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5 ヒヨドリ、罠、アコースティックギター

「これからどうする?」空になったタッパーを鞄にしまいながら、ユカリが二人に話しかけた。

 穏やかな風が吹き、少女たちの髪を軽く揺らした。弛緩性のある暖かい空気が、屋上公園を含む街の上に何層にもなって垂れ込める。アクアは三人が腰掛けるベンチの側で、体を丸めたまま午睡をむさぼっていた。

「うーん、そうだなぁ」水筒の水を一口飲んで、ミズキが呟いた。「先生の家に行くのはどう?」

「それいいね」アカネが顔をほころばせた。「ここからそんなに遠くないし、行ってみよう。もしかしたら先生、風邪で寝込んでいるのかもしれないし」

 先生の住む家は、ユカリたちのいるビルから東へ六百メートルほど進んだところにある。ユカリたちを含む、クラスメイトのほぼ全員が先生の家に行ったことがあり、勉強を教えてもらったり、食糧を物々交換したり、先生の持つ実験道具で遊んだりと、生徒たちにとって憩いの場となっていた。

 三人は鞄を手に持つと、スカートを軽く手で叩いて埃を落とし、階段へと向かった。彼女たちが立ち上がる気配に気づいたのか、アクアはのそりと起き上がり、大きく伸びをした。猫はしばらく潤んだ目を瞬かせていたが、やがて静かな足取りで彼女らの背後を付いてきた。

 ビルの階段を下ると、三人のバラバラの靴音が反響し、室内のうら寂しい雰囲気がより鮮明になった。窓の近くの掃除用具は、最初に置かれたときのまま鎮座してあった。三人は道具をそれぞれ手に持つと、窓から身を乗り出して、ユカリとアクアが黄色のボートに、アカネとミズキが赤色のボートにそれぞれ飛び乗った。

「それじゃあ、出発進行」

 アカネの朗らかな声を合図に、ボートは進みだした。空は薄い藍色に澄み渡り、綿を千切ったような雲が点々と浮かんでいる。そんな浅葱(あさぎ)色の空を背景に、二羽の鳥がゆっくりと旋回しながら、彼女たちの漕ぐボートを見下ろしていた。鳥たちの堂々とした飛翔は、まるで「この空は自分たちの縄張りだぞ」と主張しているようだったが、その飛ぶ姿を見ている者は誰一人いなかった。


 黄色いボートを先頭にしばらく進んでいくと、先生の暮らすマンションが見えてきた。鉄筋コンクリート構造の三階建てのマンションで、二階部分から下は水没している。壁のタイルはほとんどが剥げ落ちていて、どことなく陰気な雰囲気が漂っていた。

 この街が海に沈む前のことを、先生はよくユカリたちに話した。当時、先生はこの街の中学校で非常勤講師をしており、古いアパートで暮らしていたらしい。ところが、街が海で満たされたときに、住んでいたアパートが崩壊しそうになり、慌てて現在のマンションに移り住んだそうだ。

「あ、先生だ」ユカリはそう言ってから、後ろにいるアカネとミズキを振り返り、「ほら見て、釣りをしているよ」

 先生は屋上のフェンスに肘を掛けて、釣り糸を垂らしていた。長袖の白衣を着て、背中を軽く曲げている。アカネが大きく手を振ると、先生も顔の横に片手を上げて、軽く振り返した。怪我や病気に罹っているのではないらしい。ユカリたちは胸をなでおろした。

 三人はバルコニーに接岸して、紐でボートとバルコニーの柵を結んでから上陸した。三階部分は先生の居住スペースになっていて、バルコニーから屋上に続く階段が備わっている。

 階段を登って屋上に着くと、先生が釣り糸を巻き取っているところだった。屋上の周りは鉄製のフェンスで囲われており、家庭菜園の畑(マス目の荒い、緑色のネットが張られている)がある。他にも、雨水を貯めるドラム缶や一人用のゴムボートが屋上の隅にあって、先生がどこからか拾い集めてきたもの――ブルーシートや錆びた自転車、消火器など――が無造作に置かれていた。

「先生、こんにちは」ユカリの言葉に被せるように、他の二人も挨拶をした。

「おう、こんにちは」釣り竿を片付けながら、先生が言った。「今日は見慣れない顔がいるな」

「船長のアクアです」獲得した財宝を自慢する海賊のような口調で、アカネが言った。「今朝、ユカリちゃんと登校するときに仲間になったんですよ」

「よろしくな、アクア」先生が声をかけると、アクアはそっと先生の側に寄り添った。猫は白衣の滑らかな感触を足先で二、三度確認すると、そっぽを向いて畑の方に歩き出した。

