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公園のトイレで顔を洗い流し、ようやく私は冷静になった――と思った。だがスマホから課長の声が聞こえた瞬間、涙は勝手にあふれてきて止めることなどできなかった。
「わ、わわわわ、わた、私……!」
『落ち着いて話せ。今、何処にいる?』
「えっと――少し待ってください」
電話をかける前に自分の居場所を把握しておかないなんて、やはり最初から平静を取り戻してなどいなかったのだろう。
入口まで移動して公園の名前を告げると、課長は、遠いな、と呟くように言った。
「変身して、全力で現場から逃げましたから……」
『マチカのことだな。既に警察が動いている。逃げる前に私に連絡してくれれば良かったんだが』
「すみません、気が動転していて……。でも、やりたくてやったわけじゃないんです、身体が、勝手に……!」
『落ち着け。ツキノが君に精神支配系の魔法をかけたことは私の魔眼が確認している』
「そうだ、ツキノ――ツキノは今何処に!?」
『行方不明だ。ツキノの監視に向けていた目は1つ、それも君に撃墜されたからな』
「……すみません」
『悪いのはツキノだ。マチカの件に関してもな。……そのままそこに隠れていろ。私以外の誰かと、連絡を取ったか?』
「いいえ」
『結構。そのまま誰とも連絡を取るな。カナハをそっちに向かわせる。到着まで10分くらいだ。それまでに体裁を取り繕えるようにしておかんと、末代まで奴にからかわれるぞ?』
冗談めかして言うと、課長は通話を切った。彼女の言うとおり、泣きはらした顔のままカナハを出迎えたりしたら、あの生意気な後輩はそれを一生酒の肴にするだろう。私は顔を洗い直した。
それから10分ほどかけてカナハが到着した。
「災難でしたね、先輩。でも、あの菜乃畑先輩がやられるなんて」
「あの子を殺れるなんて、私くらいのものでしょうね」
実力の問題ではない。魔女課の中でも歴戦の勇士であるマチカが不意打ちされるほど気を許すような相手が私くらいしかいない、という意味だ。
「でもどうして宇佐木先輩は、桜木先輩を使って菜乃畑先輩を……?」
「連続失踪事件のあの魔法少女、ツキノの娘なのよ」
「えっ……?」
黙っておいてやる義理など、もう感じなかった。
「ほら、マチカは魔法少女とトラブルになって、結局殺しちゃうことが多かったでしょう? だからツキノはマチカと娘のチエミちゃんが鉢合わせすることを恐れていた。それで、戦闘用の魔法を持っていてマチカが油断する数少ない相手である私を選んだ」
「娘のためとはいえ、そこまでするもんですかね……。母の愛って奴ですか?」
愛という単語より、鬼子母神という言葉を私は連想した。
「課長からは、一旦本部に連れ帰るようにと言われてます。警察が動いてしまった以上それ相応の手段を講じる必要がありますが、連続失踪事件を抱えている今、手が放せません。先輩にはしばらく不自由な生活をしてもらうことになります」
「覚悟の上よ」
「それじゃ先輩、行きましょう」
「――待って」
中学生くらいの少女が1人、公園の入口を塞ぐように立っていた。
時刻は午後3時前。学校帰りの子供がぶらつくにはまだ早い時間である。
彼女はまっすぐに私達を見つめていた。敵意の混じったその表情にはカナハも見覚えがあるだろう。
「あの子は……!」
「そう、あれが宇佐木チエミ。ツキノの娘よ。……久しぶりね、チエミちゃん」
「――お久しぶりです、トモノのオバサン」
敵意も露わに、チエミちゃんが冷たく言った。初対面のカナハには兎も角、私にまでこの寒々しい対応は、なんだ? 今年あげたお年玉の額が少なかったからだろうか?
