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4 トイレ、チューインガム、水分不足

 アクア探しゲームは続行していた。何処から見つけ出したのか、アクアは棒状のスナック菓子の袋を前脚で弾いていた。戯れているのではなく、アカネに自身の場所を知らせるためにわざと音を立てているみたいだった。

「たぶんこの辺かな」ミズキに目隠しされたまま、夢遊病患者に似た歩みでアカネが前進し、立ち止まる。「足元でアクアの気配がする、ここでしょ」

 手を解かれて、何度か目を瞬かせてから、アカネは下を向いた。石炭のような黒い毛を舐めながら、アクアがアカネを見上げていた。

「大正解。じゃあこれ、賞品のクッキーね」ポケットから包装されたクッキーを一枚取り出し、恭しく手渡した。

「ありがとう、ミズキちゃん」アカネが喜びの声を上げた。「アクアもありがとうね。ヒントを出してくれていたの、知ってたんだから」

 毛並みに沿って、アカネがアクアの背中を撫でる。真っ赤な喉の奥が覗けるほど大きな口を開けて、アクアが欠伸をした。

「じゃあ、もう少し物色しておきますか」腰に手を当てて、ミズキが言った。

「そうだね」ユカリが相槌を打つ。「お菓子と、あとは使えそうなものをトイレから拝借していこう」

 三人は鞄から手帳を取り出した。シンプルで機能的なものもあれば、ピンク色のキャラクターの絵が描かれたものや、表紙が擦れてぼろぼろになっているものもある。手帳には自宅に備蓄してある品物や必要な資材が、箇条書きで事細かく記されていた。

 水没した街で暮らしていて、自分の持ち物を管理していない者はいなかった。背負っているリュックサックの中身を知らないまま、山の頂を目指す登山家がいないのと同じだ。


 ドアの前に鞄を置くと、ミズキが女子トイレのドアを開けた。ガラス付きの小さな洗面台があり、左奥には個室が三つ並んでいた。部屋の隅にはスチール製の清掃用具入れが置かれている。

 トイレの上部にある小窓からは陽光が差し込み、壁のタイルに走るヒビ割れを仄かに照らしていた。湿っぽい感じはないが、床の染みや配管の錆が、陰鬱な印象を与えていた。

 三人は個室の中をそれぞれ覗き込み、ホルダーや棚に置かれていたトイレットペーパーを回収した。トイレットペーパーは、本来の使い方はもちろん、火起こしの際に薪と一緒に燃やすと火の回りが早くなるのだ。和式便器の中には焦がした砂糖のような色の水が溜まり、虫の死骸が浮いていた。

 トイレットペーパーを計三つ、トイレの中央あたりに重ねて置くと、アカネが清掃用具入れを開けた。中にはビニールホース、モップ、ホウキ、ちりとり、バケツ、洗剤、雑巾、便器洗浄用の棒タワシが収納されていた。

「結構色々あるね」用具に目を走らせながら、ユカリが言った。「こんなに入ってるとは思わなかった……」

「いつも通りにジャンケンで決める?」用具入れに片手を添えたまま、アカネが呟く。

「そうだね」ミズキが握った拳を顔の前で、鈴のように振っている。「じゃあ、勝った人から欲しいものを持っていくってことで」

 三人の溌剌とした掛け声がトイレに響き渡り、すぐに歓喜と落胆の混ざり合った声が、煙のように立ち昇る。倉庫内をうろついていたアクアが動きを止め、声の発生源のあたりをちらりと見た。そしてふいに顔を背けると、控えめな欠伸を一つした。

 満面の笑みを浮かべたアカネがバケツを指差し、手帳のページを数枚捲る。日用品の項目に、丸みを帯びた字体で[バケツ]と記入した。

「いいなぁ、バケツ……」ミズキが軽く唇を突き出し、嘆息した。

「再利用できる容器は大事だからね」アカネが白い歯を見せて微笑んだ。「水を貯めるのに使えるし、逆さにすればテーブルになる……」

 次に勝利を収めたユカリが、ビニールホースの束を掴み、肘に引っ掛けた。

「どうしてそれなの?」アカネが尋ねた。

「液体を移すのに使えるらしいんだ」手帳に[ビニールホース]と書き込みながら、ユカリが言った。「先生が前に言ってたでしょ。確か、サイフォンの原理と言ったっけ……液体が高い位置から低い位置へ、管を通って流れていくって」