「先生、ドンマイ」からかいの意志の感じられる声色で、ミズキが言った。先生は光が散るような寂しげな笑みを浮かべ、釣り竿を足下のクーラーボックスに立て掛けた。

 三人はアクアの行き先を目で追いながら、畑に視線を向けた。そして、屋上菜園の様子が普段と異なることに気がついた。

「どうしたんですか、これ」畑を指さして、アカネが上擦った声を発した。「ネットが破れてるし、土も荒らされてる……」

「鳥にやられたんだ」ボサボサの髪を掻いて、先生が言った。「たぶんヒヨドリのせいだな。朝起きて来たら、この有り様だったんだ」

 ヒヨドリは全長が約二十七センチほどの、灰褐色の鳥だ。食欲が旺盛で、花の蜜や木の実、果実はもちろん、畑の野菜も食べてしまうほどの雑食性を持っている。

「ネットを食い破って、その隙間から入ってきたんですね」一部分が裂けたネットに目を向けて、ユカリが言った。

「海で拾ってきた古い網だったからな」無精髭を触りながら、先生が渋い顔をした。「元々は漁網として使われていたんだろうね……長い間使っていたものだし、仕方ないよ」

「捕獲用の罠を作っておこうよ」腕組みをしたまま、アカネが提案した。「鳥も捕まえられるし、夕飯の材料にもなるよ。まさに一石二鳥じゃない?」

「あるにはあるんだけどな」白衣のポケットに両手を突っ込んで、先生が言った。「鳥よけじゃなくて、夜盗とか侵入者用の罠だけど」

「どこに設置してあるんですか、その罠って」屋上全体を見渡しながら、ミズキが尋ねた。

「ここにはないんだ」先生は立てた人差し指を下に向けて、「寝る前に、掃き出し窓の下に設置しておくのさ。今は解除されているから安全だよ」

 吹き込んできた風が、先生の白衣をはためかせた。先生は少女たちに向き直り、自作した罠について話した。

 まず、バルコニーから室内へ通じる窓の、床上一センチの位置に何本かテグスを張っておく。テグスは鋼鉄の板バネに結わえ付けられていて、その板バネは止め金で軽く固定されている。もし獲物がテグスに足を引っ掛ければ、止め金が外れ、鉄のバネがしなり、侵入者の足を払うという寸法だ。

「すごい、弓の原理を応用したんですね」ユカリが感心したようにしきりに頷いた。

「実際に動けばの話だけど……」ミズキが先生の顔を見て、からかい気味に言った。

「それが、ちゃんと作動したのさ」表情をほとんど変えずに、先生は言った。「三週間くらい前かな……俺が寝ている隙を狙って、夜盗が侵入したんだ。バルコニーから入ってきて、鍵の閉まっていない窓から部屋へ足を踏み入れたときに、罠にかかったんだよ。そいつの悲鳴で目覚めて、駆け寄ってみたら男が一人うずくまっていたのさ」

「泥棒は、その後どうなったんですか?」やや神妙な面持ちで、ユカリが訊いた。

「魚の餌になってもらったさ」事も無げに先生は言い切った。「そうしないと、返り討ちにあっていたかもしれないしな」

 ユカリは菓子倉庫で発見した水死体のことをふと思い出した。もしかして、あれは先生の家に侵入を試みた泥棒の亡骸だったのではないだろうか。そんな思いが脳裏をよぎったが、アカネがいる手前、湧いてきた思いつきを胸の奥に押し込んだ。

「まあ、鳥の前ではそんな罠も意味がなかったわけだ」あっさりとした声色で先生は言った。「まさかネットを食い破られるとは思わなかったよ」

 先生は嘆息して畑を見渡した。畑の土にはヒヨドリの糞がこびり付き、まるで乱射した銃の弾痕(だんこん)のようだった。クーラーボックスの側にあるゴミ袋には、先生が片付けたと思われる、抜け落ちた鳥の羽根が入っていた。

