醍醐院寿三郎の冒険パート5
テスタロッサとは恐れ入った
赤い、ただひたすら赤い車体に自身の速さを誇示するような五連の斜線が刻まれている。
車にそこまで詳しくない僕でも「跳ね馬」がハンドルにデザインされているのを見れば、否応でも眼輪筋に力が入ろうというものだ。
「かつて男の子だった者達」のスポーツカーの理想形、それが赤のテスタロッサと言えるのかも知れない。
まあオートマ限定免許しか持っていない僕からしたらあまり関係のない話だ。なんでオートマ限定なんか取ったかって?だってオートマ限定の方がドライビングスクールの料金安かったし。
市さんに促され、右側に乗せてもらう。
内装全ピンクかよ!さすがに目に悪い、少し外から見えてはいたけど。とっかえるのにもかなりお金がかかるだろうに。
本体含めて中古で1500万ぐらいだろうか、年間の維持費を含めると、胃がキリキリしそうだ。
僕が落着かない様子で車内を見渡しているのをエンジンを掛けながら、市さんは横目でみる。
「気にいってくれた?」
「ええ、初めて乗りましたよ、こんな高級車。」
シートベルトをえっちらと締めながら素直に感嘆する。中身がどピンクだろうが、やはり特別な物は特別な物だ。僕ですら座っていて高揚するのだから。
「良かった。あんまり高級車って好きじゃないんだけどね、この子は結構好きだから買ったの。」
「え?」
「高級車乗ってないとね、顧客や取引先が信用してくれないのよ。こいつ儲かってないぞ!ってね。まあ個人経営をするようになったらわかると思うわ。経営者になったなら車とゴルフ用品ははケチっちゃだめね。」
マジですか・・・。
意外と世知辛い話だった。
公道にでて、ゆっくりかつなめらかに加速していく。
意外と雑な運転しないようだ。
「岩手はかな~り遠いわよ。行ったことある?」
ない、東北には福島ぐらいしか行ったことが無かった。
飛ばしても5時間ほどだろうか。まあ、休憩なしでの計算なのでまず5時間では着かないだろう。
「私も岩手は行ったことないのよね~。それにしてもまさか行き先がもろに観光地だとはね、辰尾温泉は楽しみだわ~。」
ちらちら意味ありげにこっちを見る市さん。
邪念9割ぐらいじゃないか、これ。
仕事を放棄することはないだろうが、少々心配である。
まあ良い。三蔵法師の「お経」を使っても良いし、最悪、金的でもすればいい。
そう乱暴に結論づけて、意識をこれから向かう辰尾温泉に向ける。
スマホで辰尾温泉のWIKIを検索。スマホで大抵の事は調べられる、ありがたいご時世だ。
辰尾温泉は、今人気の高い温泉地なのは皆さんご存じだろう。
岩手県と秋田県を分ける奥羽山脈、その一旦を担う真昼山地を構成する1200m級の山々の一つの麓に辰尾温泉がある。
「とりあえず休憩は那須高原SAと菅生PAの2か所で取るけど、その前にトイレに行きたかったら、今いってね。高速入ったらしばらくいけないわよ。」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
市さんは気がきく人だ。この点は非常に助かる。
ここだけ見れば、大変良い人である、ここだけ見れば・・・。この程度で殺気のいや、さっきの所業を忘れるほど僕は人が出来ていない。
WIKIの続きに戻ると、辰尾温泉は辰尾山に湯元を持つ温泉でいわゆるゲルマニウム温泉にあたる。(ラドン泉ともいう)
辰尾山温泉が東京あたりにまで知られるようになったのは戦後まもなく。それまでは麓に温泉を引いておらず、湯元があるだけだったという。かの岩手県出身の詩人宮沢賢治も療養の折、たびたび辰尾温泉の湯元で身体を癒していたと書いてある。ほんとかどうか知らないが。
明治から戦前にかけては農耕に適さない土地だったものの辰尾山から銅や鉄などの鉱石が取れたことから、採掘場や機械工場が建ち、太平洋戦争中は軍関係の工場もあったとの記述もある。
観光地としての立ち位置、PRがきっちりしてきたのは、ここ最近の印象ということになるだろうか。
東京に暮らしていると岩手県まで旅行しようというと、なかなか大変な印象を受けるが、東北新幹線の完全高速化の発表やゆるきゃらブームにきっちり乗っかった「へびひめちゃん」のPR活動などもあり、関東以遠からの観光客はあきらかに増加している。
僕の知っている事とネットの情報を合わせても、まあこのぐらいだろう。
あとは旅館の個別の情報や評価、グルメ情報が目に付くぐらいか。
お、もう三宅坂JCTである。さすがに早い。
「野慈くん、移動している間に、3件ほど電話してほしいんだけど、いい?」
「はい。」
なんでしょう?
