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凪のしるべ  作者: 細井雪
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 季節は巡り、冬が終わり春を過ぎて、再び夏を迎えた。

 けれど今もなお、自国は内乱が治まっておらず、国交は閉ざされたままだ。

 隣国の王太子は情報が入るたびにエセルに報せてくれたが、そのたびに申し訳なさそうな顔をした。

 そうして瞬く間に夏は過ぎていき、エセルが一人で隣国で暮らしてから一年がたった。







 歩いていたエセルに、明るい声がかかる。


「――エセル! 新鮮な野菜が入ったよ」


 振り返った先には、野菜を売っている店の女主人がいた。

 豊かな体を揺らして手を振り、大らかな笑顔を浮かべている。


「これから納品かい?」

「はい。帰りに寄ります」

「ああ、待ってるよ」


 エセルは籠を抱えながらお辞儀をして、少し先の服屋に向かって歩いた。

 籠の中には、エセルが刺繍をした服が入っている。

 刺繍は城での女官時代に身に着けた。

 黙々と行う作業は得意だったので、仲間内では一番腕が良いと褒められた。

 その腕をいかして、服に刺繍を施す仕事をしている。

 刺繍は時間がかかるので多くはこなせないが、慎ましく生活をする分は稼げた。

 服を納めて代金を受け取り、声をかけられた店へ立ち寄る。


「こんにちは」

「いらっしゃい、エセル」


 女主人は中から笑顔で出迎えてくれた。

 ここではエセルは素性を明かしていないが、街の人達は突然一人で住み始めたエセルにも親切にしてくれた。

 女性の一人暮らしを気にかけ、よく様子を見に来てくれる。

 知り合いもいない街で、そんな気遣いにエセルはとても救われた。


 夕食の分として、店頭に並べられた新鮮な野菜をいくつか購入する。

 お金を渡すと、女主人は買った野菜と一緒に果物を紛れ込ませた。


「こっちの果物はおまけだよ。甘いからね、帰ってから食べな」


 彼女は小さな声でそう言って片目を瞑った。

 よくおまけだと言って、色々なものを分けてくれる。

 エセルは自分の母と同じ年くらいの彼女を、とても親近感を持ち慕っていた。


「いつもありがとうございます」

「良いってことよ。気をつけて帰りな」


 エセルは女主人の気遣いにお礼を言って、家路へと着いた。







 一年前に比べれば、大分ここでの暮らしにも慣れた。

 町の人々はとても親切で、歩いているとみんな声をかけてくれる。

 挨拶をしながら、エセルは丘の上にある自宅へと帰った。

 家へ着くと、具材は多くはないけれど暖かいスープを作る。

 今日はそれに、おまけで貰った果物を食後に食べようと考えて少し嬉しくなる。


 それから、いつもの日課で、庭へと出た。

 丘の上にある家の庭からは、あの川が見える。

 エセルは毎日朝と夕方に、川を見つめ続けた。

 以前は川には大小の様々な船が行き交っていた。

 けれど、あの日から船の姿はない。

 それでもエセルは毎日川を見続けた。

 あの向こうにジェラルドがいるのだと思うと、そうせずにいられなかった。


「どうか、一目だけでも……」


 川を見つめながら、そんな言葉が零れ落ちる。

 きっと、国が落ち着けば、いつかまた川に船が浮かぶ日が訪れるだろう。

 船が出れば国へも戻れるかもしれない。

 そうすれば、ジェラルドに会いに行きたかった。

 ほんの一瞬でも良いので会いたい。

 そんな思いが毎日募った。


 けれど、すぐに落ち着いてくれると思っていた国の内乱は、厳しい冬を超えて春を迎えても治まることはなかった。

 せめて夏には良い報せがあるだろうと願っても、国のことはほとんど耳に入らなかった。

 そうしている内に、初めてこの国へ来た頃と同じ晩夏になった。

 まさか一年も国を離れることになるなんて、一年前は思ってもいなかった。

 すぐに戻れると信じていたのだ。


 少しずつ冷たくなってきた風が吹き抜けて、エセルは俯いた。

 涙が滲んでくる。 


「――エセル」


 その時、聞こえた声音にエセルは息が止まりそうになった。

 涙が浮かんだ目を振り返らせる。

 見開いた目に、忘れたことのない姿が映った。


「ジェラルド様……!」


 そこには、少し痩せた様子だったが、毎日思い浮かべていたジェラルドの姿があった。

 気づいたときにはエセルは駆けだしていた。

 エセルの体をジェラルドが抱き上げる。


「ジェラルド様……、ジェラルド様……っ」

「ああ」


 夢じゃないだろうか、そんな不安からエセルは何度もジェラルドに触れた。

 けれど夜毎、夢に見ても朝に虚無感と共に目覚めた時のようではなく、確かに温もりは消えなかった。

 ジェラルドは強くエセルを抱きしめた。


「待たせてすまなかった」


 耳元で声がこだまして、幻じゃないことを感じる。

 その瞬間、ずっと我慢していた緊張が解けた。

 エセルはジェラルドの胸で泣き声を上げた。





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