「鳴き声で気が付かなかったんですか?」ユカリが先生に訊いた。「ヒヨドリの声って、かなり喧しいでしょう」

「あー、それはだな……」先生は少し罰の悪そうな顔をした。「その晩、ちょっと深酒をしてしまってな。昼過ぎに起きて、屋上に上がってみたら、このザマだったわけだ」

 三人はそれぞれ呆れ顔を作り、冷ややかな視線を先生に送った。先生も苦笑して、少し俯きがちになり、無言で無精髭を撫でた。

「それで、釣りの成果はどうなんですか」クーラーボックスを一瞥して、ミズキが尋ねた。

「ご覧のとおりさ」先生はクーラーボックスの蓋を開けて、三人に見せた。中に魚はおらず、入っている海水が日差しを受けて、寂しい光を放っていた。「昔から生き物とは折り合いが悪くてね。魚も、鳥も、猫も……」

「そんな先生に、私たちからプレゼントがあります」アカネが親しみの篭った声で言うと、鞄の中を探り、「はいこれ、キャラメルです」

「あたしもあるよ」ミズキがそう言って、クッキーを一袋手に取った。「ガムとクッキーがあるけど、腹持ちの良いクッキーの方が助かるよね?」

「じゃあ私はこのお菓子を……」ユカリがビスケットの入った袋を差し出した。「困ったときはお互い様ですから」

「ありがとう……恩に着るよ」もらったお菓子を手に持ち、 先生が破顔して言った。「正直、途方に暮れていたんだ」

「良かったね、先生」アカネが目を細めて笑った。「酒のおつまみにはならないかもしれないけど、勘弁してね」

 先生が困ったような笑みを浮かべた。それに感化されるように、彼女らの温かい笑い声が、湯のように湧き出た。笑い声以外に聞こえてくるものは、潮の香りを含んだ風の音と、ゆっくりと円を描きながら飛ぶ鳥の鳴き声と、石が水に沈むような魚の跳ねる音だけだった。


「あれ……」笑いの波が静まった頃、ユカリが呟いた。「アクアはどこ?」

「そういえば、さっきから姿を見ないね」アカネの表情に焦りの影が広がる。「海に落ちたとは思えないけど……」

「下の階に行ったのかもな」先生はそう言うと、階段の方へと歩き出し、「探しに行こう、お前らも来い」 先生に先導されて、ユカリたちは室内に足を踏み入れた。そこは居住空間というよりは、物置小屋の様相を呈していた。何処からか拾い集めてきたものを、先生が適当に置いた結果、雑多な印象を与える部屋になってしまったのだろう。

 部屋は十一畳ほどの広さの洋室だった。風雨の影響か、いくつかの窓ガラスが割られていて、窓枠にダンボールが貼り付けてある。差し込む陽の光はか細く、陰鬱な雰囲気が蜘蛛の巣のように部屋の隅に漂っていた。

 バルコニーに面した窓(先生が毎晩罠を仕掛けている窓だ)の側にはベッドが設置されているが、脱ぎ捨てられた衣類や雑誌の束が上に置かれていた。部屋の中央には大きなソファと酒の空瓶が置かれたテーブルがあった。ソファの背もたれには寝袋が掛かっていて、先生が普段そこで寝起きしていることが伺えた。

 洋室には様々な物が配置されていた――ダンボールに入った僅かな食料品、ラベルの剥げかけた酒瓶、 乾燥した薪の束、折りたたまれた白衣、フラスコや試験管などの実験道具、山積みの書籍や雑誌、ケースに入ったアコースティックギター、スパナな金槌(かなづち)などの工具類、 固形アルコール燃料、 包帯や医薬品などの救急物資――パッと目に入る物資を数え上げるだけでも、枚挙に(いとま)がない。ベッドの近くの壁には、星図の描かれた大判のポスターや、先生が作図をした街の略地図が飾っていて、地図には生徒の家の位置なども書き込まれていた。

 さらに、ベッドから対角線上にある、開け放たれた扉の向こうに、十三畳ほどのリビング・ダイニング・キッチンが広がっている。そこは洋室よりも散らかっていて、その乱雑さは、三人が足を踏み入れるのを躊躇うほどだった。

「男一人で生きていくには広すぎるくらいだ」先生がテーブルの上の酒瓶を片付け、キッチンへと向かった。

「前に来たときよりも、物が増えている気がするよ」ソファに置かれた寝袋を畳みながら、アカネが言った。「アクア、何処に行ったんだろう……」

「あ、ここにいたよ」ユカリが膝を折って屈みながら、ベッドの下を覗き込み、「出ておいで、アクア」

 差し出されたユカリの手を見つめたまま、アクアは身体を丸めていた。やがて手から視線を外し、三人の顔を順繰りに見ると、小鼻を震わせながら一度鳴いた。そして、緩慢な動作でベッドの下から這い出てきた。