「まず第一に阿久津教授に連絡。野慈くんを「阿久津教授の代理人」として指名してもらうこと、そのときの音声は必ず録音しておいて。一学生にこれだけやらせておいてNOとは言わないでしょうけど一応保険ね。赤の他人で代理人なんてできるのは本当は弁護士ぐらいだろうけど、その肩書きがあるのとないのじゃ雲泥の差よ。
第二にあやちゃんに連絡。SNSのIDでもメルアドでもなんでも良いけど、相模さんの個人情報を片っ端から収集して。連絡が無理でもなにかヒントになるかもしれない。
第三に相模さんの保護者への連絡。これが一番重要なのはわかるわね。「SY大のハラスメント委員会責任者阿久津教授の代理人」として当事者、関係者に面談を申し込む、これが受け入れられなければ退学届は受理できないと脅しなさい。」
「ちょ、ちょっと待って下さい!最期が乱暴すぎます!せめて親御さんと本人へのアポイントメントだけじゃだめなんですか!?」
こちらをちらと見る妖花さん。少しにらんでいたかも。
「ダメ、全然ダメよ。今の状態だとね、私達自称東京から来て、娘さんの事情を知って岩手まで来たただの妖しい二人組よ。田舎の人ってね、権威主義なの、このままじゃきっと泊めてもくれないわ。」
などと偏見をまき散らす。
「でしたら、教授をむりやりでも捕まえて同行してもらうべきでしたかねえ、ミスったかなあ。」
まあ、それも難しかっただろう、じゃなければ最初から探偵の所へ行けなんぞという話にはならない。僕と教授で行けば良いだけだ。学生課の人間にまかせるのが本来の筋だが泊まりの仕事しかも時間の猶予がないというのはかなり動きづらいだろう。というわけでお人よしで暇な学生と金?で動く探偵のコンビと相成ったわけであった。再確認。
「最悪の事態は避けられたわ。」
意味不明な独りごとである。
なにいってんだか、この人は。
まあ良い、さっさと連絡をとってしまおう。当然、教授とも電話番号は午前中に交換ずみである。
ピポパポと。
「はい、阿久津です。」
「野慈です、お疲れ様です。」
「なんじゃい、野慈くんか。進展はどうじゃ。」
「市さんと契約が取れまして、相模さんの実家の方に向かっています。到着にはあと5時間ほどかかる予定です。そこで保護者の方と会う前に市さんから条件がでていまして、私、野慈始が、阿久津教授の代理人であることを確認してほしいとのことでした。」
「なるほど、足りんな。」
「甘い、甘い。そんな口だけの確認で相手方がハイソウデスカと納得するわけないじゃろうが。
たしか相模さんの実家は旅館じゃろ?なら仕事用のPCもFAXもあるはずじゃ。法的にどこまで作用するかわからんが、書類形式で実印押してFAXとメール添付の写真データを君自身と旅館に送っとくよ。」
さすが教授、有能オブ有能か。なぜ実印が研究室にあるのかということはあえて突っ込まないでおく。
「了解しました。あと教授。」
「探偵事務所の代金の件なのですが。」
「ゴホ!ゴホンゴホン!持病の癪が!」
「教授、そんなんでだまされるとお思いで!?」
「金は君の貞操より重い。わかってくれ・・・。」
「判りません!」
ハラスメント委員会委員長とは思えない発言である。
「人生全て経験じゃて、悪いことは言わん。ローションかオリーブオイル買っておくんじゃぞ~。」
おいおい。
ブチッツーツーツー。
電話が切れた。あのクソ教授。
僕の周りにはまともな大人は居ないのだろうか。
はあ。
次だ次!
