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3 宝、倉庫、水死体  

「おーい、二人とも遅いよ」

 快活な女性の声が屋上から放たれた。学校の正門を通り過ぎていたユカリとアカネの耳元まで、その声は届いた。

「ごめん、すぐに行くよ」アカネが大きく手を振って応えた。手の動きに合わせて、水面が微かに波立った。

 二人は正門を抜けて、学校の敷地に入った。校舎の壁にはヒビが幾筋も入っており、その割れ目から伸びた草木が、太陽の光を受けて青々とした輝きを放ち、上に伸びていた。

 だだっ広いグラウンドを通ると、右手にある校舎の壁面に一隻の赤いボートが停泊しているのが見えた。二人はボートを横付けして、ベランダの壁に打ち付けられた金具にロープを括りつけ、ボートを停めた。荷物を担いだユカリが弾みをつけてベランダに飛び乗り、アカネの手を取って上陸の補助をして、アクアが二人の後ろを影のように付いてきた。

 割れた窓から日光が差し込み、校舎内を照らして、舞い上がった埃を微細な霧のように浮かび上がらせていた。光の届かない天井の隅は陰気で、蜘蛛の巣が張っている。ユカリたちは屋上に続く階段を昇り、蝶番の錆びたドアを開けた。開け放ったドアが、雌馬の歯ぎしりのような音を立てた。

「おはよう、ミズキ」

 机の上であぐらをかいているミズキに、ユカリが声をかけた。

「おはよーう」気怠げな声でミズキが応えた。足元に鞄が転がっている。「待ちくたびれちゃったよ。お尻から根が生えて、机とくっついちゃうかと思った」

「ごめん、ちょっとアクシデントがあってさ」

「アクシデント?」ミズキが首を傾げた。「ってか、その猫はどうしたの」

「アクアって名前なの」猫に視線を落として、アカネが言った。「この子がいなかったら、私たち、ちゃんと登校できなかったと思うよ」

「へぇ」机から降りて、アクアの目の前でしゃがんだ。「こんにちは、アクア。二人を連れて来てくれてありがとうね」

 アクアがミズキの顔を覗き込んだ。二つの顔の間を風が吹き、アクアの髭とミズキの短い髪が揺れる。二人はしばらく見つめ合っていたが、ふいにアクアが視線を逸した。そして屋上の端の方に歩き出し、小さな欠伸をして、口の周りを舐めると、ぼんやりと大海を眺めた。

「嫌われちゃったかな?」猫の後頭部のあたりに目をやりながら、少し残念そうにミズキが言った。

「何というか、飄々とした子なんだよ、アクアは……」目を細めて、ユカリが笑みを浮かべる。「別に嫌ってるわけじゃないと思うよ。本当に嫌なら、爪で引っかかれてるだろうし」

 ミズキはしばらくアクアに優しく声をかけたり、首の後ろを撫でたりしていた。彼女の好奇心を、アクアは無抵抗という態度で受け入れた。耳を指先で摘まれても、肉球を軽く押されても、時折尻尾を揺らすだけで、アクアは決して爪を立てるようなことはしなかった。アクアにちょっかいをかけるミズキのほうがよほど猫っぽいな、とユカリは思った。

 海は相変わらず穏やかで、水面は一枚のガラス板のように滑らかだ。太陽は高さを増して、日光が少女の腕で弾け、産毛を照らしていた。他のクラスメイトはおろか、白衣の先生――三人の知る限り、毎日学校に来ている変わり者――さえも、訪れる気配がない。