緊迫した空気に、カナハが割って入る。
「チエミちゃん、だったっけ? こんにちは! わたしたちはお母さんのお仕事仲間で、警察の――」
「嘘だ!」
チエミちゃんが吐き捨てるように叫ぶ。
「ペッピーはあんた達のこと、殺し屋だって言ってた! それに、あなた達が他の魔法少女を殺すところだって、この目で見たんだから!」
ペッピーというのは彼女を魔法少年にした異界生物の名前だろう。厄介なことにそいつは私達を、魔法少年を殺す組織か何かと吹き込んだらしい。ハルモニアンナイツの時のような現場を実際に彼女自身が目撃したとなれば、信じ込んでも無理はない。
「ファンタジックプリンセスチャージ!」
チエミちゃんが叫んだのは、いわゆる変身呪文――魔法少年としての力を最大限に発揮するための呪文だ。
私達や、おそらくチエミちゃんもそうだが、マジカルアイテムさえあれば魔法を使うのにわざわざ『珍妙な』コスチュームに身を包む必要はない。しかし魔力の行使は人体に多大な負担をかけるため、日常生活において使うことは滅多にない。火を操る魔法を持っていたとしても、マッチやライターの方が何倍もコストが低いのである。ビバ科学文明。
だが戦闘となればそうは言っていられない。
故に、自分の体力や魔法の効果を倍増させるマジカルコスチュームを亜空間から召喚し、装備する必要がある。そのための音声認識起動キーが先程の呪文だ。
私とカナハも似たり寄ったりの呪文を詠唱した。主観時間では兎も角、客観時間において変身は一瞬で完了する。
「ハッ! 歳考えなよ、オバサン!」
チエミちゃんが嘲笑するのも無理なかった。マジカルコスチュームといえど質量保存の法則からは逃れられない。デザインは変更可能だが、マジカル生地の量は継ぎ足さない限り変更できないのだ。異界生物との司法取引で手に入れた素材を使っても、小学生時代にジャストフィットだったコスチュームは今となってはどうしても露出過多にならざるを得なかった。
「マジカル・ドリルスピア、アクティブ!」
チエミちゃんの手に、小学生には不釣り合いの長さを誇る槍が出現する。宝石をちりばめた純白の柄の先端には馬の頭部を思わせる意匠の錘がついていた。馬のたてがみは途中から斧刃になっていて、馬の額からはユニコーンの角よろしくドリルがまっすぐに伸び、低いエンジン音を響かせながら高速回転する。
轟、と風を唸らせながらそれを振りかぶり、チエミちゃんは地を蹴った。
「ハンマー! スピア! トマホーク!」
武器の機能をフル活用した連続攻撃。マジカルワイヤーで槍を切断しようとしたが、鋼鉄にも匹敵する耐久性を誇るはずのワイヤーは振り回された槍の風圧だけで千切り取られた。
「がはぁっ!?」
トマホークの剣圧だけでカナハが吹き飛んだ。ジャングルジムに突っ込み、鉄骨をへし折りながら内部に埋もれる。それでもチエミちゃんは止まらない。完全に息の根を断とうと、ドリルスピアを構えて突進。
「カナハ!」
ワイヤーでジャングルジムを粉々に切断し、彼女の肉体を引き寄せる。鉄骨に全身を串刺しにされながらもカナハは注射針型の自動追尾砲台をチエミちゃんに発射した。チエミちゃんは空中で向きを変え、全方位からの攻撃を回避。
「あの子、強いですね……!」
魔法で傷を高速治癒しながらカナハが呻いた。その頬を汗が伝う。
看護師服を思わせるマジカルコスチュームが示すように、カナハの魔法は治癒や解毒、解呪が専門だ。大抵の傷ならすぐに治してしまえるが、攻撃面においては非力である。対してチエミちゃんは見るからに戦闘特化型だ。それも私達のようなベテラン2人を圧倒するほどの。カナハを前面に出すのは危険だ。
――私がやるしかない。