桜子のところにかける。
「はいはい、桜子です。」
「おー、桜子、人類の守護天使野慈☆始だよ。」
「ツノダ☆ヒロみたいな☆の入れ方しないでください、気持ち悪い。てゆーかミドリムシにも名前あったんですね、初めて知りました。」
植物プランクトン扱いとは、ミジンコにも負けるのか。てゆーか☆入れたのよく判ったな。
「とりあえず解決策引っ提げて相模さんの家に向かっている。スピード解決まったなしだ、良かったな、桜子。明日明後日にはきっと相模さんと連絡が取れるぞ。」
半分嘘である。というかかなり盛っている。「解決策」などという具体的な物は全く持ち合わせていない。
だが、最期の一文だけは誠心誠意なんの躊躇もない真の言葉であった。僕はどんな方法を使ってでも、相模さんを大学に連れ戻すと誓っていたからだ。脅迫だろうが、暴力だろうが手段は知ったことではない。内心このオカマ探偵はそこまで頼りにはしていない。最期は一人になっても、どんな犠牲を払ってでも解決する。それが桜子に信用された自分の義務だ。さきほどの乱暴だという発言は表向きなもので、心の底ではなんとも思っちゃいないのである。
「はあ、まあ話半分に信じておきますよ。とにかく相模さんのご家族を脅したり、乱暴な手段を取っちゃダメですからね。そんなことしたら絶交です。二度と口を聞きません。とりあえず戦勝報告以外聞く気がないんでこれ以降連絡は結果報告だけにしてくださいね。」
ブチッツーツーツー
最近の若い子はどういう教育を受けているのだろうか。
とはいえ桜子の声が聞けたので僕自身としては元気百倍アンパンマンと言ったところである、もちろん僕は桜子のことなんて好きでもなんでもないのだが。
うーん、そうか、穏便な手段限定か、しょうがないな。
さてさて、こっから本題である相模さんの実家への電話だ。
相模さんのご実家、辰尾温泉の老舗「名堂館」の連絡先は先ほどスマホで調べた時にすぎに調べが付いている。ピポパと。
トゥルルートゥルルートゥルルー、ガチャ。
アナログな電話口の少々懐かしい音である。
「はいこちら名堂館でございます。」
とうのたったしかし凛とした女性の声。
「お忙しいところ失礼します。こちらSY大学の者で野慈 始と申します、相模律さんの件でお話したいことがございます。相模さんのお身内の方はいらっしゃいますでしょうか?」
「はい、私が母の相模妙子でございます。」
事務的な口調ではあるが、少しこわばるのを感じた。
「今、お時間頂いてもよろしいですか?」
「はい、よろしいですわ。でももう大学の方に話すことはなにもございません。」
出たよ、こんちくしょう。
少し途切れる会話。むりやり紡ぐ。
「良いですか、相模さん。今回の件は大学の教授内でかなりの問題になっています。
教授会でハラスメント委員会による今回の件の実態と原因の調査が指示されました。
その責任者が阿久津教授であり、私はその代理人です。普段は同大学で学生をやっておりますが、調査スタッフとして、専門の調査員を一名同行した状態でそちらに向かっています。もうその旨のFAXは届いていますね。」
「はい、FAXは先ほど送られてまいりました。わかりました、こちらにいらっしゃったら対応させて頂きます。もうこちらに向かわれているという事ですが、何時頃のご到着予定でしょうか。」
よっしゃ、状況を受け入れたか。意外と素直だ。
「高速道路の渋滞は今のところなさそうですが夜7時を回ると思います。」
「わかりました。では2名様一部屋でお泊りになりますね。」
「はい。急にすみません。素泊まりで大丈夫です。」
オフシーズンなのでさすがに空いているだろう。夕食はSAで済ませれば良いし、朝ごはんも買っておけば良い。経費節約である。
