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自宅に帰るかどうか悩んだ挙句、ネットカフェで手早く身支度をすませることにした。
マチカ殺しの件が警察でどう扱われているかわからない以上、自宅に立ち寄ったところを逮捕されるということが考えられたからだ。もちろん魔法を使って逃げることも可能だが、それはそれで面倒なことになる。
あまり清潔とはいえない狭いシャワールームで汗と涎と尿を完全に洗い落とすと、やっと生き返った気がした。注文したカツカレー定食を胃袋に収める。勝負に『勝つ』ために『カツ』カレー。発想がおっさんだ、女子力がないとカナハには笑われるだろうか――うっかりそんなことを考えてしまい、激しくむせた。
その後に問題が起こった。
使用時間を大幅に余らせたうえでネットカフェから退出したとき、見てしまったのだ。
路地裏で、誰かとキスをしているシロキの姿を。
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交通規制は午後10時には完了し、午後10時32分にはポイントX周辺にマジカル結界が展開された。
これは外部からの侵入を拒絶するもので、魔法の素養がない者は無意識に結界から離れようとするほか、結界内で起こっていることも認識出来ないというものだ。
非常に大がかりな魔法で、かつ広範囲に長時間展開し続けておかねばならないため、魔女課は貴重な人員を2人、戦闘要員から外さざるを得なくなった。
そして、午後11時ジャスト。
「――不法入国異界生物、そこにいるのはわかっている!」
左目に眼帯をつけた課長が、メガホン片手にポイントXの中央に向かって叫ぶ。一見、休耕地が広がっているだけの何もない空間だが、そこに巨大な船が停泊していることは課長の魔眼にははっきりと視えていた。
「君達は我が国の領土を侵犯している。速やかに魔法を解除し我々の指示に従え。さもなくば――」
中空から何かが飛び出した。光り輝く矢が課長のマジカルバリアに弾かれて消える。
「――返答は承った。武力行使によって君達を排除する」
脇に控えていた魔女課の職員達がそれぞれの得意とする魔法射撃を一斉に発射した。それを受け、ポイントXに最初から展開されていた異界生物側のマジカル結界が消失する。
『船』の全容が明らかになった。それは燐光を放つ木造の帆船だった。船体はタンカーほどの大きさがあり、帆はオーロラの如く虹色に輝くレースで出来ていた。そして船上には宇佐木チエミをはじめとする魔法少年達がずらりと並び、魔女課の面々を睥睨している。
「かかれ!」
馬のたてがみを斧から旗に換装したマジカルドリルスピアを掲げ号令を下すチエミちゃんは、ドラクロワの絵画に描かれた民衆を導く自由の女神を連想させた。
「宇佐木の娘には手を出すな!」
課長が叫ぶ。幸い、チエミちゃんはチェスのキングよろしく敵陣後方にどっかりと構えてくれている。
「第2ラインまで後退。敵本隊を宇佐木の娘から可能な限り引き離せ!」
敵の勢いに圧された風を装って魔女課は後退。当然、魔法少年達は追撃する。彼等には若干の焦りが見られた。早急に魔女課を撃退し、予定通り異世界に旅立ちたいのだろう。定められた時間を逃せば飛び立てないとか、既にタイマーが起動していて乗り遅れるわけにはいかないとか、そういう事情があるのかもしれなかった。
「前に出すぎだ! 戻れ!」
チエミちゃんが叫ぶ。事実、魔法少年達の前衛は突出しすぎていて、船の縁に残った狙撃部隊の射程外に出てしまっている。
しかしもちろん、課長はそれを許さない。魔女課は敵前衛を包囲する形に展開。
「後衛、前衛を援護出来る位置まで前進!」
マジカルアローやマジカル対物ライフルを構えた魔法少年達が船から飛び降り、疾走。チエミちゃん自身もまた、前線へと突撃すべく背中に魔力の翼を形成した。
「ペガサスバトルウィィィィング!」
だが。
「今だ、桜木!」
「イエス、サー!」
私はチエミちゃんの翼にワイヤーを放った。ワイヤーは翼に巻き付き、切断する。中空に浮かび上がっていたチエミちゃんは甲板に尻を打ちつけることとなった。
「オバサンは……!」
「また会ったわね」
舳先に立った私はにこやかに微笑んでみせる。
「いつの間にこんな近くまで!」
素早く跳ね起き、戦闘態勢を取るチエミちゃん。ドリルスピアについていた旗が収縮し、斧刃の形状で硬質化する。
「私は1人で侵略者と戦ってたの」
ハルモニアンナイツのように仲間なんていなかった。ツキノと出会ったのは私の戦いが終わってからだし、そもそも出会った時点ではまだツキノは魔法少女ではなかった。
「そんな私が敵に勝つために選んだ方法は、気配を殺して近づいて、敵から見えづらい武器で一気に仕留めるってやり方だった」
「まるで魔法使いっていうより暗殺者ね? または忍者」
「そうね」
散々言われてきたことだ。
「でもオバサン、それならピンチじゃない? 暗殺者が敵の正面に姿を見せていいの?」
真正面からの直接戦闘において分が悪いのは確かだ。こちらの方がベテランだからといって胡座をかいてはいられない。宇佐木チエミは天才だ。油断していればこちらがやられかねない。だが、それでもチエミちゃんは私1人でなんとかしなくてはならなかった。
他の誰かがチエミちゃんに攻撃をした場合、私は自分の意志に関係なくその相手に攻撃をしてしまう。
では、その相手が自分でも同じなのだろうか?