「もう、勝手にどこかに行ったらだめだよ」体温の有無を確かめるような手つきでアクアの頭を撫でながら、アカネが言った。「心配したんだから……」

「でも、無事で良かったな」ミズキがアクアの顔を見ながら、歯を見せて微笑んだ。そして一歩後ろに下がった拍子に、立て掛けてあったアコースティックギターのケースにミズキの右足が当たり、ケースが小太鼓を叩くような音を立てて倒れた。

「どうした、大丈夫か?」ジュースの入ったコップを運びながら、先生が言った。「いい加減、部屋の整頓をしなきゃな……」

「すみません、倒しちゃって」ミズキがケースを元の位置に戻しながら謝った。「先生、これって中に何が入ってるの?」

「アコースティックギターっていう楽器だよ。ここから南に少し行ったところに音楽スタジオがあってね、そこから拝借してきたんだ」

「その楽器、本で見たことあるかも」アカネが嬉々とした表情で言った。「洋梨みたいな木の箱から、カブトムシの角っぽいものが伸びていたような……」

「そんな楽器、本当にあるの?」疑念の影がミズキの眉間(みけん)に刻まれた。「全然想像できないや……」

 先生がコップを三つ並べて、ユカリたちにソファに座るよう促した。三人は礼を言ってから、横に並んで席についた。ギターケースの匂いを嗅いでいたアクアは、少女たちの足下まで歩み寄ると、しっぽをだらりとさせて丸くなった。

「楽器ってことは、何か音が鳴るんだよね」ユカリがジュースを一口飲んだ。「わ、これ美味しい……」

「オレンジレモネードさ。ジュースの粉末を水で溶いたものだけど、けっこういけるだろ」先生はケースを開けて、アコースティックギターを取り出した。「ほら、これがギターだ」

 先生は傍らにあった小さな椅子を引き寄せた。そして三人と向かい合うように座ると、足を組んでギターを構えた。一メートルほどの大きさのギターは、木目の自然な色合いが美しく、ボディは深くくびれていた。

「本当に洋梨みたいな形だね」感心するようにミズキが呟き、喉を鳴らしてジュースを飲んだ。「うん、甘酸っぱくて美味い……」

 楽器を初めて見た三人の顔には、高揚の色が浮かんでいた。先生はギターの先端にあるペグを回して、音程の調整を始めた。右手で弦を弾き、左手でペグを丁寧に弄る様子には、職人めいた風格すら感じられた。一本ずつ音を鳴らすたびに、張られている弦が震えて、それは部屋に差し込む陽光を受けて微かな輝きを放った。

「チューニングはこんなところかな」先生はコードをいくつか押えて爪弾き、音の感じを確かめた。「菓子のお礼としては稚拙だけど、一曲披露するよ」

 咳払いを一つすると、先生はギターを弾き始めた。ギターの音は柔らかく、温かな響きを伴っていた。ゆったりとしたテンポで和音を奏でる先生の手は、それ自体が身体から切り離された別の生き物のように動いた。

 イントロを四小節弾くと、先生の歌がギターの音色に被さってきた。やや掠れた、しかし穏やかな先生の歌声は、牧歌的な曲の雰囲気に上手く馴染んでいた。先生の発する言葉は英語で、歌詞の意味は三人には分からなかったが、流れるような音の響きが心地良かった。

 先生は遠くの風景を眺めるような顔でギターを弾き、軽やかな調子で歌った。どことなく郷愁感のあるその演奏には、自然と聴く者を惹きつける力があり、三人は身体を揺すったり、膝に置いた手でリズムを取ったりした。アクアは仏頂面でギターを眺めながら、思い出したように時折しっぽを左右に振った。三分ほどで曲は終わり、最後のコードを弾き終えると、先生は組んでいた足を解いてから一礼をした。

 ユカリたちのささやかな拍手の音が、部屋の中で反響した。先生は「お粗末さまでした」と言って立ち上がると、ギターをケースに仕舞い始めた。

「すごい良い歌……」アカネが陶酔感を滲ませた顔で言った。「なんていう曲なんですか?」

「Take Me Home, Country Roads」椅子を元の場所に戻しながら、先生が言った。「歌詞は英語なんだ。少し前に授業でやったろう、ここから遠いところにある国の言葉さ」

