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醍醐院寿三郎の冒険  作者: 石井 秋文
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醍醐院寿三郎の冒険パート1

1.オープニング

2月下旬の強く生温かい風は少し不愉快で、春を運ぶというより杉花粉を運んでくるというイメージが強い。春特有の埃っぽさと陽の温かさを首都圏に住んでいる人間全員が今年初めて感じているだろう。線路沿いから学生には有名な「ころころ坂」とよばれる斜度10度の短い急坂を上り、住宅街を進みながら山の尾根に近づいていく。比喩ではない、ちょっとした山登りを小田急線を利用する学生、大学職員たちは毎朝行わなければならない。N瀬駅、つまり本門側から通えれば、バスも使えてずいぶん楽だったのだろうが、そう贅沢を行っていられない。全学生の約7割が小田急線T学園前駅から我が母校SY大学に裏門から通学するのである。T学園前駅から徒歩20分、慣れた人間の足で15分。まばらに住宅が存在する尾根の途中にでんと建っている。なんでこんな不便な山中にこの大学が在るのかはあとで述べるとして、僕は裏門の警備所で小説読んでいる警備員さんに挨拶しつつ中に進んだ。いくつかある出入り口のほとんどに自動販売機が設置してあるのはここの目立たぬ良点だろう。500mlの水を買い、階段を昇る。生薬学の授業が始まる2-Cの教室まではあと数歩だ。ここで違和感。フロアをたむろしている生徒の数が少なすぎる。その上2-C教室は入らなくても室内に人の気配がないことが分かる、というか照明もついていないのでドアの擦りガラスはうす黒くなっている。初めて冷や汗を感じ、速足で移動する。各学年用に連絡事項が貼ってあるフロア窓側の掲示板、2階なので当然2年生の為のものだ。左からテレビをザッピングするように並べられているプリントの一行目を流し読み。7個目に最近見たことのない文字列を見つけた。

「2011年2月25日(金)生薬学について」

続ける。

「佐藤助教授、出張の為、2月25日(金)、Y学科1限目、SY学科2限目の生薬学を休講とする。」

なんじゃそりゃ。脱力した両肩の急な重さに、掲示板に頭から突っ込みそうになってしまった。

今日は金曜日、午後の実験もない。帰っても良かったが、まあ、しょうがない、バイトのシフトも入ってないし、部室に誰かいるだろうから、暇をつぶすとしよう。90度右に回転し、歩行開始。通路を並ぶ売店(紀○国屋)と第2食堂「すみれ」、体育棟を通り過ぎると部室練への連絡口がある。2階建ての部室棟はコの字型に曲がっていて僕が所属している児童文学研究会は2階のコの字の真ん中の線のさらにど真ん中にある部室だ。要はど真ん中。


ドア窓は蛍光灯を透かし、黄ばんだ白色を晒している。冷たいドアノブに触る。

思えば、今日この日、講義が休講でなければ、僕がこの時間に部室に来てなければ、後輩と事件の話をしていなければ、あの探偵に会うことはなかったかもしれない。つまり毎度毎度きちんと掲示板を見なかった僕の普段の行いの悪さが原因と言えば原因だろうけど、これだけは神様に言いたい。

「どうか、僕とあの醍醐院寿三郎が人生において何の接点も持ちませんように!」

まあ、思いっきり関わってしまうのだけれど、そう願わずにはいられないのだ。

「彼女」はそういう人だった。


2.僕はドアノブを回す。

「先輩っていつも水飲んでますよねー。水以外のものを碌に摂取してないですよねー^^。貧乏なんですかー?」

語尾を雑に上げながら、僕との会話というものがいかに無駄な行為で時間つぶしにしか使えない事を充分に承知しているという感じで一目でもらいものとわかるソファ(茶褐色の合皮が裂け、黄色いポリウレタンがところどころ見えてしまっている)に青いクッションを持ちながら寝っ転がっている物体が話しかけてくる。