「言っていたような、言っていなかったような……」耳の後ろを掻きながら、ミズキが呟いた。

「ロープの代わりにもなるしね」アカネがバケツを両手で抱えたまま言った。「じゃあ最後、ミズキちゃんの番だよ」

 三呼吸分ほどの間を開けてから、ミズキはホウキを選び取った。ホウキはホウキギの茎で編まれていて、一メートル弱ほどの長さだった。

「乾いた木は貴重だし……」手にしたホウキに上から下へ、視線を走らせる。「分解して火種にでもするよ」

 三人は残りの用具を戻し入れると、選んだ品とトイレットペーパーを手に持ち、トイレを出た。火事場泥棒のように、全ての資材を根こそぎ持っていくようなことは、彼女たちはしなかった。丁寧にトイレのドアを閉めると、鞄にトイレットペーパーをしまい、菓子のある倉庫に戻った。


「いくつかお菓子を貰っていくか」ホウキを片手にミズキが言った。

「どれにしようかな……」ユカリが鞄にホースを詰め込み、ダンボールの中を一つずつ見て回る。「色々あって迷うね。味も、パッケージも、カロリーも違うから」

 お菓子は単なる嗜好品ではない。長期保存が可能で、糖分とエネルギーを手軽に摂取できる優れものである。食料の乏しいこの街において、毎日の食事は専ら自宅で採れた芋や豆、野菜、釣りで手に入れた魚、もしくは他所の店からの盗品の組み合わせだ。乾パン、真空パックの米、乾麺などの主食品……塩、砂糖、味噌、醤油などの調味料一式……牛肉の大和煮、鶏ささみのフレーク、シーチキン、オイルサーディンなどの缶詰各種……。塩分過多な味付けが多い彼女たちの食生活において、優しい菓子の甘みは、土砂降りの雨から身を守る傘のような喜びを与えてくれる。

「あたし、これにする」ミズキがチューインガムの包みとクッキーの袋をそれぞれ二つずつ、自分の鞄に入れた。

「ガムって何?」バケツを壁際に置き、アカネが質問を投げかける。

「魔法のお菓子だよ」包みのパッケージを見ながらミズキが言った。「どんなに噛んでも無くならないらしいから」

「怪しいよ、それ」からかいの気配を滲ませた表情で、ユカリがガムの包みを指差す。

「食べても減らない代わりに、身体の大事な栄養が無くなるのかもよ」二人の側に寄って、アカネが言った。

「怖いこと言うなよ……」

「ねえ、この注意書き……」ユカリの目が細くなり、睫毛の陰が落ちる。「ほら、ここ。お腹がゆるくなることがありますって書いてあるけど」

「ゆるくなるって、どういう意味?」ミズキが言った。

「アクアみたいに、ふわふわになるのかも」猫を一瞥して、アカネが優しく微笑んだ。

「お腹がふわふわになったら困るな」ミズキが自分の腹を軽く平手で打った。ミズダコを叩くような音が鳴り、三人分の柔らかい笑い声が上がった。「何だか気に入ったよ。案外、本当に魔法のお菓子かもしれないね」


 笑いの波が引くと、ユカリが顎に指を当てて倉庫内を練り歩いた。二分ほど経って、菓子の袋の後ろを見ながら、二人の元へ戻ってきた。

「私はこの二つにするよ」ビスケットとクッキーの袋を手にして、ユカリが言った。「保存状態が良いし、カロリーも高いから」

「合理的だな」快活さが滲んだ声でミズキが言った。

「ユカリちゃんらしいよ」アカネがダンボールの中を探っている。「じゃあ、私はこの綺麗なお菓子にしようかな」

 アカネの手にはグミの袋があった。グミにはイチゴやオレンジ、ブドウなどの味があり、絵の具の中身をそのまま塗りつけたような、派手な色合いをしていた。

「一種類だけでいいの?」ミズキが尋ねた。

「うん、これがあるから……」アカネは鞄の中にあるキャラメルの箱を二人に見せた。

 キャラメルの箱を見たとき、ユカリは水死体の肌の色を思い出した。水を吸って膨張した、溶けた蝋のような皮膚の土左衛門。ユカリの顔が固まり、動揺を悟られないように唇を舌で濡らし、なるほどね、と相槌を打った。ミズキも同じような印象を受けたらしく、平静を装って微笑んでいるが、眉根に皺が寄っている。

 鼻にかかった猫の声。ボート近くの窓の下をうろつきながら、アクアが鳴いた。

「そろそろ行くか」ホウキを握りしめて、ミズキが言った。「私が最初に出るよ。荷物を先に受け取るから、重いものから順番によろしくね」

 窓の縁に足をかけると、ミズキは弾みをつけて飛んだ。ヨットの帆のように膨らんだスカートを片手で抑えながら、軽々とボートに着地すると、海面に波紋が広がった。

 ユカリたちから受け取った荷物をボートに積み入れると、ミズキは二人の手を取ってボートに引き入れた。船長であるアクアが最後に飛び乗ると、ユカリたちのボートが先頭に立って、ゆっくりと進みだした。