 ユカリは話を聴きながら、先生の歌った曲のメロディとギターの音色を、心の中で丹念になぞっていた。そしてサビのメロディを頭の中で繰り返しているうちに、ユカリの脳裏に突然、彼女の家族の姿が去来した。それはこちらに優しい微笑みを投げかける母親と父親の姿で、ユカリは家族の元に帰りたいと強く思った。

 アカネとミズキも同様の景色を見たらしかった。三人はお互いに顔を見合わせて、はにかむように笑い、先生に向き直った。

「先生、私たちそろそろ帰ります」やおら立ち上がって、ユカリが言った。「なんだか、急に家族に会いたくなっちゃって」

「そうか……まあそうだろうな」先生は腕組みをしたまま、何度か頷いてから呟いた。「この曲には、故郷へ帰りたいって思いが籠められているんだ」

「故郷の歌か……」噛みしめるような口調で、ミズキが言った。「なんだか、心がじんわり温かくなる感じの歌だったよ。また聴かせてね、先生」

「そのときまでに、もっと練習しておかなきゃな」先生は穏やかな笑みを唇の端に浮かべながら言った。「今度、学校へギターを持っていくよ……そういえば、音楽の授業は今までしてこなかったな」

「さっきの歌、クラスメイトと歌ったらきっと素敵だよ」アカネが形の良い唇をほころばせて言った。「音楽の授業、楽しみにしてますね」

 埃っぽい部屋の中で、アカネの笑顔は一際華やかに見えた。先生が控えめな笑みを浮かべて頷くと、アクアと目が合った。アクアは薄目を開けて、濁声で一度鳴いた。それはとても親しみのある鳴き声だった。先生は筋張った腕を伸ばして、猫の頭を優しく撫でた。

 机の上には空のグラスが三つ並んで、細長い影を伸ばしていた。室内にはまだ昼間の暖かさが残っているが、空は少しずつ薄紅色に変わりつつあった。


「それじゃあ、気をつけて帰れよ」白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、先生が言った。

 ユカリたちがボートに乗り込むと、水面に波紋が広がった。西に傾いた陽の光がさざ波を照らし、それは無数の光の粒子を散らした。

「先生、また明日ね」ボートを結んでいた紐を畳みながら、アカネが言った。「畑の掃除とか、大変だろうけど……」

「まあ、何とかなるさ」首の後ろの辺りを掻きながら、先生が言った。「農作物はまた育つし、悲観する必要はないよ」

「そうだね、時間はたっぷりあるし……」同じボートにいるアクアの背中を撫でながら、ミズキが言った。「今夜はあたしたちのあげたお菓子、ちゃんと味わって食べてね」

「ああ、もちろんだよ」

「じゃあ先生、また明日」

 ユカリが先生に向けて穏やかに笑いかけると、二隻のボートは音も立てずに発進した。赤いガラス球のような夕陽が少女と猫を正面から照らし、水の道は黄金色に輝いていた。ボートはその一本道を、ゆったりとした速度で進んでいった。

 先生はベランダに肘を掛けたまま、遠ざかっていくボートを眺めていた。やがてボートが見えなくなると、無精髭を軽く撫でてから、先ほどの曲の旋律を鼻歌で歌いながら、室内に戻った。

 少女たちはしばらくの間、無言でパドルを漕いでいた。アクアは夕陽が眩しいのか、目を細めたまま、じっと前方を睨みつけていた。真っ黒なアクアの身体は西日を浴びて、風景に穿(うが)たれた穴のように見えた。

 ふいにユカリが、先生の歌っていた曲を歌い始めた。それは声量がやや不足した、だが絹の毛布に包まれるような、柔らかな響きのある歌声だった。ユカリの歌声に引き寄せられるように、アカネもバケツの底を手で叩いてリズムを刻み、メロディを口ずさんだ。ミズキは傍らにあったホウキを持つと、ギターを弾く先生の真似をしながら歌った。歌詞も適当で、音程も崩れていたが、彼女たちはこの演奏を心の底から楽しんだ。三人の歌を聴いているアクアは、ボートが出発したときと同じように前方を見ていたが、曲のテンポに合わせて、そのしっぽは左右に揺れていた。

 広大な群青の海で、彼女たちの歌声は水平線の彼方まで、いつまでも響き渡った。



<了>

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