その物体は桜子あやとも言う。148cmというとても小さな躯体に悪意と元気の良さだけを詰込んだ存在だ。入学当時はボブで髪の毛をアッシュに染めていたが、さすがに注意されたらしく、今はオレンジがかった茶髪である。今日は誰もいないからだろう。(僕はきっと「人」としてカウントされていない。)行儀悪くソファでだらだらしている。こいつきっと前世は猫だったなとなんとなく思う。現実の猫というより「不思議な国のアリス」に出てくるチェシャ猫が頭の中で耳から耳に届くようなあのにやにや笑いを浮かべている…。

「本当の貧乏人は水も買えないよ、桜子。僕は立派なブルジョワジーだ。」

適当に桜子の煽り発言を流しながら、部屋の真ん中の長机に押し込まれていた手近なパイプ椅子を寄せて座る。金がないのは事実だが、1年の後輩にごちゃごちゃ言われる筋合いはない。会話を拒否したいがために今、水をしまったボディバッグから文庫本を取りだし、途中から読み始める。一般的な日本人だったら、ここですぐ話しかけることはすまいという常識的な判断だった。

「なんですか。それ、ブルジョワジー?、先輩のくせに難しい言葉使いますね。ブルジョワジー、わかった。犬の種類ですね!そうでしょう!先輩にもやっと自分が人間未満であることの自覚が出てきたようで何よりです~。って野慈パイセン、聞いてます~?」

こいつに常識を当てはめた僕が馬鹿だった。

そういえば本来、ブルジョワジーというのは中産階級という意味で金持ちという意味は無かったよなと思い出すが、まぁどうでもいいか。

窓際のソファから僕が腰かけたドア側のパイプ椅子までは二個体の人間が会話をするにはやや不適切な距離だったが、そんなことはこいつは構いはしない。ソファから1mmとも身体を起き上がる気がないのは、端から見ても明確だった。お前と会話したくないから、こっちに座ってんだよ!判れよ!と言いたくなるのをぐっとこらえて僕は読んでいた文庫本を閉じ、右を向く。

今まで視界にいれようとしなかったものを視界に入る。変わらずの小馬鹿にしたにやにや笑いを見るのは不愉快だった。否…。いつもの100%の、天衣無縫と言っていいほどの桜子あやのにやにや笑いはそこにはなかった。にやにや笑いには違いなかったが、わずかながら不純物が混じっているように見えた。なんといつもより両口角の上がり方が3度、右眉の上がり方はなんと5度も下がっている!僕にはわかるのだ、何せこいつが入学してから10か月以上このにやにや笑いに馬鹿にされ続けているのだから。(どんだけナメられているかお分かり頂けたろうか?)

まあ僕が新歓コンパで披露した新木アナウンサーの高速早口一人芝居「薬局の薬売り」のものまねが新入生全員にドン引きされ、頼みの部長からも「キモかったです。」の一言でばっさり切られたのは確かに第一印象としては最悪だったかもしれない。でも本当に新木さんの一人芝居は本当に素晴らしいんだ。新木アナウンサーはただの実況アナじゃないんだ!みんなググって!。

おっと話がそれた。

少し考えてみればこいつが不調な原因に心当たりが無いわけでもなかった。

入学当初からいつも一緒にいた女子学生をここしばらく見かけない。

名前は何と言ったか。相模さん、だったか。

その子はここの部員ではないが、よく桜子と一緒に部室に遊びに来ていたものだ。

ははん、仲違いでもしたのかと当たりをつける。

「どうした、相模さんと喧嘩でもしたのか?」

ストレートな発言をしながらパイプいすを左後ろにずらし立ち上がる。視線を桜子から外すようなことはしなかった。桜子に3歩だけ近づく。会話に適切な距離。視線は外さない。