市妖花こと寿三郎探偵が不満げにこちらを向いたが完全に無視する。
「ではお待ちしております。東北は雪が積もっておりますので、道中お気をつけて。」
電話が切れる。
雪ねえ、今日の暖かさだったらほとんど溶けていそうなもんだが。
「とりあえず、3件中、2件は上手く行きました。相模さんの母親と面会が確定です。相模さんの個人情報の収集には失敗しました。」
隣で聞いていたのでわかってはいるだろうが、とりあえず報告する。
「いや、なんで一番難易度が低いのが失敗してんの!?」
おいおい、心外だな。
「いやですね、自慢じゃないですが、桜子の声を聞いているとなぜか他の事がどうでも良くなってしまうんですよねえ♪」
「実はあんた、その娘のこと大好きでしょ!」
「そ、そんなわけないじゃないですか、馬鹿馬鹿しい、むしろ大嫌いですよ、あんなやつ。」
全く馬鹿なことを言わないでいただきたいものだ。
市さんの視線が痛い。
「どうすればそんなに精神がひん曲がるのかしら。」
ぼそっと言おうが、隣だから聞こえるっつーの!
僕は聞こえなかった素振りで身体ごと左を向く。
こんな時の僕の所作を決まっていた。
大学の日常よろしく寝た振りをするのである。僕は大学の大抵をこれで乗り切っている。
自分で言うのもなんだが困ったものだ。
ほんの少し薄目を開ける。
高速道路の防音壁、なんの感情も湧いてこない。昔の僕だったらこの状況にわくわくしたのだろうか。したのだろう、残念ながらおそらく。
大事な物をいつのまにか失くしてしまうこの世界で僕はなんとかやっていた。変えたくないところまで、変えてしまいながら。
6.辰尾温泉
「へっっくし!!」
ぶるるるっ
振るえる視界が下から上へ広がっていく。
さ、寒い。
太陽光が世界で一番心地よいものだと教えてくれたあの天気はどこに行ったのか。
雨は降っていないものの、雲は多く、あまり高くない。風はびゅうびゅう吹いているのがガラス越しに伝わってくる。
寒いはずだ。車道に雪はほとんどないが、まわりには雪が3、40cmほど積もっている。一面が白い。
暖房の風は来るものの、やはり外が厳しいのだろう、ガラスは曇り、ワイパーが動いている。
あれ?そうだ。寝た振りをしていたらいつのまにか本当に寝てしまったのだ。色々動いたとはいえ、情けない。
「おはよう、疲れてたのね、よく寝てたわよ。」
市さんは責める風でもなく言う。
「おはようございます。」
市さんはくすっとして
「もうこんばんわだけどね。最後のPAもで起こそうとしたんだけど良く寝ていたから、夕飯と朝ごはんの買い出ししといたわよ、東京に帰ったら請求するわ。」
なにからなにまで申し訳ない。
「すみません。」
「気にしないで~。あと10分ぐらいで旅館に着くわ。だんだん薄暗くなってきたから、少し急ぐわよ。」
あたりは日も半分は沈み、夕暮れ時もうすぐ終わりそうである。
「温泉街の方には行かないわよ、最初っから目的は観光じゃないしね、最短ルートを選んだわ。」
僕もうなづく。
先ほどの無機質な高速道路はとっくに終わっていて、今は山の麓のところを走っているようだ。人家は3、4軒あたりにぽつぽつ見かけるのみ。この道を少しずれれば八幡平だろう。今は山に隠れて視認しづらい。しばらくしてなぜか「注意」「立ち入り禁止」と赤文字で書かれた2枚の看板が左に見えてきた。
「立ち入り禁止?おかしいわね、道は合っているはずだけど。」
当たり前だが、運転している市さんは減速し、立て看板のすぐ近くに停車した。
「 注意
場内は危険につき、一切の立ち入りを禁止します。
万一事故があっても一切の責任は負いかねます。
岩手県 」
場内?なんのことだろう?
