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叛逆の赤い月  作者: 九尾
序章
1/23

枯れ木ひとつ


「なによ、枯れてるじゃない……」


 黒い服装の少女は目の前にある古びた椿の木を目にして、乾いた声を零した。

 月は十月。白秋もいよいよ佳境に入り、多くの木々が木の葉を散らす時期である。

 椿、という樹木がある。これは冬から春にかけて花を咲かせるものだ。早咲きのものは冬の最中に咲くこともあるという。

 椿は古来より、縁起の悪いものであるとされていた。椿の花が落ちる様が人の首が落ちる様に酷似しており、武士に嫌われたためである。

 少女の目の前にある九メートルほどに育った椿は花を落とし、ひっそりと枯れていた。


「――嘘つき」


 落胆とも、絶望とも異なる少女の小さな呟きは、静かに風に吹かれて、枯れてしまった椿はもちろん、他の誰にも聞かれることはなく空気に溶けた。

 目の前にあるを睨み付けて、少女は空を見た。

 空は茜色。太陽が沈みかけた午後の曇り空だ。


「ねえ。弍識(にしき)。貴方は、そこに居るの? それとも」


 少女の問いに答える者は、どこにもいない。

 少女は椿に背を向け、歩き出す。そんな少女の後ろ姿を、枯れた椿だけが見つめている。

 椿の周囲にはこれといって木々はない。雑草のみが乱雑に散らばった地面と、椿の正面に立てられた小さな祠だけが、椿の特異性を際立てていた。

 その祠には名前が一つ。『白比丘弍識』――と。


 少女は何かを堪えるように眉間にしわを寄せ、強く己の胸を掴んだ。唇を噛みしめた歯が不意に緩み、唇が勝手に言葉を紡ぐ。


「こんなにも。こんなにも苦しいのなら。辛いのなら――いっそ」


 いっそ、死んでしまえば楽になれるのかしら。

 その思考を振り払うように、少女はかぶりを振ったときだった。


「だったらいっそ、僕が殺してやろうか」


 男の声がした。

 少女が背後を振り向くと、そこには一人の男が立っていた。

 齢は二〇前後、中肉中背で、赤のチェックシャツにジーパンという大学生にありふれた服装の男だ。しかしその瞳には、どこか危うい赤みが差している。


「ようやく見つけたよ、黒蛇。まさかこんなところにいたとはね」


 男は静かに黒蛇と呼んだ少女へ歩み寄る。

 少女の隣に並んだ男は、彼女が眺めた名前を見下ろした。


「敵から追われ、味方にも見捨てられた愚かで哀れな女、白比丘弍識(しらびくにしき)。見ろ、悪の末路は総じてこんなものだよ。こんな生に、意味など――」


「弍識を語るな。何も知らない癖に」


 告げた少女は眼を細め、男に向けて手を振った。


 男は慌てて少女の手から逃れるように後退し、額から冷や汗を流す。

 ごくり、と唾を呑んだ。もう一度男は後退し、距離を取った。だが一向に緊張が解けた様子はない。


「……そう慌てないでほしいね。まだ黒い月も、赤い月だって出ていない」


 少女の手にはどこから持ち出したか、鱗のような形状をした黒刃のナイフが握られている。

 男が後退しなければ刃が男の心臓を突いていた。殺すつもりだったのだ。


 長い髪を揺らし、少女の黒い瞳が男を見た。

 吸い込まれそうなその瞳が、一度見開かれたあとに細められた。


「教えて頂戴。今度は何人で来たの?」


「それを聞いてどうする」


「簡単なことよ」


 赤い夕陽が、巻層雲に隠された。

 橙に照らされた街は次第に闇へ染まり、その場で少女の白い肌だけが仄かに浮かび上がっている。

 まるで――亡霊。

 夜を歩く亡霊のようだ。

 黒い嫉妬に身を焦がし、漆黒の瞳を持つ亡霊のようだ。

 白い肌から浮かび上がる黒い双眸が、じっと男を見つめている。


「――皆、殺すだけだわ」


 雲が晴れた。そこにはもう、赤い夕陽はない。

 その代わり――夜が訪れた。現れた赤い月が、彼女の背を照らしている。


 少女の身体が揺れた。亡霊が消えるかのようなその動きに、男の身体は対応できず、ただ立っているだけだった。

 気づけば少女の身体が正面にあり、そして気づけば少女の手に持つナイフが男の身体に吸い込まれようとしている。


「――ッ」


 悲鳴にもならぬ吐息を絞り出した男の胸に、ナイフが迫る瞬間だった。少女は何かを避けるように後方へ跳躍した。背後にある祠を軽々と飛び越え、民家の屋根へ猫のような着地をする。