「今日の授業はお休みかもね」アカネが嘆息した。

 アクアを撫でていた手を止めて、ミズキが「じゃあ、どこか遊びに行こう」と言った。

「それなら、お宝の発掘に向かおう」お宝の部分を強調して、ユカリが提案した。「ミズキにとっておきの財宝の在処を教えてあげるよ」

「お宝?」猜疑心が皺になって眉間に刻まれる。「本当にあるの。どうせこの前みたいに、化粧品がたくさん入ったダンボールが山積みになっているんでしょう」

「違うよ、本当にお宝だよ」ややムキになって、アカネが言葉を発した。「ミズキちゃんもきっと気に入ると思うよ」

「そこまで念を押されたらしょうがないや。どうせ今日は学校以外に予定はなかったし……」

 彼女らは階段を降りて、ベランダに出た。黄色いボートにユカリとアカネが、赤いボートにミズキが乗り込んだ。アクアはミズキが半ば無理矢理抱きかかえて、自分のボートに乗せた。金具に括りつけられていたロープを解き、黄色いボートを先頭にしてゆっくりと進み出した。


 学校の正門を抜けて左に曲がり、道なりにボートを進めていく。道中には中華料理屋と歯科医院と惣菜屋と郵便局とラーメン屋とコンビニとスーパーマーケットがあった。店の看板はどれも塗料が剥げており、建物の屋上まで雑草が繁茂していた。一戸建ての住宅やアパートも建ち並んでいるが、ほとんどが水没しており、光のあまり届かない水底では大きな墓石に見えた。

 ラーメン屋の角を左に折れて、二百メートルほどボートを前進させると、徐々に道幅が広くなった。家並みが急に疎らになり、前方で倉庫や工場が建ち並んでいる。

「本当にこの先でお宝が眠ってるの?」前方にいる二人の背中にミズキが声をかけた。「工場と倉庫しかないじゃん」

「もう少しだよ」後ろを振り返ってアカネが言った。「あそこに赤い看板の掛かった倉庫があるでしょ、あの中だよ」

 半ば倒壊している事務所を右手に曲がると、他の建物よりも一際巨大な倉庫があった。倉庫の看板はやや色あせていた。幅広の正門を抜けると、敷地内にガレージがあった。水面が陽光を反射して、白っぽく輝いている。ミズキが水面下に目を凝らすと、二台の軽自動車が水底に沈んでいた。

 倉庫の窓ガラスのほとんどが割られていた。三階に設置されたエアコンの室外機から配管パイプが伸びており、三人はそこにロープを結び付け、ボートを固定させた。ユカリとアカネは片手に鞄を、ミズキは両手に鞄と猫をそれぞれ抱えて、南側の窓枠から侵入した。

 倉庫はバスケットコートほどの広さで、鉄骨造の丈夫な建物だった。東側に昇降用のリフトがあり、対角線上に共同トイレがあった。部屋にはラックが等間隔で並んでおり、大小様々なダンボールがそこに隙間なく収められていて、三人の中で最も長身のミズキでも、一番上の棚にある箱はハシゴを使わないと届きそうにもなかった。天井には蛍光灯が何十本も設置されているが、扉の横にあるスイッチを押しても点灯することはない。

「結構広いな」ミズキが辺りを見渡しながら呟いた。「中はあんまり汚れていないんだね」

「そうだね、埃がちょっと積もってるくらいかな……」靴の先で床の埃を擦りながら、ユカリが言った。「でも、大丈夫。お宝はダンボールの中で眠ってるから綺麗だよ」

 アカネが一目散に駆け出して、既にガムテープが剥がされた箱を開けた。ユカリに含みのある目配せをして微笑み、ミズキを手招きした。

「これがイチオシのお宝です」と誇らしげな顔でアカネが言って、ミズキに中を見るよう促した。ダンボールには黄色い直方体の箱が詰められていたが、何箱か抜かれた痕跡があった。

「キャラメルって言うのか」ミズキが箱にパッケージされた文字をまじまじと見つめていた。

「ビニールを取ってみて。中にある茶色いのがキャラメルなの」アカネが一粒手渡した。屈託のない笑みが顔一面に溢れている。

「小さなレンガみたい……」

「可愛いよね。私にも一つ頂戴」キャラメルの甘みを思い出しながら、ユカリが言った。

 ミズキがキャラメルを口に放り込んだ。舌の上で甘みが広がり、唾液が分泌される。

「すごく甘い……歯にちょっとくっ付くけど」

「舌で転がすと良いよ。幸せな味がするよね」喜びを唇の端にピンで留めたまま、ユカリが言った。「んー、美味しい」

 何箱か貰っていこう、と言いながら、いつの間に食べたのか、アカネが口をモゴモゴと動かして、鞄にキャラメルを詰め込んでいる。

「前に来た時は、ここに到着した時点でもう夕方だったんだよね。近くにあった箱に偶然このキャラメルが入っていて、一つだけ取って来てさ、ユカリちゃんと食べながら帰ったんだよ」