その疑問はすぐ解消された。
「 立ち入り禁止
この先一帯は旧辰尾鉱山跡地で坑道の落盤亀裂等が至る所に発生しており
危険ですから立ち入らないでください。万一事故があっても一切の責任は負いかねます。
盛岡森林管理署
岩手県 」
なるほど道路が立ち入り禁止なわけではなくて(大体そうだったら通行禁止と書くはずである。)
この道路の山側のエリア一帯が危険だから立ち入り禁止なわけだ。
「あら、勘違いだったわね、通行止めじゃなくて良かった良かった。」
またギアをローに入れ、運転を再開しようとしたその時。
二股に分かれた道路の先、山側に何か見えた。
道路の先は二つに分かれ、片方はなだらかに左側つまり山々の方に道路自体が曲がっている。
そのせいと2枚の看板で少し隠れていたのだろう。
緑と茶色の世界の中でなにかちょっと異様な「長方形の灰色の群れ」が見える。
「なんです?あれ」
「う~ん、建物よね、あれ。」
「あそこも立ち入り禁止エリアなんでしょうか。」
「違うと思うわよ。左側の道路が封鎖されてないから。」
この車で近づけば2,3分で着きそうだ。
ちょっと行ってみたい。
「すみません。仕事前にあれなんですが、あそこに行ってみませんか?」
え~と不満の声を漏らす市さん。
「結構時間もう遅いわよ。仕事前にそういう気が散るようなこと好きじゃないわ。」
まあ、そりゃそうか。
「すみません、そうですよね。名堂館に急ぎましょう。」
車は曲がらずに真っ直ぐのまま走る。
近づいていくほどに長方形の灰色の群れは少しずつ立体になっていく。
「もしかしてあれ、団地じゃない?」
岩手の山奥に集合住宅?
山の麓のなだらかな斜面に建てたコンクリート建築物たち。
たしかによく見ると窓枠らしきものがある。むき出しになっているが右端は階段だったのだろうか、階段というにはあまりのもちょろんとくっついている感じでもはや人が足を掛けてよいものではないだろう。まったく同じ造りの3階建ての建物が10棟前後ある。
灰色に見えたのは塗装が完全に剥げくすみにくすみとても汚れていたからだった。
草木が団地の1階部分を覆いつくしていて、3回の窓枠からもわずかに緑が見て取れる。あそこまで伸びているというのか。
「本当に団地だったみたいですね。」
僕がつぶやく。
「それにしてもこんなところになんで?」
「多分さっきの鉱山で働いていた人たちやその家族の住居だったのね。それが閉山されて廃墟になったんでしょうねえ。」
市さんの口調も感慨深げだ。
こんなものめったに見られるものではない。
車は速度を落としてゆっくり進んでいく。
こんなことであれば先ほどの会話でもっと強く主張すべきだっただろうか。
団地とこちら側の道路はすでに200mぐらい開いてしまっている。
少しずつ開いていく廃墟と僕たちの距離。車はわずかに加速がかかり始めた。
その距離に比例して寂寥感というか、侘しさが
ぞわっ。
何か見えた。
「市さん、何か見えました。団地側。」
人だ。
人影が見える。団地の外の階段傍。
薄暗いし、絶妙な距離が開いてしまっているが、間違いない。
「こんなところに~?びっくりねえ。廃墟マニアってやつかしら。」
確かに。そういう人たちならこんなところにいてもおかしくはない。
でもなにか違う、何がと具体的に言えないのがもどかしいが。
なんだ、服、来ている服の形、衣装か?