 少女の着地と同時、一人の女が男の前に着地した。

 先端の尖った長い髪を一つに結った、空色の服装をした女だ。どこか矢を連想させる、鋭利な凶器のような美を備えている。


「……ようやく会えたな、黒蛇(レイヴィーア)


 矢のような女は、やはり矢のような鋭い視線を少女へ向け、強く歯を噛みしめた。


「貴方はわたしを知っているのね。もしかして、顔見知りなのかしら……いえ、知らない顔だわ」


「だろうな。お前は悪魔だ。他人の不幸を喜ぶ外道だ。今更殺した人の顔も――殺した人の数ですら、覚えてなどいまい」


「心外ね。この手で殺した人間の顔と数くらいは覚えているわ」


「だがお前は、お前の呪いに巻き込まれて命を落とした人の数を認識していない。同じことだ」


「……なるほど、そういうこと。貴方の大切な誰かも、わたしの呪いで死んだのね」


 頬に人差し指を当て、少し考える仕草をとった少女は、やがて納得したように頷いた。

 そして少女は女の正当な怒りを鼻で笑い、やがて悲しそうに嘆息した。


「可哀想に。貴方は何も知らない。その復讐心が――また誰かの大切な人を殺すのに」


「ふざけるな! 殺すのはいつも、お前だろうが!」


 叫んだ瞬間、女は跳躍した。

 その跳躍は数十メートルを優に超える。

「あら」と口に手を当てた少女が声を出した直後、女は地球の物理法則を無視して方向を転換した。

 向かう先は、眼前の少女だ。

 女は弓より解き放たれた矢の如き速度で少女に向けて蹴りを放った。


 だが少女はなんなくその蹴りを躱した。女は驚きに声を上げるが、即座に攻撃方法を切り替える。

 単調な一直線の攻撃ではなく、空中にて縦横無尽に舞い、翻弄したのちにスキを突く戦法だ。

 しかし死角からの一撃を、少女は再び跳躍して回避した。

 ざざ、と履いたブーツが音を立て、少女は男の前に着地する。

 

「――」


 女は歯を噛みしめ、再び空に姿を消した。

 そのことに一切焦ることなく、少女は背後の敵に見向きもしないまま不敵な笑みを浮かべる。

 

「貴方、空を自由に駆けるのね。仮にその力に名前を付けるなら、有翼(タラリア)といったところかしら」


「それが、何だという!」


       ◇ ◇ ◇


 二度、三度……的確に死角より打ち込まれているはずの女の蹴りは、しかしその悉くを躱されていた。

 翻弄しているはずの女が、華麗に屋根から屋根へ飛び回る少女に翻弄されているのだ。


 その様を、男はただ見守るだけだった。

 女一人では勝ち目はない。そう悟ってはいたが、しかし男には空を舞う力も、少女のような身軽さもないのだ。成す術がなかった。

 もし己にあの女と同じ力が、有翼(タラリア)があったなら、あるいは……。

 男は強く拳を握りしめたときだった。


「何をしているのです、石垣くん」


 背後から聞こえた厳かな声に、男は大きく身体を跳ねさせた。

 