気付いたのだろう。桜子はさっと顔を背けた。クッションに顔を押しつけている。だがもう遅い。

「何かあったんだな?」

それだけを聞く。余計な会話などしようとも思わない。他の人にはわからないかもしれないが僕は桜子がひどく悲しんでいるように思えた。

もうからかおうという気分は一切消えている。

窓の上の時計の音が聞こえる。

桜子の顔が真正面に見えるよう膝を曲げる。

「どうしたらいい?桜子。困っていることがあったら僕は先輩なんだ、なんでも言ってくれ。」

桜子は応えない。クッションに顔をうずめながらじっとしているのみである。

僕もじっとしている、数秒だったろうか、1、2分たっただろうか、それすらもはっきりしない。

時間の無駄かも知れない。本人が話さないなら他の連中からなにか聞きだす他あるまい。

妄執にも似た確信を持って立ち上がる。

僕はドアの方へ静かに歩きだした。ドアノブに手をかける。

「野慈先輩…。」

振り返ると、桜子は立ち上がっていた。まっすぐな目で僕を見る。もはや隠そうともせず明らかに涙ぐんでいた。

「りっちゃんを助けてください。」

桜子は少し俯いた。ソファに戻したクッションはほんの少しだけ濡れているように見える。

「もう2週間も大学に来ていないんです。」

「メールもラインも反応がありません。3日前、ディスカッションの授業の先生に聞いても、無断欠席みたいでした。それで我慢できなくなって今日、担当の染谷先生に話をしたんです。」

染谷教授は今年の一年生の学年担当である。

「そしたら、学生課でも実は問題になってるって。親御さんに連絡を取ったら

律は実家に戻っている、もうSY大学に行くことはないだろうって。

退学届を郵送するから処理してくれって。具体的な内容を聞いてもその一辺倒で、教授はこんなこと前代未聞だって。」

矢継ぎ早に言う桜子の顔からはやや疲れたような焦燥の色合いがあった。

「でも、私ずっとりっちゃんと一緒にいましたけど、そんなこと聞いたことないですし、他の子も律ちゃんがトラブルにあったなんて聞いたことないって。

こんなの絶対おかしいですよ!」

確かにおかしい。だけど…。

「桜子、たしかに腑に落ちない話だ。けれど相模さんは未成年だ、親御さんの所にいるって所在がわかっているなら、僕たちがどうこう騒ぐ話じゃない。騒ぐことによって相模さんの迷惑になることもあるんだよ。」

精一杯優しい口調で諭す。そう、所在がわかっているなら僕たちがどうこう言うことではないのだ。

桜子もそれはわかっているのかも知れない。

「でも…。でも…。」

そう、「でも」だ。

僕はとある覚悟を決めた。

「私のとなりに律ちゃんがいないなんて嫌ですよぉ…。」

溜め切った涙が桜子の丸くて赤い肌を転がっていく。ポロンポロン、ポロンポロン、大粒で絶え間なく。


ふぅー。吐いた後に吸う。酸素を入れる。覚悟を決めた、決め直した。

可愛い後輩のためではない。可愛い後輩が泣いているからでは決してない。桜子は可愛い後輩なんかではない。

でも君を助けたい。

「僕に任せろ、桜子。」

「お前の為とかではちぃとも無いが、僕が一肌脱いでやろう。」


反転、移動。

桜子がなにかつぶやいたような気がした。


僕はドアノブを回した。






僕は気付かない。反転後に桜子がにやにや笑いをしていたことを。

僕は気付かない。そのにやにや笑いがさきほどより両口角の上がり方が3度、右眉の上がり方はなんと5度も上がっていたことを。


僕は知らない。部室から僕が出て行ったあと、ソファにポムッ、コロンと寝なおした桜子が携帯で誰かに連絡をしていることを。その顔に先ほどの涙はない。髪が少々乱れているのみである。

「はい。桜子です。はい、十中八九そちらに向かいます。ええ、どうとでもしてください。ええ、お願いします。」

桜子あやは相模律の事を本当に心配しているのだろう。でもこの僕 野慈始のことなんて欠片も想っちゃくれていないことを僕はまだ知らない。この物語は端的に言えばそれを嫌というほど思い知る話だ。





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