私はワイヤーがマチカの首を落としたときの感触を思い出さずにはいられなかった。彼女の無惨な最期の姿も。
――できるのか? もちろん、できる。
同じ殺人でも仲間と敵では全く違う。相手が明確に殺意を抱いて襲ってくるのなら尚更やれないわけがない。たとえそれが顔見知りの少女だったとしても。
「相打ち覚悟で行く。カナハ、私が三途の川を渡る前に引き戻してよ?」
「任せてください。傷だけじゃなくて、先輩の残念な造型も治してあげますよ!」
「後で覚えてなさい!」
私は魔力を集中する。身体にみなぎる魔法の力を右の人差し指の先端、そしてそこから伸びるワイヤーに流し込む。ワイヤーが青い魔力の光を放ち、有刺鉄線状に形を変える。
「逝けッ!」
ワイヤーは慣性も重力も無視して、大気中を泳ぐ蛇のように目標へと向かっていった。その速度は音速にも達する。そして目標を絡め取り、縛り上げ、そのまま切断する――。
「せ、先輩……?」
「え?」
チエミちゃんは驚いた表情で立っていた。驚いてはいるが、その身体には傷1つない。それはそうだ、私のワイヤーはカナハの身体に巻き付いているのだから。
「えっ……嘘……!?」
「しぇんぱい……なんれ……?」
なんで、と問われても困る。どうしてこうなったのかわからないのは、この私も同じなのだから。
私はワイヤーを外そうと試みた。けれども私の指は私の意志を受け付けようとしない。
カナハは回復魔法を使い、ワイヤーが身を切り裂く瞬間に切り裂かれた部分を修復することで抵抗している。しかしワイヤーを外す術がない以上、死期を遅らせるだけでしかなかった。
回復魔法を発動させながら、必死に指でワイヤーを引き千切ろうとするカナハ。だが極細分子のワイヤーはあまりにも細く、そして頑丈だ。逆にカナハの指が落ちていく。
首を絞められているせいで息ができず、カナハの目が限界まで見開かれる。その眼球にも、酸素を求めて喘ぐ舌にもワイヤーの圧力は容赦なく襲いかかった。
カナハの魔力の光が弱まっていく。全身を継続的に治癒するというのは魔力の消費が激しすぎるのだ。コスチュームが切り裂かれ、皮が破れ、肉が断たれる。動脈が断たれたことで全身から水芸のように血が噴き出しはじめた。マチカの時とは違い、遮るものは何もない。血の雨は私の身体に容赦なく打ちつける。
「あべぇぇぇ……!」
魔力が切れた後は一瞬だった。ワイヤーが骨まで寸断し、カナハは無数の肉片となった。
「どうして……」
気がつくと、へたり込んでいた。自分の目から涙がボロボロと零れているのが、他人事のように感じられる。
背後で、じゃり、と音がした。振り返らなくても地面に伸びた影からチエミちゃんが私にトドメを刺しに来たのだとわかる。わからなかったとしても、振り返る気力はなかった。予想外の――そしてあまりにも忌まわしい事態に私の頭は飽和状態に陥っていたのだ。
衝撃が来た。私の身体はゴロゴロと砂利の上を転がって、仰向けの状態で止まった。蹴り飛ばされたのだと遅れて理解する。
チエミちゃんがスピアを肩に担ぎ悠々と、しかしその実一切の油断を見せない足取りで近づいてくる。立ち上がって態勢を整えなければならないのはわかっていたが、私は彼女の影が私を呑み込むほど近づいても、そのまま空を眺めていた。
チエミちゃんは私の顔を覗き込め侮蔑したように鼻を鳴らした。
「オバサン、どうして仲間を殺したの? ワケわかんないんですけど」
「……わからない」
「味方してくれたってワケでもないんだ……? キモ。死ね」
目の前に突きつけられた槍の先端がゆっくりと持ち上がる。それが落ちてきたとき、私の頭部は粉砕されるわけだ。
勝手にすればいいと思った。
「――チエミ!」
影の面積が増えた。
「マ……お母さん!?」
新たな影の所有者は、ツキノだった。