「……神父様」


 男の視線の先には、なるほど背の高い男の姿があった。

 黒い修道服を身にまとい、四角く厳かな顔の神父だ。細い目が鋭く大平と呼んだ男を見つめ、仮面のような四角い微笑を浮かべた。


「相手は黒蛇。見つけたならば即座に私を呼ぶように言ったはずですが」


「それは――その」


「言い訳は不要。よく御覧なさい。アレの相手は、私を除いては勤まりますまい」


 神父が指を向けたその先では、漆黒の少女と空色の女が死闘を繰り広げている。

 ――否、死闘などと呼べたものではない。もはやあれはじゃれ合いだ。極めて本気で少女を殺しにかかっている女を、少女が軽くあしらっている。


「黒蛇討伐。その勲章は、決して貴方一人に与えられるものではない。我々が力を合わせて得るべきものであることを、お忘れなきよう」


 石垣と呼んだ男に耳元で告げた神父は、その大きな腕を広げた。


 思わず身体を縮めた石垣だったが、驚きは神父からではなく、自身の背後から現れた。広げられた神父の腕に何かが飛び込んだのだ。

 神父の腕に抱きとめられたのは、少女と戦闘を繰り広げていたはずの女だった。


「大丈夫ですか」


 腕の内から飛び出そうとした女を抑え、神父は目の前に立つ少女を見る。

 少女の背に浮かぶ赤い月が、揺れている。


「貴方が黒蛇ですね。聞いていた通りの姿だ。おぞましい。まるで、呪いそのものだ」


 静かに腕に抱いた女を下ろし、神父は一歩前に出た。

 女と、そして石垣を守るかのような姿勢だ。


「よく言われるわ、呪いの黒蛇とね。わたしに関わったものは――皆、死ぬから」


 言うが早いか、少女は跳躍し、猫のようなしなやかさで路上へ着地すると同時、前かがみの姿勢を取る。それによって着地の衝撃を加速の力へと変換し、一気に前進した。

 ――敵が複数いるならば、必ず司令塔がいるはずだ。

 当初からこれまで、ただ一つの目的の下に動いて来た。此処にようやくその目的を果たさんと、足を止めぬままに手に持ったナイフを逆刃に構えた。

 周囲に障害はない。故に、加減など必要ない。ただ一刀の下、眼前の司令塔――神父を殺すのみ。


 瞬く間に、少女は神父の眼前まで到達した。


「――」


 少女の足が、呼吸が、止まる。

 無音の静寂。刹那の停止。一瞬の溜めの後、これまでの疾走によって生み出した力の総てを跳躍に乗せ、流れに身を任せたままナイフによる一閃を叩き込んだ。その刃の煌めきは、ありとあらゆる抵抗を失くした、至高の一閃。


 金属音が、静寂を裂いた。


 やはり猫のように音もなく着地した少女は、予想外の出来事であったらしい。即座に振り向いた。驚愕に目を見開いている。手にあるナイフは、ビリビリと音叉のように振動し音を立てていた。

 神父の脇腹から肩にかけて在るはずだった斬り傷は、一切ない。不敵な微笑も変わることなく、仮面のように神父の顔に張り付いている。


「もしかして貴方が、近頃噂の“彼”かしら」


 少女の問いに、神父は「はて」と首を傾げる。

 やはり表情は微笑のままだ。


「――《恋人殺しの鉄仮面》」


 恋人殺しの鉄仮面。それは、かつて恋人であった女性を成されるべき正義のために自らの手で殺した神父に対して付けられた、ある種の敬称だ。

 正義を執行するためには、恋人すらも切り捨てて、尚も表情を崩さぬ鋼鉄の心が時として必要である――彼の恋人殺しはそう評価されていた。一部からは彼を模範にするようにという声も多い。

 事実、彼を慕うものは多くいた。成すべき物事のためには、時に無情になることも必要なのは自明の理である。

 しかし少女の一言は彼を慕って放たれたものではない。その漆黒の瞳からは、侮蔑の色が見て取れた。


「ねえ、教えてよ。恋人を殺したときの、貴方の気持ち」


()み嫌われし者に言うべきことは、なにもありません」


「そう。貴方にとっては同じことなのね。わたしを殺すことも、恋人を殺すことも。正義の前では必要犠牲――きっと表情を変えないまま、貴方はそう言うのだわ」


 神父は何も言わなかった。

 しかし、微笑を形作った表情(かめん)の瞳から、確かな怒りが僅かに覗いた。


       ◇ ◇ ◇


 赤い月の夜。

 誰も知らぬ世界の片隅で、静かに殺し合いの幕が開く。

 その戦いの行く末を、ひとつの枯れ木だけが見つめていた。




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