「あっという間に全部食べちゃったんだよね」

「気が付いたら、家族にあげる分も無くなってさ、悪いことしちゃった」

「それなら今日、ちゃんと持ち帰らなきゃ」二人にキャラメルを手渡しながら、ミズキが言った。「確かにこれは宝の山だね。他のお菓子も探してみよう」

 ブティックに並ぶ洋服の品定めをするような素振りで、三人はダンボールの中身を矯めつ眇めつ物色した。絵の具の中身を直接塗りつけたような色彩のグミや、包み紙の中で融解したチョコレート、ほんのりとミルクの風味が漂うクッキーなど、どれもカラフルで心躍るお菓子ばかりで、気に入ったものを各々、鞄に放り込んでいった。


「こっちには何があるんだ」ミズキが倉庫の北側の扉を開けた。落下防止用の手すりと、二階へ続く階段があった。「かなり臭いがきついな……」

 二階部分はほぼ水没していた。水面には白い泡が浮かび、胃を直接掴んで絞り上げるような異臭がした。海苔が巻き付いたクレーンの先端が、わずかに水面から出ていた。三階を支える鉄骨柱には塵芥が絡みつき、芸術的なオブジェのようだった。

「一応、下に降りる階段はあるんだね」臭いに顔をしかめながらユカリが言った。「ゴミで塞がっているし、使えないな」

 無意識に口に出した声。蛇口から音もなく滴り落ちる水滴のようなさり気なさで、「あっ」とミズキが言った。その直後、両の手でアカネの目を抑えて、何度か咳払いをした。

「では、ここでアカネに問題です。アクアは今、どこにいるでしょう。足音と鳴き声を頼りに探してみよう」

「突然どうしたの」困惑と驚きの間で立ち往生したまま、アカネが言った。

「クイズってのは藪から棒に始まるものなんだよ」ミズキがユカリに視線を送り、次いで階段に目を向けた。戯けたような声色に似合わず、ミズキの顔の上では緊張が錯綜していた。「正解したら、あたしの持ってるクッキーをあげましょう」

「本当に? おーい、アクアちゃん、どこにいるのー」

 ミズキとアカネが倉庫の中心に向かって歩き出した。不審に思いながら、ユカリは階段に目をやった。階段の近くには、半ば腐っている流木、発泡スチロールの破片、ペットボトルの蓋、海藻の付着した漂流ゴミなどが、冬山で身体を寄せ合う遭難者のように密集していた。一歩踏み出して凝視すると、漂流ゴミだと思われたそれは、剥がれ落ちた皮膚に藻を繁殖させ、パンパンに膨張したうつ伏せの水死体だった。

 ユカリは込み上げてきた悲鳴を喉の奥でせき止め、ゆっくりを息を吐いた。立て付けの悪い引き戸の隙間を吹く風のような、喘息の発作じみた吐息が漏れた。

 三人とも、今まで死体を見たことがないわけではなかった。しかし、それはネズミや鳥などの小型の動物に限った話で、これほど生々しい印象を与えるとは、ミズキもユカリも予期していなかった。ミズキの額に汗が滲み、ユカリの指先が微かに震えていた。

 水死体はたとえおもりを括りつけて沈んでも、体内で発生したガスで浮き上がり、水面に姿を見せる。やがて微生物や魚によって分解され、白骨化し、再び水の底へ落ちていく。

 身体の膨張具合から見て、死後三週間ほど経過しているらしい。ユカリは死体から目を背けて、ミズキたちの元へ小走りで近寄った。死体を発見した驚きが脚にまとわりつき、泥の中を進むみたいに足の運びを重くさせた。

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