心と頭
「ぁ、俺、笑ってた、のか?」
もう敬語すら忘れている。
「は、はい。笑ってましたけど・・・・・・」
なんで、なんで笑ったんだ。あの事故以来、笑うのを止めた。幸せになることを止めた。奈緒をあんなふうにした俺には笑う資格なんてない。楽しい、嬉しい、面白い、なんて思ってはいけない。そういう前向きな感情は全部捨てた。あの時、確かに俺はそういった感情を捨てたんだ。自分で決めたことなのに。
ああ、だめじゃないか。こんなに黙っていたら芹沢さんに心配させてしまう。なにか、言わないと。
自分にとって衝撃的過ぎる出来事にうまく思考がまとまらず、いろんなことを一度に考えてしまう。黙ってしまった言い訳、なんで笑ったんだという疑問となんともいえない苦しさ。自分の覚悟がそうたいしたものでなかったことを知った時の悔しさ。笑えたことに対しての喜び。いろいろな感情が交ざって少しずつ、絵の具みたいに心が黒色に染まっていく。
「か・・・・・・い・・・ん」
芹沢さんの声が聞こえる。
ほら、早く返事しないと・・・・・・
「かわ・・・さ・・・」
なにやってんだよ俺。言い訳が思いつかなくても、今ここで言えばなんとかこの状況を回避出来る。芹沢さんに怪しまれずにすむ。今の俺の事を知られずにすむ。
「河井・・・ん」
あれ? なんで知られたくないんだろう。さっき女嫌いの話をしてたからなのかな。なんで俺はさっきから芹沢さんのことしか考えてないんだ。奈緒のことを考えようとしても何を考えたらいいのか、そこからわからない。心と頭が別々に働いている。
「河井さん!!」
やっと、しっかりと芹沢さんの声が聞こえた。
俺はいつの間にか右手で顔を覆って下を向いていたらしい。芹沢さんの声が上から聞こえてくる。芹沢さんを見るためにゆっくりと上を向く。
「せ、りざわさん?」
俺の顔を見た瞬間、彼女は今までの彼女の表情からは考えられないぐらい、今にも泣き出しそうな顔をした。
何でそんな顔をするんだよ。芹沢さんがそんな、悲しい顔をする必要なんてないのに。
「・・・・・・どうしてそんな顔をするんですか」
考えるより先に聞いていた。
「どうしてって。そんなの、河井さんが今にも泣き出しそうな顔をするからじゃないですか」
「俺が泣きそうな顔? はは、何言ってるんですか」
「・・・鏡で自分の顔を見てきてからそういうことは言って下さい」
何も言い返せない。その通りだ。今の俺じゃあ、説得力がない。
「・・・・・・・・・・・・」
「河井さん? 大丈夫ですか?」
突然何も言わなくなった俺を心配してくれたらしい。また下を向いてしまった俺の顔を見ようとして覗き込んできた。それでも何も言わない俺に対して、
「河井さん、この前のことも含めて本当にごめんなさい! 私、いつもいつも芹沢さんの嫌なことばかりして・・・・・・本当に、ごめんなさい」
そう言って頭を下げた。本当に申し訳ないと思っているのだろう。
でも今の俺はそれどころではない。心も頭もうまく機能しない。さっきまでごちゃごちゃしていたのが嘘のように静かになっている。
俺が泣きそうな顔だって? そんなことあるわけないだろ。そんなことあってはいけないんだ。
俺の本当の顔を見られた。見られてしまった。
どうして。さっきまであんなに楽しく話していたのに。
・・・・・・楽しく? 俺は楽しんでいたのか? どうして。
徐々に機能し始める心と頭。一つの事から疑問が生まれて答えを出す。その答えからまた疑問が生まれる。本当はそんなめんどくさいことをしなくても一つの答えにたどり着く。俺はその答えを知っている。でもそれをしないのは、認めたくないから。
これ以上頭を使ってはだめだ。
このまま芹沢さんの近くにいたらその一つの答えにたどり着いてしまう。それは絶対にだめだ。奈緒を裏切ることだけは出来ない。
「・・・・・・帰ります」
俺は静かに立ち上がるとそのまま家に帰った。