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順調に進んでいた行程だったが、晴天に恵まれていた道のりがここにきて雨になった。
歩いている途中で、山の向こうから雨雲が近づいてきていることに気づき、急いで木の陰に隠れた途端に雨粒が落ちてきた。
それほど強くはないが、すぐには止まなさそうだ。
「ジェラルド様。今の内にお昼にしますか?」
「そうだな。その間に雨も止むだろう」
宿を発つときに用意しているパンを、カバンから取り出す。
ジェラルドはここ数日食べている、薄い肉と野菜が挟まったパンを見てふと呟いた。
「この土地の特徴だろうか。どの宿屋も味は似ているんだな」
「いえ、私が作ったものです」
「君が?」
ジェラルドは少し驚いた表情でエセルを見た。
今まで宿屋の調理人が作って包んだものだと思っていたらしい。
「宿の調理場で材料を分けてもらいました」
「そうだったのか。気づかずに食べていてすまなかった」
「いいえ。実家が王都で食堂を営んでいるので、質素なものしかできず申し訳ありません」
「そんなことはない。美味しい」
ジェラルドの言葉がお世辞だとはエセルも分っていた。
珍しいものも手の込んだ具材も入っているわけではなく、宿で分けてもらったパンに挟んだだけの軽食だ。
子供のころから家業を手伝ってはいたが、下町の食堂は手の込んだ料理よりも家庭料理寄りだ。
城だったらもっと美味しいものも豪華なものも食べられる。
けれど、美味しいと言ってもらえることは嬉しかった。
昼食を取っている間に、予想通り雨は止んで日差しが戻ってきた。
食事を終えると再び歩きを再開した。
「――ジェラルド様。終わりました」
エセルは部屋の扉を開けると、廊下の壁にもたれていたジェラルドに声をかけた。
「早かったな。急がなくても良いぞ」
「いえ、大丈夫です」
気遣うジェラルドに首を横に振りながら、エセルは使い終わった盥を片づけた。
宿屋には風呂場が十分に備えられていないところも多いので、部屋で体を拭いたりするときもある。
その間、ジェラルドは廊下に出て終わるのを待っていた。
女官が部屋で清拭して、王族が廊下で待つなど妙な話だ。
片付けを終えるとエセルは自分のベッドに入った。
ジェラルドは隣のベッドに座って、地図を広げて見ている。
真剣な表情で地図を確認すると、顔を上げてエセルの方を向いた。
「あと二日ほどで王都へ着けるだろう」
「本当ですか」
ジェラルドの言葉に、エセルは喜んだ。
ここまで長い道のりだったが、やっと終わりが見えた気がした。
「今日はもう休もう。あともう少し、歩かねばならないからな」
「はい。お休みなさいませ」
「ああ、お休み」
ベッドに入り、部屋の灯りを消す。
最初は同じ部屋に泊まることに恐れ多くて緊張したエセルだったが、日中動いて疲れていることもあってかすぐに慣れた。
けれど今日は、もうすぐ国へ戻れるということに気分が高揚しているのか、すぐには寝付けなかった。
昼間に実家のことを話したこともあってか、家族のことを思い出す。
女官は住み込みなので、家族と会えるのは年に二、三回くらいしかない。
最後に会ったのもずいぶん前になる。
落ち着かなくて、ベッドの中で寝返りを打った。
その時、ジェラルドの声がかけられた。
「眠れないのか?」
「あ……っ、申し訳ありません。起こしてしまいましたか……?」
「いや、まだ眠っていなかったから大丈夫だ」
部屋の中は暗いため、エセルからジェラルドの表情までは見えなかったが、声音からは眠いのを我慢している様子ではなかった。
「もう少しで国に戻れると思ったら、眠れなくて……。戻ったら、家族に会いたいです」
「そうだな。まずは一番に君を家族のところへ送り届けよう」
「けれど、早くお城に戻らないといけませんから……」
「きっと君の両親も心配しているはずだ」
二人はベッドに横たわりながら言葉を交わした。
あまりお喋りではないエセルが、家族に会いたいと自分の気持ちを口にすることは珍しかった。
もう少しで戻れるということもあって、気が緩んでいるのだろうか。
ジェラルドも話に耳を傾けた。
「今も食堂を営んでいるのか?」
「はい。下町で両親と兄が切り盛りしています」
両親と五つ上の兄で営んでいる、小さな食堂だ。
城の女官になる前はエセルも手伝っていた。
「国に戻ったら、ぜひ食べてみたい」
「普通の食堂ですけれど、それでもよろしければぜひどうぞ」
ジェラルドの申し出に、エセルは笑って頷いた。
けれど、王弟であるジェラルドが下町の食堂などに来るのだろうか。
騎士団の人達は街の酒場などにもよく出向ていると噂に聞くけれど。
国に戻れば、エセルはまた女官の仕事に戻る。
そうなれば、ジェラルドと顔を合わせることもなくなる。
こんな状況でもなければ、話すこともできな相手なのだ。
そんな当たり前のことが、今さら頭をよぎった。
順調にいけばあと三日で隣国の王都へ着く。
そこから船に乗れば、国へ戻れる。
この道のりも、もうすぐ終わりだ。