「市さん、何か遠くを見るもの、望遠鏡とかもっていないですか?」
「そんな立派な奴もってないわよ~。 観劇用のオペラグラスならあるけど使う?」
なぜかスーツのポケットからオペラグラスを取り出す市さん。あなたのスーツは4次元ポケットですか。
「使います。」
受け取ってすぐさま使う、無駄口をたたいてあれを見失う愚を避けたかったから。
異様だった。
どう説明すればよいのだろうか。白い小袖に赤い袴、長髪を結った女性。一般的に巫女装束と呼ばれるその衣装。何度か見たことがあるがアレの小袖は真っ黒に染められている。アレはそれを誂えていた。
そのうえ、巫女装束は神社で見かけるもので薄暗い団地の廃墟群のなかでは浮いているといっていいほどだ。
薄暗い中、顔もなんとか見える。
青白い、なにかが乗り移ったような、まるで幽鬼のような精気の無さだが、見間違いようがない。
その斜めの構えた顔は見知ったものだった。
「相模律です。市さん、相模がいます!」
車は急停車。
僕は上半身がつんのめりながらも同時にシートベルトを外し、車外に踊り出た。
「待って!」
市さんがさらに何か叫ぶが、無視して走る。
雪のせいでなかなか走りづらいがそれすら無視する。
相模さんと接触して事情が聴ければ、交渉でかなりのアドバンテージになるのは間違いない。
そもそもこの件を知っている誰もが疑問に思うことだろうが、この奇妙な自主退学において相模律の意思はどの程度汲まれているのだろうか。
もしこれが、親御さんによる強制的なものであるとしたら、あまりに時代錯誤ではないか。
金銭的なことであったとしても奨学生などの道もあるのだからそれこそ誰か大学側の人間に相談すべきなのだが、そういう話も聞かない。
廃墟群に巫女装束の後輩というよくわからない状況だが、僕はとにかく彼女の話を聞きたかった。
「相模!相模さん!」
夕闇の中を叫びながら全速力で走り続ける。視界が揺れる。最初っから気付いていたのだろうか、こちらの方をゆっくりと見た相模律はいまだ無表情、しかし
ばっと体を翻すや否や黒く薄汚れた団地の中に入ってしまった。
なぜ。
たかだか200m強、すぐ団地の手前に着いた、建物自体とは10m程度か。
「相模さん、児文研の野滋 始です、桜子の先輩の!出てきてください。」
息を荒くつきながら叫ぶ。
靴の中に雪が入った、畜生。
出てきもしない。声もない。
「桜子が心配してるんだ!話がしたい!」
そうすると3階の窓だった所、ちょうど真ん中の一室からゆっくり、
仮面が出てきた。
その形相に思わずうっとなる。
能の般若面とも少し違う、二本角のある鬼の面だった。髪はさんざに乱れ、完全に正気を失った者の面。首元は蛇の皮が巻かれている。蛇のまだらが嫌悪感を誘う。他はさきほどの黒の巫女装束である。
「去れ。」
鬼の面と蛇皮で封じられているからか、声はかなりくぐもっている。
「なんで・・・。」
「去らねば、殺す。」
声が出ない。
後ろから足音がする。荒い呼吸も。
ビクッと振り向く。
「はあ、はあ、待ってって言ったじゃない。」
市さんだった、足にはピンクのゴムの長靴をはいている、これに履き替えたから時間がかかったのか。
急いで団地の3階に目をやる、あの異形がいた場所へ。
そこにはもう誰もいなかった。
「市さんは見ましたか?あの般若のような鬼の面」
「見たわよ。でもあれは般若じゃないわね。髪、角、表情すべてが違う。」
「あれは恨みで化け物になったものの面、能で言う本成の面、別名・・・。」
息を吸う。
「真蛇の面っていうの。」