答えはさっき出た。私のワイヤーは彼女の翼を切断せしめたが、私自身には危害を加えなかった。
かといって攻撃し放題というわけでもない。本当は首を落とすつもりだったのだが、そうしようとした瞬間、指が凍りついたように動かなくなったのだ。
事実上、攻撃できないに等しい。今の私には彼女は斃せない。
『今の』私には。
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恋人――もはやそう呼んでいいかわからないが――の裏切りを知った後、課長から連絡が来た。内容は、私を今回の作戦に参加させる、というものだった。
私は課長の正気を疑った。
「私は敵の味方をするよう暗示をかけられているんですよ」
『敵のじゃない、宇佐木の娘の、だろう』
「同じことでしょう? それとも彼女を手懐けられたんですか?」
『それができれば苦労しない。とにかくポイントXに来てくれ。23時までに、できるか?』
私はそれに従った。どのみち、現場には行くつもりだったのだ。
ポイントXの近くに設けられたテントに入ると、同僚達の視線が一斉に突き刺さった。その視線に若干の敵意が含まれていたのは致し方ないことだろう。
奥から私を呼ぶ声がした。左目を黒い眼帯で覆った課長が手招きしている。
「宇佐木が危険を賭しておまえに再び暗示をかけに行ったのは何故だと思う?」
「私が憎かったからです」
「なんだ、恨みを買うようなことをしたのか?」
「……いいえ」
「私の考えはこうだ。『奴の暗示には制限時間がある』。おまえを使い続けるには、もう一度暗示をかけ直すしかなかったんだ、だから――」
「だからわざわざ乗り込んできた……?」
「推測に過ぎんがな」
だとすれば、効果はいつまで? 私は記憶を手繰り寄せる。
「……最初に催眠をかけられたのが、午後の会議が終わってすぐだから午後2時前後です」
「その後、カナハを殺して放心状態だったおまえを回収し、事情聴取して拘束した頃には午後5時を少し回った頃だった。拘束されればチエミを守るのに支障が出るのに、おまえは大人しく拘束を受け入れた」
「つまり、その頃には暗示は解けていた……?」
であれば、暗示の持続時間は長く見積もっても3時間。
「ツキノが警察署に現れ、暗示をかけたのが午後9時前……正確にはその20分前、8時40分前後です」
「だとすれば、午後11時40分か」
「それまで作戦開始を遅らせては?」
隣で聞いていた間宮さんが言った。
「駄目だな。そうなるとたった20分で敵の魔法少年を制圧し、船に乗り込んでそのコントロールを乗っ取り、異界生物どもを始末しなくてはならなくなる。ここでグズグズ暗示の消える時間を待って、敵に先手を打たれるのも避けたい」
課長は私の顔を正面から見た。
「だから桜木、おまえには1人で宇佐木の娘の相手をしてもらう。作戦開始は午後11時。40分間、奴を引きつけろ」
課長が眼帯をしているのは、貴重なマジカル義眼の片方を私が破壊してしまったせいだ。私のせいで、この大規模な作戦に際し課長は視界の半分を失うというハンデを背負わなければならなくなった。
それを思い知らせるかのように、課長は眼帯を指でさすってみせる。あくまで自然に。汚い人だ。
「わかりました。全力を尽くします」
「死ぬなよ」
**********
私はチエミちゃんにワイヤーを飛ばす。スピアで切り裂こうとしたチエミちゃんだが、今度のワイヤーは切り裂くために放ったのではなく、絡め取るのを目的にしたものだ。風圧でワイヤーはしなりと舞い上がったが、次の瞬間には私のコントロール通りスピアをがんじがらめにする。
このままチエミちゃんを船から引きずり出そうというのが私の狙いだったが、そう上手くはいかない。チエミちゃんは引きずられまいと足を踏ん張り、私達は均衡状態に陥った。体重とか筋力の勝負ではない。それをどこまで魔力で強化できるかの勝負だ。
そんな中で、チエミちゃんは微かに笑う。
「!?」
意外なことにチエミちゃんはスピアから手を離した。ゴム紐を両手でいっぱいに伸ばし、片方の手だけ離したらどうなるか? 答えは明白だ。ワイヤーにはゴムほどの弾性こそないが、私が引っ張る力に応じてスピアは私めがけて飛んできた。
「!」
私はスピアをキャッチ。だがその時既に、新たなスピアを生成したチエミちゃんが目の前に迫っていた。
今、手元にあるスピアで受け止め――いや、駄目だ!