「これからどうするの?」ミズキが前方の二人に向かって声をかけた。

「昼ご飯にしようよ」オールを握り締めて、ユカリが言った。「いつもの、ビルの屋上でね」


 幅の広い道を数百メートル進み、交差点を直進する。ボートをしばらく走らせると、道路の北側でオフィスビルが立ち並んでいるのが見える。その一帯に、元はソフトウェアの開発会社だったらしい五階建てのビルがあった。蔦の絡まったビルの壁面は陽光を浴びて輝き、風によって葉が煽れるたびに光の加減が変わった。

 ボートを横付けし、鉄骨にロープを結び付けて固定して、三人と一匹は窓からビルに乗り込んだ。屋上に向かうのに邪魔になるので、菓子倉庫で入手した道具は窓枠の側にまとめて置いた。

 階段を上がり、最上階のドアを開けると、テニスコートほどの大きさの屋上があった。ウッドデッキの回廊が屋上を横切るように伸びていて、両端には芝生が広がり、レンガ積みの花壇が点々と置かれている。屋上のフェンスには蔓が巻き付き、まるでふくらはぎに浮き出る血管のように、ビルの壁面を縦横無尽に伸びている。

 緑が太陽光を吸収しているためか、屋上は海上よりも湿度が低く、心を和ませる涼しい風が吹いている。三人はオリーブの木に歩み寄り、根本にあるベンチに腰掛けた。アクアは肉球に当たる芝生の感触が珍しいのか、跳ねるように芝生を闊歩している。

「前から気になってたけどさ」ユカリがタッパーから干し芋を摘み出し、周囲を見回した。「この屋上っていつも綺麗だよね」

「誰かが手入れをしているのかもね」器に入った豆の煮物をスプーンで掬いながら、アカネが呟いた。

「誰かって……誰よ?」干した鰯を口に運んでいた手を止めて、軽い調子でミズキが言う。

「この建物に住んでいる人がいるとか……」アカネが大豆を嚥下してから言った。「私たちがいないときに、こっそり水をやってるんだよ。ここって、枯れてる花や雑草が全然無いし」

「変わってるよな、その人」干し魚を咀嚼しながら、ミズキが脚を組んだ。スカートから伸びる脚は栄養を蓄えた野菜のようで、日が当たるたびに光り輝いている。「実の生る植物なんて、ほとんど植わってないでしょ。あたしがこの屋上のオーナーなら、野菜ばかり育てちゃうな……」

「でも、感謝しなくちゃね」頬に優しい微笑みを浮かべて、ユカリが言った。「おかげでこうして、木陰で昼ご飯が食べられるわけだし。アクアも嬉しそう……」

 三人の視線が、芝生で寝転がるアクアに注がれた。好奇の視線に気づいたのか、アクアは小川のせせらぎに身を任せる葉のような、流麗な足取りでベンチに向かうと、ユカリの顔をじっと見上げた。

 ユカリも同様に、アクアの瞳を見つめていた。ユカリは猫の顔に微かな陰りがあるような気がして、数回瞬きをした。最初はオリーブの木の葉が作る陰影のせいだと思った。だが、普段は秋の高い空のように穏やかな青色を湛えているその瞳は、今は夜明けの雲の多い空のようなすみれ色をしていた。青の濃度の薄まったアクアの目を見て、ひょっとして喉が渇いているのだろうか、とユカリはふいに思った。

 ユカリは鞄から水筒を取り出した。その動作で気が付いたのか、アカネが煮物の蓋を裏返して地面に置き、アクアの前に差し出した。ユカリが水を注ぎ入れると、アクアは水に鼻を近づけて、二、三度匂いを嗅いだ。そして洗濯のりを混ぜるような音を立てながら、熱心に水を飲み始めた。

「よく分かったね、水を欲しがってるって」額にかかる髪を掻きあげて、アカネが言った。

「目だよ」ユカリが慈愛の籠もった声色で反応する。「アクアの目を見ていたら、瞳の青さが薄まっていたような気がしてね。何となく、水が足りてないんじゃないかなって思ってさ」

「すごいね、あたし全然気が付かなかった……」心底感心した様子で、ミズキが言葉を発した。

「目は口ほどに物を言うって言葉を、図書室の本で見たことあるよ」猫の後頭部のあたりを見つめながら、アカネがしみじみと言った。「アクアのこと、ちゃんと見てあげないと駄目だね。船長の健康管理は、乗組員の立派な義務だもの」

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