかな。ちょっと待って、証拠物件になるかと思って手紙自体は家に置いて

あるんだけど、一応写メったからさ。あっ、スマホ画面割れてないじゃーん、らっきぃ。まさに不幸中のなんとやらだねぃ」


 つい先ほど猟奇殺人の犯人かもしれない人物に襲われたというのに、これほど口が回る若菜の精神力はやはり尋常ではないと和巳は思う。

 若菜は「これだ」と和巳に画面を見せた。

 そこには確かに、新聞や雑誌の切り抜きを使った雑な文字列がある。


『ケイ告 こレ以上 コト葉ニ近づくナ』


「ね、意味わかんなくない?」


「……確かに、意味不明です」


 まだ『次はない』とか、『彼女に近づくな』の方が分かりやすい。

 コト葉……言葉……コトバ……。

 和巳は若菜の見せる画面を見つめ、とあることに気が付いた。

 もしこの『コト葉』が、『コトバ』ではなく別のものを意味しているのだとしたら――。

 思考する。思考する。思考に試行を繰り返す。

 そして――思い当たる節が、あった。

 総てが繋がった。『三人目』の犠牲者である小牧弦、水戸裕也、笹田翠。この全員に恨みを持つ人物は、確かに存在する。


「え、なに、何かわかった?」


 首を傾げる若菜に、和巳は静かに告げた。


「春見さんは一度家に帰ってもらってもいいですか」


「いいけど、和巳くんはどうするの?」


「夕凪を探します。ただ、やっぱり警察へはまだ連絡しないでください」


「え、なんで。もしかしたら最近の猟奇事件と関係があるかもしれないよ」


「だからです。おそらく、犯人の目的は夕凪じゃない。むしろ、夕凪はおまけだ」


「……どゆこと? 夕ちゃんが関係ないんなら、犯人の目的って、何?」


 犯人の目的は恐らく夕凪ではなく。

『三人目』にとって邪魔な存在は――。


「――おそらく、ぼくだ」


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