私が全力で横に転がるのと、私の手からスピアが消えるのは同時だった。スピアはあくまでチエミちゃんの武器、出すも消すも彼女次第だ。鍔迫り合いなんてしようものなら、そのまま切り裂かれるところだった。
私はそのまま甲板の上を転がり続ける。チエミちゃんはそれを追いかける。一瞬前に私がいたところを槍先が抉っていく。その繰り返し。スピードが遅れたら、床に縫い止められてしまうだろう。
だが船の上は有限の空間で、チエミちゃんの追撃速度もわずかずつ速くなっていた。
「終わりだ!」
遂にチエミちゃんのスピードが私の転がる速度を凌駕した。私は両手を突き出す。金属同士がぶつかる異音。
「何……?」
転がりながら、私はワイヤーを両手のあいだに何重にも巻き付けていたのだ。ワイヤー・バンドは辛うじて槍先を受け止めてくれた。
すかさず私は蹴りを見舞った。だがチエミちゃんは後方にジャンプして回避。そうしながら、牽制のマジカル弾を私に向かって乱射する。キックの勢いを利用して立ち上がれたものの、私は休む間もなく船の上を走り回る羽目になった。息が苦しい。しかし呼吸を整える暇など与えないとばかりにチエミちゃんは魔力の弾丸を撃ち続ける。魔力を出し惜しみする素振りが全くない。ペース配分を考えられないほど未熟なのか、それとも若さ故に魔力が有り余っているのか。後者だとしたらうらやましい限りだ。
――時間まで逃げ切ろうなんて、無理だ。そんな甘い考えではやられる。
私はマストの裏に逃げ込み、そのまま見張り台にワイヤーを引っかけてよじ登る。チエミちゃんの攻撃が止まった。帆を破壊してしまえば航行に支障が出ると気付いたのだろう。
「バトルウィングッ!」
再び魔法の翼を伸ばしたチエミちゃんが一瞬で船の上空に移動する。トマホークを振りかぶり、ギザギザに飛びながら私の死角を狙って接近する。
「――今だ!」
私を切り裂くため一瞬だけ減速するその瞬間を狙い、私はとんぼ返りした。着地したのはチエミちゃんの背中だ。すかさず右手のワイヤーで彼女の両手足を拘束。切り落とす意図はないので、ツキノの暗示は私の行動を妨害しない。
チエミちゃんは私を振り落とそうと暴れ馬よろしく身をよじるが、手綱はしっかりと巻き付けてあるので容易ではない。
私は左手からのワイヤーで翼を1枚切り裂いた。途端、コントロールが失われ、私達は有名な空飛ぶ亀の怪獣よろしく高速回転しながら斜め下方へ墜落する。
目前には民家、いや――。
「ぎゃああああああああ!」
辺り一面を覆うマジカル結界に、チエミちゃんは真正面から突っ込んだ。結界は接触した者に対して魔力ダメージを与える性質がある。電撃に似た衝撃が幼い少女に容赦なく叩きつけられる。その余波は彼女の背に乗る私にも襲いかかっていたが、直接触れているチエミちゃんに比べれば可愛いものだ。
マジカル結界にぶち当たったのは私の意志ではなく予測もできない――私が壁面に叩きつけられる可能性もあった――純粋な事故である。だからだろう、「宇佐木チエミを傷つけてはならない」という暗示は発動しなかった。
チエミちゃんは結界から離れようと藻掻く。しかし私達の身体は結界壁の磁場に絡め取られていた。
彼女を助けなければ、という強い意志が私の中で膨れあがっていく。しかしどうしろというのだ? マジカル結界から離れることができたとして高度は約500メートルといったところ。どのみち墜落死は免れない。
私にはどうすることもできない。
立方体型の結界壁を、魔力電撃と摩擦熱の洗礼を受けながら重力に従って私達は滑り落ちる。チエミちゃんのマジカルコスチュームに火がつき、それは全身に燃え広がり、炭化して崩れていく。その下にある柔肌が溶け崩れ、肉が露出し、炭となって剥離する。
喉が灼かれたのか、内臓を痛めたヒキガエルにも似たチエミちゃんの悲鳴はもう聞こえなくなった。
私の中の、私のものではない意志が急速に萎んでいく。もう手遅れだからだ。
コロシテ、と彼女が呻いたような気がした。
私は時刻を確認する。マジカルコスチュームに仕込んであるデジタル時計の表示は24:32。
「ごめん、無理」
そして私達の身体は大地に叩きつけられた。